第1章:梟と鷹(16)
ビューグラス=シュロスベリー。
その名前をフェイルが初めて耳にしたのは、まだ自我が形成されていない年齢の頃。
それから暫くして、幼馴染であるアニスの父親だと認識した。
当時、既に薬草学の権威として活躍していた彼の姿など知る由もない。
アニスの大きな家に稀にいる、怖いおじさん。
それが、幼少期のフェイルにとってのビューグラスだった。
その認識が変化したのは、フェイルが十代になってから。
それまでの常識を覆す、実に八〇〇種類もの薬草と二五〇種類の毒草の効能、性質をまとめて図鑑にした【薬草大全】の著者が、幼い頃から何度も会っていた愛想のない中年親父であると耳にした時は、本気で驚愕したものだった。
その薬草大全は、創刊当時にまだヴァレロンで印刷技術が発達していなかった都合上、一般家庭への普及には至らなかったが、それでも数多くの複写本を生み出していた。
現在では薬草学の聖典として、世界各国の図書施設に展示されている。
特に、その本が発行される以前までは万能薬として扱われていた『フィーバーフュー』や『チェストベリー』といった薬草の効果を否定した記述は、薬草学だけでなく、医学や世界経済にまで大きな影響を与えるに到った。
そして、その事実はフェイルにも――――
「……」
走りながら、そっと右目を塞ぐ。
長く続く灯りなき廊下の絨毯を駆ける中、その左目に映る景色はまるで灯火で照らされているかのように、はっきりと色を形を成している。
無論、通常の人間の目ではあり得ない事だ。
梟の目――――そう名付けたのは、フェイルではなかった。
『その二つの目は後天的なもので間違いないのだな?』
アニスに呼ばれ訪れたこの屋敷の中でそう話しかけて来たビューグラスは、フェイルに対し数時間に及ぶ質問を投げ掛け続けた。
その際、便宜上使っていた名称が、そのまま採用された形だ。
ビューグラスは、その後も事ある毎にフェイルを屋敷に招いた。
娘の幼馴染から格上げしたのだ。
研究者としての興味の対象に。
暗殺技能に長けた元弓兵に。
そして――――同じ視点を持つ薬草士に。
『不思議なものだと思わないか? 植物と人間には進化の過程において密接した関連性はない。植物は人が生み出したものではないし、植物との意思の疎通に成功した者もいない。しかし、薬草はまるで人の為に誂えられたかのように、何百年も人を癒し続けている』
理念や謎駆け、そして夢や希望をビューグラスは幾度となく語った。
その一方で、決して学者として、商人としての言葉は贈らなかった。
フェイルも、それは聞かなかった。
それが、フェイルの誇りだった。
「誰かいない!? 誰か!」
屋敷は沈黙に支配されていた。
フェイルの声量は平均的な人間のそれだったが、それでも隅々まで響くくらい、静かだった。
元々、この屋敷は広さの割に住民も使用人も少ない。
主であるビューグラスの血縁は、娘アニスだけだ。
そんなアニスとフェイルが知り合ったのは、ビューグラスと初めて言葉を交わすより少し前。
フェイルがこの街に来た翌日の事だった。
その後、弓兵として宮廷に招かれたフェイルは一度街を離れる事になり、アニスとも疎遠になったが、薬草店を構える為に戻って来たその日、再会を果たした。
それは二度目の偶然。
『ね、ね。こう言うのって、三回あると運命って言うよね。次偶然会ったら結婚でもする?』
アニスは冗談めかしてそう言っていたが、フェイルはただ困ったように笑うしかなかった。
そんな彼女の無邪気な顔が、ふと頭を掠める。
「アニス! いないの!? アニスーーーーーっ!」
背負った弓を揺らしながら辿り着いた幼馴染の部屋には――――人の気配はない。
時間帯を考えると、あり得ない事だった。
焦燥感を抑えるように、部屋に入り中を見渡す。
もう何年も訪れていないその場所は、フェイルの記憶とは全く別の空間になっていた。
以前は、もっと華やかで子供じみていた。
今は燃えるような赤の絨毯を始め、赤い色の物が多く、貴族の一室のような雰囲気を醸し出している。
無論、それに関する寂寞感などを覚えている余裕はない。
その足は、奥にあるビューグラスの部屋までの道のりを等間隔で叩いていた。
そして――――
「おじさん!」
もう何年も呼んでいなかった、幼少期に使っていたその呼称。
フェイルは無意識の内にそれを叫び、部屋の扉を開け――――
「何だ? 騒々しい」
――――そのまま膝の力が緩まって行くのを自覚した。
ビューグラスの様子に不自然なところは一切ない。
寧ろ、焦燥を携え息を切らしながら入ってきた自分が余りに異質と感じるほど。
その事実が、小さな安堵を生んだ。
「……ここにウォレスの使者が来たと聞いたんで」
「いや、来ていないが」
その返答を受け、フェイルは息を整えつつ思考を纏める。
ビューグラスが無事だからといって、この状況が取り越し苦労と断定は出来ない。
何故なら――――
「門番が何者かにやられています」
「何……?」
ビューグラスの眉間には既に深い皺が刻まれているが、それが一層濃くなる。
「ウォレスの使者が、儂を殺しに来たとでも?」
「確証はありません。ただ、明らかに異常な状況です。もしかしたら何処かに潜んでいるかも」
そう唱えつつ、フェイルは周囲の気配を察知すべく神経を散らしていた。
だが、殺気は微塵も感じられない。
この屋敷に入ってからずっと、それは変わらない。
「アニスは? アニスは無事なのか?」
「姿がありません」
「……」
フェイルの言葉に、ビューグラスは声を発しなかった。
狼狽の色は――――ない。
故に絶句とは言い難い。
ビューグラスとアニス。
二人の関係に対して、フェイルはこれまで一度も深く追求した事はない。
親子なのは間違いないのだが、母親がいない事、アニスから殆ど父親に関する話題を提供されなかった事から、何となく想像は付いていた。
学者として仕事に没頭する父親。
物資と金銭ばかりを与えられ、親と接する機会の希薄な娘。
良くある構図だ。
その場合、良好な関係を保てる可能性は極めて低い。
敢えて聞く必要もなかったし、それでアニスの気分を害する事もしたくなかった。
同時に、ビューグラスからも殆ど娘の話は聞かれなかった。
それだけに、ビューグラスの表情は悲しい哉――――驚くに値しなかった。
「アニスを探してくれ。それで依頼の失敗は帳消しにしても良い」
「わかりました。貴方は施錠してここにいて下さい」
そう回答しつつ、明らかな違和感は取り敢えず無視する。
それは後でじっくり考えれば良いし、ここで問い質すのが有効とも言い難い。
全ての判断を終える前に、フェイルは廊下に駆け出していた。
自室にいなかったとなると、次にアニスがいそうな場所は――――調理場。
不器用な彼女が、己を高める為に足繁く通う大事な場所だ。
改めて感じるのは、シュロスベリー家の広さ。
これでも、成長と共に移動時間はかなり短縮しているのだが、それでも広い。
フェイルは全力疾走で廊下を滑走しながら、初めてここを訪れた時の事を思い返していた。
敷かれた絨毯の色は、記憶の中の方がやや鮮麗。
視点の高さが異なるので、一層そう感じるのかもしれない。
あの日、フェイルは同じように廊下を駆けていた。
見た事もない広大な世界には、鮮やかな緑を使い草原を描いた絵画や、光沢を携えた甲冑や、身体より大きい壷や、透明な板が張られた窓が彩りを与えていた。
それら一つ一つに感動を覚えていた。
今となっては風化した感覚。
それが何故か、この緊迫した状況にあって、フェイルの頭を支配していた。
そして、思い出す。
その時の遊びを。
「アニス! いる!?」
辿り着いた調理場で、フェイルは大声で叫ぶ。
返事はない。
ただ、それが『ここに居ない』事の証明にはならなかった。
何故なら――――記憶の中のあの日もまた、そうだったから。
フェイルは迷う事なく、調理場の中央にあるテーブルの下を覗き込んだ。
そして、そこで大きく息を吸う。
安堵の溜息を吐く為に。
「……三度目、かな?」
引きつった笑顔で、アニスはそこにいた。
「これは偶然じゃないでしょ」
一瞬視界がぼやけたのは、全力疾走し過ぎて意識が朦朧としているから。
フェイルはそう思う事にした。
「えっと、兎に角……」
「御免なさいっ! もう未知の料理を無闇に食べさせるのは止めるから許して!」
「無事でよかっ……え?」
「え? 無事だったの? 良かったあ~……え?」
噛み合わない会話。
フェイルはまだクラクラする頭を抱えるようにして、整合性を図る。
『未知の料理』
『無闇に食べさせる』
『無事で良かった』
つまり―――――
「まさか……門番の人達に手料理を届けて失神させた、とか言わないよね?」
「え? それ知って怒りに来たんじゃないの?」
脱力感は、時としてどんな苦痛よりも恐ろしい。
これ以上ないくらいに弛緩していく自分の身体に、フェイルは為す術なくそのままテーブルの下で倒れ込んだ。




