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第六話 三.住人たちとの決別

「・・・本当に、後悔はないんじゃな?」

「・・・うん、覚悟の上で決意したことだもん。オレも男だし、ここで覆すなんて格好悪いから。」

 それから二日経過した土曜日の午後、ここは「胡蝶蘭総合病院」の512号室。退院を間近に控えたじいちゃんの病室だ。

 オレがここへやってきた理由は二つあった。一つは、ようやく完成させた管理日誌をじいちゃんに手渡すため。もう一つは、先日受験した志望校判定テストの結果を報告するためだ。

「それで、いつ出発するつもりなんじゃ?」

「じいちゃんの退院が来週の月曜日だから、翌日の火曜日にしようと思う。」

 病室の窓から眺める景色は、今にも雨が降ってきそうな曇り空。どんよりと濁っていて、今のオレの空しい心のように灰色がかっていた。

 ぐずついた天気のせいだろうか、開け放った窓から入ってくる風はやけに冷たくて、薄着のオレの全身をブルッと縮み上がらせる。オレはなぜだか、この風に身を任せていたい気分だった。

「それにしても、かなりショックだったよ。まさかオレの実力があそこまでとは・・・。やっぱり短期間じゃ知識なんて身に付かないものなんだろうね。」

 今日の午前中のうちに、オレは予備校まで足を運んで、志望校判定テストの結果発表を受け取ってきた。その結果はオレが予想していたものとは違い、浮かれていた自分が恥ずかしくなるほど散々なものであった。

 正答率は思っていたほど悪くはなかったが、問題全体の配点のバランスに左右されて、オレの思惑をはるかに下回る残念な結果となってしまった。

「それでも、成績は多少なりとも上がっておったのだろう?」

「まあね。だけど、志望校の変更を余儀なくされる、不本意な点数だったことは間違いないから。」

 すっかり笑顔を失っているじいちゃんは、外の景色を見つめるオレの寂しい背中を励ましてくれた。しかし、そんな励ましの言葉など、オレの耳を素通りしてしまい、鉛色した東京の曇り空へ消えていくだけだった。

 じいちゃんの言う通り、成績そのものは上がっていたので、一定の成果があったことは否定できない。とはいえ、目標を越えることができなかったのも紛れもない事実であった。

「せめてもの救いは、この短期間でわずかでも成績が上がったことだよ。だから、これが短期間じゃなく長期間だったら、ね。」

 短期集中型ではなく長期に渡る勉強を継続することで、さらなる実力アップも期待できると考えるのは当たり前のことだろう。それこそが、オレが実家に帰るという大義名分に他ならなかった。

 最初こそ、苦々しい顔をしていたじいちゃんだったが、オレの胸のうちをそれなりに察してくれたのか、惜しみつつも理解を示す姿勢を見せていた。

「この前も言ったが、わしにはおまえを咎めることはできん。どうしても帰るというなら、わしは止めはせんよ。・・・だがな。」

 じいちゃんは細い目を鋭くして、睨みを利かせながらオレのことを叱りつける。

「おまえはこのことを、住人のみなさんにどう説明するつもりだ?わしはちゃんと言っておいたはずじゃ。こうなる前に、みなさんに必ず伝えておくようにとな。」

 住人たちに内緒にしていたことを、オレは今日になってじいちゃんに白状した。ニュアンス的には、相談したかったといった方が正解かも知れない。

 もうオレには、住人たちに面と向かって公表する度胸など持ち合わせてはいない。目標に届かなかったことだけならまだしも、逃げるように実家へ帰ることなど今更言えるはずがなかった。

「本当にごめん。住人のみなさんに応援されて、きっと目標ラインに届くだろうとつい調子に乗っちゃったんだ。・・・まさかこんな結末になるなんて、オレ、考えてもみなかったんだよ。」

 煮え切らなかったオレ自身が悪かったことは当然承知している。もちろん、オレの過信がこんな事態を招いてしまったことも猛省している。それを踏まえた上でオレは、じいちゃんからの助言を切望していたのだ。

「わしには、おまえを手助けすることはできんな。」

「え、じいちゃん・・・?」

 じいちゃんの口から飛び出した一言は、このオレにとって冷たくて厳しいものだった。

「おまえ自身で考えて、おまえ自身が決断したことであろう。それなのに、取り返しがつかなくなったから助けてほしいというのは、いささか虫がよすぎるのではないか?」

 管理人という責務を任せたことを詫びるも、管理人の責任だけはきちんと成すべきと、唖然としていたオレをそう諌めるじいちゃん。理にかなったその忠告に、オレは何も反論することができなかった。

 逃げることは誰にでもできる。背けたい現実から逃げてばかりでは、来たるべき大学受験本番を乗り切ることなど到底できないだろう。じいちゃんからそう叱咤激励されると、オレは幾分か勇気が沸いたような気がした。

「ありがとう、じいちゃん。今日の夜、アパートでテストの報告会があるんだ。住人のみなさんが集まるからさ、その時に、じいちゃんの退院のことと一緒に、このことも説明するよ。」

 オレが真摯にきっぱりとそう宣言すると、じいちゃんは安堵したのかようやく口元を緩めてくれた。

「マサ、おまえは管理人を立派に務めてくれた。だがそれは、住人のみなさんの協力があってこそじゃ。そんなみなさんに、恩義と感謝する気持ちだけは絶対に忘れてはいかんぞ。」

 じいちゃんの重みのある御説法を胸に刻み込み、オレは力強くうなづいた。

 オレ一人の身勝手なわがままで、じいちゃんにも住人たちにもこれ以上迷惑を掛けることはできない。管理人代行として最後の花道を飾るべく、オレはすべてを告白する悲壮な覚悟を決めた。

「それはそれとして。マサ、肝心の管理日誌の方はできあがったんだろうな?」

 ここまでの話が長引いたせいか、アパートの管理人を引き継ぐための必要不可欠なアイテム、そう管理日誌の受け渡しのことを、オレはすっかり忘れてしまっていた。

 オレは手提げカバンから一冊のノートを取り出して、ふんぞり返っているじいちゃんにさっと手渡した。

「さすがに毎日のことは無理だけど、いろいろな出来事や珍事、楽しかったことがあった日は、簡潔だけど書き綴ったつもり。今日明日辺りにでも軽く読んでみてよ。」

 この管理日誌だが、管理人の仕事や勉強やらでこれまで何度も挫折していたが、テストの翌日からラストスパートをかけて、昨日の夜にやっとの思いで書き上げることができたのだ。

 管理日誌のページをさらっとめくっていたじいちゃん。思っていた以上に文字があったからか、じいちゃんは感心するような唸り声を上げていた。

「こうやって見てみると、おまえが来てから、アパートではいろんなことがあったんじゃな。」

「そうだね。毎日のように慌ただしくて、ドタバタして大変な目に会ったけど、とても充実した三ヶ月だったなぁ。」

 オレが感慨深くそんなことをつぶやくと、じいちゃんにもそれが伝わったらしく、顔をしわくちゃにしながら微笑んでいた。それにつられるかのように、オレもつい穏やかな笑みをこぼしてしまうのであった。

「それじゃあ、じいちゃん。オレ、そろそろアパートへ帰るよ。」

「そうか。住人のみなさんによろしく伝えておいてくれ。」

 開けっ放しの窓を閉じようと、病室の窓際の方へと近づいていくオレ。目に映った午後の空はまだ曇っているものの、その隙間からわずかながらに青空が覗いていた。この様子だと、傘の心配は必要なさそうだ。

 しっかりと窓を閉め切って、じいちゃんとの別れを済ませたオレは、病室のドアの前でふと立ち止まる。そして、住人たちとの素敵な巡り合わせをくれたじいちゃんに、オレは心を込めた感謝の思いを口にする。

「オレさ、東京にやってきたことも、アパートの管理人をしたことも後悔なんかしてないよ。住人のみなさんとの楽しい思い出は、オレの一生の宝物になるし。入院がきっかけだから申し訳ないと思うけど、じいちゃん、アパートに呼んでくれて本当にありがとう。」

 オレはあまりの照れくささに、じいちゃんに背を向けたまま病室を出ていった。

 去り際に、じいちゃんの優しい声が聞こえたような気がしたが、それでも、オレは振り返ることはなかった。まっすぐ前を向いて行動しろという助言が、オレの心までしっかり届いていたからなのかも知れない。


 =====  * * * *  =====


 その日の夜は風も落ち着き払って、水を打ったような静けさに包まれていた。

 夜7時になろうかという時刻、リビングルームには少しずつ住人たちが集まり、ささやかながらも賑わいを見せ始めていた。

 オレはこの日の午後、暇を潰すように市街地を当てもなく歩き続けて、ついさっきアパートに帰ってきたばかりだった。ただ何となく、この時間まで住人たちと顔を合わせにくかったのだ。

「そろそろだな。」

 管理人室に一人こもっていたオレは、室内にあるアンティーク調の壁掛け時計を眺めながら腰を上げる。ゆっくり深呼吸をしながら、オレは住人たちが待機しているリビングルームへと足を向けた。

 管理人として重大な職務を遂行するため、そして、じいちゃんとの約束を守るために、オレはいよいよリビングルームのドアの前まで辿り着いた。

「・・・えーと、まずはじいちゃんの話をして、それから、テストの結果の話をして・・・。」

 オレはアパートへ帰ってくるまでに、報告会でしゃべる台本を練り上げていた。その台本をしっかり頭に叩き込んだにも関わらず、いざ報告会を直前に控えると、どういうわけか頭の中が真っ白になってしまう。

 こんな無駄なことを繰り返しても時間が過ぎるだけだ。オレは踏ん切りをつけるように、顔を両手でパチンと叩いた。

「失礼します・・・。」

 それはもう、怖じ怖じしながらドアを開けてみたオレ。すると室内から、オレの声をかき消さんばかりの盛大な声が返ってきた。

「マサくん、お疲れさま。ちょうどみんなも集まったところよ。」

 怖気づいているオレを、麗那さんは晴れやかな笑顔で出迎えてくれた。

 オレは引き寄せられるかのごとく、住人たちが座っているテーブルのそばまでやってきた。ついに住人たちを前にして、オレの鼓動が荒くなり緊張感がピークに達する。

「あれぇ。マサ、もしかして、すっごく緊張しちゃってる?」

「ホントにカチンコチンだね。そんなに強張らなくても大丈夫だよ。」

 潤と奈都美のそんな声が聞こえてきた。オレをリラックスさせたかったのか、彼女たちは愛嬌を振りまいて、この場の雰囲気を明るくしようとした。

「そうヨ。どんな結果だったとしても、わたしたちは怒ったり笑ったりしないワ。」

「結果次第だけど、わたしたちは労い役になったり、慰め役になったりするだけだものね。」

 ジュリーさんとあかりさんもそう気遣って、オレの体の硬直を解きほぐそうとしてくれた。

 住人たちの優しい心配りのおかげで、口が開けるぐらい緊張が和らいだオレは、台本をなぞるように、じいちゃんの話題から話し始めることにした。

「テストの報告をお話する前に、一つだけ、みなさんに嬉しいお知らせがあるんです。」

 嬉しいお知らせと聞くなり、目を輝かせてざわつき始める住人たち。何かな何かな?と、はしゃぐ姿が無邪気に見えてとても微笑ましい。

「来週の月曜日なんですけど、じいちゃんがようやく退院して、アパートへ帰ってくることになりました。」

 その吉報に、住人たちは皆ほっこりしながら穏やかな笑顔をしてみせた。喜びに沸き立つみんなを見ていると、じいちゃんの意外な人気ぶりについ驚かされてしまう。

「ハッちゃん、やっと帰ってくるんだぁ。これは盛大に歓迎してあげないとだねー。」

「この前お見舞いした時、もうすぐだろうって言ってたけど、ついに帰ってくるのかぁ。」

 潤もさることながら、じいちゃんを慕っていた奈都美にしたら喜びもひとしおだろう。二人とも拍手しながら、嬉しさを実感しているようだった。

 もちろん、ジュリーさんとあかりさん、それに麗那さんも例外ではない。お世話したりされたりの管理人の到着を心待ちにしていたはずだ。

「管理人さんが帰ってくれば、マサくんも、今以上に受験勉強に励めるわね。」

 麗那さんのその言葉に、オレはもどかしそうにうなづくことしかできない。渇き切った風に吹かれたような気がして、オレの焦れる心がより一層痛々しかった。

「でも、ハッちゃんが帰ってくるってことは・・・。マサはどこで暮らすことになるノ?」

 ジュリーさんのその疑問を耳にした瞬間、オレの全神経に戦慄が走る。まるで金縛りにあったように、オレの全身が身動きできないぐらい凍りついた。

「管理人室ってどう見ても一人部屋だもんね。じゃあ、マサはどうなっちゃうのぉ!?」

 潤の戸惑うような大声で、このリビングルームが張り詰めた緊迫感に覆われてしまった。

 オレは当たり障りない答えを必死になって思い巡らせる。そして、オレは一つの結論に至った。このタイミングで打ち明けた方が、話しやすさという点でも丁度いいのではないかと。

 いざ覚悟を決めて、オレが告白しようとした矢先だった。そんなことなどお構いなしに、奈都美が何もかもわかっているかのように口を開く。

「それなら心配ないよ。ほら、二階に一つだけ空き部屋があるでしょ。マサにはそこに移ってもらうつもりだって、おじいちゃんがこの前そう話してたもん。」

 住人一同の安堵の溜め息で、このリビングルームにまた穏やかな空間が戻ってきた。オレからしたら、残念ながら戻ってしまったと言うべきか。このままでは、ますます打ち明けにくい雰囲気に陥ってしまいそうだ。

 だからといって、オレにはもう後戻りできる道など存在しない。前を向いて行動しろというじいちゃんの諫言だけが、塞ぎ込むオレの脳裏に浮かんでは消えていた。

「さぁ、次はいよいよ、マサくんの結果報告かな?」

 いつになく明るく振る舞う麗那さん。普段なら喜ばしく思えても、今日ばかりは、その無垢なまでの微笑みが痛いぐらいにオレの胸を締め付ける。

 他の住人たちも一斉におしゃべりを止めて、オレの結果報告を今か今かと待ちわびているようだ。オレはまさにこの時、死刑執行台に上っていくような気分だった。

「・・・あの、みなさん。志望校判定テストの結果なんですけど。・・・一言というか簡単に言うなら、その、成績そのものは上がったわけなんですが。どうもこう、目標というか、達成感というか・・・。」

 オレはこの話の終着点を見出せず、まどろっこしい言い方しかできない。焦る思いばかりが募ってきて、オレの背中は汗でグッショリと湿っていた。

 気後れするオレにさぞ苛立っているだろうと、住人たちの様子をチラッと伺ってみると、どういうわけか、みんながみんな表情を緩めて微笑していた。オレはその様子に、驚きあまって絶句してしまった。

「マサくん、大丈夫だから。」

「は、はい・・・?」

 麗那さんの一言が理解できず、オレは耳を疑ったように問い返していた。すると、彼女は他の住人たちに目配せしてから、住人みんなの真心を込めた気持ちを伝えてくれた。

「どんな結果でもいいの。良かったらそれでいいし、悪かったらそれも仕方がない。わたしたちが知りたいのは、言い訳なんかしない正直なままの真実なの。だから、正々堂々とすべて話してみて。わたしたちは、どんな結果もすべて受け入れてあげるから。」

 不思議でならなかった。麗那さんからそう励まされたオレは、苛まれていた心までも癒されて、本当に伝えるべき真実を素直なままに打ち明けていた。

 成績こそ上がったものの、目標としていたライン越えを達成することができなかった。そんな他愛もない言葉を口にするまで、オレはいったいどれだけ苦悩の時間を重ねてきたのだろうか。

 ここまで真実を語ることができたオレに、もう迷いなどなかった。麗那さんならきっと受け止めてくれる。そして住人たちもきっとわかってくれる。束縛も干渉もされない、一人きりの受験生に戻ることを・・・。

「残念だったね。・・・でも、受験本番はまだこれからだから。わたしたちは全面的に協力するよ。」

「成績も上がったわけだし、それほど卑屈になることはないでしょう。この経験はこの後きっと役立つわ。」

 麗那さんとあかりさんがオレのことを慰める中、潤とジュリーさんがここぞとばかりに叫び声を上げる。

「じゃあさぁ、みんな集まってるし、これから残念会に移行しようかぁ!」

「それナイスアイデア!マサの前途を祝して、残念パーティやりましょう。」

 主役であるオレなどに目も暮れず、住人たちはみんな声を揃えて賛成の意志を示した。ただ乾杯がしたかっただけかも知れないが、彼女たちは彼女たちなりに、このオレのことを労おうとしてくれたのだろう。

 残念パーティのため、おつまみや飲み物の準備をしようとする住人たち。オレはこの上なく表情を引き締めて、席を立とうとした住人たち全員を呼び止める。

「みなさん、ちょっと待ってもらえませんか。もう一つ、大事なお話があるんです。」

 住人たちはそっと、上げた腰をテーブル椅子に戻す。不穏な顔色を浮かべつつも、オレの話に耳を傾ける姿勢を取ってくれた。

「さっきお話した通り、来週から管理人のじいちゃんが帰ってきます。もうじいちゃんから了解はもらってますが、オレはこのアパートの管理人代行の職を辞することになります。」

 さっきまでと違って、オレは言い淀むことなくスラスラと言葉を並べていく。住人たちは表情そのままに、口を閉ざしたままだった。

「もう大学受験に失敗できないオレにとって、今より成績をアップさせるためには、今よりも勉強に集中できる環境が必要だとわかりました。それも短期間ではなく、もっと長い期間が必要だということを。」

 オレはついに、悩みに悩み、苦しむだけ苦しんだ決意を述べて、管理人代行として最後の責務を果たす。

「・・・そのためにオレは、新潟の実家に帰ることにしました。」

 そう言い切ると、オレは口をつぐんで目をグッと閉じた。ただやり切れなくて、住人たちのことを目視することができなかった。

 ほんの少しばかりの沈黙がリビングルームを包み込む。住人たちは何が起こったのかわからなかったのか、キョトンとして呆気に取られたような顔をしていた。

「・・・マサくん、それどういうこと?」

 口火を切ったのは、震える声でそう尋ねてきた麗那さんだった。オレを見つめる彼女の瞳には、動揺している気持ちがありのままに映っている。

 オレが伏し目がちに、その言葉通りですと消え入りそうな声でつぶやくと、他の住人たちは一斉に怒気の混じった文句をぶつけてきた。

「ちょっと待って。いきなり何言ってるの!?」

「そうだよぉ!そんなこと急に言うなんて、わけがわかんないよぉー!」

「こんなこと言うの、悪ふざけ以外なにものでもないわヨ!」

 今にも掴みかかってきそうな住人たちの憤りに、オレはたじろぐように後ずさりする。彼女たちの責め立てる声が無数の矢となって、オレの苦渋に満ちた心に深く突き刺さっていた。

 ギャーギャーわめく住人たちをなだめたのは、冷静沈着を押し通していたあかりさんだった。

「管理人、あなたがその決断に至ったわけを、わたしたちが納得できるよう、きちんと説明してくれる?」

 あかりさんの冷徹な眼差し、そして他の住人たちの睨みに耐えながら、オレはここに行き着いたわけを包み隠すことなく明かしていく。

「志望校判定テストを受験する前から決めていたんです。・・・目標ラインを越えることができなかった時は、実家に帰って、もう一度一から出直そうと。」

 こんな大事な話を今日まで言えなかったのはオレの責任だ。オレはその過失について謝罪しながら、住人たちの協力をもってしても、目標を達成できなかったことに悔しさをにじませた。

 大学受験に二度失敗しているオレにとって、三度目の失敗は絶対に許されない。何を最優先すべきか熟考し、苦悶した上で導き出した結論だったと、オレは神妙な面持ちでそう話を続けた。

「でも、これだけは言わせてください。オレはこのアパートから、みなさんのもとから離れたかったわけじゃないんです。できることなら、これまで通りに暮らしたいとずっと思っていました。」

 それなのにどうして?と、麗那さんは腰を上げながら息巻くように訴えかけてくる。

「勉強だったら、二階の空き部屋に移ってからでもできるじゃない。それに、管理人のお仕事はなくなるわけだし、誰にも邪魔されずに長い時間集中できるはずよ。」

 麗那さんの申し出に、他の住人たちもそうだそうだと言いながら相槌を打つ。オレのことを引き留めたいという熱意が、彼女たちの寂しげな表情からひしひしと感じ取れた。

 オレはこの時、住人たちの親愛の情が言葉では言い表せないぐらい嬉しかった。しかしその優しさが、後戻りできないオレの心情に深い悲しみを刻み込んでしまう。

「・・・正直、自信がないんです。このままここにいたら、オレはきっと、みなさんに迷惑を掛けてしまう。」

 住人たちとの語らいや触れ合いを意識するあまり、学習に没頭できず情緒不安定になり兼ねない。それが延いては、アパート全体に険悪なムードを生み出し、住人たちにいらぬ気遣いをさせてしまうことになる。これこそが、オレの自信が持てない根拠であり本音でもあった。

「それは、あなたの利己主義な考え方だわ。わたしたちに相談もなく勝手に決めたんだもの。」

「本当にそうだワ。それに今になって、メンタルの弱さを言い訳にするのはおかしいわヨ。」

 あかりさんとジュリーさんは、そんな手厳しい口振りでオレを批評した。潤と奈都美からも辛辣な小言を吐かれてしまい、オレはもう発言することができずうなだれるしかなかった。

 ここリビングルームにギクシャクした暗雲が垂れ込める。オレが公表さえしなければ、誰もがこんな胸が張り裂けるような思いをしなくて済んだのに・・・。今になって思っても、もうあとの祭りであった。

 重苦しくて、息詰まるこの沈黙を破ったのは、麗那さんの問い詰めるような低音の声だった。

「マサくん、もう一度だけ答えて。・・・この話、本気なのね?」

 オレは力を込めて大きく頭を振り下ろす。この期に及んで、もう帰りませんなどと言えるはずもない。オレも立派な男だ。心が揺らいだぐらいで、一度決心したことを覆したりはしない。

 オレの不退転の決意を感じ取ったのか、麗那さんは意を決したように、オレの置かれた立場も考えてあげようと、他の住人たちを見つめながらそう呼びかけてくれた。

「マサくんはもともと、入院した管理人さんの代わりなんだもの。その役目が終わる今、わたしたちの気持ちだけでものを言っちゃ、それこそ自分勝手だと思うわ。」

 住人一人一人を慰めるように、そして励ますように、麗那さんは穏やかな表情で、このオレを気持ちよく送り出そうと言い聞かせていた。

 あかりさんにジュリーさん、それに潤に奈都美も、みんな唇を噛みしめながら押し黙っている。麗那さんに説き伏せられてはやむなしか、みんな険しい表情をしたまま、うなづく形で認める意志を表現してくれた。

「・・・みなさん、ありがとうございます。この三カ月間、お世話になりっぱなしで、お礼は言い尽くせないほどあります。オレ、帰ってからもがんばりますから、みなさんもお体に気を付けてがんばってください。」

 それはとても寂しくて、物悲しい決別の挨拶だった。住人誰一人として、晴れやかな表情を見せてはくれず、口先だけで認めてもらった別離であることを印象付けていた。

 結局残念パーティーは中止となり、住人たちはうつむき加減で、多くを語らぬままリビングルームを出ていってしまう。明るい声も、暖かい言葉も何も残さないままに。

 住人たちが去っていくのを、居たたまれない思いで見送るオレ。そんなオレの肩に手を触れて、溜め息交じりにも小さく笑みをこぼした麗那さん。

「・・・みんな、気持ちの整理ができないだけ。もちろん、このわたしもね。」

 次の瞬間、麗那さんはとても切なさそうな横顔を向けてきた。

「・・・もっと早く、話してほしかった。わたしたちとマサくんとの絆って、こんなにちっぽけで儚いものだったのかな。」

 麗那さんは囁くようにそう言葉を残し、オレの横をすり抜けて、リビングルームから姿を消してしまった。オレは打ちのめされる思いに、彼女を呼び止める声すら出すことができなかった。

第六話は、これで終わりです。

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