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またひとつ、大人になる(ヴォルフside)

 ファンサ・デーなるものを体験した俺は、一段大人になったような妙な心地を覚えていた。


 どこまでも連なるおっさん。おっさん。おっさん。


 今でも時折、フラッシュバックするようにあの地獄の光景が脳裏に過る。


 どれだけ頼み込まれたとて、俺は二度とあのイベントに参加することはないだろう。


 これでは立派なトラウマだ。


 そんなことを思いながら、俺は目的地に向かって歩く。


 今年選抜試験を免除されている俺は、次のシーズン開始までは休暇のようなものだ。


 かといって、その期間のために外に家を借りるのも面倒で、闘技場(コロッセオ)に自室を構えたままのため、シーズン中と何も変わらないのだが。


 あの握手会を思い出せば、自然と一緒に浮かぶのはドリーの姿だ。


 いつもよりなお着飾った可憐な姿はあの場に咲いた一輪の花のようだった。


 柔らかで小さな花。


 そんな彼女が好きだと何度でも思う。




『俺にしとけよ』




 あの時、俺の踏み込んだ言葉に返すでもなく、慌て誤魔化すようにして去っていった彼女。


 それを思うと、チクリと胸が痛んだ。


 気に病んでいなければいい。


 俺と握手をするためのあの場には、きっとクラインに誘われやってきたのだろう。


 わざわざ長い列に並んでくれたというのに、贔屓の選手でもない俺にあんなことを言われ、戸惑わせてしまった。


 それでも、告げた言葉に後悔はない。


 勝手な話だ。




 そんな自嘲めいたことを考えていると、目的地へと着いていた。


 自分には縁遠いと思っていたそこも、慣れてみれば存外悪くない。


「狼の戦士(ファイター)さん、いらっしゃい」


 快活な声で挨拶をしたのは、この()()の主人だ。


 最初、ドリーに贈る花を育てるために花の種を買いに来た俺を見て、この主人は恰幅のいい体を揺らして怯えていた。


 しかし、俺がことあるごとにその花の育て方を尋ねに来るものだから、いい加減慣れたらしく今では軽い調子で声をかけてくる。


 闘技場(コロッセオ)のことは不案内だと言っていたが、どこかで中途半端な噂でも耳にしたのか、俺のことを狼の戦士と呼ぶ。


「主人、植え替えを考えている」

「ほお、確かに少し窮屈になったね」


 俺は持ってきていた花の鉢を主人に渡し、新しい鉢や土を見繕ってもらった。


「道具はあるかい?」

「あるわけねえ。それも頼む」


 店の奥に入り、そこに積んだ荷物を探りながら尋ねてきた主人の声に返し、それから俺は考えついて続けた。


「鉢はなるべく女が喜びそうなもので頼む」

「ハハハッ、承知しました。では、この可憐な花に似合いの可愛いやつを」


 俺が告げた言葉に虚をつかれたように笑った主人だったが、俺の意図は汲んでくれるつもりらしく、「それならもっと奥にたしか……」と探しに行った。


 待つ間、俺はいつものように店内の植物を見て回る。




 そこでふと、ひとつの鉢に目が留まった。



「……」



 少し考えたものの、視線を外す。



『ドリー・パナケアです!』



 握手会の際のドリーの言葉がよみがえった。


「……いい名だな」


 小さくこぼした言葉も、聞きとめる者は今はいない。



 ほどなくして戻ってきた主人から一式を買い、来た時のように花も抱えて闘技場へと帰った。



 翌日、慣れない作業に四苦八苦しながらも、花屋の主人に事細かに確認したとおりに植え替えを済ませ、不思議な充足感に包まれる。


「花を、花柄の鉢に入れるのは正解なのか?」


 自室でやたらと浮いた存在になった鉢を眺めていた俺は、後日あんなことが起きるなどとは微塵も思っていなかった。




 + + +



「ダメッ!」



 その声が聞こえたのは昼前のこと。


 部屋でまどろんでいた俺は飛び起きた。


 今の声は間違いなくドリーのものだった。


 切羽詰まった声音に、焦燥感が募る。


 自室のドアを蹴破るようにして飛び出した俺は一心に声がしたほうへと走った。


「試合会場、いや、ロビー」


 早く早くと気が逸る。


 しかしその反面で闇雲に走るだけでは駄目だと冷静な自分が思考を巡らす。


 今日も選抜試験が行われている。


 選抜試験で行われる試合の数は膨大だ。


 早朝から組まれた試合の中、今日はディディエの試合もあったはず。


 ディディエの応援に来たドリーが何かトラブルに巻き込まれたとすれば、ロビーを先に見るほうが可能性は高そうだ。


 それでいなければ職員を問いただせばいい。


「チッ」


 またディディエかと、苛立ちまで湧いてくる。





 そうしてたどり着いた先、俺が見たのは頬から血を流すドリーの姿だった。





 + + +



 真っ白になった思考もすぐに帰ってくる。


 怪我をしたんだ。


 ドリーが。


 なぜ。


 いや、そんなことよりも怪我を治さなくては。


 瞬間、思い出したのは、親父が兄の怪我を魔法で癒している姿だった。


 親父と訓練をした兄たちは手をかざされ、そうして傷を治してもらっていた。


 一瞬自分の手に視線を落としそうになって拳を強く握りこんで留めた。




 なぜ俺には魔力がない!


 彼女の危機にも間に合わず、傷すら癒してやれない!




 自分の力じゃどうにもならない、クソみてえなこの世界のルールが、また俺を絶望に叩き落とす。


 ドリー。


 闘技場で優勝したところで、彼女ひとりすら守れない。


 癒せない。


 ドリー。



「!」



 頭の中で彼女の名を呼ぶうち、たった一つの光明が見えた。




『ドリー・パナケアです!』




『いい名だな』




「パナケア……」

「えっ」



 ひとつだけある。


 俺にできること。


 俺はたった一つの公明(それ)に縋るべく、闘技場を飛び出した。




 先日、花屋で見た、ドリーと同じ音の名を持つそれを手に入れるために。




 “万能薬(パナケイア)



 その名を持つ植物のことを、花屋の主人は自慢げに語っていた。


 煎じる必要もなく、その葉を折って汁をつけるだけで傷口を治す、と。


 主人は()()にお誂え向きだなどと言っていたが、俺は結局手に取らなかった。



 戦士を癒す、ドリーと同じ名を持つ植物。



 本当に、あまりにも()にお誂え向きすぎて、ドリーの了解もとらずに勝手にそれを自室に置くのが許されない事なのではないかと思ったからだ。


 でも今はそれを後悔する。


 自室にあれば、もっと早く持ってきてやれるのに。


 走って走って、俺は花屋にたどり着く。


 開店準備を始めたばかりだった主人は現れた俺と焦ったその様子に大層驚いていたが、快く万能薬(パナケイア)を譲ってくれた。


「お代は今度で良い。鉢ごと持っていきなさい」


 何を聞くでもなくそう言った主人は、俺の背を押すと、走り去る俺の背後から、以前にも聞かせた葉の使い方を大声で叫んで聞かせてきていた。




 俺の周りにいるやつらは、どうしていちいちこう世話焼きで親切なのかと、何なのか分からない感情が胸を占めて苦しい。


 感謝の気持ちに苦しくなりながらも、まずはドリーを癒したいという思いが勝った。


 鉢を抱え、走って、走って、闘技場へと戻る。


 時間がかかってしまった。


 息が上がっているが、整える時間も惜しかった。



 ドリー。


 ドリー。



 こんなことしかできない。


 魔力のあるやつに比べれば、傷を治すのにすらずっと時間がかかってしまう。


 それでも、彼女のために。








 やっとロビーに戻った俺が見た光景。



 ドリーが。


 ディディエが。


 二人は向き合い、笑い合っている。




 ひどく幸せそうな、頬を染めたドリーの笑顔。






「大好きです!」








 ガシャン







 落ちて砕けたのは、今持ち帰ったばかりの鉢だったのか。


 それとも、俺の心だったのか。



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