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第1章:梟と鷹(18)





 ――――それは昨夜、フェイル=ノートがシュロスベリー家に駆けつけた後の出来事。



「助かりました。今貴女のお父上に何かあれば、私共としては大きな損失ですから」


 自分と同じ空間、屋敷内の中庭に佇む黒衣に身を包んだ優男が発した言葉に、アニスは不快な顔を隠しもせず耳を傾ける。

 とはいえ、感情の波は彼が原因ではない。

 その傍にある布で覆われた手押し車の方にある。


 アニス=シュロスベリーの部屋は、ある日を境に大きく変貌を遂げた。

 かつて部屋の印象を決定付けていた、少女趣味とも言うべきパステル系のレースをふんだんに使用した天蓋やコットンレースカーテンは消え失せ、絨毯も壁も赤を基調としたシックな雰囲気で統一されている。


 部屋を構成する色は赤と黒が大半。

 それは、部屋の主であるアニスの意向だった。


 エチェベリア上空では数多の星が観測出来た。

 夜空に浮かぶ星々にどのような意味があるのかは、天文学の有識者以外に知る術がない。

 ただ、確実に言えるのは、雲一つない日の夜には大小様々な光の粒がまるでその日生涯を終えた者の魂を預かるように燦めいている現実がある事のみ。


 アニスは星空を眺めるのが好きだった。

 そこには限りなく想像を込められる個性が広がっているから。

 穢れを知らない光もあれば、毒々しくも不敵に煌く光もあるのだろう――――そう思わせるだけの神秘性が、この光景にはある。


 現実逃避ではない。

 それでも、無性に祈りたくなる。

 まだ無垢だった頃の光を探して。


「薬草士の権威には、今後も我々魔術士と共に改革を進めて貰わなくては。例の計画は我が母国デ・ラ・ペーニャも関与する問題ですから」


 しかし、そんな憧憬の景色も直ぐに唯の視界へと変わる。

 現実は、魔術よりも残酷だ。

 視線を下ろすと、そこには静まり返った屋敷の中庭があった。


「無論、貴女にも無病息災でいて貰う事が何よりも……」


「見え透いたお世辞ほど気持ちの悪い言葉はないんだけど。私が今のこの状態のまま生きていれば、それだけで貴方達にとっては有益ってだけなんでしょう?」


 不機嫌な心境を隠すでもなく、アニスはその優男――――ハイト=トマーシュに対し雑然とした言葉を告げた。


「でも、そっちの都合なんて私には関係ない。まして貴方達のやってる事なんて全部どうでも良い。覚えておいて」


「わかりました。以後言葉には気をつけましょう」


 明らかに一回りは年上のハイトに対し、アニスは不穏な言葉をぶつける。

 それは、虚勢ではなかった。

 この空間を支配している主が自分であると言う、絶対的な自信によるものだ。


 ハイトもそれに異存はない。

 だからこそ最大限の敬意をもって接している。

 希少性では劣っていても、存在価値においては勝っている眼前の少女に対して。


「それにしても素晴らしい腕です。曲がりなりにも【ウォレス】の代表クラウ=ソラスが寄越した刺客。簡単な相手ではない筈なのですが……」


「ハイトさん。人を壊すのは、そう難しい事ではないの」


 荷台の上で布に覆われた『それ』を見たまま、アニスは呟く。


「多くの人間は、何か目的があって動いている。だから壊すのは楽なのよ。読書している子供を驚かすのと同じ。意識が違う方に向いている標的の動脈を裂くだけ」


「……」


 月明かりに照らされたアニスの表情に、ハイトは思わず息を飲む。

 何より――――動脈に限定しているその手口に、異常性を見出さずに入られなかった。


 通常、人を肉塊へ変える方法は、出来るだけ簡易に、そして痕跡が残らないように行うのが好ましいとされる。

 しかし動脈を切れば、鮮やかな色の血が夥しい量噴出し、周囲を汚す。

 無論、それが殺人者にとって利となる事はない。


 あるとすれば――――


「嗜好、ですか。前にそう言っていましたね」


 ハイトは無意識に記憶を辿り、思わずそう口にしていた。


 いつの日からか、アニスは鮮血の色に魅入られていた。

 理由には心当たりはない。

 ただ、きっかけとなる出来事はあり、それが自分を変えてしまったという自覚もあった。


 そして嗜好という言葉は、そんな自分を覆い隠す為のものでもある。


 嗜好は本能に起因する。

 だが人間には吸血を行う習慣はなく、生存や排卵のために血液を欲する生物とは全く重ならない。

 命ある者がその命を本能で守護するように、彼らは肉体構成以前の段階で血液を欲するように出来ているが――――人は他人の血を欲しない。


 けれどアニスは自覚している。

 血飛沫を浴びる瞬間、まるで何万人もの人間から尊敬と敬意を持って拍手を送られているかのような強烈な多幸感に包まれる事を。

 その直後、遅れて鼻腔を擽ってくる血の臭いが、理性となって現実を突きつけてくる事も。


 残るのは凶悪なまでに膨らんだ罪悪感と劣等感。

 それでも抑えられない。

 後天性のその衝動は、アニスの人生観と生きる環境を大きく歪ませた。


 代償行動として取り入れた、鮮血と限りなく近い色に染め上げた自室にて、アニスは毎日一人静かに何度も前腕を振っていた。

 その手首の先の指には、鉤状の小さく細い針が摘まれている。


 部屋の模様が代わった後、これまで一日も欠かす事無く繰り返して来た所作。

 今では、まるで肘より先が指を動かすような感覚で細かく、早く動かせる。


 アニスに特別な身体能力はない。

 ただ、この動作――――前腕の挙動に関してだけは、常軌を逸した速度を可能にしていた。


 単純な動きの早さだけではない。

 一切の予備動作を排除した初速、そして動きの自然さ、滑らかさもまた、一流の踊り子ですら真似出来ないほどの域に達している。

 

 その攻撃の型は、誰かに教わったものではない。

 ごく自然に、これ以上なく不自然に、彼女の身体に刷り込まれていた。

 だが現在のような精度と速度を手にしたのは、弛まぬ努力を続けていたからに他ならない。


 何の為に?

 外敵から身を守るため――――否。

 欲求を満たす為だ。


 アニスは自身が呪われた存在であると思いたかった。

 吹き出る血を見て、それを浴びる事に快感を見出す。

 そんな世にもおぞましい嗜好が、自分の中から生まれ出たものだとは思いたくなかった。


 だから、嗜好という言葉を理由に選んだ。

 忌み嫌う方に自分から向かう事で、そうではないと否定する全てのものを手に入れたかった。

 他者からの同情も、自分自身の拒否反応も、そして真実も。


 正解でなければ、誰かが真実を教えてくれる。

 間違っていたら、誰かが正してくれる。

 否定は、肯定よりもずっと強いから。


 アニスは自分が堕ちていると自覚した上で、それでも自我は崩壊していないと理解していた。

 まだ自分には、最低だと自己嫌悪するだけの心が残っているから。


「では、"これ"は私が貰い受けます。貴女は身体を洗って下さい。臭いは嫌いなのでしょう?」


「ええ。貴方に言われるまでもなくそうするつもり。今、最高に死にたい気分だから」


「先程、屋敷を誰かが訪ねて来たようですが。まさか見られた訳では……」


「そんな訳ないでしょう?」


 ――――男は気が付いている。

 アニスの苛立ちの原因に。

 しかし、例え悟られていてもそれを自分で口にするのは絶対にしたくないという意地が、アニスの二本の脚を辛うじて支えていた。


「では、良き夜を」


 皮肉以外の何物でもない言葉を残し、ハイトは手押し車を引く音と共に姿を消した。


 自分を観測する人間がいなくなった瞬間、夜風が体温を奪っていく。


「フェイル……」


 自分以外は誰もないその中庭で、アニスは幼馴染の名を呼んだ。

 つい先程、血相を変えて屋敷内に現れた彼の顔を思い出し、思わず唇を噛む。


 代償行動は一つではない。

 ハイトが言っていたように、血の臭いは決して好きではなかったが、その臭いがなければ多幸感が生まれない現実も自覚していた。

 だから、屋敷内の生物に流れる血を代わりとするのに抵抗はなかった。


 普通の夜になる筈だった。

 思わず隠れたのは、その"普通"の自分を見られたくなかったから。

 それでも、彼は見逃してはくれなかった。


 無垢な頃の自分を知る、唯一の人物。

 親から相手にされず、権力者、富豪の娘であるが故に周囲に距離を置かれていた中で一人だけ、心の奥に踏み込んで来てくれた人物。

 アニスにとって、フェイルはたった一人、自分を正当化してくれる存在だった。


 何より、何処か自分に似ていると感じていた。

 成長して再会した彼には、よりその感覚が強くなっていた。


 勇猛果敢とは程遠い、穏やかな性格でありながら、弓兵として宮廷に招かれるまでに成長したその矛盾。

 明らかに商才がないと誰もが認める中、それでも店を構え続けるその矛盾。

 そして――――直ぐ近くに薬草士の権威がいながら、その恩恵に与る事のない、その矛盾。


 アニスはそれら全ての理由を理解している訳ではない。

 ただ、そうすべき道があるとして、それを確実に踏み外しているフェイルの存在は、アニスにとって心強いものだった。


 その思いが増すに連れ、もう一つの衝動が沸々と湧き上がっている。


 もし。

 もしそんな近しい、そして愛おしい人の血液を浴びたなら――――

 

 何かが混ざり合ったような、致命的で獰猛なその衝動は、今のところ顔を出す前に全て排除している。

 先程の"獲物"によって、現在はほぼ完全に沈静化していた。

 もしそれがなければ、先刻は一体どうなっていたのか――――想像するだけで胸が張り裂けそうになった。


 獲物を定期的に用意してくれるハイト=トマーシュの存在は、アニスにとって僥倖だった。

 今日の獲物は彼よりも寧ろ自分の方に関係があったらしく、それは稀有なケースだったが、特に罪悪感はない。

 あったのか、最初からなかったのか、それすらもわからなくなっていた。


 ハイトは自分に同情しない。

 どれだけ同情を買おうとしても、親身になっているように話していても、決して哀れんだりしない。

 彼は彼で、目的の為に始末したい人物をアニスの贄としているだけに過ぎないのだろうが――――それでもアニスは救われていた。


 他方で、魔術士でもなければアランテス教の信者でもないアニスにとってハイトの存在は『利害の一致』に過ぎない。

 彼に利用されながら利用し、小さな充足で精神を落ち着かせ、おぞましい究極の嗜好を堰き止める。


 アニスはそうやって、己を浸食するモノの侵攻を止めようとしていた。



 森の梟のように、夜な夜な音もなく獲物を求め。

 鷹狩りの鷹のように、運命の言いなりとなり。

 

 それでも、少女は星を見る。

 光の群れを未来に見立てて。



 乙女のように。



 童のように。



 白く輝く無数の夢を想った。









"αμαρτια"


 chapter 1 「梟と鷹」







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