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【中世ヨーロッパの衣服】前編 聖職者「足が見えるのはエッチだと思います!」


 宮廷舞踏会、社交の小ネタに続き、いよいよ筆者がかねてから声を大にして言いたいことに触れる時が来ました。


 実を言うと、本資料集の動機の一つが、ファンタジーにおける服装でした。

 騎士や兵士の甲冑(かっちゅう)板金鎧(プレートアーマー)一色というのと同じく、中世ファンタジーを名乗りながら、服装がやたら近代的というよくあるパターンに、自分はモヤッとしていたのです。


 特に多いのが「軍服」で(これも後に別項で)19世紀的な軍服が王侯貴族や騎士の服装として扱われがちなことに、常々思うところがありました。


 史実に忠実であるべき云々(うんぬん)ということを言いたいのではありません。

 乱暴な言い方をしてしまうと「ファンタジーらしい独特の格好にするならともかく、“中世”とか“中世風”などと名乗っておいて何故近代ファッションをぶち込んでしまうのか。それなら“中世風”とか言わず、素直にファンタジーだと言えばいいのに」と思ってしまうのです。

 (それらに比べると【結婚商売】や【ヌリタス】などの韓国発作品の方が、ずっと時代考証がしっかりしている印象を受ける。特に【結婚商売】は近代以前の婚姻制度の考証が凄いとする評価もある)


 言うなれば、スーツにメガネのビジネスマンなのに髪型がちょんまげ、バーに舞妓が居るといった「外国人が想像するヘンテコ日本」を見ているような「いや、そうはならんやろ」を感じてしまうのです。

 (魔法によって近代か現代並に技術が発展している、転移・転生者が色々広めたなどの、整合性要素があれば話は別)


 「ファンタジーらしい格好」は、ゲームキャラ的な服装(特にMMORPG)や海外のファンタジー映画に登場する感じといえば分かりやすいですかね?

 せっかくのファンタジーなんだから、現実にはない独特の格好もさせましょうよ!



 とまあ色々書きましたが、今回は中世ヨーロッパにおける一般的なファッションについて。“一般的”と付け加えたのは、当時奇抜(きばつ)な服装をする洒落(しゃれ)者もいたからです。

 本項は前編として、中世前期から盛期、つまり中世の前半を中心に扱います。


 突然ですが皆様、中世ヨーロッパの服を思い浮かべてみてください。

 はい、十中八九それは中世より後の時代の格好です。軍服やドレスをイメージした方も少なくないでしょうが、それは18、19世紀という近代に引っ張られてます。(中には「格好は近世風」と言っておきながら、どう見てもロココ様式やそれ以降の時代などの、近代に片足を突っ込んだ頃の服飾が登場する作品もある)


 実際の中世ヨーロッパの服装といえば、一にも二にも「チュニック」でしょう。11世紀(1000年代)には一般的となり、以後数世紀は「ブリオー」や「コット」など様々な種類のチュニック型の服が主流であり続けています。

 中世のチュニックは膝や時に足首まで届く丈長の上衣で、貴族クラスの物でも裾などに刺繍があるかどうか程度のシンプルなものでした。ビザンツ(東ローマ)帝国は例外的に華美でしたが。(ツイ4連載の【アンナ・コムネナ】が分かりやすい)

 (おおむ)ね庶民と貴族の違いは布地ぐらいです。

 庶民はリネンや羊毛など、富裕層はそれらに加えて上質な麻やアラビア、ギリシャからの絹など。特に裕福な貴族は絹が中心。また同じく輸入に頼った木綿も絹と同等の価値があったそうです。


 当時の人々にとってチュニック型の衣服は「ローマ風」、つまり“文明人の格好”だったそうです。事実「チュニック」の語源は古代ギリシャやローマの「トゥニカ」という衣服でした。正しく彼らにとって「文明人」としての格好だったのでしょう。

 とはいえ大元を辿ると、ケルト人やゲルマン人の長袖服を取り入れたもので、実際には「ローマ風」どころか「異民族風ファッション」だったそうですが。

 (ローマ帝国崩壊後、ケルトやゲルマン系民族などがヨーロッパを支配したため、ファッションの先祖返りともいえる。当人達は「ローマ式」と思い込んでるけど)


 中世のチュニックがどんな感じかを見るなら、有名作品としては【ヴィンランド・サガ】辺りが良いでしょうか。

 なおチュニックには、というか中世にはポケットが無かったので、人々はほぼ必ずハンドバッグやポーチを持っていたそうです。


 チュニックが主流だった時代、基本的にズボン(パンツ)のような下衣(ボトムス)は、人からあまり見えないようにするのが普通でした。

 何故なら「下着」扱いだったからです。


 上着(トップス)下衣(ボトムス)という現代で一般的な組み合わせは、古代ゲルマン人などが既にやっていた事ですが、ローマ人やギリシャ人はこれを下着丸出しな蛮族の格好とし、中世でもこの感覚が受け継がれたのだとか。

 更にキリスト教の禁欲主義的影響(というか大元は厳格なユダヤ教のせい)もあって、「足を見せるのはエッチ」的な感覚になっていたようで、聖職者の中には「服の丈を短くして足首がチラチラ見える」ことに破廉恥(ハレンチ)だと激怒する者もいたそうな。


 これには男性と違って女性には専用の下着が無かったことも大きな要因でした。女性用下着は割と最近の代物(日本の場合、大正どころか戦前・戦中でも一般的でなかった)で、世界的に女性は長い間ノー〇ンだったのです。(中世の下着は肌着として着る丈の短いチュニックとタイツのみ)

 女性用下着が無い時代はお尻と足の境が曖昧だったようで、漫画【ローズ・ベルタン】のコラムによると「足は尻の延長」という感覚が人々の間にあったそうです。……そりゃ足が見えるのはエッチなんて考えが生まれますわな。

 現代でもこの影響は国や地域によっては、ある程度残っているらしく、そのせいか欧米では足フェチの方が多いのだとか。


 このため、女性にとって素足を見られることは、胸を見られるより恥ずかしいとされたそうです。(足=尻の延長と考えれば、この感覚は当然とも言える)

 だから18世紀のドレスなど、胸元を大胆に見せる一方で、スカートが足を完全に隠すデザインが存在したのでした。


 中世ヨーロッパに話を戻しますが、女性のみならず男性であっても上着が足を覆っていないことは、下品とされたそうです。


『マインツのある年代記作者は、一三六七年に次のように嘆く。「あのころ、人間の愚かさは(こう)じ、若い男たちは非常に短い上着を着たので、恥部も尻も隠せなかった。しゃがまなければならぬとき、尻が丸見えになったのである。おお、なんと恥知らずなことであろう!」』(【中世への旅 騎士と城】89、90P)


※(中世では下着や肌着一枚などの状態も“裸”と表現しており、この「恥部や尻が丸見え」は現代人のズボン(パンツ)さえ含まれると思われる。現代人が中世に転移してしまった場合、下着丸出しの変態とされてしまう可能性が否定できない)


 どうも身体のラインが出てしまうのがアウトだったようですね。ゆったりとした丈長の服装でない格好、特にぴっちりとした服は中世ではNGだったわけです。

 ただその一方、女性は腰を紐などで締めて細腰を強調することは多々あったようです。足のラインが分からなければセーフということでしょうか。

 なお労働者や農民などは動きやすさ優先だったらしく、上流階級より丈の短い服が基本だったようで、これは騎士の従者らも同じでした。


『小姓たちは上着の短いことによって騎士たちと見分けられた』(【中世への旅 騎士と城】89P)


 その逆に、裾丈などを長くする流行が起きたときは、流行が過熱する様子を、聖職者や知識人、時には王までもが「奢侈(しゃし)、虚飾」(つまり無駄な贅沢)だとして激しく非難してもいます。


『下着、ズボン(ブルホオ)、ストッキング(ホゼ)をつけた上に上着が着られたが、これは紀元一〇〇〇年ころ、つまり騎士の時代の始まるころには(すね)の上までしかないのがふつうであった。その後しだいに長くなり、ついにその形、外観は貴婦人の衣装とほとんど異ならなくなった。そのような流行を苦々しく思う者もないわけではなく、ノルウェー王スヴェルレは、臣下が女みたいな衣装を着るのを嘲っている』(【中世への旅 騎士と城】83P)


 これは男性が女性と同じような格好をすることに対する拒否感だけでなく、贅沢が七つの大罪の一つである“傲慢”に当たるとして、「享楽的生活から道徳の乱れを誘発することで()の怒りを買い、疫病や災害、戦乱などを招く」という考えが影響しています。

 そして“奢侈禁止令”という奢侈(贅沢)を犯罪と見なして、衣服などへの取り締まりを行う法令も出されていました。

 (ヨーロッパだけでなく、日本を含むアジアでも、災いは贅沢やそれからくる秩序の乱れへの天罰であるとして、奢侈禁止令が度々出された)


 これらは単に道徳観から来るものではなく、「高価な輸入品」が大量に購買されることによる外貨流出への懸念や、貴族層と富裕層、特に女性の権力、影響力の増大に対する抑えという経済・政治的事情もあったのだとか。


『衣服の布地がほとんど高価な輸入品だった事情を考えると、必ずしも、単なる外国文化に対する拒否反応とはいえない』(Wikipedia記事【西欧の服飾 (11世紀-12世紀)】)


『裕福な商工業者たちは貴族たちの着るような高価な流行の服装を仕立てては、わざと自分たち流に着崩して身に着けていた。ひんぱんな贅沢禁止令は彼らブルジョアジーの度を越した贅沢に対する牽制でもあった』(Wikipedia記事【西欧の服飾 (14世紀)】)


『十二世紀末以降いたるところに顕著となった過度の衣装道楽のことを、年代記作家たちは嘆いている。教会や王たちは法令を出して奢侈(しゃし)に流れることを防ごうと努めているが、その対象は騎士だけではなく、市民や僧侶も含まれていた。お洒落狂いがはこびるのと並行して物価も上がった』(【中世の旅 騎士と城】96P)


 とはいえ衣服への規制を、富裕層が真面目に守る事は少なかったようですが。

 また12世紀に毛皮を二枚の布で挟んだ上着「ブリソン」が登場しているので、毛皮に金を注ぎ込む様子も問題視されたのかもしれません。


 一方で富裕層の女性服も 袖が大きくなったり、宝飾品などで飾られることも増えて、財産目録に服とは別個で記載されるなど装飾品として扱われるといった、男性服と同じく流行の過熱が見られました。

 中には観劇中に気付かぬまま袖を切り取られて盗まれる事件もあったとか。また大きな袖は、和服のそれと同じ様にポケット代わりとなっていたそうです。

 こういった大きな袖は婦人から思いを寄せる騎士への贈り物となったり、それを騎士が旗竿や槍、兜の飾りとして身に付けることもあったそうです。

 (騎士道物語(ロマンス)宮廷恋愛(ミンネ)の影響もあって、武芸試合(トーナメント)などの際、婦人から騎士へ衣服などを贈る行為や、逆に騎士の方から所望する行為はよくあった)


 当然そのような女性服への批判も存在していました。


『祝祭のとき、とくに舞踏のときには、婦人は「スヴァンツ」と呼ばれる引裾(ひきすそ)の衣を上着の上にさらに羽織るのであった。この引裾こそ評判の悪いもので、ある男は次のような激しい口調で嘆くのである。「婦人は身の後ろ一エレ(五十五ー八十センチ)以上も裾を引きずり、まことにみごとに罪を犯す。なぜなら彼女らは大枚をはたいて引裾を買い、貧しき者たちのなかなるキリストから略奪し(マタイ伝二五、三五ー四五参照)、(のみ)を集め、教会では信心ぶかき人たちの祈りを妨げ、(ほこり)を巻き上げ、そうすることによって教会を暗くし、香煙ならぬ(すす)を祭壇にかぶせ、聖所を埃で汚して冒瀆(ぼうとく)する。婦人らはまさにその引裾の上に悪魔を乗せて、うろついているのだ」。このように長すぎる裾を引きずる悪習に対しては、やがて教会も乗り出し、これの着用を禁止したのである』(【中世の旅 騎士と城】92P)


 13世紀には大きな袖の流行は廃れて、「シュールコー」などの袖無し上着(脇から腕を出して袖を飾りとしたものも)が流行りましたが、14世紀後半から再び「ウプランド」といった長い裾と袖のある上着が上流階級で一般化しました。

 このようにファッションの過熱は収まらず、同時に男女の服装はかなり似通っていったそうです。


『画面で男性と女性を見分けることは、ときとしてむずかしい。というのは、十三世紀も終わりになると、男女の衣装は非常に似てくるからである。もっとも男性の衣装が女性のそれに近づいたのであって、若い娘がブルージーンズをはいたり、()()()()セーターを着たりして若い男と区別のない服装をする現代の逆であったと言える』(【中世の旅 騎士と城】82P)


 とはいえ頭巾などの被り物(特に既婚女性は髪を隠すべきとされた)で区別は出来ました。農婦は「カーチフ」などを被り、貴婦人は平らな頭巾を(ほほ)から(あご)にかけて包む「ゲベンデ」という細幅の布で固定したり、ヴェールを被っています。(なおゲベンデはそこそこ窮屈だったらしく、会話する時は喋りにくいからと外すこともあったらしい)

 修道女が頭巾を被るのも「()に嫁いだから」既婚者と同じという理屈です。このため、髪を隠さないのは未婚女性(未成年)か娼婦であり、髪を晒すのは不品行と見なされる場合もありました。


 さて、先に書いたように男性服の丈が長くなると、それに合わせて女性服の方も差異を付ける為か、負けじとばかりに丈の長さが増しています。


『婦人の上着も長くなり、やがては、前を持ち上げないでは歩けないくらいになった』(【中世の旅 騎士と城】90P)


 しかし騎士の絶頂期が過ぎた14世紀頃には、騎士の立場が揺らいでいくのに合わせるが如く、男性服の丈は短くなっていきました。

 先程上記で引用した『若い男たちは非常に短い上着を着たので、恥部も尻も隠せなかった』というのも、この頃の事です。


 そして、イタリアで誕生した「コタルディ」(大胆なコット)や、それから発展した「プールポワン」(ダブレットとも)という、男性服としては現代の衣服に近い丈の上着も後に登場し、中世後期からルネサンス期を通じて、それまでの「中世の服装」から脱却していきました。

 この辺りは後編で扱います。



 続いて履き物について。

 まず靴下(ソックス)は存在していましたが、一部の富裕層のみが履いている程度で、大半の人々は足布というただの布を足に巻いていたようです。

 (バイキング時代の北欧などでは一般人も靴下を履いていたようだが、時代が進むに連れストッキング形に変化して高価になってしまったらしく、富の象徴にまでなった)


 また「Puttee」(巻きゲートル)という包帯形の布(中には脚絆(きゃはん)形の物も)を巻いて、足布や下衣の裾が何かに引っ掛かることが無いよう固定していました。

 画像としては、エドガー平和王(942年頃〜975年)の肖像や【バイユーのタペストリー】に描かれた人々の足に注目してみると良いかと。


 それと15世紀に作られた【ベリー公のいとも豪華なる時祷書】を見ると、貴族ではない人は脚絆(きゃはん)形のものを履いているのが分かりますし、農民は夏場の作業では汗や土で汚れるからか裸足で働いています。Wikipedia記事【西欧の服飾 (13世紀)】にある農民や労働者の姿も素足です。

 これは日本の農民が(ふんどし)姿で農作業しているようなものだったのでしょう。忙しいんだから恥ずかしいとか不埒(ふらち)だとか気にしてられるか! とか当時の庶民は思っていたんですかね?

 

 靴については、革が使われましたが、厚い靴底(ソール)が無いので現代の革靴とは大きく違います。言うなれば【ピーターパン】が履いている靴みたいな感じですね。

 中世の靴は革靴か木靴(下駄(げた)と同じく雨やぬかるみ対策で使われた)が基本で、革靴の多くは「ターン式製法」※によるものでした。


 ※(生地を裏返した状態で型に結び、その後生地をひっくり返して作る)


 靴底には硬めの革を張り付けており、木靴の方は日本の下駄のような歯を持つものも、かなり古くからあったようです。構造的には現代の靴よりサンダルの方が近いかもしれません。


 またバルト地域やフィンランド、ロシア、ベラルーシなどでは、“靭皮(じんぴ)”という樹皮のすぐ内側にある柔らかめの部分、いわゆる甘皮を編んで作られる、靭皮靴という草鞋(わらじ)に似た履物が近代まで使用されています。(ロシアでは「ラーポチ」と呼ぶ)


 最後に外套について。

 中世の人々はマントやクローク(マントによく似た袖無し外套)、ケープ(シャプロンという頭巾と一体化しているものが多かった)といったものを羽織っていましたが、王侯貴族や富裕層の物はその裏地などに毛皮を縫い付けていました。

 寒冷なヨーロッパに限らず、現代のような化学繊維の防寒具が無い時代、寒いときは基本的に毛皮や毛織物などを何枚も着込むしかありません。また毛皮は水が浸み込まないので雨具にもなります。そのためどこの国や地域でも毛皮の需要は高く、不安定な供給も相まって古くから高級品でした。


『日常もっとも一般的に使われた毛皮は、灰色の栗鼠(りす)の背皮であり、「灰色もの」と呼ばれた。もっとも高価であったのは、白貂(しろてん)やロシア産の黒貂(くろてん)であったが、その点は今日も変わらない。

 すでに見たとおり、住居のなかでもしたたかに凍えなければならなかったあの時代には、表か裏に毛皮のついた衣服は、非常に大事なものであった。「われわれが一枚の上等な貂の毛皮の服を求めるさまたるや、神様のお救いを求めるがごとくである」とある年代記作者は書いた』(【中世の旅 騎士と城】95、96P)


 王侯貴族が着用する毛皮のマントに黒い点か線が混じる白いファーが付いていますが、あれが(テン)、もしくはオコジョの毛皮です。本項の趣旨(しゅし)に反して近世後期になりますが、画像としてはルイ15世や16世といったブルボン朝の王族の肖像画が一番分かりやすいですかね。

 ちなみにオコジョの毛皮は紋章にも使われており、フランス北西部に存在したブルターニュ公国の旗などには、不思議な形をした黒い模様がありますが、これはオコジョの毛皮を紋章化したものです。

 

 なお当時のマントやクロークは、主に右肩の位置にブローチで留められており、現代のイメージと違って中央だけではなく右側で開く形になることが多かったようです。(ただし中世の絵などを見るに、物によってはポンチョに似た形もある)

 また、「フェイクファー」つまり毛皮に似せて作ったものを使ったマントも古くから存在していたらしく、“灰衣王”ハーラル2世(935年頃~970年頃。「灰色マントのハラルド」とも呼ばれる)の逸話にも「vararfeldir」という羊毛から作られるフェイクファーが登場しています。


 まだまだ解説し切れていませんが、中世前期から盛期のファッションについてはこの辺りで一旦終わります。書いておいてなんですが、一般的な中世ファンタジーとは全く合いそうにないですね。


 後編では、中世後期を中心に扱います。



【ワンドロスケッチその13】紫蘭 (イラストにおけるチュニックの一例)

https://www.pixiv.net/artworks/95926072


ヴァイキングの服装のイラスト。中世前期のヨーロッパ人は概ねイラスト“右側”に似たような服装だった

https://twitter.com/Ch_yukima/status/1363174889553756161


サイト【中世(前期)ヨーロッパの服装】

https://walk.happily.nagoya/medieval-britain/history-of-european-fashion_5th-to-11th-century/


【大義の残照】Legionarius (13世紀アンティオキア公国の姫と騎士。姫の服だけでなく足にも注目。ゲートルを巻いている)

https://www.pixiv.net/artworks/12295766


動画【Dressing up a 12th century lady】12世紀のドレス

https://www.youtube.com/watch?v=4Un5ipTjDms


【ベリー公のいとも豪華なる時祷書】

素足の農民

6月の絵

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Les_Tr%C3%A8s_Riches_Heures_du_duc_de_Berry_juin.jpg

7月の絵(左の農夫)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/be/Les_Tr%C3%A8s_Riches_Heures_du_duc_de_Berry_juillet.jpg


中世の脚絆

8月の絵(右端の人物。鷹匠?)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Les_Tr%C3%A8s_Riches_Heures_du_duc_de_Berry_aout.jpg

11月の絵

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/Les_Tr%C3%A8s_Riches_Heures_du_duc_de_Berry_novembre.jpg


【700年前に殺された人物の顔をリアルに復元、背が高く裕福で高位の男性】ナショナルジオグラフィック記事

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/082200433/

(スウェーデンで発見された「ボクステンマン」の記事。14世紀、1300年代でも、ヴィンランド・サガで描かれる11世紀の服装と大きく変わらない)



中世の楽師の再現

【Saltarello II - by Egoriy Veshniy - Medieval music】

https://www.youtube.com/watch?v=gM8NdLDczOk


中世の楽団の再現

聖母マリアのカンティガ(頌歌)。クランクハンドルを回す弦楽器は「ハーディ・ガーディ」という11世紀以前に生まれた古楽器

【TRISKILIAN- Fol é a desmesura (Cantigas de Santa Maria #149, 13. Jhd)】

https://www.youtube.com/watch?v=gfzcpLsXzO4

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