少女の祈りと、凪ぐ心
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ドーラ・チャン・ドールが眞柴特殊探偵事務所の所長マシバ・カラハに初めて出会ったのは、つい先日、組織の応接室での事だった。
生まれた時からドーラは、その身に異能の力を宿していた。誰からも気味悪がられ、また便利な道具として扱われてきた。家族からは物心付いた頃から虐待を受け続け、やがて売られた病院や研究施設ではモルモットとしてありとあらゆる事を試され、用済みと押し込まれた施設では奴隷同然に酷使されてきた。そこにはおよそ、人権だの尊厳だのという物は存在していなかった。
運良く組織に保護されて数年──。ドーラは心身のケアを受け人間らしい感性を取り戻すと同時に、最低限必要な基礎的教養と組織の一員としての知識などの教育、そして術士や能力者としての訓練を手厚く施されてきたのだ。
それらの行程が全て終了した十八歳の春、ドーラは独り立ちして組織に恩返しする事を選択したのだった。
──運命のその日。
出向先が決まったとの事で、僅かばかりの手荷物を纏めたドーラは担当教官のシルヴァに付き添われ、緊張した面持ちでソファに浅く腰を掛けていた。
どのような仕事場だろうか、どのような上司だろうか……などという不安はあったものの、過去の苦しみや地獄を思えば幾分か心は軽くなった。私は何処でもやっていける──そんな後ろ向きな自信がドーラにはあった。
しかしそれと、緊張するしないとはまた別の問題だ。そわそわと落ち着かなげに待つ事数分。その時はついにやって来た。
約束の時間の二十秒前、その人は軽いノックと組織の担当者に続き部屋へと入って来た。
その人はとてもセガ高く、そしてその人の漆黒の瞳は、真っ直ぐにドーラの銀の瞳を見詰めていた。
横に退いた組織の担当者と一度アイコンタクトを交わし、牙を見せてニィッと笑った黒尽くめの彼は、手袋を外しながら軽快な雰囲気で挨拶を述べる。
「えれェ別嬪の嬢ちゃんだなァ。聞いたぜ、凄ェ能力持ってンだって? ──俺は眞柴特殊探偵事務所の所長、マシバ・カラハだ。これから宜しくな」
そして彼の右手が動き差し出されるその前に、ドーラは音も無く立ち上がると、す、と深々とお辞儀をする。
「──この度は、私を身請けして下さり有り難うございます。ドーラ・チャン・ドールと申します。これから宜しくお願い致します」
その口上に、息を飲む音が、聞こえた気がした。
言い終わりゆっくりと顔を上げたドーラの瞳に映ったのは、──笑みを消し唇を真一文字に引き結び、差し出そうとしていた右手を震わせながら握る、カラハの姿だった。明らかに先程から一変したその態度に、さっと血の気が引く。
私は、何か、まずい事を言ってしまったのだろうか……? ドーラは内心で焦燥にかられつつ、表情を強張らせカラハを見上げるしか術が無かった。
カラハは苛立たし気に舌打ちを一つ零すと、腕を組んで押し殺した声を漏らす。
「……おい、シルヴァ、ナユタ。……この嬢ちゃんに『身請け』なんて言葉教えやがったのは何処のどいつだ!?」
そして鋭い視線で交互に二人を射貫いた。ナユタと呼ばれた組織の担当者──アラタ・ナユタ開発副部長は、呼び捨てに怒るどころかオロオロと慌て、カラハを宥めるような態度を取った。
「少なくとも僕じゃないよ、カラハ。でも多分、言葉の綾ってヤツだし、そう目くじら立てなくってもさ……」
「立てるだろッ! 今時身請けって、遊女や奴隷じゃねェんだぞ!? 冗談にも程があらァな! 俺はこいつを助手として雇うんであって、買う訳じゃねェんだ! 失礼だろ、俺にも、こいつにもよ!?」
そして二人の遣り取りをぽかんと見上げるドーラの頭を、無意識にか大きな手でワシワシと撫でた。次いで睨まれたシルヴァは肩を竦めると、呆れたように口を開く。
「そんな事言いそうなのは、クレル医務室長かしらね? あの人、口が悪いというか、露悪趣味だから……」
「あー、あの小っこい先生か。有り得るな」
苦虫を噛み潰したカラハの表情に事態を飲み込めず、ドーラはされるがままに立っていた。その心を、ただ驚きが満たす。
──この人は、私の為に、私なんかの名誉の為に、腹を立ててくれているのだろうか。私を一人の、一人前の人間として、扱ってくれている……? ──そんな経験は、物心ついてからほぼ無いに等しかった。ドーラにとってそれは、初めてとも言うべき体験だった。
「とにかく無駄かも知んねェけど、言葉には気を付けろってアイツに言っとけッ! ……て、すまねェな嬢ちゃん、怖がらせちまったか」
そうしてカラハは、再び親しげな真っ直ぐな瞳で銀の目を覗き込んだ。ふるふると首を振り、ドーラは伸ばされた手を、呆然と握った。
途端、ふわりと身体を浮遊感が包む。引き寄せられ抱き上げられたドーラは目を白黒させて顔が熱くなるのを自覚する暇さえない。カラハは片腕にドーラを、もう一方でドーラの荷物を手に取ると、そんなドーラの様子に楽しそうに、心底楽しそうに笑った。
「あ、あの……? えっと……」
「──所長だ」
「え、え、え」
「所長。俺の事はそう呼べ、──助手?」
「あ、あ、……はい、所長!」
「良い返事だ。それでいい」
まだ状況に頭が付いて行けずあわあわするドーラを尻目に、カラハは顎で扉を開くよう示すと、ナユタ開発副部長はやれやれと肩を竦めドアを開け放った。
「またなァ、シルヴァ。──ナユタ、タクシー呼んでくれるか?」
「うん、判ったよ」
「じゃあ元気でね、ドーラ」
慌ただしさにも動じず平然と笑顔で手を振るシルヴァに、あわあわとドーラは抱き上げられたまま慌ててペコリ頭を下げた。
カラハの肩の上から見る景色は今までで初めての光景で、ドーラを抱き上げるカラハの腕はとても温かくドーラには思えて──。何故か、胸の鼓動が高まるのをドーラは感じたのだった。
*
ドーラが深いまどろみからふと目を覚ますと、ぼんやりとした薄闇の中、カラハがベッドに腰掛けて紫煙をくゆらせていた。
時計に目を遣ると、思ったよりもそう時間は経ってはいなかった。ドーラはゆっくりと身体を起こし、カラハの背中にそっと身を寄せる。
「所長、…起きてたんです?」
「目、覚めたのか。……別に、たまたまだよ、ずっと起きてた訳じゃねェよ」
そして遠くを見ながら煙草を吸い込む。静かな時間が部屋に流れる。カラハの背中は広くて大きくて、その温かさにドーラはそっと頬を寄せ睫毛を伏せる。
なーお、と何処かから声が聞こえる。ベッドの下から這い出て来たカゲトラが、ひょいっとベッドに飛び乗りドーラの膝に擦り寄った。嬉しそうにドーラがカゲトラを抱き上げると、満更でも無さそうにカゲトラもまた身を委ねる。
柔らかな沈黙に煙草を揉み消すと、カラハはドーラの頭をくしゃくしゃと撫でる。そしてカゲトラごとドーラをひょいと抱きかかえると、そのままベッドに横たわった。
「んん、もっぺん寝るか」
「はい、そうですね」
カラハの腕の中で瞳を閉じる。背中と胸の内、二つの熱がドーラの心を穏やかに包み込む。
秒針の音に重なり、静かな寝息が聞こえ始める。ぬくもりが心を侵食する。
幸せを怯える強張った気持ちはもう、溶かされ初めていた。願わくば、この幸福な瞬間が出来るだけ長く続きますように──そう思いを乗せた吐息は、祈りにも似て。
暖かな闇に、意識は溶かされて。ドーラはゆっくりと、惜しむようにゆっくりと。
──まどろみに、落ちていった。
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