第10話 冬の終わりに①
粘つくような小雨が白銀に包まれた大地を溶かしていた。
摩天楼から見下ろす下界は、その白さを黒々とした姿へと変えはじめている。ツァーベルは浮遊要塞の一室よりその様を見つめ続けていた。
猛烈は吹雪に覆われる大地を制圧し、腰を落ち着けてから数月。吹雪が氷雨へと変わり、今では完全な雨となって大地を洗い流さんとしている。
それは季節の変化とともに時の変化を告げているかのような。そんな気にさせてくれた。
「ヴェルサリア。邪魔者の始末は終わったか?」
そんな外の光景に視線を向けたまま、ツァーベルは自身の背後へと歩み寄ってくる人間の名を口にし、特段の感情の変化を見せぬままそう続ける。
「陛下、お戯れを。クトゥーズ将軍率いる西方軍の一部隊は壊滅。将軍をはじめとする麾下の将兵も行方知らずとなっております」
ツァーベルの言に対して、ヴァルサリアはと呼ばれた女性は、その魔女めいた容姿に浮かべた笑みをほんの一瞬引き締めた後、そう告げる。
ツァーベルもヴェルサリアも今回の奇襲の失敗をそれほど大きなもの捕らえてはいない。
元々、成功したら儲けものという意識が強い。
だが、その指揮官に古参の一人であるクトゥーズを起用し、彼を失う事は両名にとっても痛手である事は事実の一つである。
とはいえ、ヴェルサリアにとっては、彼を失ってでも始末したいだけの人間がいた事もたしかであった。
「クトゥーズは実力者であるが、政治的な野心は皆無。だが、その幕下にある人間はそうとも限らぬ。ふ、まあ、その程度の謀略に負けるようでは貴様の地位には就けぬさ」
ツァーベルは振り返ることなくそう告げると、おもむろに身を預ける椅子から身を起こす。
「だが、あの女。北域制圧にて多大なる成果を上げ、こちらの利点を最大限に生かしたあの女は、将来リヴィエトにおいて重きを為す。誰もがそう考えた。とはいえ、死んだ者の事などどうでもよいがな」
ツァーベルはそう言いながらヴェルサリアの反応を推し量っているようであったが、ヴェルサリアは笑みを浮かべたまま答えずにいる。
実力至上主義とも言えるリヴィエトの体制にあっては、いかなる手段も正当化される。
将来の政敵を葬る事など当然であり、それが仮に国家にダメージを当たる事につながったとしても、その責は葬られた側にある。
政争に敗れるような人間は、必ず国家に害を為すと考えられるが故であった。
「それで?」
そして、改めて口を開くツァーベル。
ヴェルサリアが単なる報告のためだけにこの場を訪れる事はない。というよりも、今現在リヴィエトにおいてこの場に足を踏み入れる事を許されているのは、この二人だけ。ヴェルサリアに関しても、ツァーベルの関心を引く報を用意できなければ、入室は許されないのである。
「陛下の号令を待つばかり。との事であります」
「――ふむ。今少し待て」
「ははっ」
ヴェルサリアの言にツァーベルは一瞬目を見開き、それから静かに頷く。
スヴォロフ将軍をはじめとする全軍の用意が完了した。という事である。そして、時が来てツァーベルが進撃の令を下せば、全軍がパルティノン本国へ向けて南下を開始する。
広大な地方を僅かな期間で制圧したとはいえ、それだけに犠牲も強いている。
しかし、その犠牲の分を僅かな期間で取り戻し、今では世界帝国たるパルティノンを一気に併呑せんとして牙を研ぐ。
大地を踏みにじり、空を支配し、その地に暮らす人々を蹂躙する。
そうやって、版図を拡大し、新たなる世界へと進出してきた。そこに、後退も停止もなく、意志の赴くままに侵略と殺戮を繰りひろげてきたのである。
だが、新たなる大地を目の前に、ツァーベルは自身の登極以来はじめてその歩みを止めていた。
「サリア」
「はっ」
「この地は広いな」
「…………はい」
「そして、豊かだ」
再び眼下に広がる大地への目を向けながらツァーベルはそう呟いた。
ヴェルサリアは、ツァーベルが自分をそう呼ぶ意味を察し、静かに彼の座する傍らへと歩み寄る。
ヴェルサリアの目にも、氷雨によって白き大地が彩りを見せ始める様が映り、その広大さと豊かさをまざまざと見せつけられる。
「聞くところによれば、遠征の失敗と内乱によって消耗したという。だが、大地の力は我々の世界を圧倒する……。これが、千年にも及ぶパルティノンの支配の象徴と言えるのだろうな」
「色合いが違いますね。あの世界は、ここまで生命の息吹を感じられる物ではありませんでした」
「ふっ……」
「? いかがなされました?」
「やはり、貴様も豊かな大地への羨望を忘れる事は出来ぬのだな」
「お恥ずかしきことですが」
「それでよい。その望みが我が手に宿る大いなる力となる。貴様らの望みをかなえ、それを与えるのも我が役目だ」
そう言うと、ツァーベルは、前方へとかざした手を力強く握りしめる。
その仕草は、眼前に広がる大地をまさにその手中に収めんとする彼の意志を体現していた。
ヴェルサリアは無言で眼前の主君の姿を見つめた後、ふと自身の背後へと視線を向ける。
そこには、階下へと通じる階段と一体の女神像が置かれている。
ツァーベルが階下に向かうときは必ず視界に入る彫像。その柔らかな微笑みは、見る者の心をとかし、安らぎを与えてくれるものであるのだが、二人にとってそれはことなるもの。
それを一瞥するヴェルサリアは、無意識のうちに心苦しさを感じて彫像より目を逸らした。
二人を見つめる彫像が、差し込んだ陽の光によって目元に涙を浮かべたように見えたのは、ほんの一瞬の事であった。
◇◆◇◆◇
リリス率いる近衛部隊が帝都に帰還してきたのは、濃雲に空が支配された日であった。
アイアース等と別れ、帝都に先んじて帰還していたフェスティアは、ゼークトや参謀達からもたらされる情報に接しながら、彼女を出迎えた。
解放戦線に主力を討たれた奇襲部隊の生き残りは、解放戦線からの攻撃を突破したものの、ヴァルネージ大森林手前に展開していた近衛部隊によって全滅し、生存者は重傷を負って動く事もままならぬ僅かな人間だけである。
とはいえ、千人規模の部隊が後方にて撹乱を行われれば、大軍同士の激突となれば想像以上の効果を生む事になる。
それを未然に防ぐ事が出来たのは僥倖であった。
「ほう、こやつか?」
「はい。重傷を負って動けぬ者達の中に紛れておりました」
リリスからの報告を受けたフェスティアは、自由を奪われたままベッドに横たわり、目を閉ざしている壮年の男に視線を向け、そう口を開く。
報告に寄れば、ミランダ等、アイアース等の下に突撃してきた敵主力の中にあったが、後方部隊への攻撃と同時に渓谷を突破してきたのだという。
斥候を解放戦線軍の交戦地点に送り込んでいたリリスは、大森林入り口付近に埋伏し、突撃してきた者達を撃破したのだという。
フェスティアもまた、後詰め部隊へと攻撃をかけた敵主力の存在を思いかえしていた。
自分達を討ち取る事に気をとられ、目的を見失った面もある敵主力であったが、指揮官自体は冷静な判断を下した事になる。
実際のところ、近衛部隊がいなければ少なくとも500に近い敵部隊がヴァルネージ大森林に埋伏し、来るべき決戦の際には後方撹乱の担う事になった。
アイアースの負傷による自分自身の動揺が将来の禍根を産む事に繋がりかけていたことをフェスティアは自覚せざるを得なかった。
「さて、ご苦労であった」
「いえ。――私自身として、部隊を率いる事が出来たのは、無量の喜びでございます」
「そうだな……。もはや、私の身に何があろうと問題はない」
リリスその外見から、長きに渡ってフェスティアの影を務めてきた。
その実力差を埋めるべく、教団に身を投じさせて過酷な人体実験に身を晒す事も、影として前線に立つ事も、難解な外交の場に立つ事もこなしてきたのである。
時として、フェスティア本人以上の功績をあげた事もあったが、そのすべてはリリスという個人ではなく、フェスティアというパルティノン皇帝としての績として刻まれ続ける事になるのだ。
だが、今となれば、リリスが影として生きる必要もない。
「陛下。そのようなことは……」
とはいえ、リリスにとっては、特段の感動もない。
部隊を率いることが出来たというのは、たしかに喜びでもあろうが、フェスティアの影として彼女と共に生きてきた日々こそが、彼女自身の人生でもあったのだ。
教団の衛士として、手を汚す時もあったが、それもフェスティアの為であれば耐える事も出来たとリリス自身も思っている。
「私に正当性はない。アイアースだけでなく、シュネシスも生きていたとなれば、ヤツが帝位に就く事が当然だ。本来であれば、私はヤツを討つ事でしか帝位を得られぬのだからな」
「それでも、今パルティノンを率いるのは陛下をおいて他にはおられませぬ。皆が、かつての混乱から立ち直るべく奮闘したのは、一重に陛下の尽力があったからこそ。そして、この国難にあって、皆が陛下にすがるしかないという事も事実です」
「もちろん、責務を擲つ気はない。ただ、自身の生命を賭けることを厭う必要は無くなった。戦いにおいて、これは正直大きい」
「陛下、そのような事を……」
「どのみち、私の命は長くない。それまでに、この戦い決着を付けねばならぬ」
そう言いながら、フェスティアは椅子から立ち上がると窓辺に立ち、セラス湖へと視線を向ける。
その最中、ほんの一瞬、足がもつれかかったことに気付いたのは、本人とリリスだけであったが、あの時以来、こうしたことが増え始めているのだ。
アウシュ・ケナウ監獄での戦いにおいて、その生命を失いかけたアイアース・ヴァン・ロクリスの生命を救うべくフェスティアが行った秘術。それは、自身の生命を死にゆくモノに分け与える術。
程度の違いはあれ、生あるモノに生まれながらに与えられる命数を削る行為である。
彼女の母親である、皇太后メルティリアから伝承されていたモノであったが、本人のあずかり知らぬところでフェスティアはちょっとした間違いを犯しており、結果として弟の子を身籠もる事にもなった。
今のところ、戦いの最中に起こる事がないのが救いではあるが、今後は長く続く帯陣に加え、臨月が近づいたときにどうなるかは、二人にも分からない事であった。
「ところで、その娘は?」
窓辺に立ち、リリスに対して向き直ったフェスティアは、彼女の傍らに立つ少女へと視線を向ける。
「あ、ご紹介が遅れました。先年より近衛部隊に仕官している者で、先の戦では副官として伴いました」
「ほう? 随分若く見えるが……」
「まだ、16になるところだとか」
「16か。そなた、名は?」
フェスティアは少女の年齢に、アイアースの立ち姿を脳裏に思い浮かべながら、視線を向ける。
その視線を受け、一瞬たじろいだかのように見えるが、少女は、その意志の強そうな視線をフェスティアに向け、膝を折って頭を垂れると静かに口を開く。
「フィリス・スィン・レヴァンスと申します」
「レヴァンス? では」
「はい。私は元々孤児であったらしく、子のなかった父の養子となり、こうして陛下に仕えるべく参上仕りました」
「そうか。ふ、私に目通り願うことなく、近衛に仕官し、功績を持ってこの場に立つ。気に入ったぞ」
「ありがとうございます」
「ふむ、ところで、ドゥア殿は息災か?」
フィリスと名乗った少女の言に、フェスティアは自身の幼少期に帝国を支えた功臣の姿を思いかえす。
彼女の養父である、ドゥアはかつて帝国を支えた将軍であり、かの大親征においては、皇帝の亡骸を奪回してきた忠臣でもある。
その後は、親征の失敗の責任をとる形で辺境の守備を担っており、フェスティアの登極後、まもなく引退を願い出ていた。
「いえ、昨年より床に伏せることが多くなっております……。二人の妹が、看病を続けているのですが」
「そうか。――互いに死ぬ前に会いたいものであるがな」
「陛下。……その、先ほどの事は」
「残念ながら、事実だ。だが、スラエヴォにて倒れたと思われた弟たちは、皆生きている。案ずる事はない」
「四太子殿下もでありますか?」
「うむ。――そなた、アイアースと面識があるのか?」
「はい。かの事件の後、イレーネ様等に守られながら、オルクスへと逃れて参られました。その際に。――それで、その」
フェスティアの言に、フィリスは目を見開きながら頷くとともに、それまでの凛としていた表情に、喜色を浮かべる。
それを見て取ったフェスティアに対し、嬉しそうにそう答えたフィリスの様子に、フェスティアとリリスは人の縁というモノに思わず顔を見合わせる。
そんな、二人に対し、フィリスは口ごもりながらも顔を向ける。
「どうした?」
「その、ご懐妊のことも?」
「うむ。まさか、こうなるとは思いもしなかったのだがな。すでに子を得られる事など無いと思ってもいたのだが」
そう答えたフェスティアは、すでに記憶から消し去った事実を、僅かに思いかえすと、ほんの一瞬舞い上がった明確な殺意に、その場にいた者達が一斉に居住まいを正す。
忘れようとしても忘れられぬ記憶であったが、今更消す事も出来ぬ過去であるとフェスティア自身は思っていた。
「殿下はそのことは」
「知らぬであろうな。そもそも、私と会った事すらもヤツは知らん」
「そ、そうなのですか」
「? フィリス。どうしてそんな事を気にするの?」
そんなフェスティアの言に、フィリスはなおも納得がいかないと言った様子であったが、これまで見せた事のない副官の様子に、リリスもまた首を傾げながら口を開く。
「あ、いえ、その……」
そんな調子で口ごもるフィリスに対し、瓜二つの外見を持つ二人の女傑は首を傾げるしかなかった。
「失礼いたします。治療は終了し、彼の者も意識を取り戻しました。いかがいたしますか?」
「そうか。では、執務室へ。ゼークト等も呼んでおけ。それと、フィリス。そなたも同席せよ」
「はっ!!」
微妙な空気が支配する私室にもたらされた声。
それまで、困惑した態度であったフィリスも、フェスティアの言に元の様子へと戻り、力強くそう答えた。
主君と上司の後に続く女性士官。
彼女の脳裏には、一人の少年と一人の青年の姿が浮かび上がっており、その両名はよく似た顔つきをしていた。
もっとも、青年が身につける衣服は、この時代の物とは大きく異なり、平服でありながら機能性や耐久性は比べものにならないようにも思える物であった。
(そう、生きていてくれたのね……。――また、会えるわよね? 和将……)
そして、脳裏に浮かぶ青年に対し、フィリスは静かにそう呟いていた。




