中世、近世の海 番外編③【艦砲】数百年間、一見変わらないようで随分変わった海の上の兵器
今回の追記は「艦砲」について。
古代から中世後期まで白兵中心だった海戦に、陸戦と同じく大きな変化をもたらした大砲ですが、その初期は本エッセイで何度か言及したように、高コストに見合わない低威力の代物でした。
“アルネマイデンの戦い”や“スロイスの海戦”など、中世14世紀には既に火砲が船に搭載される事例がありましたが、それらの戦いで艦砲が活躍したとの記録は存在していません。
初期の艦砲は、あくまで弓矢や弩などを補助する武装に過ぎず、上記の海戦においても、接近時に一発か二発放たれる程度だったことでしょう。
その後、鉄製の壺の様な代物だった初期の大砲から、やがて砲身と砲尾が分かれた後装式の大砲が登場します。
砲身の後部から弾を込める後装式というと、砲口から弾薬を装填する前装式より優れているかのように思えますが、実際のところ、当時の技術ではどっこいどっこいの性能でした。
『軽砲は、後装式で、石の弾丸を数百ヤードとばし、弩手の有効な附加物にしかすぎないものであった』(【ヨーロッパ史における戦争】77P)
『最初期の後装式艦載砲は砲尾周辺から火花を噴き出したが、そばに黒色火薬がある以上、惨事を招く危険性があった。砲手は火薬を空洞になった砲尾に入れ、砲弾を砲身に込めてから、発射の際に砲尾と砲身が離れないよう錘と楔で固定し、さらに祈りを捧げた。このように厄介な方法では、後の前装式大砲より再装填に時間がかかった』(【戦闘技術の歴史 近世編】312P)
アジアでは「フランキ砲」と呼ばれ、日本においては「国崩し」の名で知られる初期の後装砲は、ヨーロッパでは地上兵器としてより艦砲として使われることが多かったようです。
中世~近世前半頃の前装式大砲は、船上で装填するのに向いておらず(詳細は後述)、砲をほとんど動かさずに済む後装式の方が都合が良かったため、速射性が劣っていても後装式を採用したのでしょう。
しかし、当時の後装砲はその構造から大型化が難しい上に、暴発の危険もあり、更には製造も鍛造作業が多く手間が掛かりました。
そういった問題から、結局鋳型に溶かした金属を流し込む鋳造で、比較的簡単に作れる前装式の大砲が主流になっていきます。
『ヴァーサ号の艦砲は、イングランドの改革の失敗例に鑑みて、青銅で鋳造されていた。イングランドではより速く発射できる強力な兵器を求めた結果、錬鉄製の後装砲を製造するに至ったが、錬鉄の棒と鉄輪を鍛接して造る大砲は、発射時に圧力がかかると、楔で固定してあるにもかかわらず接合部が開き、着脱式の砲尾の周りから炎を噴き出した。海戦で後装砲が活躍する時代は、まだ先のことだったのである』(【戦闘技術の歴史 近世編】348P)
当時、素材と製造の両コストが低く抑えられる鋳鉄で造られる大砲もありましたが、強度に不安が残ることから、近世の艦砲は基本的に青銅製でした。(青銅より若干安価な真鍮で造られることもあった)
とはいえ銅など鉄よりも高価な素材を使用する以上コストが大きく、1759年の“キブロン湾の海戦”の頃になっても、捕獲した敵船から真鍮製の大砲が見つかったことを喜ぶ記事すらあるそうです。
『二世紀にわたり海戦で好まれた大砲は、可能な場合は青銅、そうでなければ強度に劣る鉄を鋳造した比較的頑丈な砲身・砲尾一体のもので、最大一四・五キログラムの砲弾を発射した。大きさがこれを超えるものは過去にも存在したが、この大砲はそうしたものに比べて発射速度が二倍以上で、精度も高かった。大砲を前に繰り出す滑車装置に改良を加えたことで、発射速度はいくぶんか上がり、ほぼこれと同種の大砲は、一八六五年の海戦でもなお使用されていた』(【戦闘技術の歴史 近世編】349P)
※(16世紀には64ポンド(約29㎏)の砲弾を放つ「フルカノン砲」もあったが、扱い辛いため後に最大は32ポンドの「半カノン砲」で落ち着いた。また真偽ははっきりしていないが、砲口径510mm、175kgの砲弾を装填できる15世紀の巨砲「モンス・メグ」は、スコットランド王ジェームズ4世のキャラック「グレート・マイケル」に搭載されたらしい。事実なら戦艦大和の46cm砲を上回る口径を持つ艦砲だったことになる)
とはいえ、構造が単純な鋳造砲であっても安全面の問題は中々解決できなかったようですが。
『この時代の大砲は、一七九五年以降のものでさえ、調子が不安定で正しく作動しないことがあり、敵ばかりか、味方の乗員にも危険であることが少なくなった。英語の慣用句に「Loose cannon(砲座を外れた大砲)」(何をしでかすかわからない人の意)というのがあるが、これは、砲座にしっかり固定されていなかった大砲が甲板中を転がり、その船や乗員が危険な目にあったという話に由来している。鋳造に問題があれば、砲身が破裂しておそろしい被害をもたらしかねず、実際にそうした事故も起こっている。一方で砲腔が正しく開けられていないと、高価な大砲も弾も行方の定まらない代物となり、効果を期待してつぎ込まれた経費にも、寄せられた信頼にも見合わないということもあった』(【戦闘技術の歴史 近世編】313P)
そして当初の前装式艦砲には、コストと安全面以外に、もう二つ大きな問題を抱えていました。
一つは砲身を支える台車、砲架の問題です。
スペインの無敵艦隊に装備された艦砲は陸上の砲に似て、二つの車輪が付いた砲架が使われていました。が、これは船上では扱いにくい代物でした。
『無敵艦隊の火砲に用いられた二輪砲架は照準に時間がかかり、発射の反動から船を守る対策もほとんど講じられていなかった。円形の砲門は狙いを定めにくく、浸水を防ぐために閉じることもできなかった』(【戦闘技術の歴史 近世編】338P)
一方、“アルマダの海戦”で無敵艦隊を破ったイングランド海軍は、4輪の砲架を使用しています。
『砲架に車輪を取り付けたことで、発射時も反動が大砲の後退運動によって吸収され、船材を傷めることがなくなる一方、砲手が砲尾の下にかませた木の楔を動かして、発射角度をあげることもできるようになった。さらに再装填用の滑車装置は、横から大砲の向きを操作することを可能にする。この型の砲架によって、イングランドは無敵艦隊との戦いで高い発射速度を示したのだ』(【戦闘技術の歴史 近世編】316P)
そして、当時の前装砲は船上で再装填することがやや困難でした。砲身が長過ぎることが多かったのです。
『敵船に向かって突進中のガレー船で、砲弾を再装填するなどまず不可能であり、敵船に十分接近して船首の大砲で砲撃を加えると、直ちに衝角攻撃して敵船に移乗し、マスケット銃や白兵で勝負をつけるのである。
こうした「一発戦術」は、後のフェリペ二世の海軍でも踏襲された。フェリペ二世の軍艦では、大小の大砲を陸上の野砲に使用するものと同じか、よく似た二輪の砲架に載せていた。──中略──スペイン軍は、長射程で速射がきく効果的な艦砲を熱望していたが、それはどこまでも現実のものではなかった。スペインの大砲はあまりにも砲身が長く、砲架は重く、口径も不揃いだったことが実現を阻んだのである』(【戦闘技術の歴史 近世編】334P)
砲身を伸ばすとその分、砲弾が火薬の燃焼ガスに押される時間が長くなり、より遠く、より真っ直ぐ砲弾が飛ぶようになるため、「砲身は長ければ長いほど良い」と考えられていました。
16世紀に運用された長砲身砲としては、「カルバリン砲」と「バジリスク砲」があり、どちらも平均全長が3~4mもありました。バジリスク砲に至っては「エリザベス女王のポケットピストル」(砲身長7.32m!)のようなあまりに長いものも存在しています。
しかし、砲身が長過ぎると、再装填の作業は非常に手間のかかるものとなります。揺れる船上や狭い砲甲板では、戦闘中の再装填など困難を極めたことでしょう。
このため、ほとんどの場合文字通りの「一発勝負」となってしまい、“アルマダの海戦”でもスペイン艦は遠距離からの砲撃が中々できず、接近戦を何度も試みています。(元々スペイン軍は当時の常識に則って移乗攻撃に重点を置いていたのもある)
対するイングランド海軍は、実戦や実験を繰り返す中で、『黒色火薬を用いる大砲では、砲身が一定の長さを超えると、それ以上に伸ばしても得るものは何もない』ということに気付き、スペイン軍の物よりずっと扱いやすい「長過ぎない」大砲を揃えていました。
故に“アルマダの海戦”で、接近するスペイン艦をかわしては一方的かつ素早い砲撃を行い、無敵艦隊を翻弄することができたのです。
とはいえスペイン側も自分達の大砲に問題があったことは承知していたらしく、改革に意欲的だったとか。しかし、そう上手くいかなかったようです。
『スペイン軍は、大砲の口径を標準化し、大砲によって異なる砲弾の種類を限定する試みでも、実のところイングランド軍より進んでいた。だがせっかくの試みも、無敵艦隊の規模があまりに大きく、軍艦や大砲の種類があまりに多かったために頓挫してしまう』(【戦闘技術の歴史 近世編】336P)
こういった大砲の標準化はいつの時代も難しかったようです。一定の標準化が為されたのは、“アルマダの海戦”から200年も後の18世紀のことでした。
フランスの砲兵士官ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルによって導入された、当時最良の砲兵システム「グリボーバル・システム」(とその前身となった改革)によって、雑多な状態から大砲の標準化がある程度成功したものの、それでも限界はあったそうです。
グリボーバル・システムによる標準化が行われてもなお、大砲の車輪の種類は20を超えていたとか。
これでは“アルマダの海戦”の前にスペイン軍が、大砲や砲弾の標準化を試みても失敗に終わったのは、無理もないことでしょう。
話は変わり、大砲を撃つために絶対必要な点火方法について少し。
艦砲を発射するためには、砲尾の点火口から点火薬へ引火させなければならないのですが、従来これには火縄を押し付ける方法が採られていました。
古くは極初期の銃と同じく火縄を直接持って点火していましたが(タッチホイール式)、16世紀以降は道火桿という火縄を巻いた2mほどの棒を使用するようになります。
道火桿によって大砲の反動を避けながら横から比較的安全に発砲できるようになったものの、火縄は常に火を保たねばならず、そのうえ他の火薬に引火させないよう慎重に扱う必要がありました。
そこで18世紀に、前装銃の点火方式であるフリントロック式(火打石の撃鉄による点火)が大砲にも導入されるようになります。
火縄を直接押し付けるそれまでの方法と違い、拉縄を引いて激発装置を作動させる新しい方法は、火種の扱いや引火事故を気にすることなく安全に発砲することができました。
『標準のフリントロック銃からフリントロックを取外し、カノン砲の砲尾に取付けると、安定した火花が発生して、発砲工程の信頼性が格段に向上する。つまり、火縄の消火や爆発事故の発生の危険性が解決できるのである。砲手長は、フリントロックを引いて充分に後退しながら引き縄を引くだけで、砲撃することができる』(PCゲーム【Empire total war】フリントロック式カノン砲)
19世紀に衝撃を受けると発火する起爆剤を詰めた“雷管”(パーカッション)が発明されると、撃発装置の仕組みは大きく変わらないまま、火打石から雷管を使用する「パーカッションロック式」へと移行しました。
(後書きに参考になりそうな動画URL有り)
ここまでは艦砲そのもの中心でしたが、当然ながら艦砲にも種類があり、その中でも特徴的で有名なものが「カロネード砲」です。
18世紀にイギリス陸軍が発案し、スコットランドのカロン社が開発したカロネード砲は、近距離用の短砲身砲で、砲の大きさと重量に見合わない強力な一撃を発射することができました。
砲身を短く分厚くすることで、射程を犠牲にする代わりに重量を抑えつつ大口径を実現したのです。
そのため、小型船にも重砲弾を撃ち出す大火力を具えさせることも可能になりました。
『カロネード砲は、発射重量の割に砲身が短いため、通常軍艦に装備される「長い大砲」とは異なる。砲身が短ければ、充填する火薬量が少なくて済む。──中略──砲身を短くすることによって、銃口速度の低下・反動の減少・武器の軽量化が実現する。カロネード砲の更なる利点は、砲員が少なくて済むことである。──中略──当時、カロネード砲は、射程距離が短いという弱点を余裕で補う発射重量を誇り、その開発は当初大成功であった。実際、小型船にでさえ68ポンドのカロネード砲を容易に搭載することができた』(【Empire total war】カロネード砲)
『通常、フリゲートは、12ポンド以下ぐらいの砲身の長い大砲で武装する。もっと重量のある砲弾で、至近距離から舷側砲を発射するために、短い砲身の64ポンドのカロネード砲を数台搭載することも可能だ。カロネード砲は砲身が短く、重量も同等の在来型の鋳造砲の半分なので、カロネード砲のみを搭載しているフリゲートのほうが優れている。──中略──英国海軍のグラットン号(1795年から軍務に就く)は、64ポンドカロネード砲と32ポンドカロネード砲をそれぞれ28門搭載していた。その砲弾の重量は、トラファルガー海戦で、英国海軍のヴィクトリー号が発射した砲弾より17%重かった!』(【Empire total war】カロネード砲フリゲート)
※(HMSヴィクトリーは104門の1等戦列艦。ネルソン提督の座乗艦及び現存最古の軍艦として有名)
カロネード砲は強力な火力を実現した一方で、射程をかなり犠牲にしているのですが(砲弾サイズにもよるが、長くても通常砲の半分以下になるらしい)、互いに接近して撃ち合う海戦においては大きな問題になりませんでした。
英国陸軍もその軽量かつ大火力という特性に目を付けてカロネード砲を導入したのですが、海戦と違い陸戦においては射程を犠牲にすることの悪影響は大きかったらしく、短い運用で終わったそうです。
(様々な都合で性能より兵器の機動性、軽量化に拘った日本軍でも、当初重量が過大とされた「九〇式野砲」を、長射程の利点が大重量という欠点を補って余りあると評価した)
また軍艦に搭載された砲の中には、対艦だけでなく対人専門の小型砲も存在しています。こういった小型砲は、基本的に高い位置から狙撃するものでした。
船上で高所から狙撃するとなると、手すりやマストの上といった不安定な場所に設置せざるを得ず、通常の艦砲よりも遥かに再装填が難しい作業になります。
このため15、16世紀には砲尾の脱着で済む後装式が中心でした。(中国の軍船でも16世紀に同様のものが運用されたらしい)
『この後装式ファルコネット砲は、対人殺傷兵器として用いられたことから「人殺し」と呼ばれた。三脚架や手すり上の旋回架に設置して、索具を扱う船員や櫓楼の狙撃手、漕手、船倉にいる敵の砲手らを倒すのである。必要とあれば、移乗してきた敵兵を倒すために、味方の船の甲板を掃射する場合もあった』(【戦闘技術の歴史 近世編】329P)
一方、16世紀以降の対人小型砲は前の時代より小型化された旋回砲や、手で抱えられるサイズの臼砲に似た砲が使用されています。
『砲弾や銃弾は、はるか頭上から降ってくることもあった。一八世紀の軍艦では、高くそびえるマストの上の砲座「戦闘楼」に、このクーホルン臼砲のような武器を置いて攻撃する場合もあった。戦闘楼から敵船の上甲板に向けて射撃や砲撃を浴びせ、航行不能にさせることもあれば、将官を狙い撃ちして「首をとる」こともあった。一六五三年、マールテン・トロンプはこのような砲弾によって命を奪われ、後にネルソンも同様の砲弾に倒れることになる』(【戦闘技術の歴史 近世編】355P)
なおエッセイ漫画【軍艦無駄話】によると、フランス海軍が近代になってもマストの上部に小口径砲を積むこと(ミリタリー・マストという)に拘ったのは、ネルソン提督を狙撃した戦例によるとか。
『仏軍艦「そうかあ?」』(【軍艦無駄話】 ※wikiによると狙撃ではなく水雷撃退用らしい)
ざっと艦砲について解説しましたが、次回はここで書こうとしたら少し長くなってしまった「砲弾」を扱います。
主な参考資料
Wikipedia
【戦闘技術の歴史 近世編】共著 クリステル ヨルゲンセン、マイケル・F. パヴコヴィック、ロブ・S. ライス、フレデリック・C. シュネイ、クリス・L. スコット
PCゲーム【Empire total war】
※おまけ
動画
【War Scene 6# - Sahara - Ironclad - Intro】映画「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」より南軍装甲艦テキサスの戦闘シーン
https://www.youtube.com/watch?v=rlJFd162Z7s
19世紀、南北戦争におけるパーカッション式の撃発装置は1:35~。前世紀のフリントロック式砲も似たような形式だった。
【How much Damage can this 18th Century Cannon Do?】18世紀の4輪砲架大砲(艦砲や要塞砲として運用されたタイプ)の実射
https://www.youtube.com/watch?v=WSXaCkQ9sF8
【Naval Guns (1400 to 1650) - Things that make you go Boom】中世後期から近世前期の艦砲についての英語動画。英語が分からなくても、大砲や帆船の画像は当時を知る参考になる
https://www.youtube.com/watch?v=loldlSJ4k_8
【【大砲】実際に撃ち合いで沈没する船はなかった!?【大航海時代】】
https://www.youtube.com/watch?v=QYBmd3INV_k




