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第七話 二.本当に帰るべき場所

 オレが遅めの朝食を終えた頃、新幹線は荒川を越えて埼玉県に入り、次なる駅となる大宮駅へ向かっていた。

「やっぱり新幹線は早いな。あっという間に東京を出ちゃったのか。」

 そんなことを口にしつつ、オレは窓の景色を見つめながら大きなあくびをしていた。

 朝早くから起きていたせいだろうか、ここに来て、オレは軽めの睡魔に襲われていた。食事でお腹を満たしたことも要因の一つであろう。

「新潟までまだまだ距離があるし、ちょっとだけ仮眠しておこう。」

 オレはシートに深くもたれかかると、両腕を組みながらそっと瞳を閉じる。実家に帰ってからまず何をしようかなど、そんな他愛もないことを考えているうちに、オレは少しずつ夢の彼方へと誘われていく。

 ところがここでトラブルが起こってしまった。丁度新幹線が大宮駅に到着するや否や、どういうわけか、団体の観光客らしき乗客がオレのいる車両に突入してきたのだ。

 片目でチラリと辺りを見てみると、いつしかオレの付近にある座席は、その観光客たちですっかり埋め尽くされていた。不幸中の幸いにも、オレのすぐ隣の座席はリュックサックのおかげで死守できたが。

「・・・おいおい、シャレにならないぞ、これは。」

 オレは困惑の表情を浮かべて、周囲に漏れないぐらいの小さい声でそうぼやいた。

 心地よい静けさの中で一眠りしようとしたオレにとって、土産話で盛り上がる観光客はただ騒がしくて邪魔者に他ならない。

 ここは精神統一して、意地でも眠ってやろうと試みたが、四方八方から飛んでくる耳障りな雑音に、オレの繊細な神経は逆立つばかりであった。

「ふぅ、もう諦めよう・・・。そのうち、自然と寝ちゃうかも知れないし。」

 とてつもなく深い息を吐き出し、オレは車窓の先に広がる見慣れない光景に視線を向ける。すると、窓に反射したリュックサックが目に映った瞬間、オレはふと管理日誌のことを思い出していた。

「・・・暇つぶしに読んでみるかな。」

 そう思い立ったオレは、リュックサックを手繰り寄せるなり、仕舞っておいた管理日誌を取り出した。三カ月間の記録が書かれている割には、表面も裏面もまだピッカピッカの管理日誌だ。

 短期間で慌てて書き綴ったことを思い起こし、オレは苦笑しながら日誌を一ページずつめくっていく。

「・・・オレが初めてアパートを訪れた日。住人たちから手痛い歓迎を受けた。」

 アパートへやってきた矢先、オレは住人たちから不埒な輩に間違えられて、両手足を拘束されて悪態を付かれてしまった。その後、じいちゃんと病院で面会できて、何とか誤解を解くことができたが、それはもう散々な目に会った。

「アパートの住人たちは、月に一度、お楽しみ会なるイベントを実施している。オレもそれに参加させてもらうことができた。」

 職種が多種多様な住人たちにとって、友情の絆を深める機会であったお楽しみ会。オレは住人たちに誘われて、ボウリング大会という名目のお楽しみ会に参加させてもらった。

 住人たちはみんなボウリングが上手で、オレは情けなくも最下位に終わり、男性ながらとても恥ずかしい思いをした。それでも、住人たちと親しく触れ合うことができたいい思い出でもあった。

「住人たちの社交場であり憩いの場、串焼き浜木綿。気さくなマスターに、看板娘の紗依子さんと出会い、住人たちともども大変お世話になった。」

 何となく一人で寂しい時、ちょっと贅沢しておいしい料理をいただきたい時、オレは赤提灯がぼんやり灯る浜木綿の暖簾を潜っていた。そのたびに、マスターと紗依子さんはオレのことを暖かく出迎えてくれた。

 浪人生の分際で居酒屋通いしていたことに、罪悪感を抱いてしまうオレだったが、大人の気分に酔いしれることができてちょっぴり嬉しかった。

「空き部屋を掃除していた時、偶然発見した一枚の記念写真。それが、サッカーを愛する奈都美との出会いのきっかけだった。」

 オレはその記念写真を届けたくて、以前住人だった奈都美の軌跡を追った。

 プロサッカー選手として挫折し、住人たちに負い目を感じて現実から逃げていた奈都美。しかし彼女は、住人たちの支えもあって、もう一度プロテストに合格し、晴れて再スタートを切ることができた。

 あの努力を惜しまない奈都美のことだ。もう自信喪失したりせず、ストライカーとして立派に活躍できるだろう。でも甘えん坊なところもあるから、このままアパートに居候し続けるかも知れない。

「携帯電話に執拗にこだわる理由がやっとわかった。潤はモデルを目指すため、雑誌のモデル募集にメールを投稿していたのだ。」

 苦労を重ねた末、潤はギャルマガという雑誌のモデルに採用された。しかし、そんな彼女を待っていたのはあまりにも卑劣な策略だった。茫然自失に泣きじゃくった彼女だったが、一人の女性として一歩成長し、オレにまた明るい笑顔を見せてくれた。

 お調子者で慌てん坊の潤だけに、もう騙されたりしないだろうかと心配してしまうが、他の住人たちがしっかりしているからきっと大丈夫だろう。

「楽器店の前で呆然としていたジュリーさんが、まさか昔ボーカリストだったとは驚きだ。カラオケがうまかったことも今となってはうなづける。」

 過去に、ジャズバンドの専属ボーカリストとして人生を謳歌していたジュリーさん。ファンの男性への恋煩い、そして失恋を経験し、彼女は自暴自棄に陥ってしまい最終的にバンドから脱退してしまう。

 それでも夢を捨て切れず、新宿中央公園で輝いていた自分を取り戻したジュリーさんは、まさに不死鳥のごとくバンドへの復帰を成し遂げることができた。

 近日中に都内でライブが開催されるはずだったが、力強くてしなやかな歌声がもう聞けなくなると思うと、オレはただ残念でならない。

「アパートをうろつく飼い猫がいた。人見知りせず、警戒心すら見せないその猫は、住人の一人である潤から人の優しさを感じ取っていたようだ。」

 潤の愛情に触れようと、飼い猫はアパートへ頻繁に姿を見せていた。オレは飼い主に引き渡そうと奔走するも、その猫を虐待から救うことを決起し、激しい応酬を繰り広げた末、アパートで面倒を見ることになった。

 ニャンダフルと名付けられた猫は、住人たちとたちまち意気投合し、新しい住人として迎えられて、アパートのマスコットのような存在となっていた。

 じいちゃんとも心を通わせていたようだし、アイツならきっと、のんびり気ままに暮らしていけるだろう。

「姉妹である真倉夜未さんと、道場主という威厳を賭けた闘い。あかりさんは漫画家という職業に誇りを持ち、最後の最後まで勇敢だった。」

 実家の空手道場の跡取りを捨てて、大好きな漫画の世界へ身を投じたあかりさん。真倉さんの姑息な手にはまったオレのために、彼女は拳のぶつかり合いを余儀なくされてしまう。

 格闘家同士の類まれなる凄まじい決闘の末、真倉さんを打ち負かしたあかりさんは、漫画家という職業を続けていく決意をより鮮明にするのだった。

 もうまもなく、あかりさんの読み切り漫画を載せた雑誌が発売されるはずだ。読者たちの評判が良ければいいなと、オレはそんな当たり前のことを心から願っていた。

「尊敬する先輩の死と向き合い、素敵なモデルとして輝き続ける麗那さん。歩道橋の上から観賞した満天の星空を、オレは生涯忘れることはできないだろう。」

 悲しくて辛い過去に苛まれながらも、麗那さんは住人たちのリーダー役として、いつも明瞭闊達に振る舞っていた。亡くなった憧れの先輩を想うあまり、彼女は失踪という衝撃的な行動を起こしてしまう。

 歩道橋の上ですべての真相を知った麗那さんは、思い出の場所は失っても、思い出そのものは残り続けると、先輩の託したメッセージを受け継ぎ、星のように光り輝くモデルを目指すことを誓った。

 麗那さんは今、失踪事件をきっかけに仕事を自粛しているが、まもなく復帰イベントが開催されるはず。一皮剥けた彼女のことだから、これまで以上に綺麗で、魅力的なモデルとして活躍していくに違いない。

「・・・そしてオレは、受験勉強に専念するため、アパートを離れて実家に帰ることにした。」

 管理日誌の最後のページには、志望校判定テストが残念な結果に終わり、不本意ながらも、アパートと決別する決意に行き着いたことが触れてあった。そして最後の行は、住人たちの心情を知りたくないオレのやるせない思いで結んであった。

 オレは管理日誌を開いたまま、そっと目を閉じる。すると、おぼろげながら「ハイツ一期一会」の佇まいが頭の中に浮かんできた。

「・・・。」

 庭掃除しているオレに声を掛けて、さわやかな笑顔でトレーニングに出掛ける奈都美。眠たい目を擦りながら、ふらふらとリビングルームに姿を見せる潤の笑みが、オレの脳裏を掠めていく。

 缶チューハイを買ってきてと、わがままを言って意地悪っぽく笑うジュリーさん。大好きなコーヒーを嗜んで、アニメや漫画のことを話してくれたあかりさんの微笑みが、オレの頭の中に浮かんでは消えていく。

「・・・。」

 こんなオレのことを慰めてくれて、いつも励ましてくれた麗那さん。一緒に出掛けた時も、住人たちのことを相談した時も、そして、帰郷することを打ち明けた時も、彼女はそのすべてを真剣に受け止めて、このオレが迷わないよう勇気付けてくれた。

「・・・奈都美、潤、ジュリーさん、あかりさん、麗那さん。・・・みんな、本当にごめんなさい。」

 リビングルームのテーブルを囲む住人たちの姿。賑やかで楽しそうで、それが当たり前だったその団らんの中に、もうオレの姿はどこにもない。彼女たちの騒がしい笑い声も、もうオレの耳に届くことはなかった。

 その和気あいあいとした歓談を、まるで窓の外から覗いているような感覚に、オレは胸が苦しくなり、込み上げてくる衝動を抑えきれなくなっていた。

「え・・・!?」

 熱くなった目頭から、一滴の涙が頬をつたっていく。頬がむず痒くなって初めて気付いた。・・・オレは泣いているのだと。

 オレは慌ててこぼれ落ちる涙を手で拭った。ところが、視界がかすんでいくほど、オレの目尻からどんどん涙が溢れてしまい、どんなに拭き取っても、管理日誌の上に大粒の涙が落ちていく。

 周囲にいる乗客たちは皆、何が起こったのかと、オレのことを訝るような目で見据えている。それに気付いていても、オレは人目もはばからず、唇を噛み締めながら嗚咽することしかできなかった。

「すいません・・・!」

 堪えに堪えきれず、オレは管理日誌とリュックサックを手にして、逃げるように座席から立ち去っていく。そのまま通路を駆け抜けて、車両同士の接続部にあるトイレへと逃げ込んだ。

 オレはトイレの便座に腰掛けて、うなだれながら目一杯泣いた。自分自身の情けなさと愚かさに悲嘆し、オレは泣き声を車内中に響かさんばかりに慟哭した。

 これが寂しさからくる涙なのか、それとも悔しさからくる涙だったのか、正直オレにはわからなかった。ただ一つわかったことは、オレの進むべき道が、この新幹線の行先にはないということだけだった。


 =====  * * * *  =====


「・・・ああ、母ちゃんか。真人だよ。・・・いや、新潟駅じゃないんだ。今、高崎駅にいるんだ。」

 オレの立ち尽くすホームは新潟駅ではなく、群馬県にある高崎駅。オレは居たたまれなさから、新潟行きの新幹線を途中下車していた。

「・・・そういうわけだから、ゴメン。・・・また、着いたら電話するよ。それじゃあ。」

 母ちゃんに事情を説明し、オレは携帯電話の通話を切った。

 オレと一緒に降車した乗客の姿はすでになく、ここ新幹線ホームは雑踏から解放されていた。ホームのはるか先に見える遠景から、髪の毛を乱すぐらいの強い風が吹き込んでくるだけだった。

 大きく息を吐き出し、ゆっくりと歩き出したオレは、改札口へと向かう途中、じいちゅんから問われた言葉を思い出していた。

「大学受験に必死になっておるが、おまえは将来何になりたんじゃ?いったい、何を目指しているんだ?」

 入院中のじいちゃんからそう尋ねれた時、オレは何も答えることができなかった。オレはその時、大学に合格さえすれば、その答えがきっと見つかるだろうと楽観視していたのだ。

 オレは歩きながら考えていた。目標としている大学に、果たしてオレの将来や目指すものが存在するのだろうか?合格というメダルを掲げるだけで満足して、実家にいた頃のような、孤独で在り来たりな生活を続けるだけではないだろうかと。

「・・・オレは結局、ただ優等生になりたかっただけなのかも知れない。二浪して気が焦るあまり、本気で考えなければいけないことを見失っていたんだ。」

 浅はかだった自分が嘆かわしくて、オレはそんな反省の弁を述べていた。

 改札口を越えたオレは、もう一度新幹線の切符を購入する。その切符をしっかりと握り締めると、オレはもう一度同じ改札口を越えていった。

 新幹線ホームへ向かう途中、オレは公衆トイレへと立ち寄り、泣き腫らした情けない顔を眺める。五年分ぐらいの涙を流したせいか、オレの気持ちは心なしかすっきりと晴れやかだった。

「・・・よし、元気出して行こう。もう帰るって決めたんだもんな。」

 水道水で腫れぼったい顔を洗い流し、引き締めたその顔を両手でパチンと叩いたオレ。公衆トイレを颯爽と飛び出し、もう迷いはないと言わんばかりに新幹線ホームへと駆け込んだ。

 ざわつく人波に紛れながら、オレは新幹線の到着を今か今かと待ちわびる。そんなオレの頭の中に、麗那さんの励ましの言葉が浮かび上がってきた。

「・・・今は大学に合格することが一番大切だけど、マサくんには、もっともっと大切なものを見つけて、それをその手にしっかりと掴んでほしい。」

 麗那さんはしっかり大切なものを見つけて、まさにそれをその手に掴もうとしている。もちろん他の住人たちも、光の射した開けた道を進んでいる。だからこそ、みんなは生き甲斐を持って、生き生きとして輝いているのだ。

 オレはようやく悟ることができた。・・・オレは大切なものをアパートに置いてきてしまった。そして、その一番大切なものは、きっと、彼女たちとの心の触れ合いの中にあるのだと。

 しばらくして、新幹線が指定された位置にピッタリと停車した。午前10時49分、胸を高鳴らせるオレを乗せた新幹線は、進むべき道であろう東京を目指して発車した。


 =====  * * * *  =====


 ここは、今朝まで生活していた「ハイツ一期一会」。戻ってくることを想定していなかったオレは、戸惑いの表情でアパートの玄関先をうろうろしていた。

 それもそのはずで、オレはどの面を下げてアパートへ入り、じいちゃんや住人たちと顔を合わせたらいいのかわからず、ひたすら頭を悩ませていたのである。

「ここまで来て、ためらっていても仕方がないよな。」

 忘れ物を取りに戻りましたとうそぶいて、気軽な気持ちで臨もうと覚悟を決めたオレ。

 心の中で気合を込めて、アパートの玄関まで歩を進めたオレは、閉め切ってあったドアにそっと手を掛ける。すると、ドアは施錠されておらず、まるでオレのことを迎え入れるように軽やかに開いた。

「留守じゃないみたいだ。じいちゃんがいてくれると助かるな。」

 そんな独り言を口にしながら、オレは真っ先に管理人室のじいちゃんを訪ねてみた。ところが、ドアノブを回してみると、カギが掛かっているのかドアを開くことができなかった。

「おかしいな。ということは、住人の誰かが留守番してるのかな・・・?」

 オレはそう予想を立てると、忍び足でリビングルームの方へと足を向ける。

 廊下を歩いている途中に耳を澄ますも、物音やテレビの音はなく人の気配がまるで感じられない。案の定、リビングルームのドアの窓ガラスは、静けさを物語るように暗がりを映していた。

 内心ドキドキしつつ、オレは恐る恐るドアを開けてみたが、ガランとした室内に人影はなく人っ子一人いなかった。

「ここにも人がいないとなると・・・。じいちゃん、近所まで出掛けてるのかな。はてさて、どうするか。」

 じいちゃんがすぐに帰ってくるだろうと思い、オレはリビングルームでしばらく待ってみることにした。玄関のカギが開いている以上、アパートを無闇にもぬけの殻にできないのも理由の一つだ。

 室内の中央にあるソファの上にどっかり腰を下ろすオレ。照明のスイッチも入れず、テレビの電源もオフにしたまま、オレは手持ち無沙汰でただじっとしていた。

「やっぱりリビングは落ち着くなぁ。それだけ馴染み深いってことなんだろうな。」

 オレは感慨深くそうつぶやくと、いつしかソファの上で寝転がっていた。

 時刻は午後2時になろうかとしている。リビングルームに日差しは入ってこないものの、午後のほのかな暖かさから、室内はこの上ないほど快適な室温になっていた。

 早起きした朝に電車での度重なる移動、さらに新幹線で仮眠すらできなかったオレに、これでもかというほどの最高潮の眠気が襲い掛かってきた。

「ふわぁ、眠いなぁ・・・。ちょっとだけ寝ても大丈夫だよな、きっと。」

 薄れゆく意識の中で、オレはソファに横になったまま、無防備にも深い夢の中に落ちてしまう。じいちゃんと住人たちに、暖かい気持ちで迎え入れてもらえると願いながら・・・。


 =====  * * * *  =====


「・・・どうすル?」

「・・・うーん、とりあえず起こすぅ?」

「・・・逃げ出すといけないから、手足を固定しましょう。」

 薄っすらとしたオレの意識の中に、誰かのかすかな声が届いた。誰かがオレに向かって話をしているのか?どうやら、話し声は一人ではないようだ。・・・あれ、前にもこんな経験をした覚えがある。

 オレは夢から醒めるかのごとく、ゆっくりと現実へ戻ってきた。

「・・・あれ?」

 オレの視界の先には、仁王立ちしている五人の女性、このアパートの住人たちがいた。しかもみんな、オレのことを怪訝そうな顔で睨みつけている。

 驚いたことに、オレは両手両足を紐で結ばれていた。手足を動かしてみたが、結ばれた紐はまったく弱まらず、むしろ窮屈になっていく。・・・やっぱり、前にもこんな経験をした記憶があるぞ。

「あ、あの。みなさん、これはいったいどういう・・・?」

 右往左往しているオレに、麗那さんが険しい表情のまま、住人を代表して冷めた口調で言い放った。

「どういうもこういうもないでしょ?アパートに侵入した不届き者を縛り上げただけよ。」

「ふ、不届き者!?」

 オレは耳を疑った。まだ夢を見ているのだろうかと、頬を指で摘もうとしたが、両手を拘束されていたので断念せざるを得なかった。

「ちょっと待ってください!どうしてそんな意地悪を・・・。確かにオレはもう管理人代行じゃないし、アパートにいちゃいけないかも知れないけど。でも、こんな仕打ち、あまりにもひど過ぎますよ。」

 管理人代行・・・?と、囁くような声で問い返してきた麗那さん。その直後、彼女は悪戯っぽく微笑した。

「このアパートにいた管理人代行はたった一人。今日の朝、わたしたちの本心を知らないまま、ここから去っていったわ。」

 麗那さんに続くように、潤とジュリーさんが苦笑しながら語り出す。

「そういえばさぁ、アイツが初めてここに来た時も、こんな感じで縛り上げちゃったよね?」

「そうそう。不埒者かと思って捕まえてみたら、これがビックリ。管理人代行だったんだもノ。」

 もうオレには、ここで繰り広げられる光景が何が何だかまったく理解できない。ただ黙ったまま、彼女たちの話に耳を傾けるしかなかった。

「その管理人代行はね、管理人のおじいちゃんが退院するまでの期間、それはもう、一生懸命にお仕事をしてくれたの。」

 掃除清掃、整理整頓、補充品の買い出しにお留守番まで、管理人代行はしっかり使命を果たしてくれたと、麗那さんは腕組みしながらそう褒めちぎっていた。

 それを横で聞いていた他の住人たちも、ちょっぴりあげつらいながらも、麗那さんの褒め言葉に各々の思いを付け足していく。

「その人はね、サッカーの練習に誘うと、いつも断り切れずに付き合ってくれたお人よし。あたしと一緒に、サッカーボールと、あたしの夢も必死になって追いかけてくれたよ。」

 照れくさそうにはにかんでいる奈都美。彼女と一緒に汗を流したことや、筋肉痛になったことも、オレにとって慣れない体験だったけど、とても楽しい日々だった。

「しかもアイツはさぁ、あたしの誕生日に年齢を間違えるようなドジなヤツだったんだ。でもさ、誕生日プレゼントにくれたDVD、今でもあたしにとって宝物なんだぁ。」

 潤も恥ずかしそうに愛らしく笑っていた。年齢を間違えたり、入手済みだったDVDを贈る無様なオレだったけど、彼女のお日様のような笑顔が今でも忘れられない。

「あと、わたしが嬉しさのあまりハグした時なんかネ、あの人、顔を真っ赤にしちゃって。そんなウブで純情な彼だけど、家出したわたしのことを、寛大に、いつまでも見守ってくれたワ。」

 遠くを見るような目で当時を振り返るジュリーさん。新宿中央公園で歌を披露した彼女の輝きと、抱きつかれた時の力強い感触は、オレの記憶の中にくっきりと残ったままだ。

「それに、触れられたくないことも詮索してくるお節介な男だったわ。だけど、もしそのお節介がなかったら、わたしは今でも、家族みんなと笑顔を向け合えなかったかも知れない。」

 あかりさんはしんみりとしながら視線を落とした。実家へ帰省する際に見せた彼女の微笑み、そして管理人として認めてもらえたことが、オレにとって最高の喜びだった。

「忘れちゃいけないのは、ニャンダフルの前の飼い主との攻防戦。無謀で大胆な行動だったけど、わたしたちみんなのために、この子を守るために悪戦苦闘してくれたんだよね。」

 麗那さんが目配せすると同時に、タイミングを見計らっていたかのように、リビングルームの入口から顔を覗かせた猫のニャンダフル。小さい泣き声を上げながら、住人たちの足元を渡り歩いていた。

 ただ呆然として、開いた口が塞がらず、気持ちの整理ができなかったオレ。投げかける言葉も思いつかず、話しかける台詞すら浮かばないほど動揺していた。

「その管理人代行はみんなが言った通りの人。・・・お人よしで、ドジで、ウブで、お節介でね。わたしから言わせると、優柔不断でナイーブな一面もあったかな。」

 麗那さんはそう言いながら小さな苦笑いを浮かべる。ここまではっきり物申されてしまい、オレはあまりのバツの悪さにうつむき加減で頭を垂らしていた。

「だけどね・・・。」

 その一言を告げた後、なぜか言い淀んでしまった麗那さん。その静けさに異様さを感じ、オレがそっと顔を上げてみると、クリスタルのように潤んだ彼女の瞳に、オレの見開いた目は釘付けとなった。

「・・・それをすべてひっくるめてもね、自分のことより、住人たちのことを一番に考えてくれた彼は、わたしたちにとって大切な人だった。これからも、ずっとこれからも、わたしたちを見守ってくれる管理人でいてほしかったの。」

 涙ながらに訴える麗那さんの言葉は、オレの心を激しく大きく、そして強く揺れ動かした。

「管理人じゃなくてもいい。・・・賑やかに楽しく触れ合える親友の一人として、わたしたちのそばにいてほしい。・・・それが、住人たちみんなのわがままな本心だったの。」

 麗那さんはそう言い終えると、こぼれる涙を指で拭き取る。奈都美と潤は寄り添い合い、肩を震わせながら感涙にむせぶ。ジュリーさんとあかりさんも横を向いて、感極まった感情をはぐらかそうとしていた。

 住人たちの慕ってくれる想いに心を打たれて、このオレまでも胸が熱くなっていく。枯れるぐらい泣いたはずなのに、いつしか、オレの目からも涙が溢れ出していた。

「みなさん、ごめんなさい・・・。みなさんの気持ちも知らず、身勝手のことばかりして。本当にごめんなさい・・・。」

 許しを請うように、オレは償いの涙を流し続けた。拭い去ることができないその後悔の涙は、ソファの上をゆっくり、しっとりと濡らしていく。

 もう包み隠さず、何もかもすべて告白しよう・・・。オレは弱々しく震える声で思いの丈を吐露する。

「オレ、気付いたんです・・・。本当に大切に考えなきゃいけないことを。その答えがこのアパートにあって、住人のみなさんとの絆にあったということを・・・。」

 住人たち全員の耳に届くように、さらに心の奥まで響かせるように、オレは熱意を込めて本心のすべてを打ち明ける。

「オレの方からもお願いします!これからも、みなさんと一緒に・・・。賑やかで、楽しく触れ合える機会をオレにもください・・・!」

 オレが振り絞るように懇願すると、住人たちは誰もが押し黙ったままだった。

 ここにいる全員が涙ぐんでしまい、リビングルームは悲しみに暮れたように湿っぽくなった。静寂の中に交じる鼻をすする音だけが、この張り詰めた室内に空しく響いていた。

 哀感が漂うこの雰囲気の中、涙目ながらも愛らしく微笑んだ麗那さんは、誰かに語りかけるように口を開く。

「・・・もう、いいですよね?管理人さん。」

 麗那さんのその呼びかけに応じたのは、何を隠そう、正式な管理人であるじいちゃんであった。オレが唖然とした顔をする中を、じいちゃんはケラケラと笑いながら室内に入ってきた。

「マサ、やっぱり帰ってきたんじゃな。わしは嬉しいよ。」

「・・・ど、どうなってんの、これ?じいちゃん、これどういうことなの?」

 オレは涙でかすんだままの目で、じいちゃんや住人たちの顔色を伺った。じいちゃんは相変わらずだが、住人たちは揃って気まずそうに苦笑している。

「ゴメンね、マサくん。管理人さんにね、寝ているあなたを拘束するように頼まれちゃって。」

 麗那さんは顔の前で両手を合わせて謝罪する。ますますわけがわからず、オレの頭はさらにこんがらがってしまった。

 じいちゃんは住人たちに感謝の意を伝えると、束縛されたままのオレに事情を説明してくれた。

「住人のみなさんと会えなくなると思ったら、きっと寂しくなって帰ってくるだろうと考えてな。ちょっとばかし隠れて待っておったら、思惑通り、おまえがここで寝ておったわけじゃ。」

 じいちゃんはどうやら、前もって住人たちに根回ししていたようで、オレが帰ってきたことを知るや否や、まるで連絡網を辿るように彼女たちを呼び寄せて、このオレに少しばかり意地悪しようと企んだというわけだ。

 まさかここまでうまくいくとはと、じいちゃんはしたり顔ですっかりご満悦だ。やられた方のオレは冗談じゃないと言わんばかりに、子供みたいに泣きっ面で口を尖らせていた。

「そんなぁ、こっちの身にもなってよ。本当にびっくりしたんだからさ。・・・ということは、ついさっきのことって、まさか住人のみなさんの演技だったということ!?」

 愕然としたオレの質問を一喝するように、じいちゃんがオレの額をパチンを叩いた。

「そんなわけなかろう!みなさんの涙こそ、おまえに対する本当の気持ちじゃろうが。もうおまえはな、管理人という枠を超えた、かけがえのない親友として受け入れてもらっておったんだよ。」

 じいちゃんの言う通りだと、住人たちの誰もが大きくうなづいて答えてくれた。彼女たちの素敵な笑顔に励まされて、オレは感極まってしまい嬉し涙をこぼしてしまうのだった。

「まったく、この泣き虫が。いつまで泣いておるんじゃ。」

「・・・泣いてるのは、縛られた手足が痛いからだよ。」

 住人たちの手によって、オレはようやく雁字がらめから解放された。こんな辱めなことを、まさか二回も体験するなんて思いもしなかった。

 そう心に思っていても、オレは心のどこかで喜びを感じていた。この意地悪で手痛い歓迎こそが、親愛なる人たちのオレへの愛情表現なんだと、そんな都合のいい解釈をしていたからかも知れない。

「ほれ、マサ。住人のみなさんに、改めてお詫びと挨拶をしたらどうじゃ?」

 じいちゃんに急かされて、オレはきちんと立ち上がり姿勢を正す。そして、泣きじゃくった顔を整えてから、これでもかというほど大きく頭を振り下ろした。

「あの、管理人。・・・じゃなく、アパートの一員となります一桑真人です。えっと、不束ものですが、みなさんとこれからも、賑々しい生活ができればと思ってます。どうか、よろしくお願いします。」

 かしこまった挨拶を済ませたオレを待っていたのは、住人たちの弾けるような晴れやかなスマイルだった。彼女たちは歓喜の声を上げながら、オレを取り囲み、手を取り合って喜びを噛み締めていた。

 奈都美に潤。ジュリーさんにあかりさん。そして麗那さん。彼女たちと過ごしたこの時間は、オレにとって絶対に忘れてはいけない貴重な思い出となった。

「お帰りなさい、マサくん。これからもよろしくね。」

 オレの将来はまだわからない。目指すものも見つからない。それでも、オレはきっと、固い絆で結ばれた住人たちとの触れ合いの中で、生き甲斐というものを見出すことができるだろう。

 麗那さんの屈託のない満面の笑顔を見つめながら、オレはそう思わずにはいられなかった。いや、そんな強い信念を抱くことができたのだった。

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