第一話 三.愛らしきライバル
翌日の朝、喉の渇きに我慢できず目を覚ましたオレは、パジャマ姿のままリビングルームへと向かう。
リビングルームを覗き込んでみると、まだ早い時刻だけに人影はなく、ソファの上に猫のニャンダフルが寝そべっているだけだった。
オレは遠目がちに、ニャンダフルにおはようと声を掛けてみる。すると、ニャンダフルはオレを一瞥した後、眠るようにゆっくりと瞳を閉じた。猫は一日のほとんどを寝て過ごすと言うが、どうやらそれも虚言ではなかったようだ。
「今日もいい天気になりそうだ。」
日差しの当たる大きな窓を開けると、心地よいそよ風がカーテンを揺らし、汗ばんだオレの体をほんのり冷ましてくれた。とはいえ、直射日光の勢力は強大で、今日も暑い一日になることを物語っていた。
「さーて、麦茶、麦茶っと。」
冷やしておいた麦茶を手にして、溢れんばかりのグラスで一気に飲み干すオレ。渇いた喉を潤すこの爽快さは、何ものにも代え難い幸福感と満足感があった。
気分もスッキリして、オレが流し台でグラスを洗っている最中、リビングルームにのそのそと入ってくる住人がいた。ぼさぼさの茶髪を紐で結い、部屋着のジャージをだらしなく着ている潤だった。
「マサ、おはよぉー。朝っぱらから暑いねぇ。」
「おはよう、潤。今朝は随分早いじゃないか。」
潤もオレと同じく、この暑さに喉がカラカラで寝ていられなかったそうだ。あまり寝付けなかったのか、彼女は口に手を宛てて大きなあくびをしている。
「ニャンダフル、おっはよー!」
ご主人様の姿を見るなり、ニャンダフルはムクッと起き上がると、まるで母親に甘える子供のように、物欲しそうな猫なで声で鳴いていた。
ニンマリと微笑みながら、ニャンダフルと戯れ始める潤。そんな仲良しな彼女たちを眺めていると、本当の親子のように見えてしまうから不思議なものだ。
「マサ、台所にいるならさー。この子のキャットフードと牛乳、お皿に入れて持ってきてよぉ。牛乳はあたしも飲むからパックのままでお願いね。」
何かにつけて注文してくる潤に、オレは思いっきり不満げに言い返す。
「おいおい、猫のエサの支度は、親代わりの潤の仕事だったはずだろう?都合が悪いならまだしも、理由もなく人任せにしたらダメじゃないか。」
「何よぉ、たまには手伝ってくれたっていいじゃーん?この子はアパートのペットでもあるんだよ。管理人のあんたにだって、お世話する責任はあるんだからねぇ。」
潤はこういう時にいつも、オレは管理人だからとわがままを押し通そうとする。そしていつも、散々愚痴をこぼした挙句、彼女の言うがままに従ってしまう情けないオレであった。
「言っておくけど、今回だけだからな。次回からはそんなわがまま通らないぞ。」
「わかってるってぇ。マサはやっぱり優しいね、ありがと。」
愛らしくウインクすると、潤は牛乳をラッパ飲みしたままテーブル席に腰掛ける。前もって持参していたのか、彼女はファッション系の雑誌を広げて、憧れの眼差しで食い入るように見惚れていた。
「潤、もしかしてまだ、読者モデルとかそういうのに応募してるの?」
オレがそう尋ねると、潤は横目でオレを見ながら深い吐息を漏らした。
「まーねぇー。モデル志望、そう簡単に諦めきれるもんじゃないしね。前みたいに騙されるのもまっぴら御免だからさぁ、雑誌の出版社とか、当選の条件とか、それなりによーく調べてから送ってるんだぁ。」
潤は過去に、雑誌モデル投稿に絡んで危険な目に遭っているため、オレ自身一抹の不安はあった。しかし、同じ過ちを繰り返すまいと注意を払っている彼女ならば、取り立てて心配する必要はないだろう。
雑誌をチェックしながら独り言をつぶやく潤の向かい側で、オレもどっかりと椅子に腰を下ろして、さわやかな朝のひと時をのんびり過ごすことにした。
「あー、今月号もまたこの女の子の特集だぁ。やっぱり人気あるんだねー。」
その雑誌の特集を見ながら、潤はページをめくるたびに感嘆していた。
オレはファッション雑誌を愛読することはないが、麗那さんと触れ合う機会があるせいか、少なからずモデルという人物像に関心を寄せている。オレはいつの間にか、その雑誌の特集を興味津々の顔で覗き込んでいた。
「かわいらしい女の子だね。この子、そんなに人気があるモデルなの?」
「あんたって、ホントにこっち系はオンチだねぇ。この子はね、舞姫ひかるっていって、ただいま売出し中のモデルなんだよぉ。」
潤の解説によると、この舞姫ひかるは人気絶頂の売れっ子モデルとのことだ。高校生の頃から活躍しているそうで、現在19歳という年齢ながら、いろいろな雑誌の表紙を飾るほどの人気ぶりらしい。
舞姫ひかるという女の子を、オレは改めて凝視してみる。麗那さんのような艶っぽく大人の雰囲気とは違い、アイドルっぽいチャーミングな愛らしさを漂わせる、そんな印象だった。
「でも、あたしさー、この子あんまり好きじゃないんだよねぇ。」
どうして?と問いかけるオレに、潤はモデル事情通らしい答えを返してくれた。
「世間知らずのお嬢さんなんだよ。ある雑誌の専属モデルだった頃ね、家柄がいいことに付け込んで、随分好き放題わがまま言ってたってもっぱらの噂。顔立ちはいいからさぁ、男子諸君には人気あるんだけど、同性のモデルたちには嫌われてるみたいなんだぁ。」
可憐らしさと清楚なイメージを武器に、世の男性たちを虜にしてきたという舞姫ひかる。おしゃれなセンスや魅力もなく、人気ばかりが沸騰していくそんな彼女のことを、モデル志望の潤は認めたくなかったようだ。
「せいぜい、男子諸君に色目使って持てはやされるといいよぉ。どうせ、ファッションセンスもスタイルも、麗那センパイには勝てっこないんだからね。ねぇ、マサもそう思うでしょ?」
「そうだな。類まれな魅力を持ってる麗那さんだからね。まだまだ若い世代に、頂点の座を明け渡したりしないんじゃないかな。」
それからしばらくの間、オレと潤の二人は、他愛のない世間話で時間を費やした。その世間話の半分以上は、モデルの真髄とは何たるかといった、オレにとっては役に立たなそうな話題ばかりだった。
潤はついに話し疲れてしまったのか、眠たい目を擦りながら二度寝しようと自室へ帰っていく。ニャンダフルが綺麗に平らげたエサのお皿を、このオレに片付けておいてと言い残して・・・。
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その日の午後のこと。晴れ渡る青空を拝めるうちに洗濯を済まそうと、オレはアパートの二階にある洗濯場にいた。
ここ連日の暑さのせいで、汗ばんだ衣類は溜まる一方だった。その一つ一つを洗濯機へ放り込み、洗濯洗剤の箱を手にした瞬間、オレはある異変に気付いた。
「あらら、洗剤なくなってる。」
買い置きがないか戸棚を探してみると、洗濯洗剤は運悪く在庫切れだったようだ。気付いてしまった以上、管理人代行してこれを見過ごすわけにはいかない。
「困ったなぁ。買い出しに行きたいけど、そういえばあかりさん、原稿届けるからって、さっき出掛けちゃったんだよな。」
運の悪さというのは重なるもので、出掛ける際にいつも留守番をお願いするあかりさんが、今日に限って外出中だったのだ。彼女が帰宅してから出掛けるとなると、洗濯物を干す頃には日が暮れ始めてしまうだろう。
洗濯機の前で腕組みしながら悩んでいると、洗濯場の扉がいきなり開け放たれた。オレはびっくりして、すぐさまその方向に顔を振り向かせる。
洗濯場に入ってきた住人は驚いたことに、オレが不在にしていると思っていた住人であった。
「あ、ジュリーさん!いらっしゃったんですか?」
唖然とした顔をしているオレを見て、ジュリーさんまで目を丸くして驚いていた。
「朝からずっといたわヨ。随分驚いてるけど、わたしがいたら何かおかしいことでもあるノ?」
「す、すいません。そういうわけじゃないんですけど、ジュリーさんって、いつもこの時間留守にしてることが多いから、つい・・・。」
よくよく考えてみたら、ジュリーさんは現在アルバイト就活中なので、アパートにいる時間が長いのは当たり前のことだった。
いくつものアルバイトに勤しんで、忙しそうに出掛けていたジュリーさんが目に焼き付いているだけに、オレはついそんな勘違いをしてしまったのかも知れない。
「もしかしてジュリーさん。これからお洗濯しようと思ってます?」
「当然でしょ。洗濯物抱えたまま、わたしがここでダンスでもすると思ったノ?」
ジュリーさんは恥らうことなく、下着の混じった衣類を洗濯機の中へ放り込んでいく。
鼻歌交じりのジュリーさんに、洗濯洗剤の在庫切れをオレが申し訳なさそうに伝えると、彼女は思いもしなかった事態に愕然としてしまった。
「ホワイ!?どうしてそんなことに!?洗剤がなかったら洗濯できないじゃないのヨ!」
「オレもついさっき気付きまして。・・・洗濯ができないから、ここでこうして固まっていたんです。」
太陽が沈むまでに、洗濯を済ませたいと望むオレとジュリーさん。そんな二人で話し合った結果、ジュリーさんに留守番をお願いし、オレが洗濯洗剤の買い出しに行くことでまとまった。
「それじゃあ、オレ、ひとっ走り行ってきます。留守お願いしますね。電話が来たら、申し訳なんですけど、内容だけは聞いておいてください。それと、もし、お客さんが来たら・・・。」
「OK、OK、わかってるわヨ。わたしも子供じゃないんだからネ。それより早くいってらっしゃい。」
呆れ顔のジュリーさんに急かされて、オレは駆け足で洗濯場を後にする。管理人室で身軽な服装に着替えたオレは、財布と携帯電話を握りしめて真夏の下へと出掛けていった。
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灼熱の太陽が顔を覗かせる猛暑日の午後。それはもう、言葉では表現できないほど燃えるような暑さだった。
道行く人々は一様に、あまりの不快さに顔を歪めている。拭っても拭っても滴り落ちる汗が、この苛立つような酷暑を物語っていた。
商店街にあるスーパーマーケットで洗濯洗剤を買ったオレは、帽子を貫かんばかりの日射の中、陽炎立ち込める舗道をくたくたと歩いていた。
「こりゃダメだぁ。ちょっと日陰で休憩していこう・・・。」
商店街の外れに差し掛かったあたりで、コーヒーの香りが漂う一軒の喫茶店に目が留まった。よく見てみると、その喫茶店の軒先には、大きなパラソルで日陰になっているテーブル席が設置されていた。
テーブル席はそれなりに賑わっており、暑さを紛らわそうとする主婦たちが、アイスコーヒーを口にしながら涼を楽しんでいた。
オレも少しばかり休憩していこうと、一心不乱にテーブル席まで足を速める。その数秒後、オレはテーブル席に腰を下ろした一人の身近な女性を目撃する。
「あれ、あかりさん・・・?」
アイスコーヒーをそばに置いて、あかりさんは小説っぽい書籍を黙読している。原稿が見当たらないところを見ると、出版社帰りにここへ立ち寄ったのだろうか。
ゆっくりとした足取りで、オレはあかりさんのところまで近寄っていく。読んでいる書籍にオレの影が映ると、彼女はそれを確かめるように視線を上に向けた。
「管理人代行・・・!あなた、留守番はどうしたの?」
買い物袋を持ち上げながら、オレが事のあらましを説明すると、あかりさんは口元を緩めて安堵の笑みをこぼした。
「あかりさん、オレも一緒に休憩させてもらってもいいですか?」
「構わないわ、空いてる席にどうぞ。」
オレがテーブル席に腰掛けた後も、あかりさんは脇目も振らず書籍に読み耽っていた。どんな書籍なのか気になったオレは、お邪魔にならないよう、表紙に書かれたタイトルを黙ったまま見つめていた。
「”狂気という名の殺意”。それほど有名じゃないハードボイルド小説よ。」
オレの心を見透かしていたかのように、その書籍の詳細を明かしてくれたあかりさん。
ハードボイルドタッチの漫画を描くあかりさんにとって、小説はアイデア発掘のための必須アイテムとのことだ。原稿を出版社へ届けた帰りは、コーヒーブレイクしながら読書するのが通例なのだという。
期待している読者のためか、それとも仕事に向き合う自分のためか、あかりさんはストーリーの発想に余念がない。それだけ、漫画家という職業に強い自負心を抱いているのだろう。
「・・・。」
オレのことなど気にも留めず、涼風でなびいた黒髪に頬をくすぐられても、あかりさんは微動だにせず小説に没頭している。暑さなんてどこ吹く風といった感じで、彼女は涼しい表情を極め込んでいた。
「道場の師範代から、プロの漫画家だもんな。・・・そういえばあかりさん、小さい頃から絵を描くのが楽しいって言ってたし。」
あかりさんの横顔を見つめながら、オレは心の中でそうつぶやいた。
道場の師範の座を捨てて、漫画家という道に進んだあかりさん。跡を継ぐことに興味はないからと、もう一人の跡継ぎ候補の真倉さんとの真剣勝負を頑なに拒み続けている。
好戦的な真倉さんから、あかりさんを説得してほしいとお願いされていたオレだが、正直なところ気が重かった。なぜなら、この姉妹同士が拳を交える理由などどこにもないからだ。
どうしたらよいのかと無言のまま考え込んでいると、あかりさんが何の前触れもなく、視線を動かさず囁くように口を開いた。
「真剣勝負のこと、わたしに言いたいことがあるんじゃないの?」
「・・・え?」
あかりさんはそう問いかけると、読書をやめて小説をパタンと閉じてしまった。
「お節介なあなたのことだから、その話をするために、わたしの隣に来たのかと思ったけど。」
そのつもりではないのが本音だったが、違うとも言い切れないのもまた事実。オレは恐縮しながらも、自分なりの思いを打ち明けることにした。
「オレは本当のこというと、あかりさんと真倉さんが勝負するのは反対なんです。だって、あかりさんが跡目を継ぐ気がないなら闘う理由がないじゃないですか。・・・真倉さんは勝敗にこだわってるみたいですけど、オレにはそれが理解できないというか。」
オレと意見が一致したせいだろうか、あかりさんは嬉しそうに口元を緩めると、遠くを見るような目を虚空に泳がせていた。
「彼女、夜未はね、小さい頃から負けん気が強くてね。どんな些細なことも、誰よりも上に立たないと気が済まない性格だったの。」
あかりさんは記憶を辿りながら、道場で過ごした幼少時代を淡々と語ってくれた。
「わたしたちの父親はね、夜未よりも、赤ん坊から育てていたわたしの方に厳しくてね。しつけも、稽古も、わたしにはやかましいぐらい一生懸命だったの。もちろん、夜未にもそれとなく厳しかったことは違いないんだけど、彼女にしてみたら、英才教育を受けるわたしのことがおもしろくなかったんだと思う。」
そんな不公平さが、真倉さんの負けず嫌いをより一層増長させてしまう。そして誰よりも強く、たくましくなりたいと、彼女はがむしゃらに稽古に励むようになっていったそうだ。
あかりさんが才能と実力で師範代の称号を得た時も、真倉さんは彼女に劣るまいと、血のにじむような特訓を重ねて、追いかけるようにその称号を手にしたという。
それを機に、真倉さんはさらに頂点を目指すため、あかりさんに幾度となく真剣勝負を挑んだものの、類まれな素質を持ったあかりさんには、最後の最後まで打ち勝つことができなかったそうだ。
「・・・そんな矢先、わたしが漫画家になるからと、両親の反対を押し切って道場を出ていってしまったものだから。夜未はきっと、悔しくてたまらなかったでしょうね。・・・彼女はね、わたしに勝つことで、幼い頃からの劣等感を消し去ろうとしているのよ。」
真倉さんの憤る気持ちに理解を示すも、あかりさんは断固として闘いの場に赴くつもりはないようだ。
「だけどね、こんな無益な勝負をしたとしても、どちらが勝っても、どちらが負けても、苦痛とわだかまりがお互いの心に残るだけなの。わたしたちが培ってきた力と技は、そんなことのために使うものじゃないわ。」
あかりさんは険しい顔で、そんな居たたまれない心境を吐露していた。漫画家という道を選んだ今でも、彼女は胸に刻まれた武士道精神を失ってはいなかったのだろう。
「でも、あかりさん。・・・真倉さんは諦めきれないからって、またアパートを訪ねてきますよ。いつまでも拒み続けることなんてできるんですか?」
「そうね・・・。あの頑固者相手に話し合いで解決できるかどうか、正直なところ自信がないわね。まぁ、あなたもここまできたら乗りかかった船なんだし、何かいいアイデアでも考えておいてくれる?」
悩ましい難問を突き付けられて、あからさまに困惑な表情を浮かべるオレ。そんなオレを見つめて、あかりさんは不敵な笑みを浮かべていた。
「あら、潤とジュリーには優しく相談に乗ってくれたのに、わたしにだけ冷たくするなんて、それはちょっとばかりひどい仕打ちじゃないの?」
「う、それはその・・・。あかりさーん、そんなにいじめないでくださいよぉ。」
顔を見合わせながら、クスクスと含み笑いをしていたオレたち。解決の糸口が見えないながらも、そんな会話のおかげで、心なしか不安な気持ちが和らいでいく感じがした。
「さてと、本屋さんにも寄り道していくから、わたしはそろそろ行くわ。どうぞ、ごゆっくり。」
そう言葉を残して、あかりさんは茶色い日傘を掲げると、ギラギラした太陽の日差しの中を歩いていった。
一人テーブル席に残されたオレは、あかりさんと真倉さんの平和的な決着方法を発案しようと、それから1時間ほど休憩しながら熟考していた。
のんびりペースでアパートへ帰ってきたオレを待っていたのは、洗えなかった洗濯物たちと、待ち疲れていたジュリーさんの嫌味たっぷりの愚痴だけだった。
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それから数日後の日曜日、どっぷりと日が落ちた夏の夜のこと。
まだまだ蒸し暑さが残る夜7時過ぎ、オレを含めたアパートの住人たちは揃いも揃って、駅西口の繁華街にある「串焼き浜木綿」を訪れていた。
本来、浜木綿は日曜定休なのだが、今夜に限っては特別に営業していた。それには、オレたちがこぞって集うほどのある理由があった。
「マスター、お誕生日オメデトー!」
オレや住人たち、そして従業員の紗依子さんの歓声が店内に響いた。オレたちに注目を浴びて、しきりに照れ笑いを浮かべているマスター。
おめでたいことに、今日は浜木綿のマスターの誕生日だった。今夜はお祝いパーティーを兼ねて、臨時に営業することになったというわけだ。
「いやー、みんな、ホントにありがとうね。こうやって常連さんからお祝いされるのって、こういう商売してるオレにとっては喜びもひとしおだよ。」
ちょっぴりセンチメンタルに浸って、マスターは嬉しさいっぱいにお礼を述べた。
オレはマスターに親しくしてもらっているが、これまで彼の年齢を知る機会がなかった。これを機に、何回目の誕生日か彼に尋ねてみたら、もうおじさんと呼ばれる回数だよと、笑いながらはぐらかされてしまった。
「ほらほらほら、マスター。ロウソクの火、一気に消しちゃってください。」
紗依子さんにそう急かされると、マスターは大きく息を吸い込んで、ケーキに飾られたロウソク目掛けて息を吹きかける。
炎をゆらゆらと揺らして、油煙の臭いとともにロウソクの火が一本残らず消えると、座敷に集まった参加者一同から大きな拍手が巻き起こった。
「お祝いされる側のオレが言うのも変だけどさ、今夜は賑々しくゆっくりしていってよ。申し訳ないけど、サエちゃん、こっちの方はよろしくね。」
お祝いパーティーを催すとはいえ、今夜の浜木綿が貸切だったわけではない。そのため、オレたちの他にもお客が来るだろうからと、マスターは料理の支度のために持ち場へ戻ることになった。
主役が不在となってしまったが、紗依子さんに取り分けてもらったケーキをおつまみに、オレたちはグラスを片手に賑やかな祝杯を上げる。
「このケーキ、グッド、デリシャスね。このコーティングのチョコが思ったよりビターじゃない。」
「これはねー、あのカレーパンでお馴染みのはぎ家のケーキなんだよぉ。苦いチョコが好きなマスターのために買ってきたんだぁ。」
ジュリーさんと潤はほくほくとした顔で、苦みのかかったケーキの味を堪能していた。
「あたしはもっと甘いチョコレートがいいな。サッカーとかトレーニングしてるとさ、糖分がやたらと欲しくなるんだよね。」
「どちらかといえば、わたしも甘い方が好きだわ。仕事に詰まってイライラした時なんかは、やっぱりスイートなミルクチョコレートが食べたくなるわね。」
甘党の奈都美とあかりさんはそう語りつつも、目の前にあるケーキをパクパクと口に運んでいた。
「そういえば前に、はぎ家のベイクドチーズケーキを食べたけど、それもおいしかったもんな。和菓子に洋菓子にカレーパンまで、はぎ家の万能ぶりには頭が下がるよ。」
おいしさに感心してしまったオレは、ケーキを頬張りながら独り言のようにそう漏らした。
そんな和やかな雰囲気に包まれる中で、たった一人だけ、ケーキに手を付けることなく、浮かない顔で黙り込んでいる住人がいた。
「麗那さん、どうかしたんですか?」
オレがそっと声を掛けてみたものの、麗那さんは呆けたようにうつむいたままだった。周りの騒がしさのせいで、彼女の耳まで届かなかったのかも知れない。
「麗那さん、麗那さーん。聞こえてますかー?」
繰り返し呼びかけるオレの声がようやく届いたのか、麗那さんはハッと我に返ったような顔をする。
「な、何?マサくん、わたしのこと呼んだ?ど、どうかしたの?」
「ボーっとしてましたけど、何かあったんですか?ケーキ、一口も食べてないし。もしかして、どこか具合でも悪いのかなって。」
頭を横に振りながら、心配いらないからと普段通りに振る舞う麗那さん。しかしオレには、彼女が無理に平静を装っているように見えて仕方がなかった。
「麗那さん、本当はお仕事の疲れがたまってるんじゃないですか?今夜はあまり無理しないでくださいね。」
「マサくん、ありがとう。・・・でも、本当に大丈夫だから。いろいろと心配かけてゴメンね。」
そんなオレと麗那さんの間に、紗依子さんがニヤニヤしながら割って入ってきた。
「あららら。お二人さん、いい雰囲気でお話してるじゃない。お邪魔だったかしら?」
「何言ってるの、もう。・・・マサくんはね、わたしの心身を心配して気遣ってくれてるの。こんな思いやりがあって優しい子のこと、そんな風に茶化しちゃダメじゃない。」
おちゃらけ気味の紗依子さんに、麗那さんは呆れ顔で苦言を呈していた。オレはオレで、麗那さんのお褒めの言葉に謙遜しつつ照れ笑いするしかなかった。
「麗那、マサくんのことそう思うなら、これ以上心配させないよう少しは考えなさい。今夜のあなた、真面目に顔色よくないわよ。」
からかっているように見えても、紗依子さんは無二の親友の体調を気遣っていたようだ。これにはさすがの麗那さんも成す術がなく、ただただ謝罪の言葉を並べるしかなかった。
「お詫びといっては何だけど、明後日火曜日の午前中、ちょっとだけ時間もらえるかな?」
「明後日の午前中?・・・まぁ、午前中なら都合つくと思うけど。もしかして、食事ごちそうしてくれるの?」
そう問い返す紗依子さんに、麗那さんは微笑しながらうなづくと、その代わりに付き合ってほしいところがあると付け足した。
「・・・阿佐ヶ谷よ。」
麗那さんの口から語られた”阿佐ヶ谷”に、どんな意図があるのかオレは知る由もなかったが、紗依子さんにはその意図がしっかりと伝わっていた。
「そうか。・・・次の火曜日で、もう二年になるんだね。そういうことなら、わたしも付き合うわ。」
紗依子さんに一言お礼を告げると、麗那さんはゆっくりとオレの方に顔を振り向かせる。
「できれば、マサくんも紗依子と一緒に来てほしいの。マサくんにも話しておいた方がいいから。・・・どうかな?」
あまりにも突拍子もなく、そして唐突過ぎるそのお誘いに、オレは思わずおののいて絶句してしまった。
麗那さんはこれ以上語ってはくれなかったが、その心中にあるただならぬ思いを察したオレは、戸惑いつつも受け入れる姿勢を示した。
「よかったわ。それじゃあ、火曜日は二人ともよろしくね。」
ホッとしたような表情をしながら、麗那さんはケーキを一口つまむと、住人たちの賑やかな輪の中へと入っていった。そして、紗依子さんも思わせぶりに微笑むと、お仕事とばかりに座敷を後にしていった。
この時のオレは知るはずもなかった。麗那さんの胸にいつまでも残る傷跡のような、二年前に起きた悲しくも辛い過去があることを・・・。
第一話は、これで終わりです。
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