第2章:遠隔の地(13)
翌日――――
昨夜まで街全体を覆い尽くしていた雨雲は綺麗に消え失せ、アルテタの空は見事なまでに晴れ上がっていた。
「くしょん! うー……行ってらっしゃい」
その空の下、全く違う種類の青色を顔に乗せ、フランベルジュは他の三人を見送るべく屋敷の玄関口で震えながら立っている。
薬草の服用も空しく、完全に風邪を引いたらしい。
とはいえ、そもそも薬草に劇的な回復効果、予防効果はない。
どんな薬草士が処方した薬でも、悪化している体調をいきなり良好な状態に戻すなど出来ないのが実情だ。
この場に立っていられる程度の症状に抑えただけでも、それなりに価値のある薬だったのだが――――フランベルジュをはじめ勇者一向にその価値は余り伝わっていないらしく、フェイルは割と肩身の狭い思いをしながらその見送りに背を向けた。
「では、行きましょうか」
澄み切った空を綿のような雲が泳ぐ中、ファルシオンを先頭に、マンドレイクの調査が開始される。
行き先は、かつてそのマンドレイクがあった家。
その近くで捨てたらしい。
「で、捨てた場所は正確に覚えてるの?」
「……あはははは」
フェイルの問いに、リオグランテは乾いた声で笑う。
尤も、薬草知識のない勇者一行にマンドレイクの価値を認識出来る筈もなく、単に要らない物を捨てただけの記憶に精度を求めるのは酷というもの。
記憶は通常、印象の薄い物から順に削除されていく。
「正確とは行きませんが、ある程度の目星は付いています。では、そこに着くまでに当時の出来事について話しておきます」
「ファルシオンさんって結構説明好きだよね」
「探す手がかりになれば、という親切心を変に解釈しないで下さい」
「はいはい」
フェイルは苦笑しつつ、ファルシオンの解説に耳を寄せた。
勇者候補一行がエチェベリア国王ヴァジーハ8世の命を受け、隣国デ・ラ・ペーニャに親書を届けに行く旅に出てから十八日後、彼等はアルテタの地に辿り着いた。
当時、既にこの街では『町長の家が呪われた』とのキナ臭い噂が立っていて、実際に勇者達が訪れてみると、その家に入った途端彼等は幻に支配され、混乱に陥ったという。
「マンドレイクは微臭でも強烈に脳を刺激するんだ。これは他の幻覚作用を有した薬草にはない特徴で、普通は磨り潰して数日容器に入れてたっぷり充満させた上で発散させるくらいしないと効果が出ない」
「確かに、あの時は微香くらいしか感じませんでした。それなのに強い幻覚が出て……」
「僕はフランベルジュさんが鬼の形相っていうか鬼そのものって感じの顔になる幻覚を見て、逃げ出したんですよね」
それはきっと心の中で抱いているイメージが具現化してしまった結果だとフェイルは補足しようとしたが、後々面倒な事になりそうなので控える事にした。
「その後も色々ありましたけど、どうにか原因を突き止めて、呪いの人形……つまりマンドレイクの回収に成功しました。ここまでは良かったのですが……」
説明の途中、ファルシオンは立ち止まる。
その直ぐ先には、広大な空き地があった。
ファルシオンの背丈より高く伸びた雑草が茂っており、ほぼ野原だ。
街中にありながら全く整地されていない、荒れた空間。
大都市のヴァレロンでは殆ど見かける事はないが、それ以外の地域ではこのような土地の存在は然程珍しくはなく、アルテタも例外ではなかった。
ただ、流石に荒れ地の大半は所有権を持つ者がいない、或いは半ば放棄した状態の、いわば遊んでいる状態の場所。
にも拘らず――――そんな荒れ放題の野原に囲まれた中心に、町長宅はあった。
「……どういう事?」
思わず間の抜けた声を出し、フェイルは周囲を凝視した。
通常、街の長を務めるような人間は、威厳もあってその界隈でも特に大きな家に住む。
このような荒れ地の中に家があるだけでも珍しいのに、その家が町長宅となると世界的にも余り類を見ない事例と言えるだろう。
「元々、この辺りは住宅地だったそうです。でも、商業施設が少し遠くに集中して建てられてしまって、民家も徐々に移動して行き、取り壊され、結果的に町長の家だけが残ってしまったようですね」
ファルシオンは野草を掻き分けながら、淡々と説明を続けた。
周囲の家が消えていく中、それでもこの家を町長が離れられなかったのは――――その地下に先祖代々から受け継いできた宝が眠っていたからだと言う。
しかしその宝とは、実は呪いの人形だった。
勇者一行の調査によって判明した事実だ。
その為、既に町長も引越しを行ったらしく、この野原の中央にある家は正しくは元町長の家であり、現在は空き家になっている。
「でも、結局は町長さんのご先祖様が正しかったんですよね。マンドレイクは財宝級のお宝だった訳ですから」
自身の剣を振り回して道を作りつつ苦笑いするリオグランテの後ろで、フェイルは顎に手を置いて考え事をしながら歩いていた。
「どうしました?」
「いや……それだったら、仮にマンドレイクを発見出来ても、所有権はその町長にあるんじゃないの?」
「それなら大丈夫です。書面にはしていませんが、町長は呪いの人形の所有権を私達に譲渡していますから」
「そういう口約束って一番揉めるんだけどね」
とはいえ、わざわざ町長にマンドレイクの価値を教える機会もないし、向こうが所有権を主張してくる可能性は限りなく無に近い。
杞憂に終わる心配事ほど無駄なものはない為、フェイルは早々に気持ちを切り替えた。
しかし――――町長の家に着くまでの時間が予想よりかなり長く、別の意味でストレスを抱える羽目になった。
まるで訪問者に嫌がらせをしているのかと勘ぐりたくなるほどの雑草の量。
その上足元は幾重にも絡まった蔓が常に伸びていて、油断すると足を引っかけそうになるトラップのような状態になっていた。
「前来た時もこんなでしたっけ……?」
「いえ、ここまで酷くはなかった筈です。マンドレイクは本当に呪いの人形じゃないんですか?」
「……自信なくなってきたかも」
そんな雑談を交わしつつ、ようやく家に到着。
元町長宅は全く手入れされていないらしく、木造の壁が何ヶ所も剥げかけていた。
それでも、猫探しの際に訪れたラファイエットの向かいにある廃屋と比べれば、十分に人が住めそうではある。
「リオがマンドレイクを投げ捨てたのは、この野原の何処かです。確かあの時は、この家から大通りに向かって歩いていたと記憶しているので、その通り道にあると思います」
「でも、足元には落とさないよね。呪いの人形って思ってたんだし。遠くに投げたりしてない?」
「んー……投げたような投げてないような。ほぼ無意識でしたのでハッキリは覚えてません」
もう四十日以上前の話。
克明に覚えている方が不自然だ。
「不確かな情報で無駄な先入観を持っても仕方ありません。一から探しましょう」
「……この中から?」
ファルシオンの発言には反対しなかったものの、フェイルは思わず眉間に皺を寄せ、野草が悪魔のように生い茂った荒れ地全体を見渡す。
家の屋根に昇れば面積が明確にわかるが、それをする気になれないほど、途方もない作業が待っているのを予感していた。
薬草士であるフェイルは決して野草が嫌いではなく、寧ろ草の匂いを好んでいるくらいだ。
それでも気が滅入る自分を責められない――――そんな混乱寸前の心持ちだった。
「探す前に一つ確認しておきたいんですが、私達がここにマンドレイクを投げ捨てて、もう一月以上が経過していますけど、その間に野犬や蟻等に持って行かれた可能性はありますか?」
「……いや。ないと思う。マンドレイクには動物の食欲を刺激する成分は含まれていないんだ」
人間以外の生き物が、マンドレイクに他の野草以上の価値を見出す事はない。
よって、ファルシオンの懸念は一つ消えた。
「では、もう一つ。もしこの近くにマンドレイクが落ちていた場合、近付くと幻覚作用は発生しますか?」
「それもないね。これだけ野草が多いと臭いも混じるし、何より密閉されていない空間では、臭いはかなり拡散してしまうから」
事実、家までの道のりを歩いて来たフェイル達は、幻覚を一切見ていない。
もしフェイルが逆の意見を唱えていたら、ここにはもうマンドレイクはないという証拠になってしまい、絶望的な展開が待っていただけに、ファルシオンは安堵の表情――――こそ浮かべていないが、小さく一つ頷いてみせた。
「では、まだここに残されている可能性が……」
「高いだろうね。君達がここに『呪いの人形を投げ捨てた』って誰かに言い触らしていない限りは」
フェイルの言葉に、ファルシオンとリオグランテが同時に首を横に振る。
常に二人と行動を共にしているフランベルジュも同様だ。
よって、この荒地に一〇万ユロー以上の価値のある宝物が眠っている可能性は十分にある。
とはいえ、問題はその捜索方法。
勇者一行は勿論、店をアニスに任せっきりのフェイルも、そう何日も滞在している訳には行かない。
「フェイルさん。何かマンドレイクの性質について特徴があれば教えて下さい」
「特徴的? 幻覚効果や外見以外に?」
その言葉に、ファルシオンがコクリと頷く。
マンドレイクの特徴――――フェイルは文献の中の文章を記憶の中から探し、それを回想した。
「うーん……確か、根を切ると強力な毒素が出て来て、持っていた人の手を腐らせるって伝説があったような。でも迷信の説が濃厚かな」
「役に立ちそうな情報を」
「って言ってもね……後はせいぜい寒さに強いくらいしか」
「それです」
フェイルの半ば匙を投げたような言葉に、ファルシオンは反応を示した。
そして腰に下げていた布袋から指輪を取り出し、右手の人差し指にはめていた物と交換する。
何を意味する行動なのか、魔術士ではないフェイルには理解出来なかった。
「……」
特に説明はせず、ファルシオンはゆっくりと瞑目し、神経を集中させる。
すると、それを合図とするかのように指輪が薄く輝き出す。
同時に、ファルシオンの指が波打つように動く。
宙に文字を綴る為に。
ルーン――――魔術を発動させる為の文字。
その文字が次々と、光を宿した指輪によって綴られていく。
昨日、ファルシオンが見せたオートルーリングではない。
文字は全て、彼女自身が綴り続ける。
そこでフェイルは先程の魔具交換の意味を理解した。
オートルーリングには専用の魔具が必要なのだと。
そして同時に、彼女が魔術を使用する理由にも思い至った。
敢えて手作業で魔術を使用する以上、魔具にルーン配列を登録してある規定通りの魔術以外を使用するという事。
例えば、威力を弱めに調節した魔術――――とか。
「そうか……成程。良いかもしれない」
フェイルの呟きが空中を伝う中、合計二十四文字のルーンが並び立てられた。
そして、直ぐに消える。
魔術は出力を許可された。
【氷海】
ファルシオンを中心とし、周囲が一面、青い光に包まれていく。
その後、徐々に地面が小さく音を立て、凍り始めた。
本来は足場を凍らせ敵を足止めする魔術。
しかし今しがたファルシオンが発動させたのは、当然ながらそれが目的ではない。
「へ? もしかしてマンドレイク以外の植物を凍らせて枯れさせるんですか?」
リオグランテのその推察は妥当だった。
先程のフェイルとファルシオンのやり取りを聞けば、普通はそう解釈する。
だが、実際には幾ら温度を下げても、植物が枯れるのには相応の時間が必要だ。
リオグランテはそれを知っていた訳ではないが、なんとなく『他にも寒さに強い草があったらマズいんじゃ』と感じ、否定的なニュアンスを届けようとしていた。
「安心して下さい。違います」
そんなリオグランテの懸念を汲み取り、ファルシオンは優しく否定した。
「昨日の雨で、地面は緩んでいます。その水分を凍らせました。土と土の間に細かく付着した水分は、そのまま細かく凍ります。すると土の粘着性が弱くなり、パラパラな状態になります。そして……」
家を中心に、二〇歩ほどの範囲を円状に凍らせた後、ファルシオンは別の魔術を綴った。




