五、公私混同の策
もう食料は枯渇しているはずだった。秋も過ぎた今、山で採取できる食料にも限りが見え始める。
当然備蓄はあるだろう。しかし長期間も数十万の人間を全て養えるだけの備蓄があるとは思えない。
それなのに降伏してくる者は未だに一人もいない。いつまでこの緊張状態は続くのか。前線の兵士達を軍規で縛り付けるのも限界があった。
陸遜が「山越は叩く以外にない」と主張していたことの意味がこれなのか。諸葛恪は一人、居室で地図を睨みつけていた。
「失礼します。都より急ぎの書状が」
「誰からだ」
「右弼都尉(張休の役職)です」
衛兵は部屋の入口にある棚に書状を置き、一礼をして速やかに出て行った。
何の様だ。無視するわけにもいかず地図から目を離して、書状を手に取って乱雑に開く。
内容は張休の父であり、この国の重臣"張昭"が危篤のため見舞いに来てほしいとのことであった。
以前から体調が優れないという話は聞いていたし、もう年齢も年齢である。不思議なことでは無いと、さほど驚きはなかった。
「あの頑固爺さんも死に目に嫌いな奴の顔は見たくあるまい」
断りの返書を出そう。理由なんていくらでも出てくるぐらいに多忙である。
そんなときだった。何やら外が騒がしく、勇んだ足音がズカズカと近づいて来くると、諸葛恪の部屋の戸は乱雑に開かれた。
「元遜(諸葛恪のあざな)、久しいな」
「な、殿下っ」
「違う、子高(孫登のあざな)と呼べ」
諸葛恪は強権を振るい始めた頃から迅速な指示を行うべく最前線である宛陵県に駐屯していた。
そんな危険な場所に皇帝代理の権限を預かる皇太子が足を運ぶなんてことは本来あり得ない話である。
こんな前線に皇太子を使い走り出来る人間など居て良いはずがない。しかし、一人だけいる。長老"張昭"だ。
孫登は諸葛恪が途中まで書いていた書状を覗き、それを破る。そしていつものように、いたずら小僧のような笑顔を浮かべた。
「来い、元遜。ずっと仕事では頭がおかしくなるぞ」
「輔呉将軍(張昭の役職)の意向ですか」
「そうだな。そして私の意向でもあるし、皆の願いでもある。良かったな、お前は意外と人に好かれているらしい」
こうして諸葛恪は孫登に手を引かれるままに宛陵県から離れ、建業へと赴かざるを得なくなった。
いくら情を切り捨てた諸葛恪とはいえ、孫登には頭が上がらなかった。
この国の皇太子であるということに加え、諸葛恪はこの男を天下に押し上げるべく今まで研鑽を積んできたのだ。
孫登は今の諸葛恪に言葉が届く唯一の存在だと言っても良かった。
久しぶりの建業である。町並みはいつものように活気が有り、すぐ北と南で戦が起きていることなんて忘れてしまいそうな都である。
ふと、建業の街並みを始めて見て目を輝かせていた楊甜の顔を思い出し、それをすぐに振り払った。
「張昭はどうやら人払いをしてお前と話したいらしい。だからここでお別れだ、私は仕事に戻る」
「…何を企んでいるのですか」
「さぁな、これは本当に知らないから答えようがない。私はただ久しぶりに仕事から離れ、愛する友の顔を見に行けると聞いて使い走りに来ただけだからな」
揺れる車で眠るお前の顔を見て元気が出た。孫登はそう言いながら牛車からいつまでも諸葛恪に手を振って遠ざかっていく。
建業までの数日間の道中で一切仕事の話をせず、昔話に花を咲かせるばかりであった孫登。
気を使ってるのだろうと思っていた諸葛恪であったが、孫登は恐らく本当に遊びに来ただけだったかのようであった。
「一体、何を考えてやがる」
大きな屋敷を睨みつけ、諸葛恪はそう吐き捨てた。前線の大将をわざわざ呼びつけるなど、公私混同も良いところである。
だが人払いまでするとは、その意図が読めない。居住まいを正し、 敷地の中に足を踏み入れる。
家人らは諸葛恪を丁重に奥の一室まで招き、そしてその部屋に入った瞬間、本当に周囲には誰もいないかのような静寂に包まれた。
「やっと来たか、クソガキ」
何かひとつでも嫌味を言おうかと思っていたが、言葉が出てこない。それほど張昭の体は瘦せ細り、皮と骨だけになっていたのだ。
驚いた。実際にこうして目にするまで、あの張昭が死ぬわけないと心のどこかで思っていたような気がしていた。
しかし人は死ぬ。つい先日、蜀漢の丞相"諸葛亮"の訃報も届いた。その避けられない運命が目の前に横たわっていた。
「気が利かんな、儂の体を起こすのを手伝わんか」
「し、失礼」
「…ふぅ、そんな目で見るでない。自分が老いたことを嫌でも感じてしまうだろう」
「危篤と聞いていたのですが。案外、余裕がありそうですね」
「あぁ、嘘を吐いたからな。だが直に死ぬ。その前に、お前に伝えなければならんことがあった」
「人払いをしてまで、ですか。それで今日はどんな説教を?」
「フン、相変わらず嫌味なヤツめ」
しばらく連続で会話をして疲れたのか、張昭は首をもたげて、少し苦しそうに一呼吸を置いた。
胸元もさほど上下していない。呼吸が浅いのだ。体を起こそうと手伝ったときも、驚くほどその体は軽かった。
「儂はお前を、とっくに見捨てておった、その傲慢は治らぬと。この戦役でのお前の働きを聞き、ことさらにそう思った」
「されど結果は出しています。結果を見ればどちらが正しいかは分かるはずです」
「…もう、お前には儂から何を言っても届かんだろう。だがそんなお前を信じている者が一人だけ居た。じゃから死にゆく先人として、背中でお前に示す他ないと思った」
「どういうことです」
「今からもう一人ここに来る。お前の他にもう一人、嘘を言って呼びつけたヤツが居る。お前はそこに立ってその者と儂をよく見ておけ」
すると張昭の言った通り、しばらくすると外がドタバタと慌ただしく、まるで強盗でも押し入ってきたのかと思ってしまうような足音が聞こえた。
ただ、張昭は落ち着いていた。慣れている、と言った方が正しいか。
そして壊れんばかりに開け放たれた扉。そこに立っていたのは寝巻のままで駆けて来たような、皇帝にはあるまじき姿をした"孫権"であった。
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