【1-36】前線都市ファルエル グレイ家 封じられた書庫 / 罰無き世界
シャラたちは、嵐の後の凪の空みたいに静まりかえった書庫兼実験室で半ば呆然と立ち尽くしていた。
フィーラは既に完全に姿を消し、気配の欠片すら感じられない。
「何だったんだ、ありゃあ……」
「えっぐいプレッシャーやったわ。チビるか思うたで。
妙な魔法使っとったな……」
こんな場所に竜王が現れ、予言めいた言葉を残して去って行くなんて。
白昼夢のような出来事だった。
しかし夢ではない証に、シャラの手には漆黒の鱗が存在する。
「これで本当に奴と戦えるのか?」
ヴァルターは半信半疑の調子で、鱗を摘まみ上げてみる。
「分からないけれど……すごい力があるのは間違いない。
死体から剥ぎ取った触媒素材では絶対にあり得ないような、逆鱗にビリビリ来る感じ」
「喩えがよう分からへんわ」
「とにかく、こいつが本当に効果あるなら目的は達成だが……この部屋にはなんか無いんだろうか。
鱗も三枚っきりじゃ頼りねえし」
「そもそも何やねん、ここ」
マイアレイアは本棚を眺めて顔をしかめる。
「何や、この文字。ウチ、ドラゴンの文字やったら読めるねんけど……こらちゃうで。
もちろん人のもんともちゃう」
「方言とかじゃないのか?」
「まるっきり見た事ない文字ばっかりやねん。ありえへんやろ。暗号やろか?」
マイアレイアが言った通りで、並んだ本の背表紙に書かれたタイトルは、どれもこれもシャラの知らない……少なくとも人族共通語でも竜言語でもない文字で書かれていた。
アルファベットに似たようだがアルファベットではない、別にギリシャ文字でもキリル文字でもない奇妙な何かが並ぶ。
適当に本を引っ張り出して中を開いても同じだった。
――この世界、言語がドラゴンと人でそれぞれ統一されてんだよな……
だとしたら『そのどちらでもない言語』って何なんだ?
何かの図表やグラフらしきものも描かれているが、文字が分からないのではちんぷんかんぷんだ。
「こら古代文字……やろか」
「なんだそりゃ」
「千年前、七大竜王が突如現れて人族文明を根こそぎ焼き尽くす前に使われとったっちゅー文字や」
「そんなものがあったんですか」
千年も前の古代の出来事は、シャラも大して知らない。
なにしろ、それは七大竜王でさえ生まれたばかりの時代だ。
かつて人族は栄華を極めたそうだが、突如として現れた七大竜王によって瞬く間に文明を滅ぼされた。
生き残った人族は千人にも満たなかったが、戦いで力を使い果たした七大竜王が長い休眠を余儀なくされたことで人々は再び地に満ちることとなったのだとか何だとか。
人族の言語が統一されているのは、一度そんな風に小規模なコミュニティのレベルにまで数が減ったからだそうだ。
その後、人族と七大竜王は戦いを始める。
やがて七大竜王は、手下たる魔物たちと血族たるドラゴンたちを生み出し、人族は『封竜楔』を作り出して戦いは現代に至るのだ。
「古代語やったら、流石にウチもこんなん読めへんで。専門の学者でも呼ばな。
冒険者ギルドに報告したら解読してくれるやろか。
……報告しても独占へんやろな、あいつら?」
「さあ……
心配だったらまず、ここの存在を隠して『古代語の解読ができるか』だけ聞いてみりゃいいんじゃないか?」
「せやな」
マイアレイアは名残惜しげに、あるいは往生際悪く、次々に本を開いては何か理解できることがないか確認して回る。
一緒に本を漁る気にもなれず、シャラはその辺の椅子に座り、フィーラに貰った鱗を意味も無く観察していた。
「どないしたん、シャラ」
「いや、その、考えなきゃならないことが多すぎて……」
情報過多で頭の中がグチャグチャだった。
どんな気持ちになるべきなのかすら分からない。恐怖すべきか悲しむべきか、何を信じて何を疑うべきかさえ。
『私はこれでも自分の人生には割と満足してるの。だから絶対に、私のことで自分を責めないでほしい』
全てを悟ったようなマリアベルの言葉が耳の奥に響く。
「もし……マリアベルさんがガイレイに作られた人造人間だったとして、なんでガイレイはそんなことをしたんでしょう」
「さあ、どうだか……」
マリアベルの目的が何だったのかさえ判然としない。
もしフィーラが言う通りなのだとしたら、彼女は何のために500年もの間、人族世界に生き続けたのか。
ガイレイは何のために彼女を送り込んだのか。
だけどシャラは、少なくとも彼女の善性が嘘や演技とは思えなかった。
命の終わりを前にしながら、彼女は持ちうる魔力を人を救うために使い続けた。そこに偽りは無いのだと思ったし、そう信じたかった。
だったらそれがどうした、という話ではあるが。
――第三竜王の『私たちは世界を救おうとした』ってのも気になる。あの言い方、まるでガイレイまでそうだったみたいで……
世界を救うとは、つまりどうすることなのだろうか?
例えば『人間を滅ぼした方が地球のためになる』なんてことを冗談半分に(場合によっては本気で)言う人も前世の世界でシャラは見てきた。要は何を世界と見做すか、だ。人族を滅ぼすことがつまり世界を救うことだという考え方も矛盾は無い。
しかし、それはそれでラウルへの敵視が謎だ。人族側で戦うシャラに肩入れしてまで除かなければならない理由があるのかどうか。
どうもフィーラは話の核心部分を意図的に隠していたという気がする。
「この場所を調べたら、何や分かることもあるんちゃうか。
ともかく今は目の前の戦いや」
「そう……ですね」
シャラはひとまず、今はどうしようもないことを、まとめて頭の中の押し入れに突っ込んだ。
同族であるドラゴンたちにさえ隠している、竜王の秘密なんて。
目下、自分の事だけで精一杯のシャラには手に余る話だった。




