第2章:遠隔の地(21)
翌日――――
フェイル達が数日ほど寝泊りしていたその屋敷は、昨日の騒動の余韻を全く感じさせず、普段と変わらず強い日差しを浴び、湿った空気を運んでくる南風を受け、静かに佇んでいた。
「それじゃ、帰ります。カバジェロさん、お世話になりました!」
長居はしなかったものの、それなりに思い入れの出来た屋敷を見上げながら、勇者リオグランテは声高に叫ぶ。
門の前で見送るカバジェロが一礼を返すと、少年らしい満面の笑みを浮かべた。
リオグランテの視点で今回の騒動を語るならば――――
自分の作った借金の返済が可能なマンドレイクという宝物を求めてこの地を訪れ、無事それを入手し、以前来訪した際に抱かれていた疑惑もカバジェロとの戦闘で晴らし、一件落着の元にこのアルテタを離れる。
清々しい表情が物語るように、文句なしの一件落着だった。
そして彼の場合、それがいつもの事でもある。
勇者は常に終わりが良い。
だからこそ彼には勇者の素質がある。
「自分も良い刺激を受けた。また会う事があれば、再び剣を交えたいところだ。その時は貴女とも一度合間見えたいと思っているが、如何だろうか」
片や、カバジェロの方も吹っ切れた表情をしてフランベルジュにそう語りかけた。
彼にとって、何かが解決した訳ではないが。
「そうね。その自信たっぷりな鼻っ柱を叩き折るのは、それなりに面白そう……くしょん!」
結局、滞在中は風邪が完治しなかったフランベルジュの自信に満ちた言葉に一つ頷き、カバジェロは門前の中央にその身を移し、両の足を揃え、直立不動のまま先程の礼以上に深々と頭を下げた。
「勇者候補一行への数々の無礼、どうか許されたし。そして、またこのアルテタに足を運ぶ際には是非この屋敷をまた利用して頂きたい」
「わかりました。その際には立ち寄ります。色々とありがとうございました」
その礼を尽くした姿に、ファルシオンも頭を下げる。
彼女もフランベルジュもリオグランテも、フェイルとカバジェロの戦いは一切知らない。
廊下のランプが割れた音も、屋敷特有の分厚い扉と壁によって小さな物音程度になり、全員寝静まったままだった。
よって、彼女達の中でカバジェロは『勇者を試した騎士』の面目を保っていた。
「はぁ……私、何しにここに来たんだか」
一方、面目どころの話ではないフランベルジュの顔色は、体調不良以外の理由で悪い。
単に弱点を露呈しただけの数日間だった。
「風邪は大丈夫なの?」
「ええ。もうクシャミだけ。誰かさんの作った薬草が運よく効いたみたい」
捻くれた言葉も混じってるが、一応は感謝の念を込めたらしく、フランベルジュは照れ隠しにそっぽを向いていた。
「それじゃ、馬車乗り場まで行きましょうか。カバジェロさん、さようならー!」
「またのお越しを」
恭しく一礼。
その姿は、騎士然とした姿が似つかわしい男の表層そのものだった。
しかし、その中には――――『騎士でなければならない』との強迫観念に苛まれている哀れな男の悲哀も含まれている。
フェイルはそれを思い、内心気の毒にも思いつつ頭を下げた。
それを見たカバジェロは、何かに気付いたように、微かに目を見開く。
「フェイル殿。弓を忘れているのではないか? 確か応接間に置いてあったと記憶している。自分が取りに行っても良いが……」
そして、そこで少し間をおいた。
言うまでもなく、昨日切断された弓は既に使い物にならない。
その剣で切ったカバジェロ自身が誰より知っている。
ならば――――
「いえ、自分で行きます。悪いけど先に行ってて。直ぐに追いつくから」
フェイルは勇者一行にそう告げ、やや慌てて屋敷に戻る。
そしてカバジェロと共に屋敷の入り口へ向かいながら、半眼で彼の横顔を睨んだ。
「実は舞台役者でも目指しているんじゃないの?」
「王宮にいれば嫌でも身に付くものだ。それは貴殿も知っているだろう」
真顔でそうフェイルに返事をしたカバジェロは玄関の前で立ち止まり、その扉の開閉の邪魔にならない立ち位置で直立したまま動かなくなった。
「それで、何? 話があるから呼び止めたんだよね?」
「自分は昨日、十分に語り合った。貴殿に用があるのは……」
「あたしよん。やっほ♪ 薬草屋ちゃん♪」
扉がゆっくりと開く。
そして、そこに――――市民が目にする事は滅多にないと言われている、流通の皇女の姿があった。
傍らには、相変わらず白一色のローブで身を包んだ魔術士の姿もある。
全くの予想外。
フェイルは思わずこめかみに親指を当て、揉み解す。
"流通の皇女"と呼ばれるこの女性を、フェイルは数日前の元町長宅での邂逅よりかなり前から知っていた。
正確には、少年期に眼前の赤毛の女性と数回ほど面識があった。
当時既に経済界で名を馳せていた若き日の彼女は、ヴァレロンの一角を実質的に統治しているシュロスベリー家とも面識があり、屋敷にも何度か足を運んでいたのだ。
その屋敷で遊んでいたフェイルが彼女と出会うのは、必然だったと言える。
尤も、子供の頃に目にしただけの関係なので、自ら明かすまでもない。
なによりその関係性を勇者一行に悟られれば、ビューグラスとの関係を知られる要因となり、更には裏の仕事まで知られるきっかけになりかねないので、数日前にカラドボルグと名乗った医師が『スティレット』の名を出した際や、元町長宅の前で彼女と出会った時には、内心焦りつつも無反応を決め込んでいた。
「あらン? もしかして、あたしの事覚えてない? だとしたらショックよね。一応、殆どの殿方があたしを一目見たら忘れない、って言ってくれるんだけど♪」
スティレットはカバジェロに視線を送り、同意を求める。
しかし、特に返答はなかった。
日常的に行われているやり取りらしい。
「……確かに、数日前にお会いしました。でも、余り親しげに話すのは失礼だと思いまして」
一方、フェイルは努めて距離のある話し方に終始する。
普通なら――――流通に絶大な影響力を持つ大富豪の彼女に親しげに話しかけられたなら、商人の誰もがその僥倖に感謝するだろう。
もし親しくなれれば末代まで安泰と言っても過言ではないほど、スティレットの持つ力は大きい。
流通は全ての商人にとっての命綱なのだから。
しかし、フェイルにとっては余りにリスクが大きい。
ビューグラスとの関係が現在も良好なのか、そうでないかも定かではない。
自分自身の事をどれだけ知られているかも、わかったものではない。
権力者には、他者の秘密を知る力がある。
だからこそフェイルはなるべくその手の人物とは関わらないようにしている。
勿論、かと言って粗相をしでかせば、帰る頃には薬草店【ノート】は店ごとなくなっているだろう。
それだけの力が流通の皇女にはある。
昨日の戦闘よりも遥かに大きな危機を、フェイルは感じていた。
「あ、そ♪ まあ、それでもいいわン。それより、頼みごとがあるのよね。このおウチに泊めてあげた事だし、聞いてくれないかしらン?」
そしてそれは、早くも具現化しようとしている。
この『カバジェロの知人』が直接現れた以上、武力行使を権力行使にシフトチェンジし、更に強引な手段でマンドレイクの強奪を行使しようとしているのは明白だ。
実際、既に何日も世話になっている手前、もし要求されれば、フェイルは断れない。
商人として生きていくならば、この流通の皇女に不義理は働けないからだ。
恩義がなければ、断る事に問題はない。
適正価格で売る提案も出来るだろう。
しかし、相手への借りがある以上、それは出来ない。
「やられたな……」
フェイルは内心で白旗を上げた。
元村長宅を訪れていた際には、既にマンドレイクの在り処を探っていたのだろう。
或いは、もっと前から。
カバジェロを使って自分の屋敷に招いたのも、この為の布石だった――――
「カラドボルグって名前のお医者さんに届け物をして欲しいの♪」
そこまで思い詰めていたフェイルは、予想外のスティレットの要求に思わず膝から崩れそうになるのを辛うじて堪えた。
考え過ぎる悪い癖がこの日も出てしまった。
「確か彼、今はヴァレロンにいるのよねン。あたし、今はちょっとココを離れられないから、お使いをお願いできるかしらン?」
「……はい。それくらいなら」
「ありがと♪ 助かるわン♪」
スティレットは唇の端を釣り上げながら、人差し指をそこ寄せ、ウインクしてみせた。
その姿に、フェイルは思わず瞼が落ちそうになる。
手の内が読めない。
掴み所も見つからない。
非常にやり辛い相手だった。
「てっきり、マンドレイクを譲渡する事になると思ってたんですけど」
仕方ないので、自ら切り出す。
それで腹の底を探れるとは思っていなかったが、何かしらの意図は掴みたかった。
でなければ、マンドレイクをヴァレロン・サントラル医院に納品する事にさえ躊躇してしまう――――それくらいスティレットの存在は不気味だった。
「そんな事はしないわよン。マンドレイクは薬草士にとってはお宝ですものね♪ でも、あたし達にとってはもう価値がない物になっちゃったからン♪」
「え?」
フェイルは思わず顔を上げる。
同時に、自分が自然に下を向いていたと自覚した。
「実はついさっき知ったんだけど、ちょっと前にライコフでマンドレイクが大量に見つかったんだってン♪ それで価値が暴落……って程でもないけど、もうあたしには必要ない物なのよねン。そっちで幾らでも手に入りそうだし♪」
「……え?」
そして、そのまま固まった。
ライコフとは、エチェベリアの東部に位置する国の名前で、"自然国家"の冠で知られている。
自然豊かな国で、様々な天然素材が採取・発掘されており、宝の国と形容される事もある。
当然、大陸各国と貿易を行っている為、そこでマンドレイクが大量に見つかったとしても、必ずしも直ぐに入手出来るとは限らない。
それでもスティレットは興味を失っていた。
彼女なら、どんな順番待ちにでも割り込めるからだ。
あくまでもスティレットの言葉のみの情報なので、信憑性が高いとまでは言えない。
だが、仮に嘘だとしても、これを聞いてフェイルが『なら要らない』となる筈もなく、諜報ギルドで確認すれば直ぐにでも真否はわかる。
嘘をつく理由は見当たらない。
だとしたら――――マンドレイクの市場価格は少なくとも数日前とは確実に変わってくるだろう。
それがフェイルにとって良い方向に行く筈もない。
ヴァレロン・サントラル医院にも。
「は、ははは……」
乾いた笑いを浮かべ、空を仰ぐ。
マンドレイクを入手した理由はあくまでもグロリア院長の課題に合格する為であり、市場価値の下落は特に問題はないのだが――――大量発見となると話は別。
この試験自体、希少価値の高い薬草を見つけられるかどうかが重要であり、もし今手にしているマンドレイクをライコフの商人から買ったと見なされれば、反故にされる可能性も十分にある。
寧ろかなり高い。
「残念だったわねン。でも、この世界で生きていたら結構よくあるものよン。応援してるから気を落とさずに頑張ってねン。じゃ、これをお願いね♪」
「はあ……」
気落ちするフェイルに、スティレットは自身の真っ赤な服の袖についていたボタンを一つ千切り、それをフェイルに差し出した。
カラドボルグへの届け物とは、そのボタンらしい。
かなり奇妙だが、今のフェイルにそこを指摘する気力はない――――
そこで思い出す。
そして同時に、それを伝えるかどうかを思慮する。
結果、特に隠す事で生まれるメリットもないと判断し、フェイルは皮袋の中から一つのボタンを取り出した。
「これ、そのカラドボルグって人から貰ったんですけど。何か関係が?」
その医師は『困った事があったら、これをスティレット=キュピリエに見せるといい』と言っていた。
尤も、薬草店を構える人間にとって流通の皇女と対面する事態は既に『困った事』だ。
よって、実際は『会った時に見せろ』と言っているに等しい。
「あら。ボルグちゃんからもお使いを頼まれてたのね」
「……お使い?」
フェイルはその言葉に一瞬戸惑った。
そして次の瞬間には気が付く。
まんまとお使いに使われた事に。
つまり――――あの条件の中の三つの薬草、少なくとも『マンドレイク』に関しては、グロリアではなくカラドボルグが出した事になる。
スティレットがマンドレイクを探しており、彼女の屋敷がアルテタにあり、尚且つ勇者一行が過去にアルテタでマンドレイクらしき物を見つけた事実を知っていたとしたら、彼等に頼めば確実にお使いは上手く行く。
そこで、スティレットにボタンでメッセージを送った。
それが何を意味するかは不明だが、『これは俺に譲れ』という意味なのかもしれない。
手紙を預けるなどの方法があるのに、何故わざわざボタンを届けるのか。
手紙の場合、盗み見されるかもしれないからだ。
それは勇者一行かもしれないし、別の勢力かもしれない。
例えば、先日襲ってきた賞金稼ぎの連中のような。
だとしたら、スティレットのボタンには何の意味があるのか?
ボタンが『こっちに従え』や『ここは譲れ』などの意味を込めた物だとしたら、『貴方には渡さない』となる。
だがスティレットはマンドレイクを欲していない。
違う意味と考えるべきだ。
ボタンは止め具であり装飾品。
だとしたら――――
「あるべき場所に留めて欲しい」
そう結論付け、言葉にした。
「……あらン」
一瞬、スティレットの声が温度を下げた。
彼女が見せた初めての変化だった。
「マンドレイクは薬の素材。なら、それは医療に携わる場所にあるべき……そんなところですか」
「うふ。偉いわね。賢い子はあたし大好きよ♪ あなた、気に入ったわ♪」
まるで、幼い子供を褒め称えるような語調で、スティレットは笑顔を覘かせた。
「そうねン。ビューグラスのオジサマとも縁がある事だし、特別に良い事を幾つか教えてあげるわン♪」
「……スティレット様」
その瞬間、今までずっと沈黙を守り続け、存在感を消していたヴァールが突然口を開いた。
「お戯れは程々に」
「もー♪ ヴァールは堅物なんだからン。それじゃ一つだけにしちゃう。なら良いでしょ? お使いのお礼なんだからン」
「……はい」
そして、主君の言葉に素直に頷く。
その表情、そして佇まいには、以前ファルシオンに喧嘩を売った際の冷たさは微塵もない。
ただ、無。
ファルシオンもかなり無表情な方だが、それより遥かに徹底して表情が無い。
良く訓練された暗殺者を見ているようで、フェイルは気分が滅入るのを自覚していた。
同時に――――
「勇者一行には、あまり気を許さない方が良いわよン♪」
それ以上に気の滅入る助言がフェイルの耳に届く。
「あの子達は、いずれいなくなる存在だからねン。情が移ると後悔する事になると思うわン」
それは既にフェイルも知っている事だった。
情報としての価値はない。
如何にもとって付けたような理由だったが、その一つ前の言葉には、到底無視も軽視も出来ない呪詛のような重さがあった。
「わかりました。頭入れておきます」
「素直で可愛いわねン。ますます気に入っちゃったン♪」
「ボタンは確かに預かりました。それでは失礼します」
フェイルは即答で断りを入れ、深々と頭を下げて踵を返した。
これ以上対峙していると、何かが壊れる。
そんな気がした。
「アニスちゃんにもヨロシク伝えてねン♪」
最後にその言葉を背中で聞いて、フェイルは数日ほど世話になった屋敷を後にした。




