第七話 一.凛々しき来訪者
数日経過したある朝のこと。アパートのリビングルームには、朝っぱらからいつものメンバーが顔を揃えていた。
「それじゃあ、この規律を守っていただく条件で、管理人代行として認めることにします。」
たった今、住人全員賛成のもとにある規律がまとまったところだ。それは何かというと、アパート周辺にやってくるあのぶち猫に対してのものだった。ちなみに、具体的な事項は次の通りである。
「①エサを与えるのは夜から翌朝の間とし、もしエサが残っていたら、速やかに処分すること。」
「②近隣から苦情があった際は、住人全員が連帯責任を負い、謝罪した後、世話を中止すること。」
「③飼い主を探す努力をし、見つけ次第、事情などを報告して、必要に応じて引き渡すこと。」
住人みんなで論議した末で決めた規律だけに、異論を唱える住人は誰一人いなかった。
「よかったね、潤。もうこれで、夜中にコソコソすることもなくなったしね。」
「奈都美、それ言わないでよぉ。これでも反省してるんだからねー。」
この話し合いにより、規律を遵守する実行リーダーが潤に決まった。忘れっぽい彼女だけに不安は残るが、いずれにせよ、混乱することなくまとまってくれたのは幸いだった。
「わたし、その猫見たことないけど、どんな感じなの?かわいいの?」
そう質問する麗那さんに、満面の笑みをこぼしている潤が怒涛のごとくしゃべり出した。やわらかい毛並みや愛らしい仕草まで、彼女はぶち猫の魅力を余すことなく語っていた。
「それでねー、とってもお利口さんなんだよぉ。辺りを汚さないし、うるさく鳴いたりしないしさぁ。」
ぶち猫のことを、まるで家族の一員のように溺愛している潤。その振る舞いに不安を感じたオレは、彼女に深入りしないよう注意を喚起する。
「潤。そんなにかわいがるのもいいけど、あくまでも飼い猫は飼い猫。飼い主が見つかったら引き渡すことも忘れないようにね。」
「言われなくても、わかってるもん!・・・別にいいじゃん、それまではかわいがったってさ、フンだ!」
癇に障ったのか、潤はそうぼやくと不満顔でふて腐れてしまった。
戸惑っているオレに言い聞かせるように、コーヒーを口にしていたあかりさんが、潤の胸のうちを代弁してくれた。
「潤はね、その飼い主のことを疑ってるのよ。猫をいじめてるんじゃないか、ひどい仕打ちをしてるんじゃないかって。この子はね、そんな疑念を抱いているの。」
飼い猫でありながら、ここまでエサを求めにやってくることや、出会った時の印象からも、潤は飼い主に懐疑的な見方をしているようだ。
確証がないまま、飼い主のことを悪者と決め付けることに抵抗感があったオレ。他の住人たちも少なからずそう感じていたのだろうが、潤のことを考えてしまうと、あからさまに明言できなかったのかも知れない。
「もし、飼い主が猫のことを虐げているんだったら、オレたちがそれを注意するべきじゃないかな。その事実を知るためにも、飼い主を見つける必要があると思うけど。・・・みなさん、どうですか?」
憮然としたままの潤、黙ったままの他の住人たちに、オレは問いかけるように訴えた。納得してくれるのか、それとも釈然としないのか、住人たちは険しい表情を浮かべるだけだった。
この重たい沈黙を破ったのは、ここぞという時にリーダーシップを発揮する麗那さんだった。
「マサくんの言う通りだよ。その猫にとっても、飼い主のもとで生活する方が望ましいし、その方が猫にとっても幸せなことだと思うな。あまり深入りしちゃうと、その猫と離れられなくなっちゃうよ。」
奈都美とあかりさんは口を閉ざしていたが、その表情を見る限り、麗那さんの意見に異論はなかったようだ。
まだ気持ちの整理が付かないのか、潤は黙ったまま唇を尖らせている。しかし、彼女も子供ではない。それが正論だということは、彼女自身もわかっているはずなのだ。
そんな潤のそばへ近寄った麗那さんは、諌めつつも労わるような声を掛けた。
「潤、あなたはリーダーなんだから。そのあなたが、いつまでも駄々をこねてたらダメじゃない。猫の世話をする以上、将来のことだってちゃんと考えてあげるのが、リーダーであるあなたの務めでしょう。」
「・・・うん。みんなで決めたルールだしぃ、わがままが通らないのはわかってるつもり。」
もし飼い主が非人道的な人だったら、徹底的に苦言を呈すると豪語してから、潤は渋々ながらもやっと態度を軟化してくれた。
「潤。その時はさ、オレも一緒に付き合うよ。一緒になって文句を言いに行こうな。」
「約束だよぉー。・・・でもマサってさ、いざという時、役に立たない気がするけどなぁ。」
「うわぁ、ひどいこと言うな。見た目だけで判断するなよ、まったく。」
ニヤニヤしながら口元を緩めていた潤。ようやく、彼女の表情にいつもの笑顔が戻ってきた。オレと彼女のじゃれ合いを眺めながら、他の住人たちも揃ってクスクスと微笑んでいた。
ここリビングルームが和やかな雰囲気に包まれたところで、オレたち全員はこれにて解散となった。
===== * * * * =====
その日の午後、オレは暑い日差しが照りつける中、馴染みの商店街まで日用品の買出しに出掛けていた。
オレを含め住人が四人もいるせいで、共同で使用する石鹸や洗剤は思いのほか消耗が激しい。補充の買出しをするたびに疎ましくなり、管理人という立場を投げ出したくなるオレだった。
一通りの買い物を終えたオレは、アパートが見えるところまで帰ってくると、とにかく涼みたい思いを胸に、玄関までの道のりをひた走る。
「あれ?」
どういうわけか、玄関のドアのカギが施錠されていた。少なくともオレが出掛ける前は、あかりさんが留守番をしていたはずだ。急用か所用か何かで、どこかへ出掛けてしまったのだろうか。
仕方がなく、オレはカギを取り出そうとポケットから財布を抜き取る。使う機会が少ないだけに、そのカギは財布の深いところに仕舞ってあった。
やっとの思いでカギを引っ張り出して、玄関のドアを開錠しようとするオレ。その時、いきなり後ろから誰かに呼びかけられて、オレはびっくりして叫び声を上げてしまった。
「わっ!?」
おののきながら振り返ると、オレの目前には、結った髪の毛を肩まで垂らした、切れ長の目をした一人の女性が立っていた。
「これは失礼した。驚かせるつもりはなかったのだが。」
美しく端正な顔立ちにも関わらず、声のトーンが低くて男っぽさを感じさせる。丁寧語とは言い難い謝罪を口にしつつ、その女性は礼儀正しく頭を下げていた。
「つかぬ事をお伺いするが、一期一会というアパートはここでよろしかったか?」
「は、はい。ここがハイツ一期一会ですけど。・・・あの、何か御用でしょうか?」
オレが恐る恐るそう尋ねると、その女性は涼しげな表情のまま答える。
「こちらに、五浦あかりという女性が入居していると思うが。」
一瞬ドキッとして、オレは鼓動が高鳴りだしたのがわかった。この女性の瞳が異様なまでに冷め切っていて、まるでこの身が凍りついてしまうかと思うほどだった。
長袖ブラウスにスラックスパンツといういでたちの女性。肌を露出しないところが似通っているが、あかりさんの友達か何かだろうか?
「あかりさんですけど、玄関が閉まっていたから、たぶん出掛けているかも知れません。・・・いつ帰ってくるかわかりませんが、リビングでお待ちになりますか?」
「そうか、留守であったか・・・。ならば仕方があるまい。また出直すことにしよう。」
その女性は厳しい顔つきで身を翻すと、振り向きざまに、オレに一言だけ伝言を残していく。
「すまぬが、彼女に伝えてほしい。・・・言づての件、返事をよろしくとな。」
御免仕ると言わんばかりに、その女性は風を切るような身のこなしで、オレの前から瞬く間に姿を消してしまった。
あの女性の威圧感から解放されて、硬直していたオレの全身が和らいでいく。とはいえ、温もりを感じさせない冷ややかな瞳が、オレのまぶたの奥にくっきりと残っていた。
「あの立ち振る舞いに独特な言い回し。・・・あの人、あかりさんとどういう関係なんだろう・・・?」
そんな疑問符を浮かべながら、アパート内へと入っていくオレ。
買ってきた食器洗剤を台所まで運ぼうと、蒸し蒸しとした生暖かい廊下をダラダラ歩いて、オレはリビングルームの前まで辿り着いた。
蒸し暑さから来る苛立ちのせいもあって、オレはついドアをこじ開けて、廊下に響くぐらいの大きな音を立ててしまった。
「ちょっと!」
「あら・・・!?」
オレはリビングルームの室内を眺めながら棒立ちしている。いるはずがないと思っていた住人が、テーブル席にちょこんと座っていたからだ。
「そんな乱暴な開け方することないでしょう?仮にも、管理人を代行する者がそんなことするなんて。どういう神経をしているの?」
「あかりさん、留守じゃなかったんですか!?」
薫り立つコーヒーを味わいながら、新聞記事に目を通していたあかりさん。呆れたような顔で、彼女はオレに冷ややかな視線を送っていた。
「留守って、何を意味がわからないことを言ってるの?わたしなら、今日は一度も外出していないわよ。」
「本当ですか?でも、玄関のドア、カギが掛かってましたよ。」
オレがそう伝えると、カギを掛けた覚えはないとばかりに、あかりさんは不思議そうに首を傾げている。
不用心と思われるかもしれないが、このアパートでは、オレや住人全員が留守にしない限り、玄関のドアは施錠しないのが通例だ。住人みんな面倒だからと、玄関のカギを持たずに外出してしまうため、無闇に内側からカギを掛けられないのである。
あかりさんが施錠していないとなると、いったい誰の仕業なのだろうか・・・?
「あ、そういえば、30分ほど前に、奈都美が一度帰ってきたわ。」
あかりさんが言うには、今から30分ぐらい前に、朝から外出していた奈都美が戻ってきたものの、数分もしないうちに、ドタバタと廊下を走ってまた出掛けてしまったという。
あかりさんはその間、ここリビングルームで静かに新聞を読んでいたため、奈都美は誰もいないと勘違いしてしまい、玄関のドアを施錠していったのではないかとのことだった。
「そういえば、奈都美は普段から玄関のカギ持ち歩いてますよね。早朝トレーニングの時にカギ掛けたりするから。あかりさんの言う通りかも知れませんね。」
そういう結論に至ったおかげで、オレたち二人はようやく一安心することができた。
買い物袋をぶら下げたまま、流し台のそばまでやってきたオレは、管理人の仕事らしく、食器洗剤や手洗い洗剤の補充作業に取り掛かる。
「あ、そうだ。」
オレは手作業しながら、あかりさんを訪ねてきた客人のことを思い出した。
「あかりさん、申し訳ないお話なんですけど。・・・留守だと早とちりしたばかりに、ついさっき、女性のお客さんにお引き取りいただいてしまったんです。」
「お客さんって、わたしに?」
予想だにしていなかったのか、ちょっとびっくりした様子のあかりさん。
「五浦あかりはいるかって。お名前は伺えませんでしたけど、黒くて長い髪を束ねた、独特な雰囲気を持った人でしたよ。話し方も古風というか、何だか堅苦しい感じがしましたね。」
あかりさんは突如表情を歪めて、オレから視線を離してしまった。
「・・・そんな人に見覚えはないわ。きっと、わたしの知らない人ね。セールスか何かじゃないかしら。」
「それおかしいですよ。だってオレ、その女性から伝言を預かってますよ。言づてについて返事をよろしくと。セールスレディが言づてとか言って、威張ったような言い方はしないと思うんですけど。」
オレの指摘でかなり動揺したのか、あかりさんは見るからに平静さを失っている。この落ち着きのなさからして、さっきの女性が知り合いであることは間違いなさそうだ。
以前、あかりさん宛てに果たし状のような封筒が届いたことがあったが、もしかすると、言づてとはそのことで、差出人こそがあの女性だったのかも知れない。
「少し前、あかりさん宛てに封筒が届いたことがありましたよね。オレが差出人のこと尋ねた時、あかりさん確か、昔の知り合いって言ってましたけど。」
「・・・よく憶えていたわね、そんなこと。」
もう言い逃れできないと思ったのか、あかりさんは苦渋の表情を浮かべている。ひた隠しにしてきたようだが、ここに来てとうとう観念したのだろう。
「もうごまかしても無駄みたいね。・・・あなたの会った女性、彼女の名前は真倉夜未。知り合いどころか、わたしのたった一人の姉妹よ。」
あかりさんはついに、秘密にしてきた身の上話を告白してくれた。
いよいよ、これまでの謎が解明されると思いきや、オレの頭にある疑問が浮かんでいた。”姉妹”でありながら、苗字が違うのはどうしてだろうか?
「・・・それはね、彼女とわたしは異母姉妹だからよ。父親は血がつながっているけど、母親とはつながっていないの。真倉は彼女の母親の姓で、わたしが名乗ってる五浦は父親の姓なのよ。」
吹っ切れたかのように、複雑な家庭事情を淡々と語り続けるあかりさん。
あかりさんの父親とは、有名な空手道場の師範を務める道場主だ。彼は若かりし頃から女ぐせが悪かったらしく、伴侶にばれないよう一人の愛人と密会していたそうだ。
やがてその愛人は、あかりさんの父親の子を身ごもってしまう。そして、数年後のある日、その愛人は幼い我が子をつれて、あかりさんが暮らす空手道場へと押しかけてきたのだった。
「ひと悶着あったりしたけど、結局みんなで同居することになってね。いきなり大所帯になったものだから、しばらくは戸惑うことばかりだったわ。」
ポーカーフェイスのまま、あかりさんは過去の苦労話を抑揚なく語ってくれた。
こうして真実を知ったことで、オレの頭の中には新たなる疑問が浮かんでいた。いくら腹違いとはいえ、たった一人の姉妹の存在を、あかりさんはどうして極秘にしていたのだろうか。
「でも、あかりさん。なぜ必死になってまで、姉妹がいることを隠したんですか?」
「反対に尋ねるけど、あなたが逆の立場ならみんなに話したくなるかしら?父親の愛人の子を紹介できるほど、わたしは楽観的な人間ではないわ。」
冷めた口調でそう言い放つあかりさん。言づてに返事をしないことからも、異母姉妹同士不仲なのは火を見るより明らかだった。
あかりさんの口から語られることはなかったが、何かしらの不都合があって、顔を合わせることを頑なに拒んでいるのかも知れない。
「理由はわかりませんけど、返事だけはした方がいいですよ。彼女、また出直すって言ってましたし。」
「あなたに言われるまでもなく、わかってるわ、そんなこと。」
広げていた新聞を折りたたむと、あかりさんは溜め息一つしてゆっくりと立ち上がった。気だるさを顔ににじませながら、小さな足音を立ててリビングルームを出ていこうとする。
「管理人代行。・・・また彼女が来たら、わたしを呼んでもらって構わないわ。逃げていると思われたら悔しいから。」
それだけを言い残し、あかりさんは静かに廊下へと消えていく。去りゆく彼女の横顔が、まるで決闘を前にした者の悲壮な決意にも見えなくなかった。
いつもなら好奇心に駆られるオレだろうが、今日ばかりは、血の気が引いていくような戦慄を感じずにはいられなかった。
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