第一話 一.復帰ライブの夜
8月中旬を迎えても、夏の暑さは衰えることを知らず、じっとしていても汗ばむような夜が訪れる。
まだまだ夏真っ盛りのそんな夜、都内新宿のとあるレストランでは、熱帯夜を吹き飛ばすような盛大なライブが催されようとしていた。
今夜のこのレストランは、特別ライブ上演のため貸切となっていた。
ライブの演奏者は、東京を中心に活動するジャズバンド「ローリングサンダー」。このライブに観客として集合したのは、オレ以外に「ハイツ一期一会」の住人たち、そして「串焼き浜木綿」の関係者たち。
一通りの役者が揃った夜7時30分、レストラン内に軽快なサウンドが流れ始めて、いよいよライブの幕開けとなった。
「えー、みなさん。本日はわたしたちローリングサンダーのライブにお越しいただき、誠にありがとうございます。短いお時間ではありますが、どうか最後まで楽しんでいってください。」
ドラムを担当するリーダーはそう挨拶すると、他のメンバーたちを一人一人、観客席のオレたちに向けて紹介していく。
「それでは最後に、本日のライブのボーカリストを紹介します。」
スポットライトに照らされて、ステージ上に悠然と登場した一人の女性。紫色のスパンコールドレスを華麗なまでに着こなした、本日のライブの主役である三樹田ジュリーさんだ。
ちょっぴり照れくさそうにしているジュリーさんに、観客であるオレたちは割れんばかりの拍手を送る。
「今夜は、みんなどうもありがとう。わたしの復帰第一段のライブ、うまく歌えるかどうか心配だけど、精一杯がんばるから、よろしくネ。」
マイクを握りしめて、気持ちを込めてお辞儀をしたジュリーさん。そんな彼女を応援するように、住人たちはやんややんやの喝采を浴びせていた。
「あんなに騒いじゃって、まったく。・・・ジャズライブなんだから、もう少し慎ましくしてくれないと。」
不謹慎とも言える住人たちの振る舞いに、オレは呆れんばかりにそう愚痴をこぼした。すると、同じテーブルに腰掛けていた二ヶ咲麗那さんとレストランのオーナーが、そんなオレを見ながらクスクスと微笑んでいた。
「まぁ、今夜はいいんじゃないかな。レストランもわたしたちだけの貸切だし。慎ましやかにするより、賑やかな方がジュリーも嬉しいと思うよ。」
「麗那の言う通りよ。このレストランは、お客様にはかしこまらずにリラッスクしてもらうのがコンセプトだもの。週に一度のライブは、そのために開催しているようなものだから。」
そうなだめられて周囲を見渡してみると、住人たちだけではなく、隣のテーブルに座る浜木綿のマスターと九峰紗依子さんも、落ち着き払ってドリンクを追加オーダーしていた。
レストランでのジャズライブという高貴な先入観に囚われて、緊張のあまり神妙になっていたのは、ここではオレ一人だけだったのかも知れない。
「お待たせしました。それでは今夜の一曲目をお送りします。」
リーダーの合図とともに、メンバーたちが流れるようなメロディーを奏でる。力強く低音を響かせるサックス、高らかな音色を織り成すトランペット、そしてポップなドラムが合わさって、弾むようなリズムがレストラン店内を包み込んでいく。
その軽快なメロディーに、ジュリーさんの鍛え抜かれた歌声がシンクロする。濃厚でかつ存在感のある歌声は、彼女の積み上げた修行の成果をそのまま表現していた。
「素晴らしいわ。・・・あの時よりも貫禄があるというか、威風を感じさせる歌声ね。」
レストランのオーナーはうっとりしながら、白銀色の光を放つステージに目を奪われていた。
麗那さんも他の住人たちも、マスターも紗依子さんも、さらにこのオレすらも、ジュリーさんの美声にすっかり聞き惚れてしまっていた。
オレたちが魅了される中、演奏は次なる曲目へと移り変わっていく。テンポのよいリズムの曲調に変わり、ジュリーさんは軽やかなステップを披露した。
「ジュリーさぁ、歌もすっごくいいけど、ドレスもかなり綺麗だねー。」
「うんうん。眩しいぐらい輝いてるし。今夜のジュリー、とっても魅力的だよ。」
「少しだけ引き締まったのかしら。ドレスのラインがしなやかで美しいわ。」
ジュリーさんのことを褒めちぎっていた住人たち。四永潤に六平奈都美、そして五浦あかりさんは、その弾けるテンポにいつしかノリノリになっていた。
この素晴らしい演奏を通じて、ステージと観客席にある一体感が生まれる。それは楽曲を送り届ける者と、その楽曲を受け入れる者同士の心が通い合った証しでもあった。
次なる三曲目は、心に染みるようなブルース調の曲目だ。曲調ががらりと変わっても、ジュリーさんは違和感なく声のリズムを切り替えていた。
「この曲もとても素敵ね。しっとりとして深みがあって、引き込まれそうな感じ。」
「そうですね。ジャズにこれだけの曲調があるなんて、オレ初めて知りましたよ。」
少しばかり切なくて、儚さをにじませるメロディー。この味わいのある旋律に、オレと麗那さんは聴き入るように耳を澄ましていた。
三曲目の終わりと同時に第一部が幕を下ろした。ジュリーさんは戦慄くことなく、この第一部を完璧なまでに熱唱しきっていた。リハーサルの成果もあるのだろうが、数年のブランクを感じさせない見事なまでのセッションだった。
「ご拝聴、どうもサンキューベリーマッチ。」
観客席から盛大な拍手が巻き起こる中、ジュリーさんはステージから足を踏み下ろすと、オーナーのいるテーブルまで歩み寄ってきた。
「ローリングサンダー、そしてわたしのために、こういう機会をいただいてありがとうございます。」
深々と頭を下げつつ、オーナーに感謝の意を伝えるジュリーさん。オーナーはバンドのことをかなり気に入ったようで、ぜひともまたライブをお願いしたいと、大きな拍手を持って感謝の気持ちに応えていた。
この後、特別な貸切ライブということもあり、バンドメンバーを交えてのディナータイムとなった。バンドのメンバーやジュリーさんもテーブル席につき、しばしの楽しい歓談のひと時を過ごしていた。
「どの曲もすごくよかったです。ジャズに詳しくないオレでも、とても楽しく聴くことができました。」
「どうもありがとう。ついテンションが上がったみたいでね、いつもよりも楽しく演奏することができたよ。こんな素晴らしい機会をセッティングしてくれて本当に感謝しているよ。」
オレの労いの言葉を受けて、リーダーは口元を緩めて穏やかに笑っていた。彼はジュリーさんがいるテーブルを見つめながら、本日一番の功労者に対する今の心情を打ち明ける。
「やはり、ジュリーには類まれな才能があるようだ。初めての音合わせだったから、リハーサルでは少しばかり戸惑っていたが、いざ本番になったら、ひるむことなく歌いきってしまったのだから。彼女はもしかすると、お客さんの前で歌うために生まれてきたのかも知れないね。」
リーダーの視線の先にいるジュリーさんは、その頃、住人たちと賑々しく談笑していた。
「ジュリーの歌、カッコよかったよぉ。その衣装もバッチリ決まってるしさー。」
「ホント、ホント。もうプロ顔負けって感じ。あたし、ちょっと感動しちゃった。」
ジュリーさんに称賛の眼差しを向けている潤と奈都美。久しぶりの再会も相まってか、みんながみんな喜びを分かち合っているようにも見えた。
「これもすべては、プロを目指して磨き上げた実績、努力の賜物というやつね、ジュリー?」
「そうネ。緑が生い茂った屋外のステージで、それはもう血を吐くような訓練を積んだから。」
「緑が生い茂ったステージ?そういう場所で訓練するものなのね。いろいろと勉強になるわ。」
たった一人公園で武者修行していたジュリーさんと、彼女が養成所で鍛えていたと思っているあかりさん。二人の話は多少食い違っていたものの、お互いがその相違に気付いていなかったようだ。
いずれにせよ、住人たちは会食しながら楽しい時間を満喫していたようだ。ただ、この後第二部を控えるジュリーさん一人だけ、ノンアルコールな自分にちょっぴり寂しさが見え隠れしていた。
「あら、マスターと紗依子たち、何だか盛り上がってるみたい。」
麗那さんが見つめる先では、マスターと紗依子さんの二人が、バンドメンバーたちとジャズ談義に花を咲かせていた。
「いやね、オレも昔はジャズ喫茶に通って、よく聴いたもんだよ。当時はモダン・ジャズにハマったもんさ。」
「わたしも父親が聴いてたフュージョンとか好きだったなぁ。やっぱりジャズって最高にいいですよねー。」
すっかり意気投合している浜木綿の二人とメンバーたち。オールドなのかニューなのかもわからない、そんな未知なる専門用語が飛び交い、ジャズというジャンルの魅力を熱く語り合っていたようだ。
そんな和やかな雰囲気で語らいが続き、レストラン自慢の豪勢なディナーに舌鼓を打つオレたち。気の置けない愉快な仲間たちとの触れ合いが、今夜の料理やお酒をより一層おいしくしてくれた。
「さて、いよいよお待ちかね、第二部と参りましょうか。」
リーダーの号令一つで、メンバーたちは本日のライブ第二部の準備に取り掛かる。
「それじゃあ、第二部の一曲目はみんなのリクエストに応えるワ。」
第二部の始まりと同時に、マイク越しにそう告げるジュリーさん。自らのお祝いライブに花を添える粋な計らいだった。
「レイン・オブ・トワイライトでお願いしまーす!」
観客全員の顔色など目も暮れず、紗依子さんはすかさず好みの楽曲をリクエストした。ジュリーさんといえばこの曲だろうと、観客全員異論を唱える者は誰もいなかった。
オレたちみんなでリクエストした曲「レイン・オブ・トワイライト」の演奏が始まる。観客席がシーンと静まり返り、哀愁を帯びた綺麗なメロディーがレストラン店内に響き渡っていく。
ゆっくりと瞳を閉じて、しっとりとした美声で歌い始めるジュリーさん。英語の歌を流れる旋律に乗せて、オレたちの心の中に儚げな情景を運んでくれた。
「・・・ジュリーさん、すごいな。これが彼女の本当の歌声なんだ。」
オレはこれまでも、ジュリーさんが歌うこの曲を何回か聴いていたが、今夜の曲は、それとは比べものにならないぐらい秀でていた。しなやかさと力強さを織り交ぜて、艶やかな歌声を披露する彼女に、オレはすっかり虜になってしまった。
もちろん、オレだけではない。この曲をリクエストした紗依子さん、それにマスターに住人たち、さらにジュリーさんの努力を見守っていた麗那さんも、迫力ある堂々とした歌声に酔いしれていた。
心地よい余韻を残しつつ、第二部の一曲目が終わりを告げる。大歓声の波が押し寄せる中、バンドは次なる楽曲を演奏し始めると、ジュリーさんは歌唱しながらご機嫌なステップで踊りだした。
「ジュリー、とっても楽しそうに歌ってる。・・・昔の頃、ううん、もしかすると、その頃よりも素敵な自分に戻れたんじゃないかな。」
「きっと、大勢の観客の前で歌っていた昔の自分に思いを馳せて、今の自分の姿に喜びを噛み締めているのかも知れませんね。」
スポットライトを浴びて、ステージの上で華麗に舞っているジュリーさん。昔のような輝きを取り戻せた彼女のことを、オレと麗那さんは穏やかな目で見つめていた。
今夜のライブはジュリーさんにとっても、観客であるオレたちみんなにとっても、忘れることのできない印象深い思い出になったことは言うまでもない。
その後も、ローリングサンダーの面々はさまざまな楽曲を演奏して、その実力を如何なく発揮していた。そして、そんな熱狂的なライブは盛大な盛り上がりの中、寂しくも終演の時を迎えたのだった。
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翌日、澄み渡る晴れやかな朝を迎えた。いつになく平穏な、いつも通りのさわやかな一日が始まる。
リビングルームには、床のモップ掛けをしているオレと、昨夜からアパートに帰ってきてくれたジュリーさんがいた。
こんな朝っぱらから、トレーニングウェア姿をしているジュリーさん。彼女曰く、少しばかりだぶついた体を引き締めたくて、これから奈都美と一緒にジョギングをするのだという。
オレから言わせれば、今でも十分にスレンダーなジュリーさんなだけに、シェイプアップする必要があるのかと疑問を浮かべるところだが、これこそ美を追及する女性の心理というものなのだろうか。
「ユーがニャンダフル?フフフ、とってもベリーキュートね。」
奈都美を待っている間、ジュリーさんは猫じゃらしを手にして、猫のニャンダフルと楽しそうに遊んでいる。この様子を見る限り、彼女も猫のことを快く受け入れてくれたようで一安心だ。
そんな微笑ましい戯れを眺めていると、階段を駆け下りてくる足音が聞こえてきた。リビングルームに慌てて入ってきたのは、タオルを襟元からぶら下げている奈都美だった。
「ごめんね、ジュリー、待たせちゃって!明日からの合宿の支度でバタバタしてたから。」
奈都美のそんな言葉に、オレはドアの脇にある壁掛けカレンダーに目を向ける。明日の日付には、何かを知らせるような目印らしきマークが縁取られていた。
「あ、そうか。奈都美、強化合宿いよいよ明日からだったな。」
「そうだよ。だから、着替えとか日用品とかいろいろ準備してたら、ついつい夢中になっちゃって。」
カレンダーの目印は、奈都美がチームの強化合宿に参加する日を示していた。彼女は明日からしばらくの間、土曜日の夜から休日となる日曜日以外はアパートを留守にすることになる。
出発時刻を尋ねてみたところ、今日の夕方4時には最寄駅から都内まで向かい、他のメンバーたちと合流した後、電車を乗り継いで埼玉県にある合宿所まで行くとのことだった。
「残念ネー。わたしが帰ってきたと思ったら、奈都美がいなくなってしまうなんて。」
「アパートを出ていくわけじゃないから、そんな悲しそうにしないで。一人前になるまでは、まだまだここにご厄介になるつもりだよ。」
奈都美はもともと住人としてではなく、下宿先としてこのアパートへやってきていた。明日からの合宿でレギュラーの一人としてチームに帯同できれば、彼女はチームの本拠地で住まいを見つけるつもりらしい。
居候という名目上、奈都美は家賃を払ってはいないが、毎日のようにオレの仕事を手伝ってくれているため、オレ個人としては、このまま居候してもらっていても構わないのだが。
「OK、暑さが本番になる前に、そろそろジョギングに出掛けよう。」
「よーし、河川敷の辺りに行ってみようか。水辺の風景を見ながら走ると、涼しくて心地いいよ。」
軽いストレッチ体操をしながら、そんな会話をしていた奈都美とジュリーさん。オレも一緒にどうかと彼女たちに誘われたものの、まだ掃除清掃が済んでいないからと、わざとらしい言い訳でお断りさせてもらった。
「そうそう、マサ。わたし、トレーニングの後、そのまま寄り道していくから。帰ってくるの、少しだけ遅くなるからよろしくネ。」
ジュリーさんはこのたびの一件で、これまでのアルバイト先をすべて辞めてしまったため、新しいアルバイト先の候補をいくつか探してくるのだという。
バンドのボーカルという不定期な収入だけでは、家賃を払うだけでも精一杯らしく、ゆとりのある生活を満喫するためにももっと稼がなければとのことだった。
「それじゃあ、いってらっしゃい。気を付けて。」
さわやかな空の下へ出掛けていった二人を、オレは晴れやかな気持ちで送り出した。
換気のために室内の大きな窓を開けると、心地よい涼風が入り込んでカーテンを小さく揺らした。その涼しさを肌で感じながら、オレは軽やかな足取りで床のモップ掛けを続けていた。
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