四、落頭民の女
ひとまず仕事もしなければならない。再び城郭に戻り、軍政官らと軍議を重ねた。
呉は今、戦時にあった。戦が近いのである。
魏・呉・蜀の三国に天下の割れる情勢で、現在その中心にあったのは最小の"蜀漢"である。
蜀漢は王朝の開祖である英傑"劉備"の没後、相次ぐ国難で滅亡の危機に瀕していた。
しかし蜀漢の丞相"諸葛亮"が国を導き、僅か五年で国家の立て直しに成功して見せたのだ。まさしく奇跡と言えるだろう。
そしてそんな諸葛亮は、大国である魏に幾度となく攻勢を仕掛けていた。
だが、決定的な勝利は得られず、荒波の中でその命の灯火は消えかけようとしている。
呉は蜀漢の同盟国。その諸葛亮の攻勢に一応協力しなければならなかった。
加えて呉の大将軍"諸葛瑾"はその諸葛亮の実兄であり、諸葛恪は諸葛瑾の息子である。
故に蜀漢と歩調を合わせようという意向はこの諸葛瑾の影響も大きく、諸葛恪もまたその分請け負う仕事が多かった。
「当然、濡須口方面からも兵を出す方針だ。恐らく陛下が自ら出られる親征となるだろう」
「左輔都尉、濡須口の兵は戦時でなくとも調練は積んでいるのですぐにでも戦えます。ただ」
「将軍の容態だな。朱将軍が率いなければ、嫌でも士気は落ちる」
軍政官達はみな顔を見合わせて難しそうに頷くばかり。
それだけこの濡須口の軍隊の中での朱桓の名は大きかった。
結局、将軍が居ないと最終的な話がまとまらない。
諸葛恪のそんな不機嫌な様子は周囲の軍政官を委縮させるばかりである。
「将軍の屋敷を訪っても面会すら許されなかった。何か話は聞いていないか?やはり噂通りの容態か?」
「人を殺す衝動を抑えがたくなる、という噂ですね。うーん、そのあたりの真意はどうにも。お前何か知ってる?」
「将軍なぁ、調練で動きの悪い兵士をしごき倒して殺すことも結構あるしなぁ」
「そーそー。戦場で敵を殺してるときが一番楽しそうな顔してるし、噂というか、さもありなんというか」
そうだった、こういう将軍だった。思わず諸葛恪は頭を抱える。
それでも将軍は身寄りのない兵士の面倒を見るし、戦死した兵の葬式の費用を請け負ってもいる。
故に朱桓の支持は絶大だった。調練が厳しいのも戦場で仲間の足を引っ張って殺させないためである。
こういう変な噂が出てもおかしくはない、だが理由なく人を殺すことはしない。これが朱桓の評判だった。
「そういえば」
軍政官の一人が思い出したように口を開く。
「最近、将軍の屋敷から一人の女の使用人が解雇されたんです。働きたいと願い出る人なんてほとんど居ないから、解雇は結構珍しいんですよね」
「ほう、どんな女だ」
「なんでも噂では"落頭民"の女であったとか。もしかすると将軍の病は怪異による仕業ではないか、とも」
落頭民。それを聞くや否や諸葛恪はすくっと立ち上がり、解散を指示。
軍政官らが呆気にとられる中、諸葛恪は城郭を飛び出して馬に跨り、急ぎ自らの宿舎に駆け出した。
もうすでに外は暗い。日も沈んでおり、僅かに夕暮れが残っているだけだった。
治安維持のため夜間の外出はどこも禁止されている。もう大通りに人の往来はほとんどなかった。
いや、諸葛恪は自分の宿舎の前に数人程度の人の塊を見た。別に喧嘩をしているわけでもなさそうだ。
馬に乗ったまま駆け寄るとそれに驚いたように人々は散り散りとなり、囲みの中心にいたのであろう楊甜が現れる。
「何の騒ぎだ」
「さ、騒ぎは起こしていません」
楊甜はいくつか書簡を地に広げており、そこに座り込んでいる。
書簡を路上に置くなと怒鳴ろうとしたが、よく見れば手や袖は墨で汚れていた。
「何をしていた」
「あ、いや、僕は文字の読み書きができません。なので皆様に教えていただいていました」
「道行く人間にか」
「はい。ここに置いてもらいたいので、精一杯考えました」
先日、暴漢らに襲われてもなお"人"と関わろうとするのか。諸葛恪はフンと鼻で笑う。
笑われたと感じた楊甜は不安に襲われたのかあれこれと言い訳を繰り返し始めたが、それを聞くつもりはない。
「早く書簡を片付けろ。あとは馬の世話をやれ。反省文もよこせ」
「承知しました!反省文はご主人様の書斎の前に置いてます!言われていたこと全部やりました!」
「そうか。あーそうだ、お前に聞きたいことがあったんだ」
「え、僕に?」
ひらりと馬から降りて、ふと庭を見渡す。
するとまだ朝のほぐした秣が散らばっており、諸葛恪の視線に気づいた楊甜は全身から震えが止まらなくなっていた。
「あれはどういうことだ、おい」
「あばばばば、ち、違うくて、その」
「やれと言われたことをやる。犬でもできることだよなぁ?掃除も出来ねぇのか?あ?」
「ご、ごべんなざい…っ、追い出さないでぇ…!」
諸葛恪の説教は長い。
そして明晰で理論的な頭脳からはじき出される正確無比な叱責は楊甜を容赦なく叩き潰す。
砂利の上で正座になりひんひんと泣く楊甜。厩舎からその様子を眺める馬は嬉しそうに秣を貪っていた。
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