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53話・影からの逃亡 3

 ショーティーが黒い巨体を揺すって周囲をうろうろと歩き回っている。冬期でも青々と茂る年中草の草むらに潜り込んでは戻りを繰り返し、熱心に何かの匂いを嗅いでいる。

 その時の私とギルはといえば、失望の中にいた。

 目の前には絶壁が天高く垂直に切り立ち、頂近くは真っ白な霧に隠されて望めない。ごつごつとした岩壁じゃなく、巨大な石板のような表面をした絶壁だ。これじゃ、登るどころの話じゃない。


「無理ね……」

「無理だな……」


 岩肌が剥き出しの壁は上に行けば行くほど強い風が逆巻いているらしく、時おり拳大の岩がからからと乾いた音を立てて落下してくる。ギルのように訓練されているならいざ知らず、ひ弱な私がこの絶壁を登るなんて絶対に不可能だ。

 後ろに束ねてフードをかぶっていても、吹き下ろす強風が髪を無理やりかき混ぜて解いてゆく。舞い踊るおくれ毛を手で押さえながら、どこかに救いはないかと視線を辺りに巡らせた。


「谷風が渦巻いている。これは浮遊魔道具を使用しても無理だな」


 風属性の方陣で浮いて前進する魔道車ですら、風が強い日は走行禁止の注意報が出る。同様に風属性方陣を使う浮遊や飛翔の魔道具は使えないってこと。所持はしていないけれど、持っていても使えない失望感に肩を落とすだけだったろう。

 霧の合間から見える空はどんよりと鈍色で、時おりみぞれ混じりの雨が降る。標高が上がった分、寒さも天候も最悪だった。

 ショーティーが伝言と一緒に運んでくれた軍用ペンダント型空間アイテムに収められていた野営道具が、今ほどありがたく感じたことはなかった。

 洞窟や獣の古巣を探して彷徨うこともなく、寒さや魔獣に怯えることなく休める。天幕の中でショーティーに包まれ、安心して熟睡できる嬉しさ。ギルも同じ気持ちだったのか、顔色も表情も良くなり、先を進む足どりもしっかりしていた。

 でも――到着してみれば、目の前の現実は厳しいものだった。


「秘密の通路とか……ないのかしら」


 私は頭上から視線を下ろして、絶壁の周囲に目をやった。

 自然の要塞であっても、長い歴史を持つ小さな皇国がたった二ヶ所の出入口だけを助けにしているとは思えない。


「皇家だけが知る脱出路とかか……」

「うん。表向きの二ヶ所以外にもありそうじゃない?」


 岩肌に手を触れながら、さっきからショーティーが行ったり来たりしている方角へと岸壁沿いにゆっくりと歩く。

 魔道具が開発される前に滅びた国ではあるけれど、魔法陣はその昔から存在している。血を濃くしながら国を存続してきたトゥーリオの人々のことだ。それなりの能力を持つ魔法使いもいただろう。

 いまだトゥーリオの皇族しか進入できない限定結界が働いているくらいだもの。厳しい環境の絶壁に隠された、秘匿された脱出口くらい作っていそうな気がする。


「人目につかないように迷彩方陣を――ひぃっ!!」

「リンカ!!」


 ショーティーがうろうろしていたから、岩壁にばかり視線をやっていて足元に注意を向けていなかったのが災いした。

 ぽっかりと地面に開いた穴に気づかず、私は見事に下草の目晦ましに騙されて嵌った。

 絶壁に沿って人工的に作られた落とし穴のような凹みで、人がふたり並んだくらいの幅の口から半円に底に向けてすり鉢状に狭まっている。底もそれほど深くなく、私の身長の二倍くらいか……それでも、ひとりで落ちたら上がるのは大変そうだ。

 片足を踏み外して滑り落ちる私に、ギルがすぐに対処した。ショーティーもひと跨ぎで底に降りて、私を受けとめようとしてくれた。


「……ギルまで飛び込んでこなくても……」

「底が見えなかったからな」


 長い葉を持つ草が幾重にも密集して垂れ下がり、まさか足下に穴があるとは思ってもみなかったのだ。

 ショーティーの巨体で受けとめられた私は、すこしの擦り傷と尻もちをついただけで無事だった。ギルも敏捷な動きで私を抱きしめていたせいで、一緒にショーティーの保護を受けて助かった。

 ふたりで汚れを払いながら頼りになる愛猫を交互に撫でて褒め、思いもしていなかった謎の穴の底を観察した。


「不自然な壁があるんだけど……」

「こっちにはおかしな穴がある。洞窟というより人が掘り進めた通路のようだ。上に向かって階段がある」


 私が見つけたのは、垂直の壁を伝って伸びた、人がひとり通れるくらいの幅を覆う蔦の壁だ。そこ以外は岩肌がむき出しで草一本生えていないのに。

 ごくりと息を呑んでまじまじと観察していると、【忌避】が作動する。これは毒持ちかな?

 触れることなく調べ、それからギルの見つけた通路らしき場所に移動した。

 見ればショーティーが子猫に戻って階段を上りだし、その後ろをギルが身を屈めてついていっている。


「大丈夫なの?」

「長い間、誰も使っていないらしい」


 吹き曝しの穴の底にあるだけに、枯草や土が入り込んで階段はいささか歩き辛い状態になっている。明かり窓も照明もない真っ暗な通路は、体感だけで上へ向かって続いているのだけは感じ取れた。

 先行していたショーティーが、不安げな声で鳴いた。


「……戻ろう。このまま先に向かうのは、明かりなしじゃ危険だ」

「はい」


 行けども出口は見えず、向かいから何かが来ても動けない。ここを進むのは、最後の手段にすることにした。


 穴の底に戻ってくると、ふたりと一匹はほっと息をついた。

 今度は、私が見つけた謎の場所を調べる。

 扉のような蔦が這う四角い壁。


「【毒素集積】【吸引】」


 毒を持つ細かい棘がびっしりと生えた蔦に手のひらを向け、鞄から出した空の瓶に毒物を集める。

 紫紺のどろりとした液体が瓶の中に満ち、代わりに蔦は褐色に変色した。


「【育成加速】【種子化】」


 むやみに枯らして排除するのは、私の主義に反する。できるなら種子にして保存する。


「凄いな……」

「薬師がだめなら、農産物の育成栽培に就こうかと思ってたくらいだから」

「これも異名のスキルか?」

「うん。有用な植物なら、毒を無効化して品種改良も考えられるの。……そう簡単には進まないけれどね」


 枯れて種子になった実を摘み取り、明らかに色の違う岩壁を眺めた。

 

「色が違うな……」

「確実に変よね」


 びゅうと強風が穴の中に吹き込み、私たちの背中を押した。


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