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第2章:遠隔の地(6)

 薬草店【ノート】には裏庭がある。

 ただし面積は小さく、そこに薬草を植えていたり花壇を並べたりはしていない。

 ただ剥き出しになった地面が広がっているだけで、有効に使えている訳ではなかった。


 そんな荒涼とした空間で、剣士は厳かに剣を構えていた。


 その型はまるで、著名画家の手がけた絵画のように美しく、そして微動だにしない。

 人間は静止をとても苦行とし、長時間維持出来る者はそれだけでも相当な均衡感覚と集中力を有していると見なせる。


 陽光が今にも零れそうな早朝の空気が、連動するかのようにピンと張り詰める。


 そして、数拍の後――――剣が撓った。


 狭刃の細剣が描いた一本の線は、一つの揺らぎも淀みもなく、空を鮮やかに切り裂く。

 薄い紙が真っ二つになった錯覚すら見えるような、鮮やかな閃き。

 それを遠巻きに眺めていたフェイルは、思わず拍手を送った。


「……?」


 手拍子の乾いた音に、フランベルジュは思わず怪訝な表情でその様子を睨む。

 しかし直ぐに賛辞だとわかると、少し照れたように視線を逸らし、小さく息を吐いた。


「大した腕前だね」


「あれだけでわかると言うの?」


 薬草店の店主風情が――――とは口に出さなかったものの、そういう意図で聞いたのは間違いない。

 フェイルは治療済の顔の傷を指でなぞりながら苦笑し、庭に面した歩廊に腰を落とした。

 板張り床には微かに温かみがあるものの、まだ早朝なので熱は持っていない。


「剣術の腕まではわからないけど、綺麗だったから」


 フェイルのその感想は、おべっかやお世辞の類ではなかった。

 実際、剣筋は直線に近ければ近いほど美しく、流暢な川の流れに通じる粋美がある。

 上級剣士の稽古は、見ているだけで飽きない。


「そ、そう」


 フランベルジュは多くを語る事はなかったが、夕照のような色の頬を隠すように顔を背けた。

 余り褒められるのに免疫がないらしい。


 その様子に苦笑しつつ、フェイルは腰を下ろす。

 手狭な裏庭ではあるが、一人の剣士が素振りをするには不足のない空間。

 そこに見物人が一人増えても、窮屈になる事はない。


「あ、お構いなく。続けて」


「……」


 人に見られるのに抵抗があったのか、フランベルジュは直ぐには再開しなかった。

 だが、退場を命令する権限はない。

 一応この場所はフェイルの持ち物だ。


「……ふぅ」


 呼吸を整え、フランベルジュは暫時の後に再び剣を構えた。

 まだ殆どの民家が活性化しておらず、静まり返っている時間帯。

 女の掛け声と剣の唸り声だけが、静寂を拒んでいた。


「……」


 それを無言で眺めながら、フェイルは過去によく見た風景を思い返していた。





 ――――それは数少ない、優しい記憶。


 規則正しい間隔で幾度となく振られる剣の煌めきが、残響のみを虚空に響かせる。

 本来ならば殺戮の道具である筈の刃が、禍々しさも凄惨さも滲ませない。

 この努力は、輝きの象徴ともいえる命を消す為のものなのに。


「熱心だね、毎日毎日。他の騎士はみんな、今頃酒でも飲んで楽しい時間を過ごしてるんじゃないの?」


「私はまだ騎士ではない。仮にそう認められていても、私自身はそうは思っていない」


 会話の相手は、いつもこの調子で融通が利かない。

 それがとても心地良く、フェイルはついからかうような物言いをしてしまう。


「シリカはさ、何の為に剣を振るのさ。大事な人を守る為? 剣士として上を目指す為?」


「自分をその呼び名で呼ぶな。リングレンさんと呼べと何時も言っているだろう」


 言葉を発しながらも、手は決して止めない。

 息も切らさない。


「それとも、誰かを殺める為?」


 シリカと呼ばれた女性――――クトゥネシリカ=リングレンは、一瞬言葉に詰まったような素振りを見せたものの、直ぐに稽古を再開した。


「……剣は確かに人を殺める道具だ。それは認めよう。だが、剣によってのみ得られる地位と名声もある。それで救われる者もいる。自分はその為にここにいる」


 そんな言葉を背に、飽きもせず剣を振る。


 愚直なまでの努力家。

 そしてそれが、彼女の信じる唯一の道。

 同じ茨の道を歩むフェイルにとって、クトゥネシリカの挑戦の日々は共感以上の心強さを覚えるものになっていた。


「貴様とて、誰かを殺す為だけに弓矢の技術を磨いた訳ではあるまい、フェイル=ノート」


「どうかな。少なくとも子供の頃は自分が生きる為、動物を殺して血肉に変える為だったよ」


「……だとしても、今の貴様は違うのだろう。剣とて同じだ。童心や初心が必ずしも全てではないのと同じように、殺める為に作られた道具がその目的の為だけに今も作られているとは限るまい」


 それが詭弁である事をフェイルは知っていた。

 けれど、自分が気を遣われているのも痛いほど感じられ、言葉を失ってしまう。


 凛々しくも脆い女性だった。

 だからこそ、誰よりも美しく、そして儚い――――そんな印象を受けていた。


「で、結局答えは? もしかして『女剣士が嘗められてるのを払拭したい』ってのを言いたくないから、適当にあしらおうとしてない?」


「……相変わらず性格の悪い奴だな。そこまでわかっていて何故問う?」


「一度も話してくれないからだよ。シリカってさ、フレイアの事は話しても自分の事は全然話さないじゃん。僕の事、そんなに嫌い?」


「嫌いだと何度も言っているだろう。こうして稽古の邪魔をするところも含めてな」


 真面目な彼女は、決して嘘は言わない。

 軽口の域を出ない雑談でさえも。

 だから、フェイルは彼女といる時間を大事にしていた。


 自分の汚らしさを嫌でも思い知るから。


「僕は楽しいけどね。こうやって、シリカが頑張ってる姿を見るの」


「……」


 答えは返ってこない。

 呆れ果てているのか、照れているのか。


 彼女の性格上、その二つが拮抗しているとフェイルは勝手に判断し、笑顔を風に隠した――――





「――――何ボーっとしてるの?」


 歩廊に据わったまま虚空を眺めていたフェイルの意識を現在に戻したのは、荒い息遣いで見下ろしているフランベルジュの声だった。

 既に陽の位置は変わっている。

 風の感触はないが、周囲の音は日常を匂わすには十分な量になっていた。


「終わったの?」


「ええ」


 既に鞘に納まった剣も、そう物語っていた。

 肩で息をするでもなく、乱れた呼吸を整え、フランベルジュはフェイルの隣に腰掛ける。


「……少し聞きたい事があるんだけど、いい?」


「うん、構わないよ」 


「貴方、何故薬草店なんか経営しているの?」


 先程の回想と繋がっているかのような質問に、フェイルは思わず目を見開く。

 そしてそれは、決して偶然ではなかった。


「改めてこの店の商品を見せて貰ったけど、正直私達みたいな旅人や冒険者には余り魅力がないのよね。常連客が多い訳でもないし、理由が見えてこないのよ」


 額に汗を滲ませ、フランベルジュは純粋な疑問を口にする。

 随分温かな季節にはなって来ているが、まだ早朝にはそれ程気温は上がらない。

 修練量の多さを物語る姿だ。


「はっきり言って、向いてるように見えないし」


「悪かったね」


 そんなフランベルジュに対し、手負いの店主はヤブ睨みで威嚇した。

 無論、効果は皆無。

 何事もなく、ただ何処か普段より覇気のない顔で呟く。


「何か強い信念みたいなのがあるのなら、聞いてみたいんだけど」


「信念……ね。ま、やりたい事も特になかったし、偶々店を持てる事になったから、その流れで……かな」


 敢えて嘘を吐く。

 フェイルにとって、それは必要な虚言だった。


「呆れた。貴方って私より年下でしょ? 老け込む年齢じゃないでしょう」


「そっちの年齢知らないから、わからないよ」


「十九よ」


 フェイルはその一つ下だった。


 生を受けて十八年。

 それなりに沢山の出来事を経て、今がある。


 ただ、それはどんな人間でも同じだ。

 積み重ねた刻の中で、いつまでも堆積している記憶や教訓は、実は驚くほど少ない。

 フェイルにとってもそれは同じだったが、その中で決して量は多くない筈の弓兵時代の記憶だけは、今も全てその身体に宿ったままだった。


「大体、そっちだって向いてないのは同じでしょ? とても勇者一行って感じしないし」


「……ま、ね」


 自覚していたのか――――意外にも、フランベルジュは怒りも反論もなく自嘲的な笑みを浮かべた。

 少し雰囲気を明るくしようとしたフェイルのお節介は、不発に終わる。


「勇者には威厳が全然ないし、魔術士はお気に入りの魔術士の論文を読む事に腐心してるし。そして、剣士は……」


 自分をどう言おうか迷っているのか、或いは余り言いたくないのか。

 フランベルジュは瞑目し、暫し沈黙して――――


「剣士は、弱いから」


 そのまま開口した。

 どうやら後者だったらしい。

 そして、その告白が昨日の一件を指していると想起するのは、そう難解ではなかった。


 フェイルの認識として、フランベルジュの実力は決して低くはない。

 寧ろ優秀な部類の剣士。

 女性でありながら、技術に関しては紛れもなく一流の部類だと踏んでいた。


 自身もそれを自覚している事は間違いない。

 それだけに、昨日のあの出来事――――街でケンカを売った相手に一睨みで気圧され、怯え、戦意を失いかけた事実は、かつてない屈辱だったのだろう。


「そして、女」


 何処か虚ろな目で、そう呟く。


「女剣士なんて今時珍しくもないよ?」


 フェイルは思わずそう口にしてた。


 女性の社会進出、武人進出は実際のところ、かなりの速度で進んでいる。

 一昔前ならば、女性が剣を持ち闘う姿は一種の見世物でしかなかったが、現在においては帯刀する女性の姿などヴァレロンにおいても決して珍しくない。

 しかし、魔術士のような男女差が殆どない職業とは異なり、筋力の差が大きく影響する剣士には未だ女性蔑視の傾向が見られるのも事実だ。


「薬草士は薬草を売っていれば薬草店を営めるのかもしれないけど、剣士は剣を振っていれば誰でも剣士って認められる訳じゃないのよ」


 フランベルジュは目を開けて、空を仰いだ。

 そこには無限の高みがある。

 目を細め見上げる顔は、憧憬とは明らかに違っていた。


「剣士の持つ剣は、単に武器と言うだけじゃない。国家、社会、文化、或いは時代……そんな巨大な力に抗って来た勇ましき人々の歴史を象徴する物よ」


 そして、言と同時に一度鞘に収めた剣を再び抜き、天に掲げる。

 どれほど手を伸ばしても決して届かない、無限の頂へ向けて。


「けれど、それは同時に男尊女卑の象徴でもあるのよ。どれほど剣術に長けていた女性でも、その名が時代の頂点に刻まれた例はない」


「男女平等を謳う現在の風潮においても、その傾向に変化はない……か」


「ええ。名目だけの奇麗事」


 女剣士は静かな怒りを地面へと向けた。

 地面を削る、鈍い音。

 大地に突き刺さった剣には、伝説の聖剣のような神々しさはないが、ある種の強い意思を発している。


「だから、私が変えるの。誰もが認めるような剣士になって……剣の世界に女の道を切り開く。今は無理だって自覚しているけど、いずれ必ず実現してみせる。それが私の夢」


 フェイルは知っていた。

 その告白が、誰かに語る事が決して簡単ではないと。

 軽い気持ちで話せるものではないと。


 薬草店【ノート】に対して、少なからず損失を与えた事。

 裏庭を無断で使用していた事。

 そして今、店を持った目的を聞いた事。


 自身の劣等感と道標を晒したのは、それらに対する義理であり、彼女なりの懺悔。

 フェイルはそう理解し、同時に内側から込み上げて来る隣の女性への親近感を抑えられなかった。


 不器用極まりない。

 フランベルジュも、そして――――彼女も。


「……それが、勇者一行に加わった理由?」


「そうよ」


「随分と途方もない夢だね」


 フェイルは笑みを隠さずにフランベルジュを見やる。

 決して嘲笑のつもりはなかったが、その瞳には少し影が差していた。


「貴方も無理だと思っているのね」


「そうだね。きっと無理だよ」


 即答だった。

 流石にそこまで言い切られるとは思っていなかったのか、フランベルジュは喜怒哀楽のいずれも欠如したような表情で呆然としている。


「……何故そう言い切れるの?」


「今の貴女にはわからないよ。多分」


 悟り切ったような、或いは諦観したような口調。

 無論、一介の薬草士にそんな事を言われては、フランベルジュの矜持が黙ってはいない。

 しかし、女性剣士が口を開く前にフェイルは先手を打った。


「けど、今の貴女の立ち位置は間違ってない。おそらくこれまでの道程も。だから、何も間違ってない」


 フランベルジュの語った夢は、これまでの歴史を鑑みればまさに"夢"。

 季節の変わり目に散りゆく花弁のように、どれだけ鮮やかに咲き誇ろうと儚く萎んで行く。


 しかし、騎士や傭兵ではなく『勇者の仲間』という位置にいるのは、その夢を叶えようと頭を使った証拠でもある。

 勇者のこれからの実績に委ねられる部分が大きいとはいえ、騎士や傭兵と比較して、成功した際の見返りが圧倒的に大きい。

 何しろ国民の大半が味方になるのだから。


 しかし、夢は夢。


 実体のないものに手は届かない。

 触れられない。

 そう頭で認識しても、実際に理解するにはそれなりの用意と覚悟を要する。


「無理って断言された後にそんなフォローされても、全然嬉しくないんだけど」


「そんな返しをしてる内は、まだ何も知らないって事だよ」


 少し上からの物言いをした後、フェイルは徐に立ち上がり、夢見がちな乙女に背を向けた。


 背後にいるその女性の表情は、何となく想像出来る。

 そして、その心中も。


 フェイルとて、似た夢を抱いた日々はあった。

 同じ夢を持った人物を見守った日々もあった。


 強い信念を抱いた者は、正しき道を切り開き光の中で輝けると信じていた。

 そして、各々の武器で国や自分の周囲を見返して、いつか健闘を称え合う――――そんな日が来ればいいと願っていた。


 しかし現実は無情だった。

 信念を乗せて放った矢は歪な放物線を描き、明後日の方へと飛んでいった。


 あの日の矢が今も空を舞い続け軌道修正を目論んでいるのか、それとも墜落してただの残骸と化しているのか、フェイルは知らない。

 知っているのは――――ある一つの物語の結末。


「……薬草士の貴方に何がわかるっていうの」


 フランベルジュは背後から、吐き棄てるようにそう呟いた。

 それは、まさにその通りだった為、フェイルは沈黙するしかなかった。


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