45.君に想いを 3
「星乃先輩……」
遠慮がちに、青花は星乃の名を呼んだ。
「うん」
「先輩、先輩は……いえ、私は」
「……うん」
言い淀む青花の言葉を、星乃は辛抱強く静かに待ち続ける。
知っている。何もかも先回りしてわかっているひとだ。それでいて耐えてくれている。青花に当たらぬよう己の中に葛藤を抑えて、厭わず守ることを選べるひとなのだ。
「私にも、知らない記憶があります」
「そっか。そうだよね」
いいや、と青花は首を振る。
「違う。逆です。……記憶が途切れているんです。ある日以降、ぷっつりと。そういう風に人生が終わったっていう記憶がある……!」
「それは……」
さすがの星乃もはっとする。
その顔がまともに見れず、青花は部室の机に手を置いて俯いた。
「逆に、兄ちゃん……空木忍がいなかった世界のことは思い出せないんです。その代わりに……私は、多分」
「もうひとつの、世界の」
すべてを悟って、星乃ははっきりと残酷な推測を口にする。
「君は死んでいる。そうなんだね?」
「私は多分、高校生にはなれなかった。そんな気がします。中学校の終わりでした。何かの事件に巻き込まれた……んだと思います。学校帰りに裏路地で、刃物を持った男がいて」
残っているのは暗転する視界と、身体を襲う灼熱と、ぷつりと切れた意識だけだ。恐怖すら感じる暇はなかった。
青花は唇を噛む。
「もうひとつの記憶では、その日は学校まで兄ちゃんが迎えに来たんです。理由もよくわかんなくて、ウザイって思って。でも、きっと……その延長が今の、私」
行き場のない感情を吐露する青花を見て、星乃はしばしの間押し黙った。
椅子から立ち上がり、少しだけ距離を詰める。
触れるか触れないかの位置で、星乃の指が青花の髪を撫でるように動く。彼もまた逡巡している。掛けるべき言葉を決め兼ねている。
青花は顔を上げられなかった。
いったい星乃に何が言えるだろう。妹を殺された兄に、殺した相手に助けられたから許せなどと、到底主張できるものではないし、そのつもりもない。
なのに、反面で信じたいと思ってしまう。
嘘ではなかったと、偽りではなかったと。
正体が何であれ、忍が青花の傍にただ兄として寄り添った12年も確かに存在したのだと、肯定してほしいと不遜な願望を抱く。
そのうえ裏切られた憤りも確かにあるのだ。何という矛盾だろう。
どこにも行けない――。
このやるせない想いは青花の胸中で立ち止まったまま、ずっと燻り続ける。誰も責められず誰にも許されない。だからこそ、重く辛く……ただ、哀しかった。
「……青花ちゃん」
やがて沈黙を破り、星乃は躊躇いがちに口を開いた。同時に、温かい手が青花の後頭部にそっと添えられる。
「せ……」
「泣いても、いいんだよ?」
「……ん、ぱい」
「君は一度も泣いてないんじゃないかと思たんだけど、どうかな? 泣いてもいんだ、青花ちゃん。それぐらい全然構わないんだよ」
星乃はそっと、自分の肩口に青花の額を押し付けた。堪え切れず、青花は震える指先で星乃の制服の裾を掴む。
お互いの細かい呼吸と心臓の鼓動が、ごく至近距離で聞こえた。
生きている証だ。
それはつまり、まだお互いの気持ちを伝え合えるという意味でもある。
温かい。
いつだって星乃は青花を否定しない。受け入れて親身に考えてくれる。
それが苦痛だったときもあるだろう。なぜ自分に課せられるのかと負担を感じなかったはずがない。悲嘆に暮れた日々もあったに違いなかった。
けれど、どんな場面でも星乃の精神は常に強靭で、故に穏やかだった。
……否、穏やかでいてくれた。
強いひとだ。
そして同じくらいには寂しいひとだった。
気づいた瞬間、青花の想いはすとんと着地する。
「泣きません」
青花はきっぱりと告げた。
強がりでも我慢でもなかった。
「泣きません。私は」
「青花ちゃん」
ようやく視線を上げた青花の眦を、星乃の人差し指が掠める。
「……そっか」
「はい」
ふたりは見つめ合う。
下ろされた星乃の腕が、青花の背で交差する。
青花はそのまま体重を預け、瞳を閉じた。
「泣きませんよ」
「……わかった」
「泣かせないよ」
<完>
ありがとうございました
あとオマケページがありますが
読まなくても問題ないです




