第13話 来るべきモノ
見慣れた天井はいまだに闇を抱いていた。
フェスティアは、ゆっくりと身を起こし、遮光布で覆われた明かり取りへと視線を向けると、いまだに陽は顔を出して折らず、普段以上に早く目が覚めてしまったようであった。
寝台から降り、窓辺へと歩み寄る。
その間、ふっとした眩暈に襲われる。最近、富に眩暈の頻度が増えているように思える。
以前のような吐き気に襲われる事は少なくなったが、やはり通常の執務に輪をかけての激務続きである。
自身の状態が状態である以上、体調の変容は致し方ないのだとも思っていた。
そんな事を考えつつ遮光布を取り払う。
外は闇に包まれるなか、小雨が降り始めている。
夜明け前、もっとも闇が濃くなる時間帯である。それでいて、どこか不穏な明るさを感じもしていた。
「……来るか」
そう呟いたフェスティアは、寝間着を脱ぎ、執務服へと着替えると、宮殿上部にある庭園へと赴く。
普段は物見の兵が詰めている場であり、歴代の皇族が園芸を趣味にした際に利用した場所であったが、あいにくとフェスティアはそう言った類に興味を示さず、時折、この場にて一人物思いに耽ることに使うだけであった。
外へと出ると、雨足は先ほどよりも強くなってきていた。
雨風が頬に吹きつけ、眠りによって上気していた肌には、その冷たさが心地よく思えていた。しかし、そんな心地よさも北へと視線を向けると一気に消し飛んでしまう。
何らかの変化が起こったわけではない。
それでも、フェスティアは北へと向けた視線をしばらくの間動かす事が出来なかった。
「陛下」
背後からの聞き覚えのある声。足音とともに外套を肩からかけられるが、フェスティアはそれに応える素振りも見せずに、視線を向けたままであった。
「このような日に外に出られては、お身体障りまする。中へとお戻りください」
声の主、リリスはそれでもなお、フェスティアの身体を気遣い、口を開くが、彼女自身もフェスティアの行動の原因を何の気なしに感じ取っているため、それ以上に強く出る事が出来なかった。
このあたりは、瓜二つの外見を持つ影のような存在であるが故であり、その後は風雨の中を立ち尽くす主君に従うしかなかった。
そんなリリスの存在に気付いていたフェスティアであったが、ふと風の変化を感じ取ると、ゆっくりと目を閉ざす。
風雨が奏でる協奏曲がフェスティアの耳に届く。それは、普段のそれとは大きく異なる様にフェスティアには思えた。
そして。
カッとフェスティアが目を見開いた時、地の底から吹き上がるかのような轟音が風に乗せられてパリティーヌポリス全域に響き渡った。
◇◆◇
その日。神聖パルティノン帝国ルーシャ地方中南部は、大地を引き裂かんばかりの轟音と陽の光をはるかに凌ぐ眩い閃光によって眠りから覚めた。
対リヴィエト方面の最前線にあたる歴史都市ホルムガルドも当然のようにそれを受け、歴史ある白石の作りの建物や煉瓦の敷き詰められた街路が、水気混じりの砂塵を吹き上げて爆散していく。
この都市の守備隊司令官であるフェドン・リカ・キーリスは、日課である早朝の散歩のおりにこの惨禍に巻き込まれると、身体に塗れた泥を慌てて洗い流すと、慌てて司令部に駆け込んだ。
「状況はっ!?」
前線の司令官であり、現状がリヴィエト側からの攻撃である事は当に察している。
斥候部隊が慌てて駆け戻ってくるだけの時間はさすがにないであろうが、市街地の被害状況などはまとめれていてしかるべきである。
「現状、市街地の四割に倒壊などの被害が出ております。斥候の帰還がまだですので、地上部隊の接近までは……」
「見たところ法術のようだが……、障壁は作動しなかったのか?」
参謀にあたる狼士長の言に頷いたフェドンは、窓辺に伏せながら、なおも飛来し続ける“何か”に視線を向ける。
市街地にて退避している兵士が吹き飛ばされたり、防御柵がなぎ倒され続ける現状。魔法の類であれば、街を取り囲むように施された魔導防壁が作動し、敵の攻撃を防ぐはずであった。
膨大な魔力を消費するとは言え、担当の魔導師は十分な人数を確保している。緊急事態であれば、憎体や精神の摩耗などお構いなしに都市を守るだけの覚悟をしている人間ばかりであった。
「撃ち込まれているのは、こちらのようです。水晶体のように見えますが……」
「見せてみろ……。熱いな、それに脈を……」
狼士長に差し出された水色の球体を手にしたフェドンは、その滑らかな表面をなでながらそれを見まわす。
手にしているうちに、それは熱を持っており、どこか脈を打っているように思える。
熱を発しているのは、石造りの建物すらも破壊するほどの威力で飛んできた物体であるが故に、その摩擦熱とも思われたが、脈を打つというのはどういうわけか、はじめは分かっていなかった。
「――止んだ……。――まてよっ!? 兵士達にすぐこれから離れるように指示を出せっ!! それと、総員後退の準備だっ!!」
しかし、フェドンがひとしきり観察し終えるのを待っていたかのように、ホルムガルドを襲っていた砲撃が止み、周囲は静寂に包まれる。
方々で瓦礫になったてものが、小雨によって濡らされ、球体が落下した付近では湯気が立ち上っている。
そんな後継を目にしたフェドンは、慌てて無人の区画にそれを放り投げると、立ち上がって天士長にそう叫び、厩舎に向かって駆けだした。
慌てて後を追う天士長や参謀達が何事かと問い掛けてくるが、それに答えようとしたその時、再びの轟音が周囲を襲い、フェドン等は爆風とともに吹き飛ばされて大地に叩きつけられた。
「やはりかっ!! 急げっ。ほどなく大軍が押し寄せてくるぞっ!!」
痛みをこらえながら身を起こしたフェドンは、そう叫ぶと破壊された厩舎から飛び出してきた愛馬に跨がった。
「烽火をあげろっ!! 陣形は気にするな街を脱出した後、指定の地点に集結。次の指示はその場で出す。急げえっ!!」
フェドンに続いて身を起こした天士長も声を上げ、武器を手に駆け出す。
騎長は騎兵、士長は歩兵の指揮官であり、騎兵優位の軍であるパルティノンのあっては、基本的には騎兵の指揮官が上級指揮官になる。
狼と天の称号では、天の方が上になるのだが、そのあたりは兵科の優越性という概念があった。
街を脱出した騎兵、歩兵達は、ほどなく郊外の丘陵に集結。その後も周囲に降り注ぐ、法術の雨に、彼らはなすすべなく逃げ惑うしかなかった。
しかし、街に留まらずに広大な原野にて攻撃を避けるという彼らの選択は今回に限っては正解であった。
はるか彼方より降り注ぐ砲弾と呼べる物体の雨。とはいえ、広大な大地のすべてがその雨に晒されているわけではなく、街の周囲には僅かながらそれを避ける事の可能な地点が存在していたのだ。
そして、ほどなく砲撃の雨は完全に停止する。
泥にまみれつつも、砲撃から逃れた彼らに出来る事は、後方にて再編中の味方の元へと走る事だけであった。
この時、ホルムガルドに駐留していた兵士は、騎兵千五百、歩兵四千の計五千五百名。彼らの大半が、この地から脱出できた事は文字通り奇蹟に近い。
最前線にあって、最大の兵力が駐留していたホルムガルドに対し、それより小規模な部隊が駐留していた周囲の小都市は、この時の攻撃で大半が壊滅。守備隊の多くも街を運命をともにし、パルティノン帝国の第一防衛戦は、敵地上部隊との交戦を待たずして、文字通り壊滅する。
数千里の彼方にある帝都パルティーヌポリスにその報がもたらされたのはそれから半日が経過した後。時代を考えれば奇跡的な速度であったが、それは同時に、最前線の瓦解という事実がパルティノン側に重くのしかかることも意味していた。
◇◆◇
要塞を包み込んでいた振動が止み、一瞬の静寂が周囲を包み込む。
「指定の戦域への砲撃は終了いたしました」
玉座に座したままその光景を見つめていたツァーベルは、ヴェルサリアの抑揚のない声に頷く。
眼下に見えるのは、それまでの小雨の降り続く大地から、方々に湯気が立ち上り、それが霧のように視界を埋めている大地。
目に見えぬその地は、先ほどまで続いていた攻撃によって破壊の限りが尽くされたそれが残るだけであろうとツァーベルは思った。
「スヴォロフ」
「ははっ」
「行け」
玉座から立ち、居並ぶ諸将の先頭に立つ老将に視線を向けたツァーベルは、短くそう告げる。
先ほどの砲撃開始の時と比べ、今回は諸将達も昂揚することなく粛々とその場を辞していく。
玉座に戻ったツァーベルが、眼前の大地へと視線を向けると、要塞から飛兵達が次々に飛び立っていく様が見て取れた。
「ようやく始まったが、しばらくは動けぬか。不便なモノだな」
「古の遺産でございます故。それに、これだけ破壊をもたらす力には、相応の代償があるものでございます」
「俺の出馬と再び始動。どちらが早いのであろうな?」
「後者であると思います。もちろん、この要塞がパルティーヌポリスを踏みつぶすそのためだけに動く事とになると思われますが」
「ふん」
(こころにもない事を)
飛兵部隊が飛び立った後も、次々に出撃していく部隊を見送りながら、そう呟いたツァーベルに対し、ヴェルサリアが普段とは異なる機械的な口調で答える。
戦いのはじまりに、公私をわけ隔てている様子であったが、その後の言とともに、ツァーベルには若干の忌ま忌ましさを感じたさせたようであった。
◇◆◇
ルーシャ地方中部へのリヴィエトの攻撃は、予想もしない手段を持って行われていた。
最前線都市であるホルムガルドをはじめ、アンサイルス湖に面する港町ラド、新興都市ワモスク、ルーシャ地方中央部に位置する城塞都市レモンスクを結ぶ一体が攻撃に晒され、多くの街が灰燼に帰しているという。
守備隊の生き残り達は、無理な防衛線をとらずに後退し、第2次防衛線を放棄。キエラの外堀のように流れる大河、ドニエストル川前面に向けて後退を開始しているという。
敵側の前面攻勢も始まっている様子だった。
「想像以上でした。最前線の部隊は後退も出来ずに壊滅したところもある様子です」
「致し方なかろう。北辺で起こった悲劇を繰り返さなかっただけでも僥倖と思うほかはない」
ゼークトの言に、フェスティアは唇を噛みしめながら答える。
敵の力を侮ったつもりはないが、こちらの想像以上の攻勢をかけて来た敵に対して、何ら有効的な手段を取る事が出来ていない。
おそらくは敵の浮遊要塞による攻撃であろうが、同じ攻撃を件の地域以外に行われれば、悲劇はより大きくなる事は計り知れない。
「巫女もようやく陛下の役に立ったと言う事ですか?」
「ふん、そのまま死んでくれてようやくだ」
通路を歩きつつ、そう口を開く両者。
今回の戦いに先立ち、ルーシャ地方に住む民間人は、そのほぼすべてを帝国各地へと疎開させている。
もちろん、軍などとは比べものになる程の規模の人間が移動するのである。豪雪に阻まれ、今も泥濘の支配するルーシャ地方にあって、三ヶ月という時間はほんの数瞬に等しかった。
しかし、今、ここパリティーヌポリスにて、軟禁状態におかれている“天の巫女”。
かつて、先代皇帝とその一族に襲いかかったスラエヴォでの悲劇の立役者であり、その際に数万単位の人間を一瞬で転移させた彼女の存在が、今回ばかりはルーシャ地方の人々を救う事になった。
ただ、その代償は巫女の身に降りかかる事になる。
膨大な数の人間の転移は、巫女の肉体や精神を蝕み、転移を終えた巫女はここ一月ほど昏睡状態となって床についている。
ユマをはじめとする教団の人間達は、怨嗟の視線をフェスティア達に向けてきているが、こちらがにらみ返せば、ほんの一瞬でも目を合わせる事のできない人間達である。
復讐の牙を向けてくれば、本気で相手をしてやるぐらいの褒美はくれてやるつもりでもあった。
だが、そんな調子の巫女に対し、ルーシャ地方の人間達が感謝の念を抱くこともまた、無理からぬ事であった。
フェスティア等の苛立ちの原因はここにあり、自分達がけしかけた事であるとは言え、結果として巫女の神性を高める事に貢献してしまったのだ。
「あら、ずいぶん、お怒りのご様子ですわね」
「ああ。貴様の口車にまんまと乗ってしまった自分に対する怒りでな」
そんなフェスティアの前に、白を基調とした神官服を身に纏った女が進み出る。
教団の分裂以来、教団首脳とは距離を置き、フェスティア等に接近している彼女は、今もフェスティアの心情を逆なでするような物言いをしている。
「ふふ、人々の間では、巫女様に対する心情が変わりつつある。そのことが気に入りませぬか?」
「分かっている事を聞くな。フォティーナ」
「しかし、事実でありましょう? そして、こうする以外に手はなかった事も」
「その通りだ。私に巫女と同等の力があれば、このような事態を招く事もなかった。だが、今は目の前の戦いが先だ」
「そうですわね。それと」
「むっ!?」
なおも自分を苛立たせようとしてくるフォティーナに対し、フェスティアはなんとか気持ちを落ち着かせる。
どのみち、巫女との決着もつけねばならない事は分かっている。
先は短い身であるが、その僅かな時間でリヴィエトに勝利し、巫女と教団を滅ぼさねば、自分の生涯は何であったのかという気持ちがフェスティアにはある。
そんな様子のフェスティアに対し、フォティーナはおずおずと近づくと、ゆっくりと彼女の腹部に手を当て、その場をなで始める。
「フォティーナ殿、なんのつもりだ?」
突然の行動に目を丸くしているフェスティアに代わり、背後に詰めていたリリスが口を開く。
「いえ、そろそろお腹が大きくなり始める時期ですので……。それと、陛下。戦場に立たれる事は……」
「ふざけるな。私をなんだと思っている」
「子を宿した母親ですわ。国と我が子を天秤にかけたとき、陛下は国を選ばれるのでしょうが、それでも、自らが宿した子を捨てられる母親がいるとは思えませぬ」
「ほう? 貴様らしくもない。我々の元に身を投じたのは、その腹にいる子の為か?」
「……出過ぎた事を申しましたわ」
フォティーナの言は、すでにリリスやゼークトをはじめとする多くの人間から進言された事でもある。
しかし、フェスティアは自身の役割が、後方にて子の成長を待っている女ではない事を理解している。
彼女は女である前に、母親である前に、パルティノンの皇帝である。
歴代の皇帝達がそうであったように、皇帝の戦装束は最高の死に装束。そしてそれは、前線に立ち続ける事を誇りとし、多くの兵達と命運をともにすることで、勝利を導いてきた血の成せる技である。
この国難にあたり、自分がその伝統を破るつもりはフェスティアにはなかった。
「では、陛下。少しお時間を頂けませぬか?」
「なんだ?」
「できれば、お人払いを」
頭を上げたフォティーナは、改めて神妙な面持ちで口を開く。
フェスティアの周囲には、ゼークトとリリスの他、とある地へと使者に赴いているフィリスを除いた近衛兵達やゼークト配下の幕僚達が続いている。
突然の言に、剣に手をかけた彼らをフェスティアは、手をあげて制し、やんわりとフォティーナを睨み付けた。
教団幹部等と異なり、その視線をうけてもフォティーナの眼光は変わらず、彼らからの一方的な敵意を受けながらもそう口を開いた様子は、それまでのモノとは一変している事も事実であった。
「……リリスだけは連れていく。こやつは、私の影であり分身だからな。それだけが、譲歩だ」
「――承知いたしました。こちらへ……」
「ゼークト、各軍への指示は任せる。緊急時には構わぬから私を呼べ」
「はっ! リリス殿、頼むぞ」
「はい」
そうして、フェスティアはリリスとともに、フォティーナの後を追う。
フォティーナが二人を案内したのは、彼女に宛がわれた一室であった。
「して、何のようだ?」
「星見の結果が出ました」
「星見?」
「はい。……殿下、その御子こと以外にも、多くの者達に隠している事がございますね?」
そういってフォティーナは、机におかれた竹簡を手に取る。
紙文化が発達する以前に、文書のやり取りに使われたモノであったが、彼女が手にしたそれは非常に細かく連なっているモノであった。
「貴様、陛下を脅迫するつもりか?」
「待て……。貴様、どこまで気付いている?」
「御身に迫りつつある事は……」
「ふん…………。フォティーナ、やはり、私は貴様が嫌いだ。貴様が、義理の妹になるなど、身の毛もよだつ」
フォティーナの言に、何事かと詰め寄るリリスであったが、フェスティアは彼女が何をいおうとしているのかを察し、リリスを制する。そして、フォティーナの口から出た、ひどく言葉を濁した物言いに、彼女自身も察するところがあった。
「気付いておいででしたか」
「それより、さっさと本題に入れ。私は、あとどれだけ生きられる?」
フォティーナの言をピシャリと抑え、問い返すフェスティア。
その言に、リリスは目を見開いたまま、動きを止め、室内の時が静止したかのような錯覚に襲われる。
しかし、この場にあって、その事実を知る者と知ろうとする者。彼女らにとっては、その時間は悠久の時のように感じていた。
「このまま戦場に立たれ、子を為すとすれば、三月」
「子を為さねば?」
「五月でしょう」
「戦場に立たねば?」
「八月かと」
「左様か……三月……」
フォティーナの言を反芻するかのように繰り返すフェスティア。
スッとからだから力が抜けているかのような錯覚に襲われた彼女であったが、その場で身を崩す事もよろける事も彼女の矜持が許さなかった。
全身に汗を浮かべながら身を保つフェスティア。以前から感じるようになった眩暈も突然襲いかかってきている。
「へ、陛下っ……。それは……っ!?」
「事実だ……。私は、弟を、血のつながらぬ一人の男を救うために、この命を譲り渡した」
突然の衝撃に、動きを止めていたリリスがなんとか口を開くが、それに答えたフェスティアの姿は、それまでの帝国の頂点に君臨する聖帝の姿ではなく、自らの運命を嘆く一人の儚げな女性のモノであった。
一人の女性に残された時間は僅か。そして、彼女の運命の鍵となる男もまた、久方ぶりにパリティーヌポリスへと向かっていた。




