第二話 一.二年前の悲しい過去
週をまたいだ火曜日の午前10時過ぎ。晴れ渡る青空を車窓越しに眺めるオレは、とある場所に向かう電車の中にいた。
オレの隣の座席には、目を閉じてうたた寝している紗依子さんがいる。これからオレたち二人は、麗那さんと待ち合わせている阿佐ヶ谷へ向かう途中だった。
アパートの最寄駅で出会ってからここまでの間、あまり会話が弾まなかったオレと紗依子さん。挨拶や世間話程度はあっても、麗那さんがオレたちを呼び寄せた理由まで、お互い触れることはなかった。
「・・・麗那さん、オレに話しておいた方がいいって言ってたけど。どんな話なんだろう?」
心の中でそうつぶやき、胸のうちは穏やかとは言えなかったオレ。期待というよりはむしろ、不安の思いの方が強かったことは間違いない。
それから十数分経ち、オレたちを乗せた電車は目的の阿佐ヶ谷駅に到着した。そして、老若男女さまざまな乗客と一緒に、オレたち二人は駅北口の改札を越えていく。
駅前を象徴するファーストフード店、ショッピングスーパーらしき建物。オレの目の前には、そんなありきたりな光景が広がっていた。
「マサくん、こっちよ。」
オレにそう声を掛けて、商店が軒を連ねる細い路地を指差している紗依子さん。
「この通り沿いのお店で買い物があるから、ちょっぴり寄り道させてね。」
「それは構いませんけど、買い物って何を買うんですか?」
ついてくればわかると一言告げると、紗依子さんは小さく微笑みながら歩き始める。判然としないことに戸惑いつつ、オレは彼女の後ろ姿にただついていくだけだった。
昔ながらの風情を残す商店街へと入っていくオレたち。自動車同士がすれ違えないほどの通り沿いには、こじんまりとした小さなお店が寄り添うように点在していた。
店舗の前でせっせと清掃している従業員。のどかで楽しそうに会話している買い物客たち。そんなよくある情景が、アットホームなこの商店街の親しみやすさを物語っていた。
「ここで買い物していくから。マサくんはここで待っててくれるかな。」
紗依子さんがそう言いながら足を踏み入れたお店は、色彩豊かな装飾を飾り立てたおしゃれな花屋だった。
「花って、麗那さんに贈るつもりなのかな。・・・今日、麗那さんの記念日か何かだっけ?」
紗依子さんを待っている間、オレは腕組みしながら考え込んでいた。
麗那さんの誕生日は、季節がまったく反対の12月と記憶しているが、その他の記念日なんて誰からも聞いたことがない。それに、わざわざこんなところまで足を運んで、彼女に花を贈るというのもどうも違和感を覚える。
そんなことを思い巡らしているうちに、花束を手にした紗依子さんが戻ってきた。
「お待たせ。さーて、行きましょうか。」
オレの目に留まった花束は、白と黄色が目立つ落ち着いた色合いのもので、花に関して浅学なオレでも、贈り物にしては少しばかり地味ではないかと感じさせた。
「あの、紗依子さん。・・・オレたち、これからどこへ行くんです?その花束は、麗那さんか誰かへの贈り物なんですか?」
あらゆることが謎めいてしまい、オレは焦れる気持ちを抑えきれず、つい紗依子さんに質問攻めしてしまう。
「ゴメンね、マサくん。詳しいことは麗那と会ってからでいいかな。・・・わたしがあまりでしゃばるのもよくないと思うから。」
難解な話ではないからそう身構えないでと、紗依子さんはオレのことを気遣ってくれたものの、残念ながらオレの胸騒ぎは治まることはなかった。
「目的地までもう少しかかるけど、めげずにがんばってついてきてねー。」
暑い日差しが降りかかる中、紗依子さんは明るく振る舞って商店街を闊歩する。そんな彼女にしがみつくような思いで、オレもにじむ汗を拭き取りつつ足を踏み出していった。
===== * * * * =====
阿佐ヶ谷駅を後にしてから30分ほど経過した。正午が迫っているせいもあってか、蒸し暑さは今までより倍増している。
窮屈な通りと大きな交差点を、幾度となく渡り歩いてきたオレと紗依子さん。いつの間にか、木々が生い茂った雄大な場所へと辿り着き、オレたちはその木々が織り成す新緑の眩しさに目を奪われていた。
人の声も自動車のエンジン音も届かない静かな空間。涼しそうな木陰に身を任せれば、蝉の鳴き声だけが耳の奥に染み入ってくるようだった。
「ふぅー、心地いいな。汗がゆっくり引いていく感じがする。」
この静けさからくる清涼感に、心身ともにすっかり癒されていたオレ。そんなオレの目先に、貫禄のある鉛色した瓦屋根が姿を現した。よく見てみると、木造の壁に囲まれた寺院仏閣の本殿のような佇まいをしていた。
「マサくん、ご苦労さま。ようやく到着したわよ。」
「え?・・・到着って、ここお寺じゃないですか。」
紗依子さんに手を引かれるように、オレはそのお寺の境内へと足を踏み入れる。すると、さっき目にした本殿が悠然と構えていて、まるでオレを押し留めるかのような厳めしさを放っていた。
その本殿のすぐ隣には墓地が築かれており、先祖代々が眠っている墓石が所狭しと建立されていた。
「このお花、プレゼントじゃなくて、お墓参りのためだったんですね。」
ここへ来た目的がわかったとしても、お参りすべくこの墓地に眠る人が誰なのか、当然ながらオレには知る由もない。
黙るように口を閉ざし、先人を敬うように心を静かにするオレたち。踏みしめる足音にも注意を払い、故人のお墓を横目に一歩一歩足を進めていく。
丁度墓地の真ん中辺りだろうか。しおらしい花で慎ましく飾り立てた、光沢のある御影石のお墓がオレの目に留まった。そのお墓の前にはたった一人、手を合わせてしゃがみ込んでいる女性の姿があった。
「麗那、遅くなってゴメン。待たせちゃったかな?」
紗依子さんの声に気付いた麗那さんは、静かに立ち上がり優しい笑顔でこちらを見る。
「待ってないよ。わたしもついさっき着いたばかりだから。二人とも、暑い中こんなところまで呼び出しちゃってごめんなさい。」
オレと紗依子さんは、誰とも知らぬお墓の前で麗那さんと合流した。
今日の麗那さんは、サングラスや帽子といった正体を隠すアイテムもなく、あまり見せることのない落ち着きのある容姿だった。粛然たるお墓参りという行為に、それなりの敬意を払っていたのだろう。
麗那さんがお参りしたお墓を見てみると、墓石の正面に彫り刻まれた文字はオレの聞き覚えのない苗字だった。ということは、これは彼女の親族のお墓ではないということか?
「それじゃあ、わたしもお参りさせてねー。」
花束と線香を墓前に手向けて、一人屈んでお参りをする紗依子さん。二年ぶりですねという彼女の一言を聞く限り、ここに眠る人物が彼女の知り合いであることは間違いなさそうだ。
ここまでついてきて、オレだけお参りしないのも無礼極まりなく思い、オレも紗依子さんと入れ替わりに墓前に手を合わせた。
「・・・麗那さん。オレをここへ呼んだ理由、話してくれませんか。」
オレがそうお願いすると、麗那さんはためらうことなくうなづく。日射で暖かくなった墓石に手を宛て、彼女は寂しさを瞳に宿して語り始める。
「このお墓にはね、わたしの人生においてかけがえのない人が眠っているの。・・・少し前に話したけど、わたしのことをとても大切にしてくれたモデルの先輩よ。」
麗那さんから語られた事実に、オレは不思議なぐらい唖然としてしまった。その先輩が業界にいないとは聞いていたが、まさかすでに亡くなっているとは思いもしなかったからだ。
「丁度二年前。・・・あの日も、今日みたいに朝から暑い一日だったわ。」
遠くを望むような視線を青空に向けて、麗那さんはその先輩のことを思い偲んだ。
モデル事務所に専属契約して間もない頃、右も左もわからない麗那さんに声を掛けてくれたのが、彼女が慕うその先輩だった。三つ年上だったという先輩は、まだまだ垢抜けない彼女のことを、友達のようにとてもかわいがってくれたそうだ。
同じ所属事務所だったこともあり、彼女たち二人は仕事面だけでなく、趣味や恋といったプライベートな面まで触れ合いぐらい仲良くなっていったという。
「まだまだ未熟だったわたしに、モデルのノウハウを厳しく、時には親切丁寧にアドバイスしてくれた。一人前のモデルとしてわたしがここまで来れたのは、先輩のおかげだとはっきり言えるわ。」
思い出を振り返り、ほんのりと笑みを浮かべる麗那さん。しかし、その笑顔はいつもの彼女のものとは違い、影のある儚さをにじませていた。
紗依子さんはこの辺りの経緯をもう知っていたのだろう。口をつぐんだまま、麗那さんに真剣な眼差しを向けていた。
「雑誌の専属モデルのお仕事も決まって、こんなわたしも世間に認めてもらえるようになった頃かな。先輩の身辺で、ちょっとしたスキャンダルが持ち上がったの。」
麗那さんが言うスキャンダルとは、とある芸能雑誌にすっぱ抜かれた不倫疑惑に関するネタだった。記事そのものは小さかったものの、モデル業界ではてんやわんやの騒動に発展してしまったらしい。
アイドルではよくあることだが、色恋沙汰が表立ってしまうと、世間一般ではイメージダウンになり兼ねない。それは、女性らしさを売り物にするモデルにおいても例外ではなかった。
噂が噂を呼び、ダークな印象が根付いてしまった先輩は、いつしかモデルという華やかな舞台から干されてしまう。芸能界の舞台裏に潜む、過ちを犯した者への容赦ない仕打ちを象徴した出来事と言えよう。
「わたしは、先輩のことをずっと信じていた。だから、そんなの気にしないようにって。素敵なお仕事もきっと来るからって応援し続けたの。・・・だけどね、先輩は誰に対しても疑心暗鬼になっちゃって、このわたしにも強く当たるようになってしまったの。」
麗那さんの語らう悲しげな声が、耳を傾けるオレの心に痛いほど伝わってくる。それぐらい、先輩のことを慕う彼女の想いが大きかったのかも知れない。
素敵な仕事がどんどん増えていく麗那さん。それとは対照的に、日を追うごとに仕事が激減していく先輩。その隔たりが心に葛藤を生み、彼女たち二人の友情に大きな亀裂が生じていった。
「大好きだった先輩に激しく罵倒されたり、妬みや恨みを叩きつけられて、正直言ってショックだった。辛さなんか通り越して、とても心が痛かった。・・・こんな些細なきっかけで人間関係が壊れたことに、わたしは悲しい気持ちでいっぱいになったわ。」
そんな悲しみに暮れる麗那さんを、思いも寄らぬさらなる悲劇が襲うことになる。
モデルとしての地位を失い、見る影もないほど憔悴しきっていた先輩。彼女は二年前のある日、誰にも用件を伝えることなく、レンタカーを借りて一人どこかに出掛けたそうだ。
夏の日差しがアスファルトを照りつける午後、ついに事件は起こった。先輩の運転するレンタカーが対向車線の自動車との接触を原因に、ガードレールに衝突するという大事故に遭遇してしまう。
「事務所からの連絡で知った時、わたし、気が動転してただ震えるだけで何もできなかった。すぐにマネージャーに迎えにきてもらって病院に向かったの。・・・驚いたことにね、運び込まれた病院というのが、駅東口の胡蝶蘭総合病院だったのよ。」
不幸中の幸いというべきか、その事故はオレたちの住む街の一角で起きたらしく、負傷した先輩は付近にあった「胡蝶蘭総合病院」に収容された。ただ、都内に暮らす先輩がなぜその街までやってきたのかは、麗那さんや関係者たちにもわからなかったという。
「病院に駆け付けた時、先輩は救命救急室から出てきた後だった。・・・口に呼吸器を付けて、顔中を血で真っ赤に染めた先輩の姿、わたし未だに目に焼き付いてる。」
そう口にすると、麗那さんは気分が悪くなったのか顔をしかめてしまった。しかし、すぐに気丈に振る舞って見せて、彼女は二年前の沈痛な記憶を辿っていく。
先輩は一命こそ取り留めたものの、昏睡状態に陥っており危険な状況が続いていた。集中治療室に移された後も、病院側による懸命な処置が行われたが、危篤状態のまま翌日の朝を迎えることになる。
入院してから毎日、張り裂ける思いでお見舞いに駆け付けた麗那さん。集中治療室のドアの向こうにいる先輩に、もう一度笑顔を見せてと必死に祈り続けたが、担当してくれた医師や看護婦から、先輩の意識が戻ったという最良の知らせを聞くことは、生涯叶うことはなかった・・・。
「・・・オレが初めてアパートに来た日、あの時、麗那さんが話してくれた入院していたお友達って、この先輩のことだったんですね。」
「うん。・・・その時、わたし、お友達は退院したって嘘ついたよね。ごめんなさい。・・・このこと、もう二度と振り返りたくなかったから。」
悲しみを堪えきれないのか、この告白を後悔していたのか、閉ざされた麗那さんの目尻から数滴の涙がこぼれ落ちる。太陽の光に反射したその涙は、まるで浄化していくようにキラキラと銀色に輝いていた。
潤んだ瞳を拭おうと、ハンドバッグからハンカチを取り出そうとする麗那さんに、それよりも早くハンカチを差し出したのは、彼女の無二の親友の紗依子さんだった。
「ありがとう、紗依子。」
「忘れたい過去は誰にでもあるだろうけど、忘れちゃいけない過去もあるんじゃないかな。」
紗依子さんは意味ありげにそうつぶやくと、うつむいた麗那さんの頭を優しく撫でていた。
「麗那、あなたはあの日、ひどく落ち込んで、もうモデルも辞めたいって現実逃避してたよね。・・・そんなあなたがここまでモデルを続けてこれたの、先輩の死を乗り越えられたからじゃないの?」
先輩を亡くした喪失感に苛まれる麗那さんを、紗依子さんや事務所のマネージャーは親身になって励ましたそうだ。応援してくれるファンのためにも、モデルを続けていくことが先輩への最高の供養になるだろうと。
心の通い合った仲間たちに支えられて、改めて自身の存在価値に気付かされた麗那さん。しばらく悩み続けた末、彼女はもう一度だけ、カメラの前で被写体になることを決意したという。
「それからかな、わたしがお仕事で弱音を吐かなくなったの。・・・どんなに忙しくても、疲れ果てても、先輩が遠くの空から、しっかりしなさいってわたしのことを鼓舞してくれてる気がして。」
そんな思いを打ち明けて、麗那さんは青く澄み切った上空を見上げる。先輩の姿こそ見えないものの、心の奥から感謝の意を伝えるような顔をしていた。
麗那さんの人生において、公私ともども多大なる影響を与えたであろうその先輩。オレは両手をしっかりと合わせて、もう二度とお目にかかることのないその先輩を心から弔った。
「麗那さん。もう一つだけ尋ねてもいいですか?」
オレからの問いかけに、麗那さんは控えめにどうぞと一言だけ口にする。
「どうして、オレにこの話をしてくれたんですか。思い出したら辛くなることわかってるのに、どうしてオレに打ち明けてくれたんですか?」
即答しないまま、麗那さんは考え込むような素振りをしている。そして、オレの方へチラッと顔を向けると、彼女は含みのある言い回しで答えてくれた。
「マサくん、わたしに触れたくない過去があること、薄々感づいていたんじゃないかな。」
麗那さんが語るいくつかの場面、それは、モデル同士の人間関係のことでいきなり態度が変わってしまったこと。そして、ドラマの交通事故のシーンを見て急に吐き気をもよおしてしまったこと。そのすべてが、オレの記憶の中にしっかりと残っていた。
「ほら、わたしが紗依子の彼のことで隠し事してた時、マサくんの探偵ばりの誘導尋問で結局バレちゃったことがあったでしょ。・・・だからね、下手に勘ぐりされる前に、すべて話しておいた方がいいのかなぁって思ったの。」
「そうだったんですか。・・・すいません、オレって気になってしまうと、人のプライベートな部分でもとことん詮索しようとする性分のようでして。実際のところ、結構反省してます。」
麗那さんは優しい眼差しを向けながら、自省しているオレに見えるように、右手の人差し指を一本だけ突き立てる。
「すべてを打ち明けたわけはね、もう一つあるんだよ。」
「・・・もう一つ、ですか。」
何だろうと首を捻るオレに、麗那さんはもう一つの理由について話してくれた。
「マサくんはこれまで、奈都美や潤にジュリー、そして紗依子が抱えていた苦悩とか戸惑いを、彼女たちと向き合いながら解決に導いてくれたでしょ。マサくんが接してくれなかったら、今頃みんなきっと、純粋に笑い合ったりなんてできなかったと思うの。」
麗那さんはそう心情を述べて、感慨深そうに表情を緩めている。そばにいる該当者の紗依子さんも、ちょっぴり照れ笑いを浮かべつつ、麗那さんの話に耳を傾けていた。
「だからね。・・・マサくんなら、きっとわたしの悩みもいつか解決してくれるかも知れないって。ちょっと図々しいと思うけど、そんな気分になっちゃったの。」
そんな胸のうちを告白して、愛くるしくはにかんだ麗那さん。その時の彼女の表情は、今日出会ってから一番輝いている彼女らしい微笑みだった。
オレはつい恥ずかしくなって、照れ隠しとばかりに髪の毛を掻きむしる。その心の中では、期待と信頼を寄せてもらっていることに、この上ないぐらい絶大な喜びを感じていた。
「お墓参りも済んだし、お話も一通り話し終えたし。・・・というわけで、お腹も空いてきたからランチにしましょうか。」
麗那さんからのお誘いに、ふと腕時計をチェックしてみたオレ。今の時刻は、正午12時をわずかに過ぎたあたりだった。
「ここ阿佐ヶ谷で一番と言われる、おいしいお店に連れていってあげる。もちろん公言通り、今日のランチはわたしがごちそうしちゃう。」
おごりだおごりだと手を叩き、ルンルン気分で舞い踊る紗依子さん。そんな彼女を、場所をわきまえなさいと諌める麗那さん。そして、そんな彼女たちの喜ぶ姿を見つめるオレは、とても晴れやかで穏やかな気持ちになっていた。
風雨による汚れも垢も綺麗に拭き取られ、この墓地で一番ピカピカだった先輩のお墓。しとやかな色合いのお花たちを両手に抱えて、去りゆくオレたち三人を暖かく見送ってくれていた。
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