第五話 三.怪しき男の正体
「串焼き浜木綿」で和やかなひと時を過ごしていたオレ。腕時計を見ると、もう少しで午後9時になろうかとしていた。
一緒にいたジュリーさんと潤の二人は、そろそろアパートへ帰ろうと話し合っている。マスターが寂しそうに、そんな二人にもう帰っちゃうの?と尋ねていた。
「9時からスペシャルドラマがあるから、それ見ようかと思ってネ。」
「そうそう。ビデオ録画予約しているけどぉ、やっぱりリアルで見たいからねぇ。」
にこやかに答えた二人。これからアパートのリビングルームに帰って、のんびりテレビ観賞するとのことだった。
「それじゃあ、マサ、わたしたち帰るネ。ゆっくり、飲んでいけばいいヨ。バーイ。」
今夜のお会計を済ませると、ジュリーさんと潤はさよならしながらお店を出ていった。
騒がしかった二人がいなくなり、すっかり静かになってしまった店内。カウンターに一人残されたオレは、空になったビールジョッキを眺めていた。
「マサくん、どうする?生ビールお代わりいくかい?」
「マスター、実は今日、持ち合わせがないんです。」
オレが恐縮しながらそう話すと、マスターはサービスいっぱいの笑顔を見せてくれた。
「ははは、マサくんなら会計はいつでもいいよ。勤め人になってからの出世払いでもね。」
マスターの冗談半分な語り口に、オレは思わず笑みがこぼれていた。
いろいろと優遇される面では、常連客というのも悪くないが、その反面、少しでも顔を出さないと申し訳がない思いもあって、どちらが便利でどちらが不便なのか、二十歳のオレには判断できないところだ。
その厚意に甘えて生ビールをお代わりすると、紗依子さんがすぐさま、オレにところにジョッキを届けてくれた。
「はーい、生ビールよー。あと、わたし手作りのお通しもサービスしちゃう。」
紗依子さん自作のお通しは、イワシの甘露煮だった。
いただきますをしながら、オレはそのお通しをいただく。さっぱりとした甘さが程よく、イワシもとても柔らかくて、絶品と言えるおいしさだった。
「そうそうそう。麗那から聞いたんだけど。」
麗那さんからとは、まさか、あの不審者のことだろうか・・・?緊張感で、オレの体がブルッと震えた。
「マサくんも料理するんだってね。おつまみ作ってもらったって、彼女喜んでたよ。」
萎んだ風船のごとく、オレの体から緊張という空気が抜けていく。心の中で深呼吸して、オレは気持ちを落ち着かせた。
「・・・はは、まだまだ若輩者ですよ。紗依子さんの手料理にはとても構いません。」
いい機会だったので、オレは紗依子さんに料理のノウハウなどを尋ねてみた。毎日のように料理をしている彼女だけあって、プロ顔負けの技法をいろいろと伝授してくれた。
頭の中にあるメモ帳を開いて、オレは教わった技法をできる限り記録した。
「フフフ、でも熱心ね、マサくん。料理するの好きなんだね。麗那なんて、まるっきり料理ダメだからねー。昔、一回だけ、あの子の作った野菜炒めを食べたらね、ものすごい味だったもの。」
「ははは、麗那さんって、そのいうの苦手そうですもんね。」
まともに料理一つもできないままでは、お嫁にもいけないといった感じで、紗依子さんはお節介にも、麗那さんの将来まで悲観していたようだ。
オレたち二人がそんな雑談を楽しんでいると、マスターが申し訳なさそうに割って入ってきた。
「サエちゃん、お楽しみのところゴメン。そろそろ時間だからさ、準備してくれるかい。」
お店の時計の短針が、すでに9の数字を通り過ぎている。もうこんな時間かと、紗依子さんは時の流れの速さにびっくりしていた。
「マスター、わたし洗い物だけでも片付けていきますねー。」
紗依子さんは息せき切って、店内の奥へと駆けていった。
「はぁ、金曜日の夜だというのに、ウチのお客はさっぱりだよ。ははは。今日は早めに閉めるかなぁ。」
マスターは苦笑いしながら、そんな嘆き節を口にしていた。
店内を見渡して見たが、座席にもカウンターにも、オレ以外のお客の姿はなかった。書き入れ時の金曜日の夜でこの寂しさだと、オレはいささか、このお店の経営そのものを懸念してしまう。
それでも、団体客の予約が数件入ったり、オレたちのような、月に何回か通ってくれる常連客がいるから、閑古鳥が鳴きっ放しというわけではないようだ。
「よし、今日はやっぱり閉めちゃおう。」
そう言い切って、今日の営業終了を決断してしまったマスター。このまま営業しても、経費ばかりがかさむので、ここは閉店した方が賢明なのかも知れない。
焼き物の炭火を消して、マスターは後片付けを始める。それを横目に見ながら、オレも帰宅の仕度を始めていた。
「ああ、マサくんは慌てなくていいよ、別に追い出すつもりはないからさ。」
マスターはそう言いながら、暖簾を仕舞うために引き戸へと向かう。
「あ・・・!」
丁度、マスターが引き戸へ手を掛けようとした矢先、誰かが引き戸を開け放った。
暖簾を潜った一人の男性が、マスターの前に立ちはだかっている。どうやら、新しいお客がやってきてしまったようだ。
「・・・い、いらっしゃい。」
いつもと違って、覇気のない挨拶をするマスター。閉店間際の来客に、煩わしさを感じていたのだろうか。
マスターに一礼してから、その男性客は端っこのカウンター席へと腰掛ける。こうなっては暖簾を片付けられないだろうと、マスターは戸惑い気味にカウンターへ戻ってきた。
「いつもの、お願いできますか。」
「はい、少々お待ちを・・・。」
その男性客の注文を承ると、マスターは店内奥へと消えていった。
大きな隙間を空けて、カウンター席に腰掛けているオレとその男性客。こういう時、どんな人がやってきたのか気になったりするもので、オレは興味本意で男性客の横顔を観察してみた。
「あれ?」
整った髪形と容姿、凛々しさが際立ったその風貌に、オレは見覚えがあった。
「・・・あの人、じいちゃんの入院先にいる医師じゃないか。」
その男性客というのは、偶然にも「胡蝶蘭総合病院」に勤務している医師だったのだ。
驚きのあまり、オレが視線を泳がせていると、こちらへ顔を向けた男性客と目が合ってしまった。顔色を変えないまま、彼はオレに向かってペコリと頭を下げる。それにつられて、オレも小さくお辞儀をした。
「そろそろ帰らなきゃ・・・。マスターに声だけでも掛けていきたいけど、はてどうしよう。」
そう思っても、肝心のマスターは奥に引っ込んだままだった。沈黙が支配しているこの雰囲気の中、オレは声を張り上げることをためらってしまった。
もう少し待ってみようかと思ったその時、ジョッキと小鉢を持ったマスターがようやく姿を見せた。
「お待たせしました。」
カウンター席の男性客に、そのグラスと小鉢を差し出したマスター。
「焼酎の水割りに、モツの煮込みです。これでよろしかった・・・ですよね?」
「ええ。どうもありがとうございます。」
マスターの不思議なまでのよそよそしさに、オレは違和感を覚えていた。
普段のマスターなら、どんなお客にも物怖じせず、気兼ねしないで元気よく接しているが、この男性客に対してはどうも素っ気なくて、むしろ、煙たがっているようにも見えた。
神妙な面持ちをしながら、マスターは男性客のもとから離れると、その足で、二人の様子を伺っていたオレのところまでやってきた。
「あのさ、マサくん。今日の勘定、なしにするからさ、一つお願いしていいかな?」
いきなりの話に、唖然としてしまったオレ。マスターは話を続ける。
「奥でさ、サエちゃんが洗い物してるから、申し訳ないんだけど、彼女を手伝ってくれないか。ほら、彼女もう終わりの時間だから、早く上がってもらいたいからね。」
「ああ、そういうことなら、喜んでお手伝いしますよ。」
マスターからのお願いを快諾すると、オレは気合よく立ち上がり、紗依子さんの待つ店内奥へと足を向けた。
流し場へつながる廊下は、食材を保存していたダンボールや発泡スチロールで埋め尽くされていた。そんな狭苦しい廊下を越えて、オレは流し場へと辿り着いた。
さすがは飲食店らしく、ゆとりがあって清潔感のある洗い場だった。白銀色した流し台の前で、紗依子さんが一生懸命に食器類を磨いていた。
「紗依子さん、ご苦労さまです。マスターから手伝ってくれって。」
「マサくん、どうもありがとう。遅い時間なのにごめんねー。」
料理をしているオレにとって、調理器具や食器類の洗浄は手馴れたものだった。スポンジを手にして、オレが流れるように洗い物をしていると、紗依子さんはオレの手際よさに舌を巻いていた。
汚れを落とした食器類を水切りバットへ並べていくオレ。その食器類をふきんで丁寧に拭き取り、食器棚へと片付ける紗依子さん。オレたちの息の合ったコンビネーションで、あっという間に流し台が片付いてしまった。
「マサくん、ありがとう。本当に助かっちゃったわ。」
「いえいえ、どういたしまして。」
「あのね、そんなマサくんと見込んで、もう一つだけお願いしていいかな?」
申し訳なさそうに、紗依子さんは両手を合わせる。不安な予感がしつつも、オレはどんなお願いですか?と聞き返した。
「今日もアパートまで見送ってくれないかな?ほら、マスターはまだ、お客さんの接客があるから。」
例の不審者のこと、麗那さんから伝わっていてもいなくても、紗依子さんにとって痴漢騒ぎが解決しない限りは、夜の一人歩きが危険であることは間違いない。
オレ自身も、紗依子さんの身を案じていたこともあって、ここは一人の男として、彼女の頼みを聞いてあげることにした。
「了解です。それなら、早く帰る仕度しましょうか。」
「ありがとう、マサくん。すぐに仕度するから、少しだけ待っててね。」
紗依子さんはホッとした顔をしながら、エプロンを外して丁寧に折り曲げていた。
「あ、マサくん。わたし、麗那から借りっ放しのDVDがあるの、申し訳ないけど、あなたから彼女に返してくれるかな。DVD、アパートにあるから、帰りに渡すわね。」
それぐらいならお安い御用とばかりに、オレは迷うことなくうなづいた。
エプロンとバンダナを片付けて、乱れた髪の毛を整えると、紗依子さんは身支度を済ませたようだ。
「マスターには声掛けてあるから。行きましょう。」
この前と一緒で、オレたちは勝手口からお店を出ていく。しかし、オレはまたしても、ちょっとした違和感を覚えていた。
「そういえば紗依子さん、あの男性客と挨拶してなかったような。常連客みたいだから、紗依子さんとも面識があると思うけど・・・?」
そんなことを思い浮かべながら、オレは逃げるような紗依子さんの後ろ姿を見つめていた。
===== * * * * =====
成り行き上、オレは今夜も、紗依子さんを自宅アパートまで見送ることになった。
夜も10時近くとなり、住宅街はひっそりと静まり返っている。息が詰まるような緊迫感の中、オレたちは薄暗い路地を歩いていた。
気持ちが急いでいたのか、前回見送った時よりも早く、紗依子さんのアパートに到着することができた。
「どうもありがとー。気を付けて帰ってね。おやすみなさい。」
そう言いながら、紗依子さんは錆付いた階段を上っていく。さよならしながら、彼女は部屋の中へと消えていった。
「随分、遅くなっちゃったな。早く帰ろう。」
この前みたいに迷子になりたくなかったので、オレは来た道を逆戻りすることにした。
逸る思いで、紗依子さんのアパートを後にしたものの、一つ目の曲がり角を折れたあたりで、オレはある忘れ物に気付いた。
「あ、しまった。・・・麗那さんのDVD、受け取るの忘れちゃった。」
紗依子さんから、DVDを返してもらうことをすっかり忘れていたオレ。
紗依子さんのアパートまで戻るべきか、それとも、諦めてこのまま帰ってしまうか、オレは立ち止まったまま頭を悩ませていた。
「紗依子さんからお願いされたことだし、それに、まだ紗依子さん起きてるだろう。戻るだけ戻ってみようかな。」
オレは悩んだ挙句、紗依子さんのアパートまで戻ることにした。彼女の部屋の電気が消えていれば、その時は諦めて帰ればいいのだと、オレはそう考えていた。
曲がり角を後戻りすると、暗闇の中に紗依子さんのアパートが見えてきた。彼女の部屋に視点を移すと、ドアの窓からぼんやりとした明かりが漏れていた。
「まだ起きてるみたいだ。」
大きな足音をさせないように、オレはゆっくりと階段を上っていく。それでも、靴のかかとが擦れるたびに、鉄製の階段から金属音が響いてしまった。
二階まで辿り着いて、紗依子さんの部屋の前までやってきたオレ。
深呼吸一つして、気持ちを落ち着かせてから、オレは呼び鈴ボタンを押してみる。すると、彼女の部屋の中から、古めかしいブザー音が反響してきた。
しばらく待ってみたが、部屋の中にいるはずの紗依子さんから、声や音といった反応はなかった。
「・・・もしかして、お風呂にでも入ってしまったのかな。」
念のため、オレはもう一度だけ呼び鈴ボタンを押してみる。
「紗依子さん、いらっしゃいます?オレです、一桑真人です。」
ようやく、部屋の向こうから小さな物音が聞こえた。ドアの窓に、紗依子さんらしき人影がぼんやりと映る。
「・・・マサくん?」
「はい、そうです。」
ドアチェーンをつないだまま、紗依子さんはドアを静かに開ける。オレの顔を見るや否や、彼女は強張った表情を緩めていく。
「びっくりしたわー、脅かさないでよ、もう~。」
「ごめんなさい、紗依子さん。あの、麗那さんのDVD、受け取るの忘れちゃったから。」
紗依子さんも記憶から飛んでいたようで、待ってってと言い残して、慌しく部屋の奥へと引っ込んでしまった。すると、探し出そうとしているのか、部屋の中からドタバタと物音が聞こえてきた。
そして数分後、ビニール袋に入ったDVDケースを持って、紗依子さんはオレのところまで戻ってきた。
「ごめんなさい、待たせちゃって。これよ。麗那によろしく言っておいてね。」
「了解です。すいません、何だか慌てさせちゃったみたいで。」
DVDを手渡されて、オレは改めてお別れの挨拶を交わす。ドアの内側からロックが掛かったことを確認してから、オレは帰るために階段へと向かった。
錆び付いた手すりに手を掛けて、オレはゆっくりと階段を下りていく。真っ暗な足元を探りながら、オレは階段を一段ずつ下りていった。
「あれ・・・?」
ふと路地の方へ目をやった瞬間、街灯の薄明かりの下に人影らしき姿が映った。電柱のそばに佇んで、どうやらこちらへ顔を向けているようだった。
「オレのことを見ているのか・・・!?」
睨みを利かせながら、その人影は凍りつくような冷たい視線を送っている。
その戦慄に、オレの心臓が鼓動を打ち、両足が小さく震えている。まるで金縛りにあったように、オレの体は岩のように固まってしまった。
そんなオレを見据えながら、その人影は搾り出すような声を漏らした。
「なるほど、そういうことだったのか・・・。」
そう吐き捨てると、その人影は消えるように歩き去っていった。
鋭い眼差しを向けていたあの人影は、あの時の不審者の面影にぴったりと重なった。そして、その正体まで、オレの目にくっきりと焼きついてしまった。
「・・・あの医師が、なぜここに?」
闇夜に消えていく姿を、オレは追いかけることができなかった。ただ愕然としたまま、オレは彼の後ろ姿を見つめるしかなかった。
===== * * * * =====
足かせを引きずるように、オレは重たい足取りのままアパートまで帰ってきた。
人通りや明かりが消えた路地を歩きながら、オレはここまでの一連の出来事について思い起こしていた。
紗依子さんのアパート付近に出没する痴漢、オレが偶然目の当たりにした不審者、そして、彼女のアパート前に現れたじいちゃんの入院先に勤める医師。それぞれの人物を結びつけることができず、オレは頭を混乱させるばかりだった。
アパートへ帰ってくるなり、まだ明かりの点いているリビングルームへと向かうオレ。他愛のない話でもいいから、寝る前に誰かと話したい気分だったのだ。
「お帰り、マサくん。今まで出掛けてたみたいだけど、随分遅かったのね。」
あらかた予想はしていたが、リビングルームには、いつもの晩酌を楽しむ麗那さんがいた。
オレの帰りが遅かったせいか、麗那さんは心配そうな顔をしていた。それもそのはずで、リビングルームの時計はすでに夜11時を過ぎていた。
「すいません、長い時間留守にしちゃって。」
オレは頭を下げつつ、「串焼き浜木綿」に行っていた事情を話した。ジュリーさんに誘われて行ってみたら、潤に泣きつかれたしまったことも交えながら。
「そうだったの。フフ、やっぱりマサくんは優しいね。」
「そんなことないですよ。人がいいだけですから。」
オレの照れ笑いを見ながら、麗那さんはにこやかに微笑んでいた。
「でも、ジュリーと潤なら30分ほど前まで、ここでドラマ見てたけど。マサくん、彼女たちと一緒に帰ってこなかったのね。」
「ええ、実は・・・。さっきまで、紗依子さんにお願いされて、アパートまで見送りしてきました。」
麗那さんには包み隠さず話しておこうと、オレは紗依子さんを見送ってきたことを報告した。
「そうだったの・・・。また、紗依子が迷惑掛けちゃったね。」
紗依子さんが借りていたDVDを、オレはそっとテーブルの上に置いた。
「紗依子さんから、これを麗那さんに返してほしいって。」
麗那さんはDVDケースを見ると、すぐに自分のものとわかったようだ。やっと返してくれたとホッとして、彼女は久しぶりのご対面にご満悦な様子だった。
決して本意ではなかったが、そんな穏やかな雰囲気を壊すように、オレは重たい口調で打ち明ける。
「麗那さん。今夜も出会ってしまったんです。不審者と思われる人影に。」
「えっ?」
麗那さんは驚きを隠せない表情で、弄んでいたDVDケースをテーブルの上に置いた。
「しかも、その人影の顔がはっきり見えました。驚いたことに、オレの知っている人だったんです。じいちゃんがいる病院に勤めてる人だったんです、その人。」
オレの話を遮るように、麗那さんはいきなり割り込んできた。
「そういう偶然ってあるんだね。でも、マサくんが見たそのお医者さんって、不審者じゃなくて、たまたま通りかかっただけかも知れないよ。ほら、お医者さんはたくさんいるし、すれ違うこともあると思うな。」
舌滑らかに、麗那さんはそう述懐していたが、オレは直感していた。彼女は事の真相を隠しているだろうと。
「麗那さん。紗依子さんのアパート付近で起きた痴漢騒ぎ、本当は違うんじゃないですか?」
「ち、違うってどういうこと?」
予想もしなかったのか、上擦った声を上げた麗那さん。オレは途切れないよう話を続ける。
「ちょっと変だと思ってたんです。初めて紗依子さんを見送った時ですけど、住宅街のどこにも、それらしい注意書きの看板もなかったし、自転車に乗った女性や、一人歩きの女性ともすれ違ったりしたんです。」
「それって、おかしいことかな・・・?」
疑問を抱く麗那さんに、オレはその理由について解説する。
「だって、おかしいと思いませんか?痴漢出没みたいな事件があったら、警察の方で、情報提供を促す看板とか、注意を喚起する看板を設置したりしますよ。それに、そんな危険な夜だったら、女性一人で出歩いたりしないと思います。実際に紗依子さんだって、マスターやオレに見送ってもらっていたわけですし。」
的を射ていたと思ったのか、麗那さんは納得しながら押し黙ってしまった。じわりと焦りの表情を見せる彼女に、オレはさらに話を続ける。
「その不審者ですけど、今夜、浜木綿に食事に来たんです。その人、常連っぽい口振りだった割には、マスターの態度がよそよそしくて、しかも、紗依子さんはその人に挨拶もしないまま帰ってしまって。二人とも、その人を避けているような感じだったんですよ。」
麗那さんは瞳を閉じて、黙ったままうつむいている。
「麗那さん、正直に答えれくれませんか?紗依子さんとその人、何か関係があるんじゃないですか?」
「関係なんて、何も・・・。マサくんの勘ぐり過ぎよ。」
麗那さんは力なく否定するも、その険しい表情がすべてを物語っていた。そんな彼女に、オレは決定的な証拠を突きつける。
「オレがさっき、その人が病院に勤めていると話した時、麗那さん、こう言ってましたよね?・・・お医者さんって。」
その問いの意図がわからない様子の麗那さん。唖然とした顔で、彼女はオレを見つめていた。
「麗那さん、どうしてその人が”医者”だってわかったんですか?オレ、病院に勤めている人とは言ったけど、医者や医師とは言ってませんでしたよ。病院に勤めてる男性って、受付事務もいるし、看護師もいます。それに病院によっては、薬剤師も常駐してますよね。」
麗那さんはもう反論することはなかった。というよりは、できなかったのだろう。
「なぜ麗那さんはお医者さんと言ったのか。その人が、胡蝶蘭総合病院の医師だということ、本当は知ってたんですよね?」
オレの視線から逃れるように、麗那さんは顔を背けていた。複雑な思いを抱きつつ、オレは彼女が口を開くのをひたすら待ち続ける。
しばらく、沈黙の時間が続いていく。気詰まりな閉塞感だけが、オレたち二人を包み込んでいた。
「ふぅ・・・。」
麗那さんは大きな溜め息をついた。ほんの少しだけ口元を緩めて、彼女はオレの方へ顔を向ける。
「マサくん、何だか探偵みたいだね。犯人をとことん追い詰めていくような、そんな感じがしたわ。・・・本当のこというとね、これ以上、あなたを巻き込みたくなかったの。」
オレの推理は正しかったようだ。麗那さんは観念したように、ひた隠しにしていた真実を打ち明ける。
「紗依子と彼、あの病院のお医者さんは、昔、交際していたの。もう別れちゃったんだけど、それ以来、彼から付きまとわれているらしいのよ。」
どういう理由で、紗依子さんとあの医師が別れてしまったのか、詳しくは麗那さんも知らないそうだ。ただ、紗依子さんが一方的に別れを切り出したために、しこりが残ってしまったのではないか、とのことだった。
「あの子ね、嫌だったら、自分からハッキリと拒めばいいんだけど、何だか態度をハッキリさせないで、困った、困った、どうしよう?と繰り返すばかりなのよ。」
「そうだったんですか。でも、どうして別れちゃったんでしょうかね。」
紗依子さんから決別したと聞いた時、麗那さんはかなりびっくりしたそうだ。
「だってね、付き合ってた頃は、紗依子はあの人のこと、最愛の彼だって自慢してたんだから。だから、別れたと聞かされた時は、冗談かと思ったぐらいだもの。」
すべてを打ち明けてホッとしたのか、麗那さんはいつも通りの笑顔を取り戻していた。
「このDVD返ってきてよかったぁ。久しぶりに見たかったんだよね、これ。」
テーブルの上のDVDを持って、麗那さんはくるくると回転させたり、手のひらに乗せたりして遊んでいる。
「そのDVDって、中身は何が入ってるんですか?」
オレがそう問いかけると、昔、テレビで放映されたトレンディードラマだと、麗那さんは丁寧に教えてくれた。ドラマのタイトルも尋ねてみたが、残念ながらオレの知らないドラマだった。
麗那さんはご機嫌なままに、そのドラマの名シーンを語り始める。
「このドラマおもしろいのよ。一番はね、主人公が忘れ物を取りに戻るために、ヒロインの家を訪れてね。家から出てくる場面を、ヒロインの恋敵に見られちゃうの。このシーンの緊迫感が最高でね。恋敵が、主人公を睨みつけて、捨て台詞を吐くの。なるほど、そういうことだったのか、ってね。」
そのドラマの名シーンが、ついさっきのオレの記憶と重なる。プレイバックした記憶とともに、あの医師から吐き捨てられた台詞が蘇ってきた。
「これって、まずい展開になってしまったのでは・・・。」
「どうかしたの、マサくん?」
オレは麗那さんに、今夜、あの医師と出会った時のシーンを話した。
「そのDVDを紗依子さんから受け取った時、オレ、あの医師に顔を見られたんです。だから、あの人、オレが紗依子さんの部屋から出てきたと勘違いしているかも知れません。去り際に、そんな捨て台詞言われちゃったから・・・。」
「ということは、彼は今、紗依子とマサくんが関係してるんじゃないかって誤解してるってこと・・・?」
オレはこの時、とんでもない事態に発展してしまった気がしていた。対処しようのないこの事態に、麗那さんも困り果てた様子だった。
あの医師の勘違いを発端にして、紗依子さんやオレの身が危険にさらされることがないよう、彼の冷静な対応を願うばかりだった。
黙り込んだまま、思案に暮れているオレと麗那さん。静けさをかき消すように、リビングルームの時計が鐘を鳴らす。時計は夜中の12時を指し示し、翌日の土曜日を告げていた。
第五話は、これで終わりです。
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