【1-22】グィルズベイル山 封じられた書庫 / 継承
幾何学的な図形と魔法文字を組み合わせた魔法陣が、薄暗い岩窟を足下からぼんやりと照らす。ドラゴンの巨躯に合わせて作られた、あまりに広い儀式場は、魔法陣の光では照らしきれず闇がわだかまっていた。
魔法陣の中央に置かれているのは、鋭角的で暴力的なシルエットの『頭部』……
驚愕と憤怒と苦しみの表情のまま事切れたガイレイの生首だった。
「まさか、これほど早くこの日が来ようとは……」
ドラゴンの姿で儀式場にただ独り立ち、ラウルは牙を剥きだしてほくそ笑む。
強大な竜王、忌々しきクソジジイも、今や首だけの存在だ。
「愚かなり、竜王ガイレイ。貴様は最期までシャラを見誤っていた」
自分の爪で掌を傷付け、ラウルは魔法陣に血を滴らせる。
ドクン、と魔法陣の光が脈打ち、その輝きは赤黒く染まった。
「我が糧となるが良い」
魔法陣の輝きが一際増して、そして。
ラウルは獣のように、ガイレイの生首に食らいついた。
* * *
『黒の群れ』のドラゴンたちは、大きな山を一つくりぬいて、広大で複雑な迷宮の如き巣を築いている。
その中でももちろん、族長であるガイレイの居住空間は特に広い。
吹き抜けの回廊を抜け、石の庭園を抜け、ラウルはひたすらにガイレイの宮殿の奥を目指した。
普段はみだりに立ち入れない空間なのだが、今となっては止める者も無い。
やがて行き着いた先は、いくつも存在するガイレイの居室のひとつだ。
ただ黒く刺々しい装飾の家具がいくつか置かれているだけの、特に用途が見えない部屋。
しかし、この部屋から隠し部屋に通じる道があるのだとラウルは知っていた。
部屋の隅の床石を踏むと、ほんの少し沈む。
隣り合った五つのタイルを特定の順番で十一回押し込むと、ガコン、と何かの動く音がして、煉瓦を組んだような外見の壁がぽっかり口を開けた。
明かりの無い細い下り階段を下りていくと、そこには石の扉がある。
ガイレイの魔法によって厳重に封じられた石扉は、ガイレイが死んだ今となっても封印の力が衰えていない。
――この封印された部屋にはガイレイしか入れなかった。ガイレイの封印は、悔しいが今の俺には解けん……だが、ガイレイを取り込んだ今の俺なら……
緊張に唾を飲み、ラウルは封印扉の前に立つ。
軽く扉に手を突いて押し込むと、それは、動いた。
――よし!
封印は自ら道を開いた。ガイレイの力の一部を取り込んだラウルを、ガイレイと誤認したのだ。
扉を押し開くと、怒濤のように古紙のニオイが押し寄せてきた。
天まで届くかと錯覚するほどの本棚が並ぶ奇妙な空間がそこにはあった。
「書斎……いや、研究室か」
高すぎる本棚にも梯子などは掛けられていない。半竜形態のドラゴンであれば自らの翼で取りに行けるし、簡単な魔法で引っ張り出すことも可能だからだろう。
手前には資料を積み上げた机がいくつも並んでいて、奇妙な薬品が詰め込まれた棚や、何らかの数式が殴り書きされた黒板などがあった。
ここはガイレイだけが立ち入れたはずの空間。
そんな場所に、よりによってこんなものが。
何のためだったのかと、ラウルは訝しむ。
その辺の机の上にあった資料を取り上げてみて、ラウルは顔をしかめる。
「竜言語でも人族語でもない……? なんだ、この文字は?」
見た事もない奇妙な文字がそこには並んでいた。
本も。
書き付けも。
黒板に書かれた何かの式も。
全て同じ文字で書かれていた。
――未知の魔法文字、というわけでもなさそうだが……
いや、待て。あのガイレイが使うかも知れない言語が、もう一つある。
これはもしや、古代語か?
古代語。
それは約千年前、七頭の竜王が先史人族文明を滅ぼすより以前に使われていたという言語だ。
一括りに古代語と言っても現代言語のように統一されたものではなく、数百の言語が存在していたという。
人族語は、その戦いで生き延びた少数の人族が共同生活を送る中で生み出された共通言語なのだと聞いた事がある。
そしてドラゴンたちが使う竜言語は、500年前に『生殖術式』が編み出され、竜王以外のドラゴンが生まれるようになってから創られた言語であったはず。それまで竜王たちは古代語を使っていたそうだ。
古代語を知る者は極めて少ない。
ガイレイは古代語を『旧い世界の非効率的な言語』と蔑んで、群れの者に教えようとしなかった。少なくとも表向きは。
族長がそんな態度なのに、記録すら残っていない言語をわざわざ研究しようとする物好きなドラゴンも居らず、ラウルも古代語は理解できない。
「まさか……ここにある書物、実験記録、メモに至るまで……全て古代語で書かれているとでも?」
見上げる限りの巨大な書架を前に、ラウルは目眩すら覚える。
事実上使用を禁じていた古代語を使って、ガイレイは一頭きりでこっそりと、何を研究していたというのか。
――……何なのだ、ここは? 気にはなるが解析するには時間が掛かる。
何か無いのか。今すぐに使えるものは。
古代龍の力の源だろうが、ガイレイの遺したマジックアイテムだろうが構わない……群れを束ねる力は!
この場所でガイレイが何を研究していたとしても、それ自体は今のところどうでもいい。
研究の成果だろうがガイレイの置き土産だろうが何でもいいから、ガイレイの力の秘密がこの場所に無いかとラウルは考えてここへ来たのだ。
ガイレイは……他の竜王もおそらく同じだが……群れのドラゴンたちとは一線を画する強大な力を持っていた。
それを、何かが不自然だとラウルは思っていた。
当初は勝手な予測でしかなかったが、ガイレイの骸を喰らう儀式によって力を引き継いだ今、ラウルは異常な力の脈動を感じていた。
ガイレイを食らったところで、ラウルの力は大して強まっていない。
だが、自分の中で何かが、自分ではないものに繋がっているかのような感覚がある。
正真正銘の怪物と呼ぶに相応しい力が、手を伸ばせば届く場所に存在している。しかし、その力は今は深い眠りに就いているのだ。
眠れる力を目覚めさせる何かが。
言うなれば、その機関を駆動させるための燃料か何かが。
竜王を竜王たらしめる何かが。
この場所に隠されてはいないのか。
幸運か不幸かは別として、探し始めて一分もかからずにラウルは奇妙な物を見つけて目を留めた。
棚に並んだ薬品類とは違う、明らかに飲むための液体が一瓶、机の上に出してあった。
真っ黒いガラスの瓶の隣には、一口分の大きさをした黄金の杯が置いてあって、その底には僅かに漆黒の液体が残っていた。
ラウルは、嵐の中に飛び込んだかのように得も言われぬ圧力を感じていた。
導かれるように手を伸ばし、ラウルは漆黒の液体を舐めた。
* * *
そこは異様なまでに大きな洞穴だった。
ごつごつとした岩が壁を形成し、気が遠くなるような高さにまで続いている。どこか高いところから仄かに光が差し、染み出た水が時折滴り落ちていた。
広大なドーム状の空間は、しかし、そこに座す者たちにとっては少々手狭だった。
竜王殿……
謁見の間でもあり、群れの主要なドラゴンたちが集まって、群れの方針を決定する場でもある。
もっとも、竜王の決定に逆らえる者など居ない。ガイレイは皆の意見を聞いて考えをまとめ、命令を下していた。
だが、今、巨岩の玉座にガイレイの姿は無い。
ひしめき合うように座ったドラゴンたちは、いつ果てるともない議論を延々と続けていた。
「だから、何かの間違いではないかと……」
「今更何を言っているんだ! 族長様は死んだんだ!!」
群れは混乱の只中にあった。
竜王が敗死することなど誰も想定していなかったからだ。竜王亡き後にどうやって群れを動かしていくかなど、ほとんど誰も考えていなかったし、ファルエル襲撃に参加していなかったドラゴンの中にはまだガイレイの死に半信半疑で居る者もあった。
「我々は陛下の意志を継いで人族と戦うしかない。何を悩む必要がある?
あの街を焦土に変えて償わせるんだ」
「陛下抜きで戦えるのか!?」
「この腰抜けめ、相手は人族だぞ!」
山を震わせるような大声でドラゴンたちは怒鳴り合う。
侃々諤々の議論の中で、ぽつりと暗い声が一つ。
「どうして……あのトカゲが族長を殺せたんだ?」
ジレジアが呟き、一時、皆の声が止んだ。
誰も答えを持っていない。
恐怖とも何とも言えない、理解しがたいものへの怯えが皆を縛っていた。
この場のドラゴンは全員、そして竜王殿に入れないドラゴンもおそらく皆、『出来損ないの卑小なトカゲ』について知っている。
追放されたことも。追放されて当然の能無しだったことも知っている。
嘲笑った者も、何か理由を付けて嬲った者も居る。
だが、そいつが、よりによって。ガイレイを殺した。
「あいつはどうしようもないゴミ屑だったはずだろう? なあ、なんであいつが古代龍よりも強いんだ?」
「だから何かの間違いではないかと……」
「人族の秘密兵器でも仕掛けられていたのではないか?」
「それこそおかしい。人族の浅知恵如きで族長様を破れるというのか」
『黒の群れ』は、底なしの困惑の中にあった。
だがそこへ、高く靴音を響かせて竜王殿に踏み込む者がある。
「いつまでつまらぬ事を言い争っている」
巨躯のドラゴンたちがひしめき合う中に分け入るのは、他のドラゴンより遥かに小さい、人竜形態のラウルだ。
「あぁ!? ラウル、お前……」
「どうした? 何か言いたい事が?」
「い、いや、何でも……」
ジレジアが何か文句を言いかけて、ラウルに射すくめられて退いた。
「あいつ、本当にラウルか? この威圧感、魔力の強さ……あれは、まるで……」
その場に居たドラゴンたちは皆、ラウルから目が離せないままヒソヒソと囁き合う。
遠巻きに見ているだけのドラゴンたちを見て、痺れを切らしたように進み出る巨影が一つ。
片角の折れたドラゴンがラウルの前に立ちはだかった。
ドギルという名のドラゴンだ。
500歳近い彼は、群れではガイレイの次に高齢であり、つまり今現在は群れの最長老だった。
「ラウル。この竜王殿で何故貴様は卑小なる人の姿をしている?」
「話し合いのために逐一巨大化するなんて非合理的だ。
その姿になるだけで魔力を消費するのだから、やめておけ」
鼻で笑うような調子でラウルは言い返し、ドギルの目に稲妻が閃いた。
「貴様、群れの掟を侮辱するか! 青二才が!」
巨木のようなドギルの尾が、ラウル目がけて薙ぎ払われた。
人竜形態ではドラゴン本来の膂力を受け切れまい、突き飛ばされてラウルは壁に叩き付けられる……
かと、思われた。
「……何?」
「今からは俺が掟だ。それではいけないかな?」
ズン、と重い音がして。ややあってドラゴンたちがざわめく。
ラウルは直立不動で……いや、腕一本を庇のようにかざしただけで、ドギルの尾の一撃を受け止めていた。
「お前たちは、ガイレイという絶対の長から命令されて動くことに慣れきってしまっていた。だからこうしてガイレイを失った途端、何もできずに狼狽えてグチグチと話し合うのに何日も費やしてしまう……
いや、何ヶ月でも何年でもこのままだろうな」
深淵の色をしたラウルの目が、居並ぶドラゴンたちを撫で斬りにするかのように睨め付ける。
「命令が欲しいなら俺がくれてやる。俺に従って動け」
不遜な命令であった。
だが、それに言い返せるドラゴンは、何故か一頭も居なかった。




