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31.予防線

 夕刻、恋乃丞と陽香は上谷マネージャーが運転する黒塗りのセダンで、自宅前まで送って貰った。

 車は笠貫家と桜庭家の間付近に停車した。

 ここで上谷マネージャーは後部座席に座っているふたりのうち、恋乃丞に視線を向けた。


「笠貫君、悪いけどこの後少しだけ、時間貰えるかな?」

「俺ですか? はい、別に良いですよ」


 その恋乃丞の応えを受けてから、上谷マネージャーは陽香に面を向け、お疲れ様とひと言。つまり彼女には先に車を降りて自宅に戻れと言外に指示した格好だった。

 陽香は何かを察したのか、一瞬だけ表情を硬くしてから弱々しい笑顔を浮かべ、こちらも送って貰った礼を述べてから車を降りていった。

 そうして車内には、運転席の上谷マネージャーと後部座席の恋乃丞のふたりだけが残った。


「早速だけど、君にお聞きしたい……笠貫君は陽香と、恋人としてお付き合いしたいと思っているのかい?」

「陽香とですか……」


 恋乃丞は微妙な表情を返した。対する上谷マネージャーは恋乃丞に気を遣っているのか、その面には穏やかな笑みが浮かんでいるものの、その瞳の中には腹の底を伺う様な眼光が宿っている。

 どういう回答が正解なのかは分からないが、恋乃丞は素直に答えることにした。


「中学ん時までは、将来陽香と結婚するんかなとか思うてましたけど、今はそこまでは……ぶっちゃけ、付き合いたいかどうかといわれても、自分でもよく分かりません。まぁ好きなのは好きなんですけど」

「へぇ……珍しいね。君ぐらいの年頃の男の子で恋愛経験の無い子は、こういう話題には照れが先行して、そこまではっきり答えられないケースが多いイメージなんだけど」


 上谷マネージャーは幾分驚いた様子で、じぃっと恋乃丞の顔を見つめてきた。

 恋乃丞は内心で、そらそうやろうとひとり頷いた。

 恋愛など、所詮は平和な日常生活の中での一コマに過ぎない。彼にとって最も精神的緊張を強いられるのは、我天月心流の奥義を駆使する場面、即ち暗殺などの、ひとの命を左右する場面のみだ。

 惚れた腫れたの恋愛事情如きで、いちいち心理的な負担を背負ってなどいられない。

 恋愛経験は欠片も無い恋乃丞だが、彼がここまでこの手の話題に対して堂々としており、己の心情を隠すことなく平気で口に出来るのも、暗殺拳の使い手であるという面が圧倒的に大きな要素を占めていた。

 だが勿論、そんなことを上谷マネージャー相手に口走る訳にはいかない。


「まぁ何っつぅか、そっち方面の経験とか話題に疎すぎて、何も考えてないだけやと思います」


 一応、こんな台詞で誤魔化してみたが、果たして通用するかどうか。


「成程……まぁ考え方なんてひとそれぞれだから、君みたいに逆に堂々としているケースも、無くは無いってなところなんだろうね」


 上谷マネージャーは苦笑しながら小さく肩を竦めた。ひとまず納得はしてくれた様だ。

 しかしここでこの話題は終わらない。恐らくはここからが本題なのだろう。


「僕はね、自分でも少々困ってるんだ……読モのマネージャーとしては、君と陽香がお付き合いするのは避けて貰いたいと思っている。彼女はこれからが大事な時期だからね」


 この言葉は恋乃丞にも理解出来る。陽香は今からが売り出しどころ、勝負どころなのだろう。そんな彼女に、色恋沙汰で下手なスクープでも持ち上がってしまえば、それこそ致命的だ。

 そういう意味では、恋乃丞と陽香の今の関係は理想的なのかも知れない。

 ところが上谷マネージャーは続けて、思わぬ台詞を吐いてきた。


「ただね……ひとりの大人として、恋する青少年を応援したいとも思ってるんだ。陽香は多分……いや、間違い無く君にぞっこんだよ。もう好きで好きで堪らないといったところだろうね」

「んなアホな」


 恋乃丞は思わず鼻で笑い飛ばしてしまった。

 陽香は確かに、恋乃丞とは絶対に付き合えないと明言した。今更それを覆す要素がどこにあるというのか。

 あの事件以前からも、そしてそれ以降も、自分は何ひとつ変わっていない。変化があるとしたら、陽香があの事件の真相を語り、恋乃丞への怒りを解いたというぐらいのことだろう。

 それに対して多少ほっとした気分があったのは事実だが、矢張り彼女の初恋を台無しにしたという負い目は今も尚、心の内にくすぶったままだ。

 そんな拗らせた男を、見た目も好みではないといい放った彼女が何故好きになるのか。

 全く理屈に合わない。


「随分とはっきり、いい切るんだね」


 上谷マネージャーはバックミラー越しに苦笑を浮かべた。その瞳の中に、女心はそんな単純なものではないと諭す様な感情が見て取れた。


「けど、まぁ良いさ。少なくとも君はそういう考えなんだね。ただ、ここ最近の陽香はどうも調子が今ひとつというか……自分の中の恋心への鬱屈みたいなものが、仕事にも影響している様にも思えるんだよね」


 だから本来ならば恋愛はNGなのだが、彼女に限っていえば逆にOKとしてやった方が、仕事の上でも良い結果に繋がるかも知れないなどといい放った。

 マネージャーの立場にある人物がそんなことをいって良いのかと逆に驚いた恋乃丞だが、しかし上谷マネージャーはどうやら本気らしい。


「さっきいったこととは明らかに矛盾しているね。それは僕も認めるよ。でも、彼女が恋愛の力でより一層輝けるなら、それはそれでアリだと思っているんだ。だから……だからもしも、陽香が君と付き合いたいっていったら……君はOKする? しない?」

「それって陽香が間違い無くコクってくるって前提になってません?」


 恋乃丞は渋い表情で鼻の頭に皺を寄せた。

 上谷マネージャーはそれもそうかと、笑いながら小さく肩を揺すった。

 しかし恋乃丞からすれば、冗談事ではない。今更、陽香からひとりのオトコとして見られているといわれたところで、どう反応すれば良いのかが分からなかった。

 それ以上に、彼女が恋乃丞にそんな感情を抱いているなど、矢張りどうしても信じられなかった。


「多分なんですけど……俺はもう恋愛沙汰で金輪際傷つきとうない、好きな女に二度も三度も拒否られとうないって、自分の中で予防線を張ってるんやと思います」


 だから、陽香が恋乃丞に好意を向けていると周囲からどんなにいわれ続けても、決して信じようとしないのだろう。

 すると上谷マネージャーは、成程なと納得した様子で頷いた。


「これは陽香の方にも責任の一端はあるな……後は彼女自身がどこまで自分と本気で向き合い、自分の心に素直になれるのか」


 ここで車内に沈黙が下りた。これ以上、交わすべき言葉は無い。


「もう、良いですかね?」

「うん、ありがとう……僕の頭の中でも大体整理は出来たよ」


 恋乃丞は最後に、送って貰ったことへの礼だけ述べて車を降りた。

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