鬼望
「あ゛っ、こ、んな、ダメ……ぎあ゛あッ……!!」
両目を見開き、歯を食いしばり、両手の指をメイの右腕に食い込ませる……己の腹に突き刺さったメイの右腕を、どうにか引き抜こうとして。
「あ゛っッ、ぎっ……!!」
エステルの身体が血の泡と呻き声を吐きながら、少しずつ後退する。
メイはその動きに抵抗しようとしたが、手が突き抜けているため力を加える方法もなく……エステルの血と臓物が右腕の皮膚をヌメヌメと、摩擦なく撫でながら手先へと進んでいくのを止められなかった。
「ぐっ……ふッ、ふッ……」
串刺しから逃れたエステルは顔を引きつらせ、大量の汗でそれを脂光らせている。片膝をついてなんとか身体を支えながら、浅い呼吸を繰り返している。
が……
「ゴボッ……げっ、お゛ぼぉっ!? え゛っ……がはッ」
また口から血を吹き出して、力なく身体を折り曲げ……両肘を地面に落として更に吐血。
苦しいか。それは良かった。
そうだ、私よりも、苦しめ。
「い゛、イヤ……こ、こんなとこで……死にた……」
それでもエステルは、再び身体を起こしていた。
エステルが慄いた声を震わせながら、身体のあちこちをまさぐっている。
どうも何かを探しているらしい。だが見つからなかったのか、次に足元の血溜まりに手を付けた。
もはや半狂乱に陥っているのか、自ら吐いた血に塗れるのも構わずに何かを探し求めている。
苦しいか。それは良かった。
少しでも、苦しんで……殺してやるから。
私よりも苦しんで、死ね。
「あ、あった!? いま、今一度、『来たれ芽胞』っ……!」
と、血塗れの筒を手にしたエステルが縋るような声を漏らした。
筒の先を見ると、先ほどと同様に細い糸状の何かがわき出て、エステルの体表を…………いや、腹部に空いた風穴すらも艶のない膜が覆い……血と肉がそこから流れ落ちるのを防いでいた!
「止ま、けどこ、このままじゃ……いちど、にげなきゃ……ぁ……」
しかしエステルはメイに対峙しようとはせず、よろよろと足をふらつかせながらメイに背を向ける。
逃げる? どこへ行く気だ?
私だけ苦しませて、勝ち逃げか?
私からあの子を奪って、勝ち逃げか?
ふざけるな。
逃げるな。逃がさない。逃さない。
生き延びるな。許さない。許せない。
絶対に、殺す。殺してやる。絶対にだ。
状況としては……メイに背を向けた先ではマリエが待ち構えているため、エステルが逃げ出すのは至極困難だが……それは今のメイに何も関係しない。
「逃さん……お前だけは…………」
自分の手で、殺し切る。
この女の生命が消える、そのはっきりとした手応えを感じながら、殺し切る。
私にはもう、それしか残っていないから。
「逃げるなァッ!!」
叫んだ。飛びかかっていた。
掴んだ。地面に叩き付けていた。
叩き付けた。何度も何度も、何度も。
叩き付けながら、目が熱くなった。
いま掴んでいるこれを叩き潰せば、エステルを殺せるのだと実感して。せめて、仇を取れるのだと実感して。
「死ねっッ!!」
さらに、髪を掴んでいない左手を強く握って、拳を落とした。
「死ねっ! 死ねっ死ねッ!! 死ねっ死ねっ死ねッ!!!」
拳を落とした。何度も落とした。何度かは分からない。何度でもいい。
拳を落とした。とにかく落とした。何度でもいいから、とにかく落とした。
喚き散らしながら、とにかく拳を落とした。
「死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ死ねッ死ねっ死ねっ死ねッ死ねっ死ねっ死べゲホッコホッ……」
がなり立てすぎたのか、喉が痛んだ。
「う……あ゛ああああああああッ!!」
喉がギリリと痛んだが、そんなのは……グシャグシャに圧し潰されたような、胸の奥の悲痛と比べたらなんでもない。
エステルの髪を掴んでいた手も、拳に変えて目の前に落とす。
目が熱くて痛い。それに視界がぼやけて前が見えない。
涙が溢れているのが分かる。
「なあ、死ねよッ!! 死ねよッ!! 死ねよッ!!」
けど、そんなことはどうでもいい。
目の前で倒れているはずのそれを殺す。気が済むまで殺し尽くす。
目の前で倒れているはずのそれを叩く。気が済むまで叩き続ける。
目の前に残っているはずのそれを潰す。気が晴れるまで磨り潰す。
例えこの身体がバラバラに壊れたとしても、この女のことは一つも残さず潰してやる……
目の前の存在を壊し切る、それしか考えられなかった。
メイは一心不乱に、拳を落とし、悲鳴を上げ、涙を落として……拳を落として…………
「もう止めて、メイ!」
気付くと後ろからマリエの声が聞こえて、拳を振るう腕を止められていた。
「離して!! 邪魔しないでよ、マリエ!!」
メイは自身の涙声を自覚する。けれど止められたくない。
「いや、ちょっとでいいから止めて……見て」
「もう肉片も残ってない。これ以上は意味がない」
メイはマリエの言葉に耳を疑いつつも、涙の滲む目を拭って足元の地面を確かめる。
……周囲を見渡す限り、もはや……瓦礫しか落ちていなかった。血や肉の赤すら、メイの身体に付いたままの小片くらいのもので。
「私からもお願いしますゾ、これ以上天井を叩かれたら振動で地下設備の損壊が不可逆レベルに……」
拡声器越しの男声……ペドロからも、攻撃停止を願い出る声。
「あの女は、殺せた……?」
腕が、何度も地表に打ち付けた肘から先が……先が無いかのような脱力感がするのに、ズキズキと熱く痺れて痛む。
それが意義のある痛みだと確かめたくなって、メイは呟いていた。
「もう、とっくに死体もない」
「あっという間に、見るも語るも無惨な肉塊と化しましてナ……やがて細切れになり粉々になり、瓦礫に埋もれましたナ……もちろんとうの昔に生体反応も消えてますゾ」
そうか、終わったのか……
メイは切り傷と擦り傷でボロボロの、自分の両手を見た……ところどころ皮膚が破れ、赤い肉がのぞいている。
どれほどの時間、拳を振り下ろし続けていたのだろうか。
……あまり実感はないけど、あの子の仇を討てたらしい。
けれど……エステルを殺せたところで、もうあの子は帰ってこない。
たぶん、私にはもう何も……残っていない。
いや、もしかしたら……エステルの他にもまだ、身を潜めている反乱者がいるかもしれない。
メイはそう考えはしたが、どうしてもそうとは思えなかった。
全てが終わってしまったような気がして、メイは達成感ではなく……喪失感ばかりを抱いてしまった。
「……ん゛っ……ふぐっ……」
膝が崩れ、背が丸まり、涙が溢れた。
ただ泣き崩れ、嗚咽を洩らすことしかできなかった。




