【中世ヨーロッパの衣服】後編 長ズボンなんて無かった。あるのはタイツと見栄(※近世にも少し触れます)
※2024年3月20日一部追記
前編では10世紀頃~13世紀頃のヨーロッパの服装を扱いましたが、後編では14世紀~15、16世紀の中世後期及びルネサンス期を中心に解説します。
(日本では【逃げ上手の若君】の舞台である南北朝時代から、戦国時代前半辺りまで)
中世ヨーロッパの衣服は身体のラインが出ないものが一般的でしたが、中世後期になると少しずつ変化していきました。
まず14世紀から男女問わず衣服にくびれが見られ始めます。それ以前から紐やベルトで締めてはいましたが、それらに関係なく、服自体にくびれができるようになりました。
つまり、ゆったりとした服から身体にフィットする形の服へ変化し始めていったのです。特に足腰のラインがはっきりしたようです。
これには騎士がゆったりとした鎖帷子から、板金鎧やコート・オブ・プレートなどの身体にぴったりフィットする鎧を身に付けるようになっていった事も、服飾に大きく影響したのだとか。
……前編を読んだ皆様には予想できるでしょうが、当然聖職者などからは身体のラインがはっきりすることに「破廉恥だ! けしからん!」という批判が起こりました。
が、中世も後期になると、こういった服飾への批判は以前ほど顧みられなくなったようで、富裕層だけでなく中間層なども批判や規制を無視してオシャレを楽しむ人が多くなった印象を受けます。
(だからこそ聖職者が尚更声高に批判したと思われる。ただし女性服の長過ぎる裾丈に関しては、強硬な批判と規制によって、中世後期から末期には見られなくなった)
そして前編でも触れた「コタルディ」(大胆なコットの意)。14世紀の初めにイタリアで登場したこれは、“コット”という腕にぴったりとした長袖を持つチュニックの丈を膝や腰下まで短くしたもので、現代の衣服に近い形でした。
前編で取り上げた『「あのころ、人間の愚かさは嵩じ、若い男たちは非常に短い上着を着たので、恥部も尻も隠せなかった。しゃがまなければならぬとき、尻が丸見えになったのである。おお、なんと恥知らずなことであろう!」』(【中世への旅 騎士と城】89、90P)という年代記作家の嘆きも、コタルディへの批判とされています。
ただしそれは男性服の場合で、女性の「コタルディ」は上半身がフィットした形である一方、下半身は以前ゆったりとした丈長の裾に覆われていました。
いわば我々が想像する“スカートのあるドレス”に近付いたわけです。また細身でぴったりとした服であるため、脱ぎ着がしやすいよう襟ぐりが大きく開かれるようになり、肩や胸元を見せる後世の服の原型でもあったそうです。
この変化に加えて、中世後期は刺繍の発展による複雑な模様が登場しており、ヨーロッパにおける本格的な「ファッション」の始まりは14世紀から15世紀の頃に始まったと言えるでしょう。
まあ大きな変化が現れた上流階級と違って、農民などの男性服は中世前期か後期か関係なく、元より膝丈かそれより短いチュニックのままでしたが。
下層階級の女性服も年代関係なく膝下から脚首の丈のままで続いています。(ただし上流階級と違って、スリットを入れるなどの動きやすいものになっている)
一方で男性のコタルディが持つ欠点、現代の上衣と同じく下半身を覆えない短い丈故に、屈むと下半身のラインが見えてしまう(当時の下衣は現代と違って布地が薄く、タイツに近いもので、股間や尻のシルエットがはっきり出過ぎてしまっていた)問題に対応する、丈長の服も存在していました。
前編でも触れた「ウプランド」(垂れ下がる袖を持つゆったりとした踵丈の外套)です。ウプランドは大きな袖を持ち、この袖口や袖に飾り切りを入れる事が流行り、やがてこの飾り切りは騎士の陣羽織や貴婦人の被り物にも取り入れられたそうです。
そして14世紀は、ボタンを使った衣服がヨーロッパに広まっていった時期でもありました。
それ以前からヨーロッパにボタンそのものは存在していた(既に12世紀には文学上で確認出来る)ものの、現在のように服の前や袖を留める物ではなく、ただの装飾に過ぎなかったようです。中には服の至る所に飾りボタンを付けた代物もあったとか。
ボタンの使用が普及した事により、衣服をより身体にぴったりとする形に出来るようになりました。とはいえ女性服の左ボタンはまだでしたが。(女性服の左ボタンは17世紀に確立したとされる)
なお男性服のボタンが右側に縫い付けてあるのに対し、女性服のボタンが左側なのは、使用人にボタンを留めさせていたためです。また男性は腰の左に差した剣を右手で抜く際、左ボタンだとボタンが動作の邪魔になる可能性があり、そのせいで男性服のボタンは右側のみとなったとか。
【西欧の服飾(14世紀)】の英語Wikipedia記事【1300–1400 in European fashion】の画像と記述を見るに、袖口をボタンで留めるのも、14世紀には既に労働者階級の間で行われていたようです。
都市部を中心に流行したコタルディは、それまでのチュニックと異なる衣服として目立ちましたが、ボタンの広まりとも噛み合って、更に新たな服が姿を見せていきました。
それが「ダブレット」(英語)或いは「プールポワン」(仏語)と呼ばれたものです。本稿では日本語Wikipediaに合わせて「プールポワン」で統一します。
元は鎧の下に着る「ギャンべゾン」など、キルティング生地の布鎧(日本でいう「鎧下」)でしたが、14世紀を半ば過ぎるとプールポワンは男性の日常服として一般化していったようです。
プールポワンは胸部までボタンで留められる、もしくは完全な前開きの衣服で、15世紀には中に詰め物をするキルティング生地から、肩や袖の中に綿などを詰めて膨らませることで体格を大きく見せるファッションが生まれました。いわば肩パッドや肉襦袢の元です。
また、袖などに切れ込みを入れる事も流行していきました。(元はスイスで腕を動きやすくするための工夫。後に装飾として流行した)
これの行き着く先が、股間を厚い布や革で覆う「コッドピース」や、“パヴィアの戦い”(1525年)、“三十年戦争”(1618~48年)などで活躍した“ランツクネヒト”の奇異な格好です。
「コッドピース」は男らしさを強調するものだったそうですが、貨幣や菓子などの小物を入れておくポケットとしても使われたとか。……よりにもよって、そこに食べ物入れとくのはどうなんだ……。
またランツクネヒトのだぼだぼと膨らんだ袖と下着が見える程の過剰な切れ込みという格好は、三十年戦争時には「1世紀遅れた悪趣味な服装」と評され、更にはまだそういう流行が残っていた15、16世紀の頃さえやり過ぎと不評でしたが、彼らを組織した神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459~1519年)が「死ぬ前のささやかな楽しみぐらい、多めに見てやろうではないか」と擁護したのは有名な話です。
女性服の方に目を向けると、中世後期に男性服の丈が短くなっていった一方で、女性服の丈は相変わらず長過ぎるままだったようです。
しかし16世紀に入る頃には、聖職者の激しい批判と都市当局などの厳しい規制に怯んだのか、平安装束に対抗出来るほどの長過ぎる裾は姿を消していったのだとか。
『男の場合には服の短さがとがめられたが、女の場合は逆にその過度の長さが問題にされた。そのため一四二〇年の服装規定には、女のマントと服は床の上に引きずる部分を四分の一エレ(二〇センチ足らず)までにとどめ、袖とボンネットの垂れは地面に触れる程度にすべきことが決められている。──中略──ミュンヒェンではもっと規制がきびしく、引きずっていいスカートの長さはわずか指二本の幅と決められた』(【中世への旅 都市と庶民】57P)
ここまでは上着の解説が中心でしたが、ここからは下衣や履き物に入ります。
中世の足に纏う衣服は「ブレー」というショートパンツに似た下着的な物や「ショース」などストッキング型や股引に近いものばかりで、下衣というには短かかったり薄過ぎる代物でした。このため、上着の丈で下半身の上部(股間や尻)を覆い隠す必要があり、長い間丈長の上着や外套が一般的だったのです。
これが変わるのは中世を過ぎて16世紀、ルネサンス期に入ってからでした。スペインで生まれヨーロッパに広まった「オー・ド・ショース」と「バ・ド・ショース」の組み合わせ(英語では「Breeches」と呼ばれた)が、丈長の服で下半身を覆う必要性を完全に無くしたのです。
「バ・ド・ショース」は長い靴下のようなもので、「オー・ド・ショース」は現代の半ズボンに近いものでした。
童話などで描かれるような王子のスリット入りの膨らんだズボンの元ネタは、この「オー・ド・ショース」でしょう。というのも、ルネサンス期はタマネギ型やカボチャ型に膨らんだ形の「オー・ド・ショース」に切れ込みを入れるのが流行っていたからです。
17世紀にこの「オー・ド・ショース」は「キュロット」というシンプルな膝丈のズボンに発展し、1789年に始まったフランス革命を機に「サンキュロット」(長ズボン)が登場して19世紀に広がるまで、主流の下衣であり続けました。
ざっくり言えば、中世はタイツや股引程度の物しかなく、近世も半ズボンとタイツの組み合わせばかりで、現代の様な長ズボンは18世紀後半の近代初期まで存在していなかったということです。(オーギュスト・ラシネの【中世ヨーロッパの服装】でもズボンは確認できず、タイツと長靴下しかない)
中世や近世をモデルにファンタジーを描くなら、長ズボンは出さずに、ぴったりとしたタイツに止める方が無難でしょう。
続いて履き物ですが、中世のファッショナブルな靴と言えば、先の尖った嘴靴です。
『これは爪先が鋭くとがっており、足指よりもずっと前方へ突き出ているものも少なくない。この型を最初に作り出したのはフルコ・ダンジュー伯であったとされているが、彼は足指にできた霜焼けを隠すため、このように奇妙な形の靴を作らせたとのことである』(【中世への旅 騎士と城】88P)
1480年代まで流行が長く続いた嘴靴は、爪先に麻くずなどの詰め物をして靴の先を長くしたのですが、時代と共に長さは増して、遂には反り返った先端を足に結び付けて支える程に。中には先端などに鈴を取り付ける洒落者までいたそうです。
歩き辛くないかって? オシャレ狂いの洒落者にそんなことはどうでもよかったに違いありません。
何故なら近世に流行った「ハイヒール」もそうでしたから。
※(ただし嘴靴とハイヒールの間の15、16世紀は、「Duckbill Shoe」という爪先側が広い靴が階級関係なく履かれた)
ハイヒールの起源はよく分かっていませんが、ヒールのある靴は古代エジプトのサンダルやペルシャの乗馬靴が始まりとされるようです。
ヨーロッパでハイヒールが広まったのは、17世紀直前の1599年に、サファヴィー朝イランのアッバース大王が派遣した外交使節からイラン文化の一部が伝わったことがきっかけとされ、以後フランス革命まで上流階級の間で男女問わず大いに流行しました。
上流階級でハイヒールが男女問わず流行った一番の理由は、「歩きにくさ」だったそうです。何故歩きにくいという不便な点が流行の要因になったのかというと、「肉体労働をする必要のない権力者の象徴」となったからでした。
歩きやすい靴は労働者が履く物とされ、王侯貴族は“労働から離れた靴”を履くことで、「体を使って働く必要が一切ない立場」にあることを強調したのです。
(病的なほど白い肌が美しいとされ、瀉血までして肌を青白くしようとしたのも、日焼けした肌は労働者のもので白い肌は労働から離れた権力者のものとされたため。これは日本を含むアジアでも見られた感覚)
こういった史実を見るに、「最も労働に向かない靴」であるハイヒールを“働く女性の靴”とした戦後の風潮は、ちゃんちゃらおかしなものにしか見えませんね。そら「KuToo運動」の声が上がるのも至極当然ですわ。
最後におまけとして、寝間着とネクタイについて。
まず身も蓋も無いですが、中世に寝間着はほぼありませんでした。というのも布そのものがまだまだ高価な時代に、寝る時のためだけの服を揃える余裕など無かったからです。
一部ではあったかもしれませんが、基本は男女も階級も問わずに全裸で寝ていたことは当時の絵などで分かっており、寝間着が普及するのは16世紀になってからだとか。
なお富裕層以外は藁にシーツを掛けただけのベットに寝ていました。漫画【乙女戦争】でもそういうシーンがあります。一応防寒に下着を着たまま寝ることもあったようですが、どちらにせよ中々寒かったのではないでしょうか。
(【乙嫁語り】を見るに、毛皮を被って寝る場合では、逆に全裸で寝ないと自らの汗で冷えて凍死しかねないようである)
そしてネクタイ。ファンタジーでは何故か当たり前に登場する代物ですが、中世どころか近世にも近代前半にも無く、現代と同じ形のものが登場したのは19世紀半ば以降です。(つまり“黒船来航”の頃)
首に布を巻く文化自体は古代からありますが、だからといって中世風ファンタジーにネクタイを出すのは、あまりに乱暴であると言わざるを得ないでしょう。
一方でネクタイの元となったとされる「クラバット」は近世17世紀に広がったとされています。が、形は現代のネクタイと大きく違い、あくまでスカーフを首に巻いたものでした。
有名なエピソードとして、フランス国王ルイ14世(1638~1715年。通称“太陽王”)がクロアチア人傭兵の鮮やかなネックスカーフを見て、あれは何かと尋ねた際、傭兵の事を聞いたと勘違いした側近が「croateです」と答えようとして「cravatです」と誤って返答したことで、「クラバット」という名称が定着したという話があります。(真偽は不明)
ルイ14世がこのクラバットを自身のファッションに取り入れたことで、ヨーロッパ中にクラバットが流行。以降スカーフを首に巻くファッションが19世紀半ばまで続いたわけですが、ルイ14世以前はどうだったかというと、レースの入った広い襟やリボンが上流階級のトレンドでした。
更にその前のルネサンス期は、「ラフ」と呼ばれるスペイン発の大きな襞襟が富裕層に流行っています。英国女王エリザベス1世や戦国時代の日本に来訪した南蛮人も身に付けていたアレです。
なおクラバット普及以前のレース飾り(フリルを含む)は、主に権威ある男性の格好とされ、いかに細かい刺繍のフリルをどれだけ身に付けられるかが、上流階級男性のステータスとなったとか。
女性もフリルを身に付ける事があったものの、男性に比べれば圧倒的に控えめだったそうです。
以上で今回は終わりたいと思います。
中世とルネサンス期、近世も少し触れて解説しましたが、正直メインのファッションの大まかな説明に終始していたので、解説し切れていないところも多分にあると思います。
また注意するべき点として、現代まで詳細に史料が残っているのは主に上流階級のファッションであり、本項でもそちらが多くなって平民の服にはあまり踏み込めていません。女性服も取りこぼしが多いですし。
中世ファンタジーにおける服装を考えると、冒険者については魔物などから得られる皮革の他に、毛や糸などからの繊維を利用させて、ズボンなどのある程度近代・現代的な野外向きの格好をさせても良いでしょう。(黒インナーって良いよね)
中流以下の市民や職人なども、冒険者の動きやすい服装の影響を受けていそうです。ですが、上流階級や裕福な市民、農民については、近代的服装はリアリティのために避けた方が良いと思います。
いっそ近代ファンタジーと銘打ってしまえば、服装や技術云々はすっ飛ばせて楽になるかもしれません。
個人的には中世ファンタジーを名乗るならルネサンス期までの格好にしておいて、17世紀以降のファッションは近世風ファンタジーでない限りは採用すべきではないと考えます。
だって、髷を人に見られるのが全裸より恥ずかしかった平安や鎌倉時代に、烏帽子も被らずちょん髷を堂々と出していたり、戦国時代の武士が洋装をしていたら、皆様もおかしいと思うでしょう?
主な参考資料
Wikipedia 特に【西欧の服飾】(11ー12世紀、13世紀、14世紀、15世紀、16世紀)
【図解 中世の生活】池上正太
【中世への旅 騎士と城】ハインリヒ・プレティヒャ
【中世への旅 都市と庶民】ハインリヒ・プレティヒャ
【いぎりすとふらんすの服飾の歴史まとめ】そよご
https://www.pixiv.net/artworks/55641801
漫画【天駆け】(3巻おまけ)空倉シキジ
中世、近世の服装の参考になりそうなイラスト、動画
pixivイラスト
【14世紀の服装】Carlotta
https://www.pixiv.net/artworks/94621299
【若者の服装 (ルネサンス)】Carlotta
https://www.pixiv.net/artworks/93582965
15、16世紀辺りの服装がモデルと見られるイラスト
【VESPER】あらどん
https://www.pixiv.net/artworks/100239910
【500 years of Medieval Fashion】500年間の中世の女性服の変遷
https://www.youtube.com/watch?v=ZjsL6QTSW5I
(9、10世紀。平安時代後期。アングロ・サクソン人。→ルーシに移住したヴァイキング→11、12世紀。源平合戦前後。ノルマン人→1200~1250年頃。鎌倉時代前期→1280~1320年頃。鎌倉時代後期→1360~90年頃。南北朝時代→1390~1430年頃。室町時代前期→1430~60年頃。室町時代中期→1460~90年頃。応仁の乱と戦国時代初期)
【Getting dressed in the 14th century】14世紀の女性服
https://www.youtube.com/watch?v=Ibj7GsfsCpI
【Getting Dressed - Tudor Royal Household】チューダー朝(16世紀英国)のドレス
https://www.youtube.com/watch?v=_tMECKG3YK8&t=55s
英語Wikipedia記事【Cravat Regiment】より
https://en.wikipedia.org/wiki/Cravat_Regiment#/media/File:Kravat_pukovnija_Trg_sv_Marka_2_18102012_roberta_f.jpg
(クロアチアの儀仗部隊「クラバット連隊」の画像。三十年戦争の時代の軍服を再現しており、その名の通り、当時のクラバットも見える)




