33.お祭り騒ぎとぼっちの君と 7
漂い浮かんでは消えていくそれは、幻影に過ぎないと青花は知っていた。
喩えるならそれは、薄い膜に映された立体映像だ。現実感の失われた意識の中、青花はぼんやりとそれを眺めた。
+ + +
美しい女性がいた。
20代半ばくらいだろうか。顔立ちは斎木聖也によく似ている。一目で身内と判別できるほどだ。
『……てやる』
女性は憎しみを込めて呟く。
完全に狂気に支配されている。
ああ、呪いに侵されているのか。
あのとき天木玲生や言祝木蓮を脅かした黒い靄が、彼女の内にも見て取れた。
『殺シテヤル』
自我すら崩壊した女性は、闇に取り憑かれたままけたたましく笑う。
彼女は小さな子どもとバスルームにいて、まさにその子どもを自らの手で水に沈めるところだった。
子どもは彼女の最愛のはず。
最早その認識もないのだろうか。
否、だからこそ彼女は手に掛けているのか。
(愛する相手を傷つけ喪わせる呪い)
なんて残酷で不幸な呪いだろう。
以前に聞いた、自分を愛した相手を死なせる呪いというのも相当のものだが、こちらも比較して競い難い。人間に対する悪意に満ち溢れている。
子どもはバスタブの中でもがき暴れて、必死に抵抗していた。
『殺シテヤル』
『いやだ!』
『殺シテヤル』
『嫌だ、どうして!』
『殺シテヤル』
『どうして、お母さん!』
自分を庇護すべき母親が、真逆の行為で彼を苦しめる。惨劇の渦中で幼な児は何を思ったろう。
絶望か。
怒りか。
悲しみか。
(だから、斎木さんは)
その小さな男の子が誰の過去であるか、青花にはわかっていた。水、トラウマ、そっくりの女性、起こった悲劇……これだけ材料があればヒントとしては充分だ。
女性は異常を察した別の家族――おそらく夫であり子どもの父親らしき男性に取り押さえられる。女性は正気を取り戻すことなく、獣のように暴れた。
男はすべてを諦め、子どもを守るために女を排除する。
――女は死んだ。
後を追って男も生命を絶った。
(12年前に起こったこと)
なるほど、決して真相は表には出てこないだろう。調べても無為に終わった意味を、青花はようやく理解する。
旧家の令嬢が狂気のまま自身の息子を殺しかけ、見咎めた婿がその手で妻を殺めたなど、醜聞以外の何物でもない。
親族は起こった惨劇が世に出て騒がれないよう、持ち得る限りの権力でひた隠しにした。致し方ない。公にするには影響が大き過ぎる。親に傷つけられ取り残された子どものケアなど二の次だった。
遺された子どもがどう思っても。
過去に苛まれ、いつまでも消えない傷痕を抱き続けても。
無力さに打ちひしがれ自身も他者をも信じられない彼が、行き着く未来に悲哀しか見出だせなかったとしても。
斎木聖也はずっと母親から受けた仕打ちに、彼女の呪縛に囚われ続けていた。客観的に見れば手酷い幼児虐待なのだから無理もない。
ただ、彼は真実も知っていた。
特殊な家系の跡取りとして、母親を陥れた元凶について聞かされていたのだ。
呪い――。
(そして、斎木さんのお母さんは)
その稀有な立場ゆえか、青花は本能的に理解する。回想の中で死にゆく女性が何と呼ばれていたのかを。
(神無木命の前に、巫女姫だったひとなんだ)
+ + +
場面は暗転して移り変わる。
精神に深い傷を負った少年は、外側だけは見事に取り繕い、孤独の檻に閉じ籠もったまま成長した。
聖也は運命に導かれるように星辰学院高校に入学する。そこはかつて彼の母を堕とした場所であり、仇である存在が巣くう敵のテリトリーだった。
生徒会に身を置き、悟られないよう狙われないよう、慎重に立ち回りながら敵の動向を探る。正面から戦おうと思っての行動ではない。寧ろ逆だ。危険を回避し己の身を守ることだけを常に考えていた。
そうして、息を潜めて1年――。
あの少女が新入生として目の前に現れた。
(神無木命……)
言祝木蓮の家で青花が見た怨霊めいた姿と、聖也の記憶を彩る少女の面影は、全く印象が異なる。
可愛らしい顔立ちの内に秘められた意思の強さは、清廉な雰囲気を一層際立たせていた。
『斎木先輩のお母様は、封じようとして逆に取り込まれてしまったんですね……』
『愚かと思うか?』
『いいえ、おひとりで勇敢に立ち向かわれたのだと思います。六根の束ね役として。巫女姫のお役目を果たそうとされた』
聖也は眩し気に少女を見る。
彼女は正しく、優しく、健気だった。
しかし血の宿業なのか、巫女姫の試練とでも言うのだろうか。少女はやはり逃れ切れない不運を背負っていた。
けれど少女は最後まで立ち向かった。
運命のあの日も、決して諦めてはいなかった。
『私もまた、呪われました』
『命……』
『斎木先輩は東校舎を出てください。鍵を持ってますよね?』
『君は?』
『あのひと……いえ、あいつと戦います。逃げてばかりじゃ、いつまでもどうにもならないから』
勇敢な少女は僅かにも臆すことなく覚悟を決める。運命に抗うひたむきな瞳には、力強く輝く焔が灯っていた。
自分も共に、と言おうとして、聖也は踏み出せなかった。少女の向かうその先に赴く勇気がなかったのだ。
彼の恐怖を悟っても、少女は責めなかった。
幾許かの哀れみを抱きつつも、慈愛に満ちた柔らかい笑みを浮かべていた。
『大丈夫。諦めないで、待ってて』
『駄目だ、命』
『先輩はこのまま外に。万一の際は後のことをお願いします』
『他の連中も呼ぼう』
『無理ですよ。皆が皆、私のように使命を受け継いだ訳じゃない』
『だが、玲生や遥真なら』
『天木先輩は私を避けてますし、貴木くんは昨日部活で腕を痛めて、今日は病院です。もちろん、何も知らない蓮先輩や雷くんは論外でしょう?』
『しかし……』
この期に及んでも、聖也は自分自身が同行するとは……傍にいて彼女を守るとは言えなかった。情けなくも続ける科白が出てこない。
『行ってください、斎木先輩』
少女は再び聖也を促す。
『たとえ私が負けても、希望は残しています。もしそれを持って学院を訪ねるひとが現れたら、そのときこそ一緒に戦って』
『一緒に……』
『先輩はきっと乗り越えられる。そう信じています。そして伝えてください。今の私のことを』
決別するように、少女はくるりと背を向けた。聖也は手を伸ばせない。……彼女を止められない。
一度も振り向かずに少女は歩き始める。
ただ一言、誰にでもなく呟いて。
『行ってきます』




