二、怪異の出没
さて、諸葛恪が就任したこの「丹陽太守」という官職だが、これはいわば今でいうところの「都知事」に近い。
このとき如何に諸葛恪が孫権から期待を受けていたのか、ということがよく分かるだろう。
正史三国志においても、孫権は出立する諸葛恪一行を派手な楽隊を揃えて見送ったと記されているほどだ。
こうして諸葛恪の率いる三千の本隊は建業の南、丹陽県に着陣。
今回の戦いは攻撃ではなく守りである。故に後方に本軍を置き、柔軟に兵力を配置することこそが肝要であった。
ただこの戦術は同時に兵力をどう差配するかという、大将"諸葛恪"の能力が重点的に問われるものでもある。
「ご主人様、あの、夕食です」
「適当なところに置いておけ」
「適当なところって…」
部屋中に散らかった報告書や書簡。また至るとこで干して墨を乾かしている書状が吊るされている。
こんな足の踏み場もないところで、どこに食事を置けばいいのかと楊甜はわたわたと目を回していた。
丹陽県に赴任してからの諸葛恪は毎日、寝食を取る暇もないほどの激務に追われている。
山のような報告書を読み、山のような指示書を書き連ね、昼には調練に顔を出し、また小さな処罰の採決すら取り仕切っていた。
楊甜もそれについていこうとしたが、その尋常ならざる業務量に十数人の従者たちと分担して補佐を行わないといけないほどなのだ。
「おい馬鹿」
「へ、あ、はい!」
「山から感じる瘴気はどうだ」
「あ、えっと、凄いです。どうとは言えないですけど、遠く離れていても"異"なる空気を感じます」
「…やはり戦が始まると、厄介な怪異も増えるらしい。怪異によると思われる被害報告も多い」
諸葛恪は竹簡をガシャガシャと楊甜の足下にいくつも放り投げる。
竹簡が投げられたおかげで僅かに空いた諸葛恪の文机の上。そこに夕食を乗せ、楊甜はその竹簡を拾った。
「えーっと、口の大きな人面の猿に子供が食い殺された、こっちは顔が沢山ある狐を見かけた。他には、川に内蔵の無い軍用馬の死骸が浮かんでいた、あとは口から血の滴る大男に草履を盗まれた?」
見るに堪えない残酷な被害情報から、よく分からない変な目撃情報まで多種多様。
そうか、戦時に関する業務だけではなくこっちの対応まで諸葛恪は手を付けているのか。
そう思うとこの主人が如何に人間離れしているのかに少し恐ろしさを感じる。
「怪異がこんなに湧いて出る事なんていまだかつてなかった。それも、人間に敵意を向ける形でだ」
「どうするんです?まさかこれも全部対応するんじゃ…」
「そうしたいが生憎俺の体は一つしかない。ほとんどはその対応策を通知して警戒することしかできていない。例えばその猿」
「えっと、この子供を喰ったという、ひどく残酷な内容が」
書簡には人面の猿が夜間に人里へ押し入り、民家を襲って子どもを食い殺したという見るも無残な報告が記されていた。
しかも同時に塩や豆のような食料品まで強奪していき、子供を守ろうとした親は重傷を負い、夜明けには息絶えたとされている。
「猿の怪異は多いが、ひどく大きな口で人面、そして人や火をまったく恐れない怪異は珍しい。恐らくだが"山操"だろう」
「山操?」
「人の集団や火を恐れない、好戦的で残虐な人食いの怪異だ。本来なら今すぐにでも討伐すべき危険な怪異だが、こいつは山奥に暮らすため追うのが難しい」
「じゃあどうすれば」
「山操は耳が良い、だから大きな音を嫌う。特に竹を焚火にくべた時の爆ぜる音を本能的に嫌うため、一旦はそれで対応するしかないな。幸い竹はどこにでもある」
「それじゃあ他の怪異は」
「顔の沢山ある狐は"蠪蛭"。お前が前に襲われた"狍鴞"と同じで、赤子の泣き声で人を誘い食い殺す怪異だ。だが山操ほど好戦的じゃないから、集団行動を心がけていれば襲ってくることは少ない」
諸葛恪と出会ったあの日。まんまと赤ん坊の消え入りそうな泣き声に誘き寄せられて、狍鴞に食い殺されそうになったことを思い出す。
自分の頭が石頭でなければ、諸葛恪の助けが少しでも遅ければ、今の自分はもう居ないと思うと身のすくむような思いがした。
「馬の死骸の件だが、これは"水虎"だろう。川辺に近づく獣や人間を水中に引きずり込み、内臓を好んで食らう怪異だ。対処法はあるにはあるが、避けた方がいい。被害の出た川辺に無暗に近づかないよう通達を出した」
現代でいうところの「河童」で知られる、怪力の化け物である。
頭が乾くと力を出せなくなることからその状況に持ち込めれば討伐も可能だが、基本的に水辺から出ない為に難しい話であった。
「僕が言うのもなんですが、怪異は本当に恐ろしい化け物ばかりですね。それじゃあこの最後のも…?」
「ん、あぁ、それは明日直接見に行くぞ」
「え?」
「お前も行くんだからな、準備を整えておけ。俺は仕事に戻る、出ろ」
ぽいと部屋からつまみ出される楊甜。え、明日、この怖そう過ぎる化け物を見に行くの?
口から血が滴っている異形の大男。想像するだけでも恐ろしい。
ひとまず護身用のお守りと武具を。楊甜は必死に準備に取り掛かるべく廊下を走った。
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