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嵐の前の静けさ


 ガシャン


 聞こえた音に、思わず体をビクつかせた。


 音のした方向を見ようとして、大きな壁に視界を遮られる。


 壁の正体はディディエ・トロー選手の後ろ姿だった。


 さすがというべきか、この一瞬で彼は音に反応して、私やアクサナを守れる位置に移動してくれていたらしい。


 それから、すぐ構えをといたディディエ・トロー選手は、ゆっくりと私の前から退いた。


 そして見えた光景に、息をのむ。



「ヴォルフ、様?」



 私に見えた先、そこには、ディディエ・トロー選手を目当てに集まっていたはずの大衆が場所を空け、ぽっかりとスペースができてしまっていた。


 空いたその空間の中央に、体を丸めてしゃがみこむ黒い人が一人。


 小さく丸まった体で顔は確認できない。


 それでも、私が見間違えるはずのない人がそこにいた。


 ヴォルフ様だ。



 カチャ


 カチャリ



 背を丸め、何かを拾い集めている様子で下を向いている彼の姿はなんだか弱々しく、重力に従って垂れた黒に近い茶の髪が彼の表情を覆ってしまっている。



 カチャ……



 彼は最後のひとかけらを拾い終わると、動きを止めた。


 彼のそばにいたおじさんがごくりと唾を飲み、一歩近づくために踏み出した。


「使ってくれ」


 おじさんが手に持っていた新聞紙をおずおずと差し出すと、それに気づいたヴォルフ様はほとんど顔も上げずコクリと頷き受け取る。


 新聞紙に、今拾った割れ物らしい破片を乗せて畳み始めた。


 よく見れば、彼は欠けた鉢植えを抱えるように持っている。


 緑の葉がついた、小さな植物だ。



 先ほどの何か落ちたような音は、ヴォルフ様が鉢を落とした音だったようだ。


 今、ロビー全体は、妙な静けさに包まれていた。


 ヴォルフ様が新聞を折りたたみ、そのたびに小さく陶器がすれるような音が響く。


 ヴォルフ様の様子が、余りにも普段の彼と結びつかないものだから、誰もが言葉を失くしているのだ。




 よほど大切な鉢だったのだろうか。




 ギュッと、胸が苦しくなる。


 大好きな彼が落ち込んでいるような、傷ついているようなその姿が見ていられない。



 結局、私はどれだけヴォルフ様を好きで見ていたとしても、ただのファンの一人でしかないのだ。


 こんな時、かける言葉すら見つからない。


 そう思っていると、やたらと優しげな声がぽつりと聞こえた。


「やっぱり」


 言ったのは、ディディエ・トロー選手だった。


 なにが“やっぱり”なのだろうかと私が口を開くより早く、もうひとつ、今度ははっきりとした言葉が届いた。


「傷は」


 低く響くような、それでいて良く通る声は、私の大好きなその声は。


 私はヴォルフ様へ視線を戻す。


 彼が誰に声をかけたのかとそちらを見たのに、視線はぴったりと私に向いていた。


「え」

「傷はどうなった」

「えっ、あ、ほっぺ! 治りました! 治癒魔法でですね! ちょちょっと!」

「……そうか」


 まさかこの状況で私の頬の傷を気にしてくださっていたとは思わず、私は盛大に嚙みながらもなんとか答えた。


 顔を上げた彼は、その瞳を私にまっすぐ向けている。


 俯いているときには気づかなかったが、水に濡れているのか、汗をかいているのか、彼の髪の先からはポタリポタリと雫が滴っている。


 その姿に激しくドキドキと胸を高鳴らせながらも、なんとかおかしな挙動をしないよう細心の注意を払って傷を治したことを伝えた。


 私の言葉に「そうか」と返したヴォルフ様の顔は、安堵と悔しさが混じったような、ひどく複雑な表情をして見える。


 それからヴォルフ様はなぜか一度ディディエ・トロー選手に強い視線を向けてから、鉢を抱えて急ぎ足でその場を去っていった。




「話しちゃった……」

「ドリー、そこなの?」


 ヴォルフ様が去った方向を見つめたまま呆けた私に、アクサナは呆れたように言った。


「だって、二度も会えたのに、そのうえ話まで」

「まあ、確かにすごいわね」


 まだ混乱する頭のまま会話していた私たちに、ディディエ・トロー選手は何気ない様子で声をかけてきた。


「ドリーちゃんって、すっごく謙虚だね」

「え?」


 不思議そうに言われる意味が分からなくて聞き返すと、ディディエ・トロー選手はなんてことないように続けた。


「あれ、パナケイアでしょ?」

「パナケア?」


 なぜそこで私の家名がと思えば、ディディエ・トロー選手は首を振る。


「んーん、万能薬(パナケイア)。ちょっとだけ発音が違う。戦士(ファイター)のお守りみたいな植物かな」

「へえ、そうなんですか」


 知らなかった。


 素直に感嘆していると、ディディエ・トロー選手はおかしそうに少し笑んだ。


「だから、ドリーちゃんの傷を心配して持って来たんじゃないの? 去っていくとき、“パナケア”って呼ばれたって言ってたでしょ?」

「?」


 ケラケラとおかしそうに言うディディエ・トロー選手の発言が、私の脳細胞にゆっくりと染み込んだ。


「え! あ! あれって、そういう!?」


 ボボボっと、顔が火を噴くように熱くなり、私は大声を出してしまった。


 それを見ていたアクサナが、慌てたように口を挟む。


「もう、ディー様やめて。この子リアコっぽいんだから。勘違いしたらかわいそうでしょう」

「いや、それは分かるけど」

「だったら」

「だってさあ、彼、すごい怖い目で僕のこと見てたんだけど」

「それは……」

「アクサナちゃんは友達思いのいい子だね。……でも、もう少しだけ、夢を見てもいいかもね」


 何やら二人が言っている言葉もうまく飲み込めないまま、私は勘違いしちゃだめだと繰り返し自分に言い聞かせていた。


 なおもディディエ・トロー選手とアクサナはなにやら話している。


パナケイア(おまもり)を育ててるのって、すっごく信心深い選手くらいなんだ。彼がそう見える?」

「……見えない」

「彼の汗見た? すごかったよね、絶対走って買って来たんだよ」

「……」

「そして、睨まれた僕」

「……ディー様かわいそ」

「ふふ、本当に。アクサナちゃんは優しいね」


 自分のことにいっぱいいっぱいな私は、そんな二人の会話なんて入ってこなくて、でも何やら推しを前にあのアクサナがたじたじになっているらしいことだけを理解した。



「ううう……、私の煩悩、早く消え去るのよ~」



 一度灯った顔の火照りは、なかなか引いてくれそうになかった。


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