第三話 一.漫画家の生い立ち
いよいよ潤の誕生日当日を迎えた。それを祝うかのように、天気は朝から上々で、雲の切れ目から眩しい日差しが降り注いでいた。
昼食を済ませた後の正午過ぎ、オレは庭先に飾ってある盆栽の水遣りをしていた。朝に一度水遣りをしていたが、さすがにこの暑さではあっという間に乾いてしまう。
夏場の水遣りは細心の注意を払うようにと、じいちゃんから釘を刺されていたオレは、じょうろを持って庭先を歩きまわっていた。
「ふぅ、これぐらいでいいかな。」
盆栽たちへの水分補給を終えて、一息つくことにしたオレ。この直射日光の下、長時間の屋外労働は体への負担が大きい。
滴る汗をタオルで拭いながら、オレは日陰を求めて玄関へ向かおうとした。
「ん?」
ほんの一瞬、オレの視界に白黒の物体が通り過ぎた。すぐさまその方向へ目を向けると、木陰になったアパートの外壁の上に、白黒のぶち猫が一匹座り込んでいた。
「あれ。コイツ、この前ゴミ置き場で見かけた猫だ。」
鈴のついた赤色の首輪を巻いているところを見ると、少し前に、鉄製のゴミ置き場に閉じ込められていたあの猫に間違いない。
警戒しているのだろうか、そのぶち猫は丸い目でオレを注目している。しかし、敵意を剥き出しにしているわけではなく、こちらの様子を伺っている感じだった。
「それにしても、飼い猫のはずなのに、何でこのアパートにやってくるんだろう?」
そんなことを考えている合間に、ぶち猫はふらりと起き上がり、オレにお尻を向けながら歩き去っていく。
まるで忍者のように振る舞い、ぶち猫は外壁の細い足場を巧みに渡っていった。そして、曲がり角からためらうことなく飛び降りて、鈴の音の余韻を残しつつ、オレの前から姿を消してしまった。
「このアパートに猫がうろつくなんて、じいちゃんから聞いてなかったしなぁ。」
迷惑を掛けていないとはいえ、まったく問題視しないわけにもいかず、あのぶち猫の意味不明な行動に、オレは困惑の顔を浮かべるしかなかった。
「おっはよぉ~!!」
後頭部を弾くような大声に、オレは驚きのあまり仰け反ってしまった。慌てて振り向くと、涼しげなワンピースにハイヒールを履いて、髪の毛をくるりと巻いた潤が嬉しそうに微笑んでいた。
潤はブランド製のバッグを肩に掛けて、大事なドレスを入れたバッグを手にしている。これから、待ちに待ったモデル撮影に出掛けるところなのだろう。
「おはよーっていうか、もうお昼だぞ。こんにちはっていう時間じゃないか。」
「これでいいのぉ。あたしの場合は、夕方までがおはようで、夜からがこんにちはなんだからぁ。」
いつもよりも気合の入ったメイクで、元気いっぱいの笑顔を見せる潤。モデル撮影を前にしても、彼女からは緊張感というものが微塵にも感じられなかった。
「それはそうと、誕生日おめでとう、潤。」
「うん、ありがとー。今日はいい誕生日になりそうだよぉ~。」
胸躍る気持ちとはまさにこのことだろう。潤は興奮しながら、澄み切った青空を見上げていた。
「モデルの撮影も大事だけど、パーティーも大事だからね。ちゃんと夕方には帰ってくるように。」
「大丈夫だよぉ。撮影はこっちでやるんだから。編集社の人たちと、駅東口のビジネスホテルで待ち合わせなんだー。」
潤が言うには、そのビジネスホテルでインタビューを受けた後、場所を移動して写真撮影をするという行程らしい。すべての行程が夕方には終わる予定のため、誕生日パーティーには間に合うとのことだった。
「それじゃあ、行ってくるねぇ~!」
「ああ、行ってらっしゃい。がんばっておいで。」
夏の暑さを吹き飛ばすように、潤はさわやかな笑顔で出掛けていく。オレも微笑みを浮かべながら、軽快なステップを踏む彼女を応援するように送り出した。
===== * * * * =====
午後3時を回った。今夜開催する潤の誕生日パーティーに向けて、開催場所となるリビングルームには、オレとあかりさん、そして奈都美が準備作業に追われていた。
あかりさんは、戸棚からグラスやお皿を取り出してはテーブルへと運んでいる。奈都美は、酒屋が配達してくれたお酒やソフトドリンクを冷蔵庫へと仕舞っている。
最後に、オレは何をしているかというと、リビングルーム内の整理整頓といった雑用をこなしていた。
「あ、そうだ。大きいテーブル出さなきゃ。」
今夜参加する人数からも、リビングルームにあるテーブル一つでは狭すぎるため、倉庫に保管してある大きなテーブルも準備することになっていた。お誕生日を祝うお楽しみ会の度に、管理人であるじいちゃんにお願いして借用していたと、住人たちはそう話していた。
「そういえば、オレ、倉庫に入るの初めてだっけ。」
そんなことを思いつつ、管理人室からマスターキーを持参して、オレは一階にある倉庫へと向かう。
倉庫というプレートが付いたドアの前までやってくると、オレはカギ穴にマスターキーを差し込み開錠する。ドアノブをゆっくりと回して、オレは初めて倉庫の全貌を目の当たりにした。
「うわー、ごちゃごちゃしてるなぁ。」
目の前に広がる乱雑な光景に、オレは堪らず絶句してしまった。倉庫というだけに埃っぽく、古めかしい冷暖房器具や家電製品が散らばっていた。驚いたことに、室内の片隅には除雪用のスノーダンプまで置いてあった。
「これ使うほど、東京に積雪ってあるのかなぁ。」
使用する機会が多いからだろうか、大きなテーブルは取り出しやすい位置に立て掛けてあった。ありがたいことに、プラスチック製のテーブルなので、オレ一人でも運べるぐらい軽かった。
「よっこいしょっと。」
テーブルを持ち上げると、ごみごみとした倉庫を後にするオレ。
リビングルームへと戻る途中、玄関先の方から誰かの話し声が聞こえてきた。声色からして、ジュリーさんが帰ってきたようだ。
「ハーイ、マサ。食料係、ただいま到着ネ。」
ジュリーさんが折り詰めを持って帰ってきた。よく見ると、彼女の後ろに誰かいる。
「あれ、マスターですか?」
「おお、マサくん!オードブルの注文ありがとうね。」
「串焼き浜木綿」の店主であるマスターが、大きなオードブル皿を抱えていた。どうやら、ジュリーさんからお願いされて、ここまで配達する羽目になったのだろう。
「マスター、忙しいのにすいません。わざわざここまで運んでもらっちゃって。」
「気にしない、気にしない。でも、オレも潤の誕生日パーティー、参加したかったねぇ。」
潤の誕生日パーティーへ参加してほしいと、オレはマスターや紗依子さんにもお願いしていた。しかし、今夜は平日に夜だというのに、二組の団体客が予約を入れてきたそうで、パーティーへの参加は難しいだろうということだった。
パーティーへの参加はできなくとも、マスターと紗依子さんの二人には、バースデーカードという形で参加してもらうことになった。
「ほい、マサくん、オレとサエちゃんのカードだよ。潤によろしく言っておいて。いつでも、お店においでってさ。」
夜の下ごしらえのため、マスターは足早にお店へと帰っていった。そんな多忙のところ、わざわざ配達までしてくれたマスターに、オレはひたすら感謝するばかりだった。
「OK。これでお料理に、お酒に、テーブルの準備が終わったわネ。残りはケーキかしら。」
リビングルームの壁掛け時計を見たら、夕方4時になろうとしていた。そろそろ、あかりさんがケーキを受け取りに出掛ける時間であり、そしてオレも、潤へのプレゼントを買うために出掛ける時間でもあった。
「それじゃあ、あかりさん。そろそろ行きますか?」
「そうね。わたし、仕度してくるから、少し待ってて。」
そう言いながら、あかりさんは結った髪留めを外しながら自室へと戻っていった。
オレも身支度を整えるため、ジュリーさんと奈都美に留守番を頼んでからリビングルームを出ていく。管理人室へと立ち寄り、オレは薄っぺらな財布の中身を覗き込んでみた。
「二千円もあれば、キーホルダーぐらい買えるよな。」
身軽なスウェットパンツに履き替えて、オレは二千円の入った財布をポケットに仕舞いこんだ。そして、着ていくTシャツ選びに悩んでいると、誰かが管理人室のドアをノックしてきた。
「管理人代行、男のくせに着替えに時間掛けすぎよ。先に表に出てるから、早くいらっしゃい。」
「あ、あかりさん!?もう着替えちゃったんですか?」
これ以上待たせてしまうと、あかりさんの雷が落ちそうだったので、オレは大急ぎで適当なTシャツに袖を通すと、一目散に玄関に向かって飛び出した。
結局、あかりさんを玄関前で待たせてしまったオレは、彼女からお叱りを受ける羽目となったことは言うまでもない。
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それなりに涼しくなったものの、太陽がまだ高い位置で燃えるように輝く中、オレとあかりさんは駅東口方面目指して歩いていた。
あかりさんは紫外線対策とばかりに、薄めの長ズボンに長袖シャツを身にまとい、茶色い地味な日傘を差している。彼女の顔色は日焼けしていないせいか、見る者を涼しくさせてしまうほど真っ白だった。
「それにしても、連日、暑い日が続きますね。オレなんてバテバテで、本当に参っちゃいますよ。」
「夏なんだから暑いのは当たり前でしょう。バテてしまうのは、あなたの精神が未熟だからよ。」
涼しい表情のまま、オレを窘めたあかりさん。暑さに滅入ることもなく、彼女は陽炎揺らぐ街路をマイペースで歩き続けていた。
「・・・。」
あかりさんは日頃から無口なだけに、オレとの会話はなかなか弾まない。この気まずさから逃れたくて、オレは何か話題を振ろうと頭を悩ませていた。
「そういえば、あかりさんって、漫画やアニメの話題だと楽しそうだよな。」
職業柄そういうジャンルに詳しいのは当然だが、漫画家という道を選んだ理由も、それがきっかけだったのだろうか。
「あの、あかりさん一つ聞いていいですか?」
「何かしら?」
せっかくの機会なので、漫画家を志したきっかけについて尋ねてみたら、あかりさんはしれっとした表情であっさりと返答してくれた。
「やってみたかっただけよ。」
そんな単純明快な回答で、あかりさんは会話を終わらせようとする。さらに真相に迫ろうと、オレは止め処なく根掘り葉掘り詮索していった。
「そんなこと知ってどうするの?あなたにとって何の得にもならないでしょう。」
オレのしつこさに観念したのか、あかりさんは怪訝そうな顔をして、漫画家に至るまでの経緯を語り始めた。
「わたし、小さい頃は虚弱体質でね。体を鍛えるために、毎日稽古をしていたのよ。それはもう、毎日が苦痛の日々だったわ。その頃の楽しみといったら、スケッチブックと鉛筆持って絵を描くことだったの。」
あかりさんは幼少の頃、気の趣くままに、家の窓に映る風景や行き交う人々を描いていた。いつしか、それに物足りなさを感じた彼女は、まるで絵本のように、言葉や物語などを絵に足していったそうだ。
成長していくとともに、ますます絵心に磨きがかかっていたあかりさん。中学生時代、クラス内で発表した学級新聞の一部に、彼女は自慢の絵を披露したところ、クラスメイトから予想以上の反響があり、ストーリーのある漫画を描いたらどう?と助言されたとのことだった。
「その頃は、家に帰っては稽古ばかりだったから、ただ、辛いことや嫌なことを忘れたくて、わたし、がむしゃらに絵を描いていたわ。クラスのみんなに絶賛された時、大げさだけど、わたし、心の奥から喜ぶことができたの。」
あかりさんは高校へ進学してから、ある漫画家のところでアシスタントのアルバイトを始めようとした。その際、両親からかなり反対されたらしいが、稽古を続けるという条件付きで認めてもらったそうだ。
その漫画家のもとで、あかりさんは本格的に漫画の経験を積んでいく。毎日稽古をこなしながらも、彼女は作画技術をぐんぐん上達させていった。
アルバイトを献身的に続けて、高校を無事に卒業したあかりさん。その記念に、漫画家の編集担当の薦めもあって、前後編の読み切りで無報酬という前提だったが、自作漫画を雑誌に掲載してもらえることになった。
「わたしの漫画がね、独自のファン層を獲得した・・・とのことで、読みきりで終わることなく、今でも連載が続いているの。もちろん、報酬ありでね。」
そう自伝を締めくくったあかりさん。辛かったことや、楽しかった思い出が頭の中に浮かんでいたのか、彼女は遠くを見つめながら苦笑していた。
「そうだったんですか。ズバリ、掲載雑誌と漫画のタイトルを教えてください。」
「それは秘め事よ。フフフ。」
あかりさんは唇に人差し指を宛てて微笑する。ちょっぴりお茶目な彼女の仕草を見て、オレは今までよりも、彼女に親近感を抱いていた。お互いの隙間が縮まって、距離を短くすることができたのかも知れない。
オレはその後も繰り返し、あかりさんの漫画のタイトルを聞き出そうとしたが、彼女は口にチャックをしてしまい、最後の最後までわからずじまいだった。
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