第1章:梟と鷹(2)
アニスはフェイルより二つ年下の、まだあどけなさの残る女の子。
髪の毛は栗色で、フェイルより少しだけ短く揃えており、肩にかかる程度の長さだ。
顔立ちは父親とは全く似ていない。
厳つさは微塵もなく、大きな目を爛々と輝かせている。
薬草学者の娘だが、どちらかといえば料理の方に興味を覚え、薬草園の一部を借りて栽培の難しい野菜や果物の育成に情熱を注いでいるらしく、偶にフェイルもその料理の『実験』に借り出されていたりしていた。
「丁度良かった。今から蠅捕草の姿煮を作るところだったの。味見して行って」
「……遠慮しておくよ。って言うか、蠅捕草を料理するって発想、いい加減消した方が良くない?」
頭を抱えつつ、フェイルは真顔で首を横に振る。
アニスの料理の腕は、決して悪くない、
寧ろ年齢からしたら高評価を与えても何ら問題ないだろう。
問題は、その探究心が妙な方面へと向いている事にある。
誰も作らない独創的な料理を――――そんな探求心の充足に心血を注いでいる。
だが、明らかに食用でない物を片っ端から試すのは最早料理ではなく実験。
そしてその被害を受けるのは大抵フェイルだった。
「何言ってるのよ。料理は挑戦なの。発酵って技術だって、魚介類を食べる習慣だって、最初に生み出したり口にしたりした人のとても勇気のある行動によって一般的になったのよ? 私もそんな未知からのスタンダードを生み出したいの!」
熱弁。
間違っている訳でもないのだが、それならばそこに発生する危険因子は自分で処理するのが筋と言うものなのだが――――フェイルはそれを指摘せず、苦笑するのみに留まった。
「兎に角、今日は忙しいから付き合えないよ。またの機会に、ね」
「えーっ。折角コトコト良い感じで煮込んでるのに。よくわからない酸とか出て来て良い感じなのに」
「頼むから、野良犬や野良猫に毒見させて大騒動を起こしたりしないでよ。この前も大変だったんだから」
幼馴染によるこれまでの数々の問題行為を思い出し、フェイルは溜息を落とす。
基本、金持ちの家に育った箱入り娘は世間に疎い。
ただし常識を身につけているかどうかは親の教育次第であり、その度合いも十人十色。
幸か不幸か、アニスは限りなく透明に近い別の色だった。
「大丈夫よ。流石に屋敷外の動物は良くなかったって、私も反省したの。丁度この屋敷、天井裏にネズミがいるって事忘れてたし」
「ネズミもダメだってば。生きとし生ける者、むやみに殺しちゃダメ」
「殺す気なんてないの! 失礼な事言わないでよ!」
しかし実際、当時の野良犬や野良猫は完全に瀕死だった。
フェイルの調合した薬草がなければ、彼等は誰にも供養される事なくその存在をこの世から抹消されていたかもしれない。
その経験から、動物と人間とでは同じ解毒剤でも調合が全く異なると実感したが、活用する未来は今のところ見えない。
「むー……わかった。フェイルがそう言うなら、ネズミも止めておく」
「そうしてくれると嬉しいよ」
「……」
ぷい、とアニスは視線を逸らした。
フェイルはその様子に予定調和の苦笑を添えて、踵を返す。
「本当に用事があるの? ゆっくりしていけば良いのに。もう夜なんだし……」
「うん、ありがと。でも忙しいから。また今度遊びに来るよ」
「……わかった。じゃ、その時にはネズミの炭火焼きをご馳走するね」
殺る気満々だった。
一風変わった幼馴染と別れ、フェイルは来た時と全く同じ時間をかけて店に戻る。
既に店の片付けは済んでおり、後は休むだけ――――の筈だった。
だが、夜のお仕事が入った以上そんな訳にはいかない。
フェイルの夜の仕事。
それは、所謂『暗殺』の部類に入る内容だった。
ただし、同時に暗殺とは対極の位置付けでもある。
何しろ、殺しはしない。
絶対に殺さない――――それがフェイルの信念であり、同時に強みでもあった。
仕事内容は、依頼者に指定された相手を、期日以内に『行動不能』の状態にする事。
殺さず、一定の期間だけ身動きが取れない状態を作る。
それがフェイルに課せられた役割だ。
通常、この手の仕事は暗殺者が請け負う。
ただし彼等は確実に殺す事が流儀。
殺さない事を売りにしているフェイルの仕事とは正反対だ。
しかし、それ以外の部分はほぼ同じ。
こっそりと、誰にも知られる事なく標的を仕留め、依頼主の希望する期間だけ行動不能にする。
そして、その依頼主の動機に関しては一切聞かない。
その見返りに、大量の報酬を得る。
だからこそ、フェイルは生計を立てる事が出来ていた。
ちなみに、一回の仕事で得られる仕事の報酬額を、年間の薬草の売り上げが超えた事はこれまでに一度もない。
それでも尚、この薬草店に拘る理由がフェイルにはあった。
同時に、暗殺まがいの仕事を副業に留めておく理由も――――
「……」
ごく微量の息を吐き、フェイルは薄汚れた布袋を空ける。
そこには、弓と矢が入っていた。
弓は、長年愛用しているライトボウ。
胴の部分は金属で作られており、弦は羊の腸で作られた特製品だ。
名前はない。
世界に一つだけ、フェイルだけが持つ弓だからだ。
一方、矢の方は安価で市販されている木製のありふれた物。
全部で12本あるが、その中の2本を取り出し、それをカウンターの上に置く。
昔――――
まだこの店にフェイルがいなかった頃。
エチェベリア宮廷弓兵団に、その名前が記録されていた時期が僅かにあった。
宮廷弓兵団とは、弓を扱う兵士の憧れとも言える、最高の、そして最強の弓使いの集団。
選りすぐりの実力者が、国の為にその弓を引き、王族を、そして国民を守る目的で結成された部隊だ。
フェイルは、その部隊加入における最年少記録を作った。
しかし、僅かな期間で除名。
その理由に関しては一切公にはなっていないし、フェイル自身他言した過去はない。
ただ、これだけは言える。
フェイルは紛れもなく、国内最高峰の弓兵だった。
「……」
弓を握る度、その頃の思い出が蘇るのは、ある意味仕方のない事。
そう割り切り弓を置く。
そして、店の奥にある倉庫の中へと向かった。
そこに在るのは、数々の薬草と――――毒草。
毒草もまた、売り物だった。
勿論、一般人に対して売る事はない。
研究の為にと、学者や学校関係者が定期的に購入する分だ。
その毒草の中から、フェイルは二つの草を手に取り、店の中へ戻ってくる。
そして、擂鉢の中に二種の毒草を千切り入れ、擂粉木で念入りに擂り始めた。
目的は、矢に塗る毒を作る為。
この毒が、標的を殺さず、行動を不能にする為の鍵となる。
フェイルの仕事は、毒を塗った矢で標的を射抜く事ではなく、掠らせて毒を回す事だ。
それによって、死には至らないものの、行動不能となる期間を作る。
その期間の長さは、毒の種類と程度によって決める。
この仕事を確実にこなす為には、相手が男か女か、年齢と体型がどのくらいか……等の情報が必要だ。
ただ、今回は有名人が相手なので、改めて調べる必要はなかった。
そして、その毒をどの程度回らせるかは、矢の当て方も重要となってくる。
射抜いては駄目。
どの程度皮を裂き、肉を抉り、血管に触れさせるか。
それで成功するか否かが決まる。
フェイルはこれまで、一度も失敗した事がない。
だからこそ、幼馴染の父親はお得意様になっている。
この町の権力者であり、大きな野心を持った薬草学者。
しかし、フェイルにとっては依頼主以上のものではない。
それ以上であってはならないと、自分に言い聞かせている。
決して、それ以上であってはならないと、呪文のように。
無論、目的を聞く事もない。
この仕事の最低限の礼儀だ。
「……よし」
心中でそう唱え、一息吐く。
毒を塗り終えて、次に行うのは――――就寝。
襲撃は当然、依頼を受けた当日には行われない。
まず情報ギルドで標的となるキースリングの一日の行動を探って貰う事が必要だ。
そこから襲撃場所と時間を決め、陣取る。
通常は、外出の途中が最も狙い易い。
貴族や王族でもない限り、四六時中何人もの護衛を付ける者はいないので、物陰から狙えばまず間違いなく成功する。
ただ、標的とされる者の中には、それを自覚する者も当然いる。
そんな相手は、自宅で油断している所を狙うケースが多い。
窓を開けていれば問題なく狙える。
それも難しい時は、一日中張って隙を窺うしかない。
通常、弓使いは視界がなくなる夜に行動は出来ないが、フェイルにはそれを可能とする武器があった。
だからこそ、この仕事が出来る。
それはありがたくもあり、恨めしくもあった。
ともあれ、今回のケースは比較的難しい部類に入る仕事となった。
キースリングという宝石商、普段は移動に馬車を使い、降りる時も常に周囲に護衛を付けている。
しかし、建築物内では比較的自由に動きたがるようで、そこに隙はあった。
決行は、依頼から四日後。
一日早い分は、矢の当て具合で調整可能だったので問題はなかった。
フェイルが襲撃場所に選んだのは――――標的の営む宝石店。
新市街地の中央部に大きく構えた店で、主に高級な宝石とアクセサリーを揃えており、貴婦人達や女性への貢物を見繕う下品な富豪で客足は絶えず、かなりの利益を出している。
そんな宝石店の二階で、キースリングは良く寝泊りしている。
自宅よりこちらで一夜を過ごす事が多いようだ。
彼は夜、女性と過ごすよりも宝石を愛でている時間の方がお好みらしい。
無論、その鑑賞室は密閉されている。
ただ、廊下の窓は夜になっても開いたまま。
今は夏場なので無理からぬ事だ。
その窓から遠く離れた民家の屋根の上に、フェイルはいた。
放った矢が一秒足らずで届く距離だ。
口元を布で隠し、束ねた髪を風で揺らし、呼吸音を失くす。
辺りは暗闇。
普通なら、フェイルの姿に気付く者はいないが、念には念を入れての事だ。
しかし同時に、普通ならフェイルの目にも宝石店の様子は窺えない。
廊下の灯りは点いていると思われるが、窓の付近に都合よく光源がある訳でもなく、かなりうっすらと窓の輪郭が確認できる程度だ。
それで、十分だった。
「……さて、いつ来るか」
無論、声は心の中。
自問自答は、精神安定の重要な技術の一つだ。
フェイルの狙いは、キースリングが厠に向かう時。
その窓を横切る一瞬で、決着を付ける。
窓の幅は、自分の全長の半分程度。
現在地から狙うには、余りにも的が小さい。
それを、窓から標的の姿が覗き、そして消える二秒程度の時間で仕留めなくてはならない。
しかも暗闇の中で。
流石に、フェイルはこの仕事を『少し困難』と認識していた。
逆に言えば『少し』程度。
何故なら、彼には暗闇をほぼ無効化する武器があるからだ。
それは――――目の中に在る。
フェイルの左目は夜行性の鳥のように、夜であっても獲物を捉える事が出来る。
そして、右目は狩りをする肉食の鳥のように、遥か遠くでもはっきりと輪郭まで捉える事が出来る。
左に梟の目。
右に鷹の目。
フェイルは、その二つの目を持っていた。
これが彼を国内屈指の弓兵にした最大の理由であり――――夢の墜落の元凶でもあった。
「……」
フェイルは屋根の上で静かに弓を引き、その体制のままで獲物の到来を待つ。
一時間。
二時間。
静寂の中、虫の鳴き声だけが響く夜空を頭上に、ただひたすら待つ。
そして、月明かりに微かな雲が掛かったその時――――
その一瞬で、全てが終わった。
窓の向こうに現れた人影を梟の目で感知。
刹那、弦を離す。
全ての作業はそこで終わった。
この日、鷹の目の力は必要なかった。
弦が震えると同時に、矢はキースリングのうなじを掠め、壁に矢先をめり込ませた。
成否は、呻き声でわかる。
激痛による大声ではなく、呻き声でもなく、突然うなじに発生した刺激に驚くような声。
確信を得るには十分だった。
「ふう……」
大きく息を吐き、即座に撤退。
屋根から下りるその顔に、満足感や充足感は欠片もない。
それでもフェイルは生きて行く為、片足を闇の中に突っ込む。
その感触に汚泥のような不快感と、今日という一日を乗り切った微かな安堵感と――――罪悪感を覚えて。




