33話 私はこの世界を知りたいんです
じめじめとした湿気を孕んだ空気だ。
ここ数日は雲行きの怪しい日が続き、今日はまた一段と陽が陰り、鉛色の雲が空を覆っていた。
「入梅ですかね。 今日辺り、一雨来ますよ」
川辺に腰を下ろしたアイエスが、昼食にと収穫した熟れた赤いさくらんぼを川の水で洗いながら言う。
この場にいるのは騎士と自分の二人だけなので、ヴェールを外して金色の長髪と葉のような長耳を存分に晒している。
彼女が時々長耳をぴくりと震わせてることから、何かを捉えてるようだった。
「エルフの予報か」
「ええ。 川のせせらぐ音がちょっとずつ大きくなってます、この先では水位が増してるかと。 それに鳥の鳴き声も減ってるから、どこかに隠れたんでしょうきっと」
「ほう、覚えておこう」
「ではこれ、お先にどうぞ」
アイエスが騎士に歩み寄り、洗いたてのさくらんぼを差し出す。水滴を帯びたさくらんぼを、両手いっぱいに溢れそうなほど。
「……」
「どうしたんですか? 食べないんですか?」
「私に付いて来るのは勝手だが、お前は徒党でも組んだつもりなのか?」
「そ、そんなつもりではありませんが」
「ならばどんなつもりだ?」
問われたアイエスは言葉に詰まり、長耳がへにゃりと垂れる。
なんだかんだこの騎士は自分を傍に置いといてくれるが、それだけだ。心を開いてる様子はない。
ぞんざいにされないのは、些細なことであれ役立っているからだろう。
さっきの気象予報などが最たる例だ。
「今日はその、天気が良くないですね」
「それがどうした?」
「陽が射さないと、その鎧でも発火できないと思ったので」
「火がなくとも喰うには困らん」
「確かにそうですが……むぅ」
眉をひそませ、考え込むアイエス。
小さな両手を伝い、さくらんぼの水滴がぽたりと垂れる。
確かに自分は騎士を止めるつもりで付いて来た。そこに揺るぎはない。
しかし、どうせ世界を旅するのなら楽しい方がいいに決まってる。
この騎士だって今こそ頑な姿勢だが、いずれきっとわかってくれるはずだ。
「あなたを止めるだけではありません。 私はこの世界を知りたいんです」
「世界を……知る?」
「はい。 私と母はエルフの社会から追放され、以来ずっと息を潜めて生きてきました。 ですから、こうして世界を歩くのが楽しいんです」
「母親はどうした?」
「母は亡くなりました。 神官としては召されたと言うべきでしょうが」
「しかし愚かだ。 女一人で人間の領域に踏み込むなど、勇敢と無謀を違えるな」
「何を言いますか、危険のない冒険などありません」
「吠えるな、父親捜しなら止めておけ、どうせろくな顛末にならん」
「違いますよ」
リンと同じことを指摘され、アイエスはきりりとした凛然な眼差しで騎士を見上げる。
この話を聞けば誰だって同じことを思うだろう。
実のところ、アイエスだって気にはなる。
生きているのか、死んでいるのか、そもそも恋人の女に娘を託すなど真っ当な父親なのか。
いずれにせよ、それを旅の主題にしようとは思わない。
堂々とした語り口でアイエスは続ける。
「母は余り父のことを話しませんでした、私に前向きに生きて欲しいんだと思います」
「なぜそう思う?」
「だって、周囲に疎まれようが我が道を進み、きちんと私を育ててくれたんですよ? 母はいつも笑顔でした。 きっと毎日が楽しかったに違いありません、だから私はーー母の知りうる世界を知りたいんです!」
ここまで言ってようやく気付いた。
旅や冒険がこんなに楽しいのは、つまりはそういうことなのかとアイエスはようやく気付く。
自分は世界を見ることで、母と思い出を共有してるつもりなのだと。
ーーそっか、私は、母の思い出をこの目で見たかったんだ。
途端に胸が空くような感覚になった。
今まで漠然としてた心の高揚、その真意を悟る。
まるで砂遊びをしてる最中、思いがけず無くした宝物を掘り出したような気持ちとでも言おうか。
「そうか、ならばもう何も言うまい。 好きにするがいい」
「元より好きに生きてますよ。 で、さくらんぼ受け取ってくれますか? お近づきの印に」
「……ああ、いただこう」
騎士はアイエスの無垢な言葉に納得したのか、すっと己が手を差しだす。
彼女の小顔などつまめてしまえそうな、鋭く大きな手だ。
アイエスは黒兜を見上げるなりくすりと微笑み、小さく華奢な手に溢れんばかりのさくらんぼを手渡した。
騎士はさくらんぼを一つずつつまみ、面甲のスリットへ投じてゆく。
その様子を満足気に見上げるアイエスは、またぞろさくらんぼの木に向かい、実を摘み始める。
見上げた枝の隙間から曇り空を見上げるが、やはり鳥の数がいつもより少ない。
川の流れる先と雲の隙間から垣間見えた太陽、それらを見て、世界地図をイメージする。
ザックにしまってある、母手描きの世界地図だ。
国や都はまだ覚えてないが、地形や戦場跡地ならば記憶している。
そこで思い当たる。
「あの、このまま川を辿れば南に行きますよね?」
「そうだ。 食べ終えたら発つぞ」
最後のさくらんぼを食べ終えた騎士が、悠々とアイエスを見下ろしさらっと言った。
アイエスの心が躍る。
どうやら置いてかれない程度には、自分のことを認めてくれたらしい。
思わず頬が桃色に染まる。
「はい♪」
空はまだ雲が広がっている。
だけども途切れ途切れの雲の隙間から射す陽光がなんとも美しい。
降り注ぐ陽光がさながらカーテンのようで、これはこれで美しいものだとアイエスは空模様を楽しんだ。
食後、二人は歩きだした。
川を辿ってると次第に川幅が広がり、向こう岸が遠のいていく。
それに木々も増えてきた。
こうなってくると、魔物や獣との遭遇率だって上がるのが必然。
如何に騎士が覇者然とした威迫を撒き散らそうとも、逆に相手を刺激する可能性すら有り得る。
あえて言うならばーー今がその時だ。
「ここから先は奴らの縄張りのようだな」
「どうします? 迂回しますか?」
「ぬかせ、私は押し通るまでだ。 お前は好きにしろ」
「そう言われて、はい、そうしますなんて言いませんよ?」
騎士は吐き捨て、アイエスはふふんと鼻を鳴らして戦意を高める。
二人の周囲を囲う群れ、それは狼の群れだ。
とはいえ、その体躯はアイエスよりもずっと大きい。獣ではなく魔物の類だ。
体格を見るだけでも、膂力がわかろうというもの。
飛びかかられでもしたら、頭ごと食い千切られそうなサイズだ。それが二匹や三匹でなく、徒党の如く群れを成している。
狼どもの眼光がそこかしこで瞬き、唸り声が響く。
やがてどこかの一匹が遠吠えをした。群れの統率者だろう。
その咆哮は空気を震わせるより早く群れを鼓舞し、狼どもは一斉に牙を剥く。
陽の届かぬ鉛色の空の下、狩りの時間が幕を開けた。




