第1章:梟と鷹(15)
――――標的は実の所、既に事切れていた。
フェイル=ノートにとって、それはつまり依頼の失敗を意味する。
ただ、標的を死に至らしめたのはフェイルの弓矢ではなかった。
隠れ宿の二階。
部屋の閉じた窓を目掛け外部から矢を速射。
流石に分厚い木窓を完全に貫く事はできないが、先端を部屋側にまで貫通させる事は出来る。
怯えさせるには十分だ。
当然、その部屋にはいられず、飛び出して逃亡を図る。
宿の主人に泣きつこうにも、向かいの靴屋の騒ぎを聞きつけて外へ出ている主人を見つける事は出来ない。
靴屋の件もフェイルの仕業だった。
結果、標的はパニックに陥り、夜の街へ助けを請うように逃げ出す。
そこを捕らえる――――という手筈だった。
事実、ここまでは絵に描いたように上手く行っていた。
誤算だったのは、その直後。
突然、何者かによって標的は貫かれた。
弓を引く間もない。
殺気はおろか、気配すら察知させない中での、鮮やかな殺害だった。
『まだ……居るんだよね?』
今しがた気絶させた魔術士の女性――――ファルシオンに近付きつつ、フェイルは彼女ではなく虚空に問う。
返答は直ぐにあった。
「……何故、彼女は気絶したのですかな?」
その声は何処か紳士然としており、明らかに場にそぐわない品を持っている。
そして、手には今しがた人体を貫き、赤く染まった得物を持っている。
まるで死神の鎌のような形状の、細身で長い武器だ。
「衝撃で意識を切る場合は、こめかみを掠らせます。が、貴公の矢は髪を掠める程度。どのようなカラクリを用いたのか興味がありまして、ついつい長居してしまった次第です」
『人の獲物を奪うような無粋な人に教える義理はないよ』
毒には様々な種類がある。
調合次第では人体に影響を及ぼさず、一定時間意識を失わせるだけで後遺症も残らない毒を作る事も出来る。
そして、毒をどう相手の体内に取り込ませるかも様々。
矢に塗布した毒を身体に触れさせる、矢で身体を傷付け体内に侵入させる……等。
ほんの小さな衝撃で粉状の毒を飛散させ、標的に吸わせるという方法もある。
「それは残念ですな。ただ、私にも立場があり役割もあります故。貴公を困らせるつもりはなかった、とだけは言っておきます」
『どうだか……ね』
布で覆われたフェイルの口元が、微かに動く。
それは苦笑ではあったが、同時に呆れてもいた。
眼前の殺人者の、異様な迫力に。
殺気も敵意もまるでない。
それこそ、幽霊のような存在。
人を殺傷する得物を手にしている人間がそのような状態にいるのは極めて異例だ。
もし、ここで標的を奪われた腹いせに決闘を持ちかけようものなら、確実に返り討ちに遭う。
そんな予感を覚え、フェイルは動けずにいた。
「クラウ=ソラスと申します」
そしてその予感は、自己紹介をもって完全肯定される。
クラウ=ソラス――――傭兵ギルド【ウォレス】の代表を務める、エチェベリアでも屈指の実力者。
当然、フェイルの耳にもその名と実績は届いている。
ギルドの代表は、例え傭兵ギルドであっても単に戦闘力が高いからと務まるものではない。
数多の猛者を束ねるには、相応の統率力と賢能、カリスマ性が必要となる。
フェイルの眼前で涼しげに佇むクラウ=ソラスには、その全てを有している存在と見なせる。
『……ウォレスの代表が、自ら暗殺活動を?』
そんな怪物を相手に、フェイルは半ば冗談めかして呟く。
もし――――これが本当に『暗殺』なら、フェイルはこの場で殺される可能性が高い。
暗殺とは、誰にも知られずに達成されてはじめて成立するのだから、目撃者が生存して良い筈がない。
だが、実際にはそうではないとフェイルはほぼ確信していた。
「これが暗殺なら、わざわざ自らの名前を告げませんな」
そして、期待通りの返答に内心安堵する。
そう。
これ程の大物が、自ら暗殺を行う事など許されない。
他者に目撃される愚行を犯す筈もない。
まして、自ら身元を特定されるような宣言などする訳がない。
「名乗ったのは、この場を丸く収めたいからです。ビューグラス殿にも立場と言うものがあるのでしょうし……ね」
クラウの台詞は、多大な情報を有していた。
フェイルの正体を知っている事。
ビューグラスに対して配慮している事。
それでも尚、彼に不利益となる行為に及んだ事。
つまり――――
『ウエストの依頼……』
「ほう。冴えておられますな」
小馬鹿にする――――様なニュアンスは全くない。
心底感心した様子で、クラウは正解を示唆した。
実際は、それ程難しい推測ではない。
冷たい地面に横たわっているビューグラスのビジネスパートナーは、諜報ギルド【ウエスト】に間者として忍び込んでいた人間だ。
彼を狙うなら、当然ウエストの関係者しかあり得ない。
間諜行為が露顕した以上、口止めを前景とした制裁を加えられるのは必定。
ただ、このヴァレロン新市街地で巨大な権力を持つビューグラスの子飼いとなると、迂闊には手を出せない。
そこで、ビューグラスとは別の意味でこの区域に絶大な影響力を持つ傭兵ギルド【ウォレス】に依頼した――――そう考えればわかりやすい。
ただしウォレスとしても、ビューグラスの関係者を相手にぞんざいな扱いは出来ない。
代表者のクラウが自ら出て来たのは、ビューグラスの面子を守る為と考えられる。
クラウの立場上、フェイルとの邂逅は好都合でもあった。
「ビューグラス殿には既に使者を遣わしています。貴公の失態にはなりませぬ故、この場はお引取りを」
『……』
無論、フェイルは納得はしていない。
相手が誰であれ、依頼の邪魔をされたのは事実。
幾らフォローがあるとは言え、信用を失いかねない妨害を受けた事は、フェイルにとって痛手だった。
『わかった』
しかし、その気持ちは嘆息一つで収め、両手を挙げる。
この街で生きている弱者としては、他に選択肢はなかった。
「賢明です。ただ、貴公には一つ確かめるべき事がある筈ですが……」
『いや。ないよ』
そして、敵ではなくなった脅威の言葉を否定し、気絶しているファルシオンを担ぐ。
クラウの言葉は、確かに正しかった。
月明かりがあるとは言え、相手の顔を確認するのは困難な夜。
ならば、今しがた『クラウ=ソラス』を名乗った人物が本物である保証はない。
話の辻褄は合っていたが、それは証拠とはならない。
だが、フェイルには確証を得る術があった。
――――梟の目。
闇夜でも日中と同じように明瞭に見えるその目が、クラウの外見をしっかりと捉えていた。
実際に目の当たりにしたのは初めてだが、特徴や得物に関しては予備知識の中にある。
それと見事に一致していた。
間違いなく、本物。
本物の怪物だ。
これだけ完璧に気配を消せる上、一度も殺意を弾けさせる事なく殺害を実行出来る人物を、替え玉や影武者として用意するなどあり得ない。
「ふむ……やはり現場は良いものです。このような出会いは、政治の世界ではありませぬので」
その怪物は、ファルシオンを担いだまま踵を返したフェイルに対し、遠回しな賛辞を送った。
しかしフェイルは特に何も言うでもなく、そのまま歩を進める。
一刻も早くこの場を離れたいのが本音だった。
「いずれまた相見えましょう。本来持つべき縁が消え、それでも違う糸で結ばれたのなら、それは最早"運命"故」
「……?」
不気味で不可解な発言を最後に、背後からの声は消えた。
気配がない為、その場を去ったのか、留まっているのかはわからない。
振り返れば確認は出来るが、それはクラウに『視えている』と教えるようなものなので、控える事にした。
依頼失敗による悶々とした頭を夜風が嘲笑う中、闇に包まれた街並を進む。
弓を扱うフェイルは非力ではないが、人を背負いながらの移動を楽にこなせる程の腕力はない。
「ま、贅沢は言えないか」
心中でそう呟く程度には、背中に密着した魔術士の軽さは際立っていた。
つい先程、戦闘という形でコミュニケーションを交わしたばかりの女性。
十分な実力者なのは、あの僅かな時間で容易に把握出来た。
勇者候補一行などという妙な肩書きもあって、地力に関しては少なからず猜疑心を募らせてはいたものの、少なくとも『ゆかいな仲間達』が適切な表現ではないと把握出来たのは収穫と言える。
ファルシオンについて、彼女の仲間について、フェイルは何も知らない。
知りたくもない――――それが本心だった。
店を滅茶苦茶にされた相手に心を開くほど、フェイルは大人になりきれてはいない。
実際、ここ数日のフェイルはその蟠りを表面化しないよう努めてきた。
道化じみた発言をする事もあった。
リオグランテに自責の念があろうとなかろうと、自分の怒りを彼らに向けて発したところで、失った損失は戻ってこない。
なら彼ら勇者一行が少しでもその損失を穴埋めしてくれる方向に持って行こうと努力するのが、正しい身の振り方だ。
今、こうしてファルシオンを運んでいるのもその一環。
額に滲む汗を拭えない現状に心で苦笑しつつ、フェイルは一度体勢を立て直す為に上半身を揺する。
「……ん」
その微かな刺激が、ファルシオンの呻き声を産む。
この至近距離で意識が戻るのはまずい――――そう懸念した刹那。
「アウロス様……むにゅ」
寝言である事が判明し、杞憂に押し潰されそうになる。
今しがた彼女が呟いた人名に心当たりはなかったが、特に不都合がある訳でもないので、フェイルはそのまま運搬作業の続行を決めた。
同時に、軽さと並ぶもう一つの好都合に気付く。
密着していても、感触によって女性を強く意識させられる事はない。
これは極めて都合が良かった。
最悪の場合、違う運び方を考慮しなければならなかったからだ。
とはいえ、実際の所どれくらいなのかは一度離してもう一度密着するか、寝かして視認するかでなければ確定しない。
確認もせずに『ない子』と決め付けてしまうのは失礼千万。
だがそれを実行に移す訳にもいかず、かといって一度染みついた先入観を消すのも容易ではなく、フェイルは別の意味で悶々とする羽目になった。
――――といった不本意な気持ちの揺らぎを経て、カシュカシュの近辺まで到着。
梟の目で確認するまでもなく、微かな走行音が勇者一行の現状を表している。
突然いなくなったファルシオンを探し、駆け回っているのは想像に難くない。
フェイルは靴屋の傍の路地裏にファルシオンの身体を下ろし、壁が汚れていないのを確認し、彼女の背中をそこに預けた。
そして矢を番えずに弓を引き、離す。
瞬間、炸裂音と錯覚するような強い弓音が周辺に散った。
「何!?」
フランベルジュの鋭い声が聞こえて来ると同時に、その声とは逆方向へ駆け出す。
これで、直ぐにファルシオンは見つけられるだろう。
一段落ついたものの、心はどうにも落ち着かない。
依頼の失敗。
大物との遭遇。
正体を知られないよう苦慮しながらの運送。
いずれも肉体的というより精神的に辛いものばかりだった。
だが、これからそれ以上に辛い作業が待ち受けている。
依頼主のビューグラスに、失敗の報告をしなくてはならない。
既にクラウの使者が事情を説明していると思われるが、それでも失敗は失敗。
今後使って貰えるかどうかはわからない。
もし、この件でお得意様をなくせば、裏のお仕事は廃業の可能性もある。
薬草店だけで食べて行かなくてはならない。
著しく商才に欠けるフェイルにとっては、この上なく厳しい状況と自分自身に断言出来る悲惨な未来だ。
終始憂鬱な気分で移動したからか、気付いたらシュロスベリー家に到着していた。
夜間のこの屋敷は、まるで世界から隔離された化物の住処のような、一種異様な雰囲気を有している。
フェイルにとっては、既に幾度となく目にして来た光景だ。
しかし、この日の夜の屋敷は――――何処か雰囲気が違っていた。
それは決して、自身の憂鬱な心理状態が生み出した錯覚ではない。
空気が冷たい。
虫の鳴き声が聞こえない。
「……何だ?」
フェイルは心中で不安を言語化し、舌で口の周りを湿らせながら屋敷へ入ろうとする。
その門の前。
そこで――――異変に気付いた。
門番がいない。
しかしそれは誤りだと直ぐに理解する。
左右に配置されていた筈のその二人は、それぞれ持ち場から離れた場所にいた。
そして、いずれも立ってはいなかった。
職務怠慢とはまるで異なる理由で。
生死は不明。
それを確かめる余裕はなく、フェイルは即座に屋敷内へ駆け込むべく門を飛び越えた。
フェイルの脳裏を、先程のクラウの言葉が過ぎる。
『――――ビューグラス殿には、既に使者を寄越しています』
そのまま受け取れば、自身が間者を始末した事を伝える為の使い。
しかし、もし諜報活動を行っていた事に対しての断罪だとすれば、この状況を作ったのは彼という事になる。
フェイルは口元を巻いた布を取り、全力疾走で突入した。




