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わたしの記憶と、私の夢


  *


 ──気付けば、夢を見ていた。


 ノイズ混じりのような霞んだ視界、掠れた音。これは夢であると直ぐに理解した。この『わたし』は、私では無かった。似ているが違う記憶、知っているが異なる風景。そんな事象を、私ではない『わたし』を通して、私は見ていた。


 古ぼけた狭い部屋。見慣れない家電、安っぽくレトロな家具。恐らく私が産まれるよりも前の時代の残り香が濃厚な、そんな空気。


 マンションか何かの一室らしい狭い空間に、わたし達は居た。分厚いカーテンで閉ざされた窓、画面の割れたテレビらしき機械、線が切られ投げ出された電話、点かない照明、空っぽの冷蔵庫、乾いた蛇口……。


 ──わたしは、泣き続ける赤ん坊を腕に抱きながら、妹と身を寄せ合い毛布に包まっていた。


 弟である赤ん坊の声は枯れていて、流れる涙を妹が指で掬って舐めている。痩せた手足は枯れ木のようで、弟がもう長くはない事は明白だった。


 おなか、すいたね、と妹のぽつり漏らした言葉に、そうだね、とわたしは無機質な声を返す。


 あれからどれぐらい時間が過ぎたのだろうか、見上げても電池の切れたらしい時計は動かないし、カレンダーは先月から捲られていなかった。長い間何も食べていない所為で、身体はすっかりおかしくなっていた。頭はぼうっとし、全身が怠く、腸が満足に動かなくなり、まるで金属が詰まっているかのように腹が硬く重かった。


 私の中の『わたし』の記憶が、後から知ったであろう情報を断片的に補足する。


 ──突然蒸発したパパ、借金取りに怯えるママの顔。心が壊れてわたしを殴るママの掌は火傷やあかぎれだらけで、やがて化粧や服装が派手になったママは余り部屋に帰らなくなった。


 そんなある日、久し振りに笑顔のママが沢山のご馳走を抱えて帰って来て、みんなでお腹いっぱい食べてママと一緒に眠って、……起きたらママは居なくて、部屋の扉や窓が開かないようになっていた。


 そこからは、地獄の始まり。


 しばらくは電気も水も通っていたが、やがて食料が底をつく頃に電気が止まり、水を飲んで飢えを凌いだ。冷たい水の感触が胃の形を意識させ、自然と冷える身体を寄せ合って寒さを凌いだ。


 最初に力尽きたのは当然ながら弟だった。体力の無い小さな弟は、わたしの腕の中で冷たくなっていった。


 今は眠っているだけに見える弟も、やがて腐り始めるであろう重みにわたしは戸惑いを覚え、そして空腹がわたしに悪魔的なアイデアを授けたのは、ごく自然な流れだったのだろう。


 何してるの、と驚く妹の台詞を無視し、わたしは包丁で弟の肉を削いだ。ガスはこうなる前から止まっていたので、切っただけの肉を皿に並べる。汚れ防止に敷いたゴミ袋に溜まった血もコップに集め、わたしはそれらをテーブルに載せた。


 妹は、泣いていた。わたしは努めて明るく笑い、手掴みのまま肉にかぶり付いた。酷く不快な味がしたが、黙って咀嚼する。調味料があればましかも知れないと塩を持って来て妹に渡すと、彼女は顔を背けて本格的に泣き出した。


 生肉は噛み切りにくい事を初めて知ったので、次に食べる時はもっと小さく切ろう、とわたしは塊を何とか飲み込みながら思った。妹はむせび泣きながら、胃液でどろどろになった紙をゴミ箱に吐き戻していた。


 人の慣れというのは恐ろしいもので、時間が経つにつれ頑なだった妹の心も麻痺していった。彼女は顔を歪めながらも、弟の血を飲み肉を喰らった。偶然見付けたライターで炙ったのも功を奏したのかも知れない。


 そしてわたし達は、小さな弟を食べ尽くし、また空腹に耐える日々に突入した。


 わたしより年下の妹の衰弱は日に日に加速してゆく。わたしは何か無いかと鈍い頭で思考し、そして再び悪魔がわたしにアイデアを与えた。


 わたしは意を決し、自分の太腿に一番切れそうな包丁を宛がった。何かの本で見た通り、切る場所より上の部分を電気コードできつくきつく縛ってある。いざとなって少し怖くなったわたしは、力無く横たわるだけの妹をちらと見、勇気を振り絞って足に包丁を突き刺した。


 不思議と、痛みは薄かった。血を止めていた甲斐があったのか、痺れるようなこそばゆい感覚の向こうにはっきりしない痛みがジンと身体の芯に響いて、わたしは冷や汗と呻きを垂れ流す。当然ながらスパッと綺麗に一撃で、なんてことは不可能で、わたしはノコギリのように包丁を動かし、時には包丁から大き目の鋏に持ち替えながら脚を切断しようと試みた。


 血がドクドクと溢れてきたので、ライターで炙りながら作業を進めた。傷を焼く行為は切った瞬間よりも余程わたしの神経を刺激するらしい。わたしは全身を震わせつつ吠えるような苦悶の声を上げ、じっと痛みに耐える、そんな事を繰り返した。


 ようやく繋がっている部分が太い骨だけになった解きには、既にわたしは息も絶え絶えになっていて、身体を横たえながらビニールの上に溜まった血を啜って渇きを癒やした。少し喉が潤ったことで気力を奮い立たせたわたしは、部屋に転がっていた傷だらけの黒い受話器で骨を何度も我武者羅に叩いた。無我夢中で繰り返してようやく骨が折れた時、脚を自ら切り落とした達成感にうち震えた。


 刃こぼれだらけになった包丁で肉を切り、衰弱した妹に沢山食べさせた。水分も必要だろうと血も飲ませると、彼女は虚ろな瞳でわたしに微笑んだ。


 おねえちゃん、ありがとう。──それが彼女の最後の言葉だった。


 それから幾らかの時間の後、大量の赤黒い反吐を撒き散らして彼女は死んだ。わたしは妹の吐瀉物を啜り、腹を満たし眠った。


 それからの事は記憶が曖昧だが、半死半生のわたしが見付かった時には、妹と弟の頭蓋骨を大事そうに抱えていたという。


 このショッキングな事件は大いに世間を沸かせ、プライバシーも何も関係無く様々な情報がワイドショーで垂れ流された。わたしはママが男と心中していた事を病院のテレビで知り、しかし何の感慨も抱けなかった。


 わたしはパパの両親とかいう人に引き取られたが、とにかく酷い虐待を受けた。弟妹を喰ってまで生き残った食人鬼と蔑まれ、人として扱われず、わたしはその家を逃げ出して路地裏で暮らすようになった。


 ──そんな檻、わたしはあの人に出会った……。


 ……『私』の視界が揺らめいた。わたしの見上げた『あの人』の輪郭が逆光に浮かび、差し出された手の甲に刻まれたタトゥーだけが鮮明に映る。


 そこまで知覚した瞬間、その人物がわたしではなく、『私』を、視た。シルエットのままの人物は舌打ちを零すと指を鳴らす。


 途端、『私』の意識が夢からはじき出されたかの如く急速に浮上する。


『──失せろ。組織の犬め』


 『私』の意識が『わたし』の記憶から閉め出される最後の瞬間、苛立たしげに吐き捨てたその人の声が、──酷く、耳に残った。


  *




ネグレクトからの凄惨な事件の記憶。書いててとても楽しかったです。

妹が「紙を吐き戻す」というのが個人的なこだわりポイントでした。

それでは次回も、乞うご期待なのです!



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