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第2章:遠隔の地(20)

「……」


 応接間を、底冷えするような沈黙が包み込む。


 そして暫時の後――――床に小さく、赤い紋様が生まれた。


 一滴の血によって出来た小さな染み。

 それを眺め、カバジェロは静かに――――本当に静かに、頬に付いた微かな傷を親指でなぞった。


「自分は……敗北したのだな」


 落胆ではなく、何処か他人事のように呟く。

 実際、表情に無念の意はまるでない。

 それを梟の目で確認し、フェイルは疲労により生まれた吐息を何処へ捨てるか一瞬悩んだ。


 ほぼ同時に――――フェイルのすぐ目の前でカバジェロが膝を突く。

 全身から力が失せ、急速に弛緩した肉体はそのまま抵抗なく床へとへたり込んだ。


 フェイルの矢には、掠りさえすれば標的を無力化させる毒が塗られている。

 全ての弓兵が毒を矢に塗っている訳ではないが、フェイルが薬草士である事を知っているカバジェロは、頬に傷を付けた時点で負けを自覚した。


「完全弛緩じゃないから言葉は話せるよ。何か言いたい事があるなら聞くけど」


 相手を行動不能にする毒薬は、情報を引き出す為に使用する事が多い。

 よって、声を出せない状態にするのは得策ではなく、思考と発語に支障がない範囲で弛緩させるように毒素を調整してある。


 これは、薬草士になる前に得た知識を元に作られた毒だった。


「接近戦をこなす弓兵……それを目指していたと聞き及んでいる。成程、確かに今の一瞬の身のこなしは十分に説得力のあるものだった。全力で踏み込んだつもりだったが……」


「躱せたのは、貴方がこの長椅子を傷付けないように配慮したからだよ。一つ余分に踏み込んだよね。だから、身体を沈ませる時間が出来た」


「謙遜だな、フェイル=ノート。そこまでを計算して、その長椅子の傍にいたのだろう?」


「まさか。読めたのはせいぜいガラスを砕く真似はしないってところまで。だから入り口に一番遠いここを選んだってだけの話」


「フッ……同じ事だ」


 徐々に弱々しくなる声を、カバジェロは搾り出すように発している。

 会心の出来とまでは言えなかった試験の応え合わせをしているような表情で。


「騎士の精神を逆手に取った、卑怯な方法なんだけどね」


「褒められるのは苦手か? 外敵の性質を理解し、それを戦術に利用するのは一個の戦士として優秀な証。自分はその点において、貴殿よりも劣っていた」


 素直な敗北宣言は、騎士道精神から来るものなのか、それとも潔い性格なのか。

 間違いなく前者だと踏んだフェイルは、真っ二つにされた弓の下部分を拾い上げ、小さく嘆息した。


 当然、もう使用は出来ない。

 最も愛着のある弓ではないが、それでも遠征用の一品として使い込んでいただけに、落胆はある。


「さて……喉が動く内に約束を果たすとしよう。何故自分が宝荒らしに狙われる価値があるか……」


「別に無理して話さなくてもいいけど」


「それは、自分に流れる血にある。正確には、自分の体内で作られた血だ」


 その瞬間――――実際に全く興味を持っていなかったフェイルは思わずその目を見開き、横たわるカバジェロに視線を送った。


「体内で……血を?」


「人体実験だ」


 それは、文字通り人体を使用した実験を指す。


 ただし、人間に対して行った全ての実験を人体実験とは呼ばない。

 例えば未知の薬草や配合で新薬を作った際、通常はまず動物実験を十分な回数行い、高い安全性が確認された新薬のみを人間で試す。

 この場合の実験は治験と呼ばれて、エチェベリア国でも認められている。


 だが、他の動物には無効でも人間に効果のある薬は幾らでもある。

 また痛み止めのような薬の場合、動物だと人間と同様の反応を確認するのが難しく、そもそも実験自体が成立しない場合も少なくない。

 こういった開発物の実験を行う際、治験の手順を踏まずに人間で試すケースが存在していて、それが主に人体実験と呼ばれている。


 人体実験はエチェベリアにおいて法で明確に禁じている。

 その為、公に行っている機関こそないが、秘密裏に行っている所は決して少なくないと言われている。


 そしてそれはエチェベリアに限らない

 隣国の魔術国家デ・ラ・ペーニャでは、新魔術開発の際に人間の身体を使って魔術の効果を確認する人体実験が密かに行われていたとの噂もある。

 

「自分は様々なモノを体内に入れている。新薬もあれば、生物兵器もある。そうやって特別な血液を生成し、そして育てているのだ。それが何かは知らんがね」


「……生物兵器まで」


 魔術を使えないデ・ラ・ペーニャの少数民族が、自国の魔術士に対抗する為に生み出した技術。

 この世のあらゆる生物を素材とし、人体に悪影響を及ぼす兵器として生成されたもの。

 広義では毒草によって作られた毒も生物兵器に含まれるだろう。


「少しは自分に興味を持って貰えたかな?」


 弱々しく笑いながら、カバジェロはそんな悲しい言葉を口にした。


 彼が何故、そのような違法行為に手を染めているのかはわからないし、それを聞くのは誇りを傷付ける恐れもある。

 それでもフェイルは聞かずにはいられなかった。


「騎士に復帰する為に?」


 カバジェロが王宮騎士団に未練があるのは明らか。

 そこに結びつけるのは決して安易ではない。


 ただ、その復帰の条件が『実験で完成させた薬で身体を治す』か『実験を依頼した人間からの報酬で騎士復帰を果たす』かで印象は随分と変わるだろう。

 

『自分は負傷が災いし、ほぼ解雇という不本意な形だった』


 以前、カバジェロはそう言っていた。

 なら前者の可能性が高いと考えるのが妥当だ。


 だがフェイルは、戦いを通して彼の動きを見た。

 何処かを痛めている様子は全くないし、仮に痛めていたとしても騎士の身分を奪われるような負傷ではない。

 傷口がみすぼらしく見える――――それは貴き身分ならあり得ない話でもないが、銀朱の師団長と副師団長を知るフェイルはこの理由も却下していた。


 なら、考えられるのは後者しかない。

 彼は違法取引をして、騎士へ返り咲こうとしている。

 その取引相手は不明だが、この屋敷の主であるスティレットが何らかの形で絡んでいるのは容易に想像出来た。


「それが騎士道って言えるの?」


 敢えて真意は問わず、フェイルは厳しい質問をぶつけた。

 勝者故の特権でもある。

 そんなフェイルの問いかけに――――


「……ままならぬ事もある」


 カバジェロの告白は、その背景に何があるかを推し量るには十分なものだった。


 個人で抗いようのない権力は、この世にごまんとある。

 その中の一つが肩に圧し掛かると、人間は変わる。変わらざるを得ない。

 そして次第に、過去の自分を忘れていく。


 騎士道に執拗な拘りを見せるのは、自分の本来の姿を忘れない為なのかもしれない――――フェイルはそう推考し、こっそり嘆息した。


「……こちらからも一つ聞きたい。貴殿は何故、薬草士になった? 史上最年少の宮廷弓兵、更にはデュランダル=カレイラ唯一の教え子という恵まれた立場を捨ててまで」


 そして、元騎士団の言葉に、もう一つ落ちそうになる息を強引に飲み込む。


 聞かれて素直に答える程の義理はない。

 そもそも――――


「なんでそんな事を聞く必要があるの?」


 当然とも言えるその問い返しに、うつ伏せだったカバジェロが強引に身体を捻り、仰向けになる。

 剥き出しになった表情には今尚、騎士の凛々しさがあった。


「自分は……かつて王家に全てを捧げ、市民を外敵から護る事に命を賭けていた。しかし、いとも簡単にその日々を剥奪された。稽古中、同僚に負わせた傷によって」


 理由は――――彼自身の負傷ではなかった。


「……その同僚は、貴い血筋だったんだね」


 フェイルのその言葉を肯定する発言や仕草はなかったが、沈黙はある意味それ以上に雄弁だった。


 騎士という身分は元々、優れた戦士に対し主君が授ける称号だった。

 今尚、そのイメージを抱いている一般市民も多い。


 だが現代、騎士は称号ではなく役職となっている。


 国防を担う国家の最大兵力だったのも今は昔。

 花形の職業は戦争の機会が極度に減った事で、自己顕示欲を満たすブランドと化した。

 騎士は例外なく貴族と認められているのもその理由だ。


 現代の騎士は強ければなれるというものではない。

 元々、名のある主に仕える身である事が条件だった為、平民には縁のない称号ではあったが――――それでも戦争が頻繁に起こっていた時代には、優れた力を持つ傭兵や一兵卒が騎士になる御伽噺のような出世街道は確かに存在した。

 外敵との戦闘において、優秀な戦果を収めた者が手にするご褒美として。


 だが、騎士の中には平民が仲間になるのを極度に嫌う者もいた。

 有事の際には身体を張って国を守る信念を持った人間が、己の立場や保身ばかり気にする名門生まれの人間に淘汰されるのは、どんな国でも何時の時代にもある。

 そして、徐々に戦争が減っていき平和な時間が増えてくると、よりその傾向は顕著になった。


 求められるのは優れた戦果ではなく、王家への貢献。

 指標となるのは――――金。


 ただし、金を積めば誰でも騎士になれるかといえば、そうではない。

 全く武力を有さない商人が、王家に多額の融資をしても騎士にはなれない。

 しかし、その商人の息子が国家運営の養成所で技と知を学び、貴族や先輩の騎士に従属し、一定の年数が経過すれば、間違いなく騎士になれる。


 一方、騎士が貴族と見なされるのを快く思わない勢力もある。


 平和が続けば、戦いは野蛮だと訴える人間も出てくるし、そもそも貴族が増える事自体を自身の派閥を相対的に弱体化させると嫌悪する者もいる。

 可能性はほぼなくなったとはいえ、下級民が貴族になれる可能性が僅かでもある事実がどうしても許せない者も少なくない。


 その為、既存の貴族や王家の血筋の者達はより多くの親族、或いは養子を騎士に送り込んでいた。

 王族が騎士になる意義は余りないが、王家の血が薄い場合はその限りではない。

 騎士は現在、貴き身分の者達による縄張り争いのような状態になっている。


 その事情をフェイルは知っていたので、カバジェロの処遇の理由には直ぐにピンと来た。


 彼等は騎士でありながら、傷付くのを過度に嫌う。

 それを恥だと認識する。

 傷跡が見える場所に残ると知れば発狂するくらいに。


【銀朱】は王宮の精鋭を集めた騎士団であり、本来そういった人物が所属する事はない――――というのも、最早先入観でしかなかった。


「或いは、貴殿も同じ境遇なのでは……と思ったものでな。貴殿が弓兵を辞めて、その後に自分も王宮を離れた際に、自分の痛みを理解してくれる者がこの世界の何処かにいると、勝手に想像していた」


「生憎、それは誤解だ。僕は僕の意思であの場所から離れた。貴方とは違う」


「そうか。では薬草士となった理由が、そのまま弓兵を辞めた理由なのだな」


「……」


 フェイルは答えない。

 答える義理もなかった。


「沈黙もまた答え……か。構わぬ。その代わり、最後にもう一つ聞きたい。感想戦で恐縮だが、もし自分が扉を閉めていたらどうしていた?」


 更に小さくなった声で、再び問う。


 カバジェロがこの応接間に入った際、扉は開けっ放しだった。

 それは廊下の灯りで室内を照らす為。

 しかし、扉を閉める可能性もない訳ではなかった。


 それに対しても、答える必要性は感じなかったが――――


「この応接間に揮発性の油分を含んだ薬草で作った毒薬を入れてる壷を置いてるんで、それを割っていたよ。直ぐに室内に充満して強烈な睡魔に襲われる。免疫を持つ僕以外の人は」


 隠す理由もなかったので、フェイルは回答を選んだ。

 その毒薬とは当然――――


「あの時の……か。いつから準備していた?」


「ここに来た日から少しずつ。ちなみに、入れる部屋には全部置いてるんで」


 しれっと宣う若き薬草士に対し、瞼を痙攣させながら、カバジェロは声を絞り出す。


「自分が戦いを挑むとわかっていたと言うのか」


「まさか。勇者一行を狙う賞金稼ぎへの対策に決まってる」


 その様子を眺めつつ、事もなげにそう告げる。


 尤も――――無償での宿泊を提供された時点で、彼が何か仕掛けてくる可能性もあると踏んでいたのは事実だった。

 それを教える必要はないというだけの事。


「……見事」


 最後に消え入りそうな、それでいて満足したような声で呟き、カバジェロは動かなくなった。


 無論、死んだ訳でない。

 弛緩と疲労が重なり眠っただけ。

 明日になれば徐々に身体は動くようになる。


 フェイルはその様子を一瞥し、応接間を後にした。

 割れたランプをそのままに。

 そして、開けた扉も閉めず。


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