第2章:遠隔の地(10)
ファルシオン=レブロフには、確かなものが二つある。
その内の一つは、自分を育ててくれた母親の存在だ。
ファルシオンの家は貧民街の片隅にあった。
そして母子家庭だった。
母親の仕事は、書類の代書を業とする代書人。
しかし女性の代書人に公的機関からの依頼は殆ど来ず、また書物の複製などといった割の良い仕事も回っては来ず、その仕事は文字を書けない一般人から依頼される手紙の代筆に終始した。
ファルシオンの郷土であるデ・ラ・ペーニャの識字率は高い。
その為、元々決して賃金の高くない手紙代筆の仕事さえも余り多くは取れず、母親は更に賃金の安い罪人の手紙の代書も行っていた。
服役している罪人が故郷へ向けて送る手紙の代筆。
自ら監獄に赴き、罪人の言葉を聞き、それを文として認める。
それを女性が行う事に、どれ程の危険が付きまとうか。
そして、その危険に見合うだけの報酬に、どれほど賃金の額がかけ離れているか。
それでも母は、一切の弱音を吐かずファルシオンを笑顔で育てた。
ファルシオンにとって、父親の存在は生まれた時からないものとして確立していたので、それに関して問う事はなかった。
そして、成長の過程で直ぐに自分に必要な事を悟り、母親の仕事の手伝いを始めた。
六歳の頃には、文字を書けるようになっていた。
物わかりの良さと洞察力は、環境が育んだと言っても良いだろう。
気付けば、ファルシオンの仕事量は母親を超えていた。
それでも生活は決して裕福ではなかったが、まだ少女のファルシオンが流暢な文章をしたためる事に多くの町民は関心を寄せ、食に困る事はなくなった。
無論、そこには『見世物』と言う要素も少なからずあっただろう。
半ば見世物のような存在になったが、ファルシオンは一向に構わなかった。
物事を合理的に考える習慣は、この頃に培われた。
好奇の目は矜持を削られるものではあっても、それで母親が少しでも楽を出来るのであれば、その方がずっと良い。
多少過剰に子供である事を表面に出しつつ、周囲から好まれる言動を選び、生活費を得ていた。
そんなある日、ファルシオンにある生まれながらの才能が内包されていると判明する。
魔術士としての才気だ。
それが認められた十三歳の時、ファルシオンは魔術士としての人生を躊躇なく選んだ。
魔術アカデミーの入学費は、全て自身がそれまでに溜めた報酬で賄った。
ただ、授業料に関しては勉強をしながら溜めて行かなくてはならない。
そうなると、卒業までに勉学に集中出来る時間は自ずと制限される。
ファルシオンはそれも覚悟の上だった。
にも拘らず――――ファルシオンは入学してから卒業するまでの間、一度として授業料を支払う為の副業を行う事はなかった。
その必要がなかったからだ。
授業料は、ファルシオンが入学費を収めた翌日に支払われていた。
しかも、卒業までの全ての額が。
その事実を知らされた瞬間、ファルシオンは人目も憚らず涙した。
誰が学費を支払ったか――――その洞察は、余りに簡単だったから。
ファルシオンがアカデミーへ入学する事を知っているのは、ごく限られた人間のみ。
身内では母一人だった。
ファルシオンの母は、娘の頑張りによって少しだけ向上した生活の中で、数少ない娯楽となる筈のちょっとした息抜きや質の良い衣服など、その全てを犠牲にして、娘の為に貯金をしていた。
娘は母を愛し、その母を楽にさせる為に魔術士を選んだ。
しかし、その魔術士への道は母の愛が切り開いてくれた。
貧しくとも理想の家族。
その事に関しては、ファルシオンは絶対的に確実なものとして心の中に永住させている。
そんなファルシオンにとって、もう一つの確かなもの――――それは、一人の魔術士の存在だった。
名前はアウロス=エルガーデン。
彼女がこの名を知ったのは、魔術士アカデミーに入って三年の月日が経った頃だった。
当時のファルシオンは、既にアカデミーでも主席を争う位置にまで昇りつめ、教師はおろか近隣の魔術大学や研究所からも一目置かれる存在になっていた。
しかしその一方で、学生の中では浮いた存在でもあった。
アカデミーに入学する者の多くは裕福な生まれで余り苦労を知らない。
学費の支払いが貧民街出身の人間には困難な上、そもそも学校に入るだけの知識と教養を得るには幼少期から文字を学んでおく必要があるからだ。
幾ら識字率の高いデ・ラ・ペーニャでも、それが可能となる家庭は限られる。
その中にあって、ファルシオンの生い立ちは異質だった。
入学して程なく孤立したファルシオンは、一人静かに学習した。
暗い女――――そんな陰口が耳に届くのも二度や三度ではなかったが、意にも介さなかった。
目的は一つ。
魔術士として大成し、大きな収入を得て母を楽にする事。
その筈だった。
しかし、そこにもう一つの目的が加わる。
幼い頃から他人の伝言を文字に書き写す仕事をして来たファルシオンにとって、自身で考えて答えを導き出す魔術の勉強は、想像以上に楽しかった。
特に名のある魔術士の論文は、内容は元よりその理路整然とした文章の構成がまるで芸術品のように美しく、読み応えがあった。
緻密に敷き詰められた公式は、一つ一つ丹念に描いた石畳。
大胆な仮説は、突き抜けるような青空。
そこには有無を言わさない壮美と蜜のように甘い魅力があった。
ファルシオンは魔術の基礎を学ぶのに並行し、論文を読み漁った。
アカデミーの資料室だけでは飽き足らず、近隣の大学や研究室にまで足を運び、数多の論文に目を通した。
そして――――或る一つの論文と出会った。
【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】
それは、かつて『一攫千金論文』と呼ばれ、実現不可能とされていた研究だった。
もし実現すれば、魔術の在り方を根底から覆す、大改革。
巨額の富と名誉が生まれることは間違いない。
そしてそれは、個人の利益には留まらない。
魔術の出力が格段に素早くなれば、魔術そのものの戦闘状況下における利用価値を大幅に改善させる事に繋がる。
魔術、魔術士の全体的な地位向上、更にはルーリング作業の高速化を行う為の道具の開発及び販売に関する、一大市場の誕生。
世界経済にすら影響を及ぼす大事業となる。
しかし、それは『永遠の命』や『瞬間移動』等と同じ絵空事。
名のある研究者は、誰もそんな研究には手を出さない。
出来もしない事を一生懸命やって、さも自分が偉大な挑戦しているように見せる卑怯な真似――――そんな風潮が魔術士の中にはあった。
ファルシオンもその事は知っていた。
だから、その論文の写しを読み始めた時にも、最終的には『結局出来ませんでした』と結論付けているとばかり思っていた。
論文は、成功した研究以外は無意味――――とは限らない。
一つの方法論を試験し、それが上手く行かなかったとしても、その失敗の記録は資料として十分な価値がある。
【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】の論文は大学にあった。
だから、研究資料の一つ、失敗例の一つとして置いてあるとばかり思っていた。
にも拘らず、ファルシオンのその考えは僅か数ページで改められた。
独特の理論構築。
あり得ない着想。
そして――――確かな成果。
そこには、ファルシオンの理想があった。
魔術を勉強していく中でおぼろげに見えていた、自分が目指すべき光があった。
誰も踏み入れていない、前人未到の地。
研究者は皆、そこを目指す。
この論文は、頑丈で美しい船ではなく、弱々しい小船でそこへ辿り着いていた。
ファルシオンは、読み進める中で理解していた。
誰も見向きもしないテーマに挑む事が出来る、その信念。
それは、自分と同じような境遇だからこそ――――そう感じていた。
理論とは違うところで確信していた。
論文を読み終わったファルシオンの目には、涙が溢れていた。
母の愛に泣いた日。
それ以来ずっと、気を張っていた。
貧民街出身の人間として、負けてなるものかと言う意地を抱いていた。
絶対に魔術士になって母の愛に報いると、気負ってすらいた。
そんなファルシオンが純粋に感動したのは、一冊の論文に込められた、悲壮なまでの覚悟と信念だった。
通常、研究論文には論理と同時に野心と自己顕示欲が色濃く反映されている。
実際その論文にも、いずれの要素も含まれている。
発見に対する確かな矜持に加え、決して妥協しない姿勢が実験の数と許容誤差の狭さに表れていた。
ただ、ファルシオンを涙させたのはそれらの信念や結実ではなく、論文の中の到る所に刻まれた不屈の魂と形のない想いだった。
彼女自身、理由はよくわかっていないが、論文内に確かに存在する野心や顕示欲は著者の人間性と少しズレているように思えてならなかった。
ファルシオンは直ぐに、著者であるアウロス=エルガーデンについて調べ始めた。
謎が多い人物だった。
出生も、生い立ちもわからない。
ただ、論文のあった大学に来る前の僅かな期間の経歴と、大学内における行動や所属、そしてその後の歩みなどに関しては調べる事が出来た。
わかったのは――――かなりの変わり者だったという事実。
研究は間違いなく彼が行っていたのに、論文発表時のオーサーシップは別の人物になっていた事。
そしてつい最近【賢聖】の称号を史上最年少で獲得し、オーサーシップが彼の名前になったという真相。
賢聖とはデ・ラ・ペーニャ国内において一般の魔術士が得られる最高の称号であり、エチェベリアの剣聖と類似した名称だが、こちらは騎士の中から選ばれるのが常。
寧ろ勇者の方が近い。
この件が、のちにファルシオンを勇者一行の一員にする理由の一つとなるのだが――――それはまた別の話。
当時、ファルシオンは彼が賢聖になった事実よりも、それによってオーサーシップが彼の名前に戻った事に関心を寄せていた。
オーサーシップが別人なのに、論文の成果によって賢聖になるのは明らかに不自然。
別の理由でその称号を得たと見なすべきだ。
もしそうだと仮定したら、このアウロス=エルガーデンという人物は、自身の論文のオーサーシップを取り戻す為に何らかの方法で賢聖になった……とも考えられる。
実際、一度発表されたオーサーシップが変更されるのは異例中の異例。
賢聖になるくらいしか取り戻す方法がなかったとしても不思議ではない。
あくまでも想像に過ぎなかったが、そのとてつもない逆境を跳ね返した魔術士に対し、ファルシオンが尊敬の念を抱くのは自然な流れだった。
だがその直後――――とある郊外の地にアウロス=エルガーデンの名が刻まれた墓が発見される。
しかし彼が死亡したと証明出来る者は一人もいない。
この事実を知ったファルシオンは、先だっての仮説を確信に変え、彼がまだ生きていると理解した。
確かに、これはとてつもない変わり者だと納得して。
ファルシオン=レブロフにとって、もう一つの確かなもの。
それは、アウロス=エルガーデンという魔術士の存在だ。
彼の思想、研究、生き様、そしてそこから推察される生い立ちの全てが、魔術士ファルシオン=レブロフを形成する血となり肉となった。
そして、それから二年の月日が流れ、アウロス=エルガーデンの研究成果は魔術の在り方を完全に変えていた。
編綴にかかる時間の関係上、騎士のお守りなくして戦場で存在出来なかった魔術士は、即座に魔術を出力可能になった事で一個の強力な戦闘兵として独立を果たした。
ルーリング作業を半自動化・高速化した技術はオートルーリングと呼ばれ、今や魔術における基礎概念の一つに組み込まれている。
賢聖の求心力も手伝って、異様な速度での普及となった。
少しでもアウロス=エルガーデンを理解したくて、ファルシオンは勉学に励んだ。
理解し難い存在を理解するには、知らない事を少しでも減らすしかないと考えたからだ。
その結果、ファルシオンは主席でアカデミーを卒業した。
だがそれは、彼女にとって悪手だった。
どれだけ優秀な成績を収めても、彼女の出自――――貧民街出身ではデ・ラ・ペーニャの上層に居場所はない。
当時、デ・ラ・ペーニャは教皇が変わり新体制が築かれていたが、その新教皇は穏健派とされる人物で、大胆な登用は行われないと噂されていた。
この風潮も手伝い、卒業したファルシオンにかかる声は予想以上に少なく、そして小さかった。
そんな現実にファルシオンは決して失望はしなかった。
彼女の目的はアカデミーに入学した時から変わらない。
母親に楽をさせたい。
その為なら、なりふり構わず何でもすると誓っていた。
だが、世の中をひっくり返すような特別な才能でもない限り、このままだと将来適当な地位しか与えられないのは明白。
その事実が、母親を苦しめるであろう未来も。
娘の努力が正当に評価されない。
報われない。
優しい母はそんな自責の念に駆られてしまうだろう。
仮にファルシオンが教会や一流大学の教職などに抜擢されたとしても、それによって彼女の出自がクローズアップされるのは間違いない。
『折角これだけの実力がありながら、残念な母親を持った所為で出世出来ないのは可哀想だね』と、心ある者ない者に拘らず囁かれる。
ファルシオンにとって、それだけは絶対に避けなければならなかった。
そんな彼女の元に、他のスカウトとは全く質が異なる誘いが届いた。
逡巡の末、ファルシオンは故郷である魔術国家デ・ラ・ペーニャを離れる決断を下した。
母親とは離ればなれになるが、そのスカウトを受ける事で得られる前金は、母親が残りの人生を裕福に過ごすのに十分な額だった。
何より、母親への侮辱と彼女自身の悔悟を限りなく無に近づけるには、それが最善だった。
こうして、ファルシオンはエチェベリア城に足を踏み入れ――――勇者一行の一員となった。
「……」
不定期に揺れる辻馬車の荷台の上で、ファルシオンが惚けた目で虚空を眺めている様を、フェイルは暫くじっと眺めていた。
勇者一行と接し、それぞれのパーソナリティについてもある程度把握して来ているものの、この無表情の女性魔術士だけは未だに掴みきれていない。
表情が乏しいだけで、感情表現が少ない訳ではない。
声に抑揚こそないが、言葉の端々に現在の心境が現れていたりもする。
几帳面で、意外と義理堅く、そして思慮深い。
ただ、必ずしも物事を達観している訳ではなく、人生経験の深さは余り見られない。
年齢は殆ど自分と変わらないと、フェイルは推測していた。
そこまでは、何となくだがわかっている。
しかしながら、それ以上の事――――特に、この勇者一行の中に加わっている理由や目的は全く見えてこない。
行動理念が見えないのは、その人物の背景が見えないのと同義。
背景が見えな以上、その人格を本当の意味で把握するのは不可能だ。
それをフェイルは身をもって知っている。
自分の身近にいる人間の背景を知りたいと願う欲求は好奇心などではなく、自分の身を守る為の防衛手段。
経験上、そう自覚している。
フェイルの視線には、そんな鋭さが含まれていた。
「大丈夫ですフェイルさん! もう直ぐ着きますから、あとちょっとだけ頑張って下さい!」
しかし、勇者リオグランテにはその表情が『馬車に酔っている苦悶の顔』に見えたらしい。
グッと拳を握り激励してくるその姿には、一切の隙がなかった。
完全無欠で純粋なその姿勢は、例え的外れであっても強く否定するのは難しい。
フェイルは苦笑いするしかなかった。
「まさかここに戻ってくるなんてね……自分で言い出しておいて何だけど」
その隣で、フランベルジュは一人黄昏るように、金髪をたなびかせて流れる景色を漠然と見物していた。
一人物憂げに外を眺める深窓の令嬢のような彼女の身体は、動きの制約を最小限に留める薄いプレートメイルで覆われている。
そして、帯刀する細身の剣は、まるでレイピアを思わせるほどに幅を狭め、極限まで鋭利を追究したかのような一品。
通常レイピアは突きに特化した武器だが、この剣は払う事でも敵を沈黙に追い込める。
「その弓って使えるの?」
自身の装備に手を掛けながら、フランベルジュが突然フェイルへと視線を向ける。
正確には、彼が背負っている何の編綴もない弓と矢筒に。
「そりゃ、使えなきゃ持ってこないよ。薬草士は定期的に薬草を採りに山に入るから、弓くらいは覚えるものなんだ」
「ふーん。ま、良い心がけとは言っておく」
フランベルジュは少しだけ微笑んで、再び景色に視線を向けた。
今回、山に向かう予定はない。
自分の身は自分で守る――――そんなありふれた決意だと、女性剣士には映ったらしい。
それ自体は間違いではない為、フェイルは特に反論せず、揺れる馬車の運転席を漫然と眺めた。
フェイルにとって、誰かに店を預けて遠出するのは未知の経験。
薬草の仕入れの際は、基本店は閉めている。
自分の代わりにあの店に誰かがいる現状は違和感しかなかったが、今更それを憂うのに意味などない。
馬が運んでくれる場所まで、大人しく運ばれるのみ。
目を閉じ、暫し瞼の裏を睨んでいると――――頬の辺りを冷たい感触が叩いた。
「うわっ、これ一雨来ますよ」
「……もう来てるみたいだよ。ま、馬車の中にいる以上は雨宿りも出来ないけど」
客室は箱型で屋根も付いているが、高級馬車でもない限りその側面に窓はなく、開放された状態。
横殴りの雨になれば、ある程度濡れる覚悟が必要だ。
「もう直ぐでアルテタに入るから、それまで降らないよう願っときな」
御者の声にリオグランテが朗らかに反応する。
その遥か上空で、重厚な灰の群れは確実に勢力を増していた。
一体、何をそう覆い隠さなくてはならないのか。
過去の人生において幾度となく眺めてきた雨空に悪態を吐きつつ、フェイルは勇者一行と共に自身未踏の地――――アルテタへ到着した。




