【中世ヨーロッパの衣服】番外編 服の売り買いと中世の色
今回は【中世ヨーロッパの衣服】の補足として、近代以前の服の売買と中世ヨーロッパの服の色について扱います。
現代では店の中に、決まったサイズの大量の既製品が並んでいますが、これは戦後になってから一般化したものです。
それ以前はオーダーメイドか、布から自作するのが普通でした。無論中古品である古着もよく利用されています。
近現代以前のヨーロッパも、上流階級はオーダーメイド、中流や下層階級は上流階級が手放した中古品を着たり、布地(古着を解体した古布を含む)を買って自作したりしていました。
このため一般人にとって、服屋といえば主に古着屋を指していたようです。
近世18世紀フランスが舞台の【傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン】でも、針子である主人公ベルタンは地方の古着屋で働いていて、首都パリの貴族や富裕層が売り払った古着を扱っています。
これらの古着はほとんどが流行の過ぎてしまった、いわば型落ちの服で、流行が移り変わる度に大量の古着が地方へ流れていったようです。
つまり、都市部の平民や地方の人間は貴族、富裕層のお古を着ていたわけですね。
とはいえこれは近世、近代の話で、布がまだ高価だった中世ではそうそう服を手放すことはなく、多くの人が僅かな服を幾度も手直ししていたそうです。
そしていよいよ修理不能なほどボロボロになると、キルトなどの素材にしたり、雑巾に再利用されたのだとか。
しかし貴族層はそうもいかなかったでしょう。
『不潔な、あるいは仕立ての悪い衣服はマナーに反するとされた。ノルマンディー公ロベールはイギリス王から装束を贈られたが、それにちょっとほころびがあるのを見て、公は憤って叫んだ。「ああ、余は何たる不幸を味わわされるのか! 心よこしまなるあの男は、余を雇い兵とみなしおって、古いほころびた布ぎれをお恵みにくれおった!」』(【中世への旅 騎士と城】89P)
なお中世前期、盛期の頃は布が給金の代わりになることがあったらしく、中世ジョージアの名君ダヴィド4世の王軍傭兵部隊も布や穀物の現物支給だったそうです。
貨幣が一般化する前の日本でも、布が米と並んで貨幣の代わりになっていましたし、その辺りは東西関係ないようですね。
(【応天の門】でも、絹の反物などがしばしば公家間の贈答品として登場する。大河ドラマ【光る君へ】では、盗賊が布や書物を盗みの対象にしていた)
さて話は変わって貴族や富裕層などのお古が、どのようにして古着屋に売られると思われますか?
業者を呼んで処分するということもあったかもしれませんが、基本的には勝手に古着が消えていくものだったそうです。
どういうことかというと、メイドが事後承諾で処分していたのです。
小さな破れやほつれのある服や、しばらく使われていない衣類を見つけると、これ幸いと古着屋に持ち込んで売り払ってしまうのだとか。
そして主人らには「破れてダメになっていたので」「虫食いがありまして」と誇張あるいは虚偽の報告をし、「こちらで処分しておきました」と事後承諾で済ませて、古着の売却金は懐に……という具合だったそうで。
そんな泥棒紛いのことを何故するのかというと、単純に給料の低さが原因でした。
メイドを始めとする使用人の給金は、生活費すら賄えない程低かったらしく、その補填として古着などの着服を行っていたそうです。
また雇い主の気分でクビになったり、年齢を理由にクビになることが珍しくなかったことも、使用人の横領を招いていたとか。
(年金も存在しない時代のため、老後も見据えて生きていくには、とにかく働けなくなる前に何でもして金を作り続けるしかない)
ニコニコ漫画に投稿されている【オランダ共和国 その2】でも、銀行を営む家の使用人が、『この服はまだ2回しか使ってないけどやぶれたことにして売ってしまいましょう』と言い出し、雇い主に対してしれっと『奥様、この古くなった服は古布屋へ引き取ってもらいますね』と大嘘を吐く場面があります。
まあ実は雇っている側も察していて、給料を低くしているのも「どうせこっちの所有物をパクるんだし」と考えてのことだったとか。
結果、雇う方は「着服するような奴らの賃金は低くていいだろ」と十分な報酬を出すのを渋り、使用人側は「生活出来ないから着服するしかない」となって、すると雇用主は「ほらやっぱり」と給料を一向に上げず……という悪循環が近代になっても続いたようです。
現代人からするとメイドは様々な幻想を抱く存在ですが、実際にはろくでもない連中がほとんどだったのです。
とはいえ彼女らも奉仕ロボットではなく人間であり、生活が懸かっていたわけですから、現代人の立場からあんまり文句は言えないのですが。
一方の既製服。欧米で既製服が一般化し始めたのは19世紀(1812年の米英戦争の米軍服から既製服の大量生産が始まったとされる)ですが、最初の既製服はおそらく近世後期頃の兵卒の官給軍服でしょう。
ヨーロッパ最強の陸軍国とされたプロイセン王国(現在のドイツ北部)の兵士の軍服は、スマートな見た目で評判でしたが、その形になったのは、出来るだけ安く作れるよう布地を節約した結果というお寒い事情があったからだとか。
(プロイセンの軍服の「プルシアンブルー」と呼ばれた鮮やかな紺青も、新開発された安価な染料の使用によるコストカットの結果)
更にこれまたコストを抑えるため、サイズを一つだけに限定したので、当然サイズが合わない兵士が少なくなかったのですが、「甘えるな、体の方を軍服に合わせろ!」という後に日本軍にも受け継がれる理不尽でごり押していたそうです。
兵卒は支給された既製服を着用していた一方、将校は自分にぴったり合うオーダーメイド(自腹)でした。
映画【ワーテルロー】の中でも、ウェリントン公がヘイ卿の軍服を見て、どこの店で仕立てたのか尋ねるシーンがあります。(そして「それに比べて……」と言わんばかりに睨まれる“モーニングコートの猛将”ピクトン中将)
漫画【大砲とスタンプ】では、主人公の中尉が自腹で注文した軍服を受け取り、雀の涙な給料からの手痛い出費に嘆く場面がありました。
(日本軍にも自腹での軍服仕立てや将校クラブの会費など、給料は高くないのに何かと金が掛かる様子を表した「貧乏少尉、やりくり中尉、やっとこ大尉」という有名な言葉があった)
ちなみに将校の軍服はオーダーメイドゆえに、各々の好みで細かいアレンジをする事も多かったそうな。
中世でのオーダーメイドは、仕立て屋ギルドに所属する職人や針子などの裁縫師達によって行われ、近世18世紀の後期には衣料品会社が存在したそうです。(最初の著名な衣料品会社は1770年のパリに誕生したらしい)
行商人も服を扱うことがあったそうで、行商人は仕立て屋から買い手に引き取られなかった在庫品を買い取り、それを地方に運んでいたのだとか。
なお衣服の大量生産が叶う19世紀以前のオーダーメイドにおいて、見本は絵のみでした。服のイメージ図を参考に注文するのですが、出来上がった実物を見た顧客が「気に入らない」として引き取りを拒否することもあり得たでしょう。
上記の行商人が買い取っていた在庫品も、そういった引き取り拒否や急なキャンセルによるものが含まれていたのかもしれません。
衣料品の売買から話は変わって、今度は服の色について。
上流階級と下層階級の服の差には、布地だけでなく染められた色にも現れていました。
より濃く鮮やかな色は富者の証である一方、そうでない人々は日光や水分で色褪せてしまう、レベルの低い染色がされた衣服で、大抵は色落ちして灰色がかった状態だったそうです。(鮮やかに染めるには布の漂白が前提であり、色落ちしない染色にはミョウバンなどの固着剤が必要)
使用できる染色の素材や技術の差によって、はっきりとした色合いが上品であり、薄い色は下品とされたわけですね。(当然低レベルの染色の余裕もない、麻や羊毛の繊維そのままな衣服を着た人々もいた)
そして更に布の素材によって出る染色の色合いや「スベスベ感orザラザラ感」の差も上等下等(紋章学的な象徴性も含まれる)の判断材料で、『中世の人々は素材・ 材料の質を判断するのに慣れていたから、手で触らなくても、どんな色の布地でも、一目でこの力を発揮できた』(ブログ【中世史の保管庫】色彩豊かだった中世ヨーロッパ)とか。
また中世ヨーロッパには、既にトレンドの色というものがありました。
『当時すでに流行色というものがあり、十三世紀には、これまではやっていた深紅色に代わって、青がもてはやされるようになった。深紅の染料は茜草の根から取っていたので、深紅の衰えは茜商人には大恐慌。それで彼らはこの新流行色の評判を落とそうとして、ほうぼうで悪魔の絵を青く塗らせたという』(【中世への旅 騎士と城】86P)
引用文だけだと赤が青に押されたように思えますが、実際には依然として赤は色の代表格であり続け、茜商人が危惧したような赤の凋落は随分と遅く、16世紀からと中世を過ぎた後だったようです。
『ところで、色彩にはすべて象徴的な意味があった。たとえば白は願いが聞き届けられる希望、また純潔を表し、緑は愛の最初の芽生えを象徴する。それに対して、赤はすでに激しく燃える愛、あるいはまた名誉欲や闘争欲のシンボルであった。青は誠実のしるし、黄は幸福をもたらす愛のしるし、そして黒は死のしるしであった。色彩のこのように象徴的な意味のうち、今日に残っているのは喪の色としての黒だけである』(【中世への旅 騎士と城】84P)
引用文のように喪服=黒のイメージは確かに強いですが、中世では黒とは限らなかったようです。
王族の喪服は白が多かったらしく、1393年のパリで行われたアルメニア王(亡命中だったらしい)の葬儀では、全員白衣を着用していたとか。
英国王室においても長い間白い喪服を伝統としていて、20世紀でも王族が白の喪服を着用する事がありました。
中世ヨーロッパの喪服は白以外に、黄色や黄褐色、菫色が一般的だったそうです。というのもこれらの色は、あまり良いイメージを持たれていなかったからだそうで。(詳細は後述)
しかし14世紀になると、黄褐色やスミレ色などが、上流階級の間でも積極的に取り入れられるようになり、「黒」も染色技術の向上で鮮やかに染める事が可能となったために、上品な色の一つとされました。
するとそれまでのネガティブなイメージが払拭され、黄褐色やスミレ色の喪服は姿を消していき、黒い喪服が現れていきます。
15世紀には、当時のファッションリーダー的存在であったブルゴーニュ公フィリップ3世が、先代の喪に服す間、黒の喪服を着用したことで、後に黒い服飾が広く受け入れられたのだとか。
とはいえ、その後も白や灰色の他に、白と黒の縞模様などの喪服も使用され、現在のように喪服=黒一色が基本となったのは近代19世紀からだそうです。
ちなみに日本も長く白い喪服(注:公家や武士の間では時代によって喪服の色はコロコロ変わった)を使用していました。
陰陽思想によって、“黒=ハレ。縁起の良い色、魔除け”とされた一方、“白=ケ。穢れのない神聖な色”とされ、冠婚葬祭の際に白が使われています。
白い喪服は古くは【日本書紀】の記述にもあり、平安時代後期から一旦公家の間で黒など様々な色の喪服へ幾度も移り替わったものの、紆余曲折の末に室町時代から再び白に戻り、明治に西洋式の黒い喪服が現れましたが、そのまま戦後頃まで白が一般的でした。
(ルイス・フロイスの記録にも「日本の喪服は白」とあるらしい。江戸時代は西日本が白の喪服、関東などでは染服が使われた)
死装束や白菊など、今もアジア的な「喪や死=白」の名残はありますね。
ヨーロッパに話を戻しましょう。ルネサンス期(16世紀頃)に入ると、先に書いた通り染色技術の向上で可能となった鮮やかな黒が大流行しています。
それまでの黒に対する悪いイメージから、現代でも存在している「上品で高級感のある色」というイメージが広がったのです。
黒が格好良い色と認識され、王侯貴族(参考例:フェリペ2世など)から中流階級(参考例:レンブラントの絵画に描かれた人々など)まで幅広く流行。
近代、更に現代になっても黒はシックなファッションとして肯定的に見られていますね。
先述したように、黒は中世において基本悪いイメージしかありませんでしたが、他の色にはポジティブなイメージとネガティブなイメージの両方が混在していました。
特に赤と黄色はネガティブに見られがちだったようです。
中世前半に流行した赤色でしたが、「良い赤」と「悪い赤」の両面が存在していました。
【中世史の保管庫】によると、赤は古代ギリシャ・ローマの頃から「残忍、血生臭い、劣っている」などの悪いイメージが付いており、中世になると悪魔の顔や地獄の炎を連想させる色(キリスト教論と結び付いた「白」の反対の色とされたが要因)として、裏切りや悪魔、嘘などの象徴とされたのだとか。(特に赤褐色は悪い色とされた)
このため、悪魔は赤い顔や赤みがかった体毛を持つ姿で描かれることが多くなったとか。
また赤毛に対するイメージも酷いもので、14〜16世紀には「赤毛の者には信頼は存在しない」と言われ、中世末には「道で赤毛の男にすれ違うのは悪い前兆である」「赤毛色の髪の女性は多かれ少なかれ魔女である」という迷信まであったとか。(赤毛は代表的な「悪い赤」とされていた)
もう一つ赤と並んで代表格でありながらネガティブイメージのある色が、黄色です。
なお黄色は紀元前から黄土やモクセイソウ科のReseda luteolaという植物から染料が作られていました。
上の方で書いた引用文にある通り、13世紀に青が流行しましたが、同じ頃に黄色の価格が下落し始めました。
それと同時に「偽りや虚言の色」とされてしまったのだとか。そのせいか13世紀以降、王族から平民まで黄色の衣服を着ることはめっきり無くなったそうです。
どうやら12世紀末から、キリストを裏切った“ユダ”を図像で表現する際に、衣服を黄色で描かれるようになったことが影響しているみたいです。(なおユダは赤毛など「悪い赤」で表現される事も多かった)
またキリスト教関連の版画の中で、ユダヤ人の服装に黄色を多用することも行われ、ついには実際にユダヤ人へ『識別可能な記号の着用』を強制した地域まで出たとか。
もう一つ黄色に「悪い色」のイメージが付いた要因が、「金の過剰使用」だそうです。
あらゆる芸術や標章、象徴などにおいて金や金箔が使われまくったことで、金色が「良い黄色」(紋章学においても黄色は金を意味する)とされた一方、それ以外の黄色は「金色の偽物=悪い黄色」となってしまったのでした。(偽りの色とされたのもそういう理由)
なお中世ヨーロッパで金色が好まれたのは、「美しいもの=純粋なもの」であり「純粋なもの=単色」として混じり気のない鮮やかな単色こそ至高とされたからです。(だから薄い色や別の色が混ざった色は下に見られた)
金色はその要素たっぷりの最高の色とされたのです。
それと喪服について解説した際に、黄色、黄褐色に続いてスミレ色も良くないイメージがあったと書きましたが、その理由は日光や洗濯で色褪せやすい色(鮮やかでない色)だったからでしょう。
鮮やか単色が正義な中世では、下品とされた色の一つだったわけです。
またローマの歴史家、大プリニウス(23~79年)曰く、ガリア人が奴隷の衣服をビルベリーから作られたスミレ色で染めていたそうなので、そのことも後の時代にまで影響したのかもしれません。
続いて「青」の話。
青は古代において、ケルト系やゲルマン系の民族が青い入れ墨を入れたり(戦闘前には染料で肌に青を塗りたくったという)、青い衣服を身に付ける事が多かったためか、ローマ帝国から蛮族の色と見られていました。
ローマ帝国崩壊後の中世前期になっても、青は目立たない地味な地位に甘んじています。
これが変わり始めたのは12世紀からで、フランスの中から急速に芸術分野へ広がり、キリスト教や聖母マリア、君主の色として扱われていきました。(中世の宗教画などを見ると分かりやすい)
13世紀になると実際に青を着用する王が現れ、現代でもある程度残る高貴の色としてのイメージも生まれます。まずフランス国王、聖王ルイ(ルイ9世。 1214~1270年)が初めて青を着用し、貴族達もそれに倣って青を多用するようになり、ルイ王の治世後半である13世紀半ばにはフランスの農民も大多数が青い服を着ていたのだとか。
無論、王侯貴族と農民の青には明確な差がありました。富裕層は輸入したインディゴやラピスラズリなどを使用した美しい紺色だった一方、農民の青は、自生しているアブラナ科のホソバタイセイを使った手染めであり、色は薄く、褪せて灰色がかったものでした。
14世紀に入ると青は民衆の愛する色にまでとなり、中世の絵などを見ると農民の外套などにも濃い青が見られます。
そして中世が終わった後の16世紀にはインドとの直接的な貿易ルートが構築されたことで、インディゴの輸入が安定。赤との競合関係から、赤を押しのけて色の主役へと進み出ました。
最後に「緑」ですが、この色は終始目立たない地位のままで、黄色よりマシとはいえ用いられることは多くなかったようです。
対照的にイスラム圏ではイスラム教を象徴する聖なる色とされ、宗教的=緑、世俗=赤という使い分けが行われました。
(このためオスマン帝国は、中世の頃は聖戦の意味で緑の軍旗を使い、18世紀に軍の近代化が始まると軍は世俗機関と見做されて、赤い軍旗を使用した)
なお中世ヨーロッパでは鮮やかな単色の他に、二色の組み合わせも大いに流行していたのですが、緑との組み合わせはあまり相手にされなかったとか。
(中世前期カロリング朝の時代から貴族の衣服で最も人気だった「赤と緑」の組み合わせすら、相手にされなくなったらしい)
特に「黄色と緑」の組み合わせは、決して隣り合わない二色として、当時の人からすると『「どこか攻撃的で、乱れていて、不安を感じさせる」「混乱,狂気,感覚と精神の乱れ」に映るのだった』(【中世史の保管庫】)そうです。
ともかく単色と並んで流行した二色衣装は、『“青と白”“赤と白”“黒と白”“赤と青”の取り合わせがこれまでにないほどもてはやされる。一方で“黄と赤”“黄と緑”“赤と黒”“赤と緑”の組み合わせは相手にされなくなる』ようになりました。
『洒落男がこの二色衣装を着るときには、できるかぎり左右別色のストッキングをはいたので、相当に珍奇で派手な姿とあいなった。真ん中で左右色分けされたこの服は「ミパルティ」と呼ばれ、とくに高貴な衣装とされたので、これの着用は、本来、騎士のみに許されていた』(【中世への旅 騎士と城】84P)
この洒落衣装は、後に道化などへ受け継がれているのだとか。
一方で縞模様や市松模様は、「価値を落とす要素」とされたそうです。その理由は中世の人々が“斑点”を嫌ったためだそうで、これは『「不純である種の動物性を帯びるもの」として、中世の人々の感受性は斑点のあるものを怖れていた』『「斑はつねに謎めいている,不純で人を賤しくする」ものとして受け取られていた』(【中世史の保管庫】)からだとか。
一昔前の囚人服のイメージといえば縞模様でしたが、その縞模様=良くないイメージも元を辿れば、中世ヨーロッパにまで遡れるのです。
またかつての欧米では「そばかす」を嫌う風潮がありましたが、その理由もこの斑点に対する嫌悪があったようです。(中世に嫌われた赤毛の人間に、そばかすが多い傾向も影響したらしい)
まあ紋章学になると話は違ってくるみたいですが。(百合の断面やオコジョの尾を斑点状に配置など)
以上で今回は終わりとします。
ファンタジーにおいては、色は魔物の素材や魔法でどうとでもなりそうですが、下層民は薄く灰色がかった色合いにしておけばよりリアルになるでしょう。
既製服に関しては、近世後期や近代をモデルとした世界であれば登場させられます。しかし基本的に現代の様な大量生産が出来ないことを念頭に置くか、魔法技術で何とかする必要がありますね。
魔法があっても、大正〜昭和前半辺りの日本のように、庶民は布から自作したり古着を用いていそうですが。
基本的に布も服も、作り上げるには手間や技術が必要なのですから。
主な参考資料
Wikipedia
【中世への旅 騎士と城】ハインリヒ・プレティヒャ
漫画【傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン】磯見仁月
ニコニコ漫画【オランダ共和国 その2】yokohama(pixivでは“オランダ共和国”マンガハックでは“横浜太郎”名義)
漫画【天駆け】(3巻おまけの喪服解説)空倉シキジ
ブログ【中世史の保管庫】(色彩豊かだった中世ヨーロッパ)(中世ヨーロッパの人々にとって「マイナスイメージ」を示す色と模様)




