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第33話 臨界点


 全身を貫いていたテルノアの爪。


 それまで、身体をかすめることはあっても、直接攻撃を受けることは無かった。僅かな対峙が、それまで見切っていた爪の動きについていくことすら出来ぬほど、身体を疲弊させていたようである。



「さっき見たでしょう? 資質は感じるけど、詰めが甘い。その辺は、父親そっくりね」



 背中越しに耳に届くテルノアの声。


 その声色は、先ほどまでのどこか戦を愉しむ獣としての声ではなく、かつては帝国を支える衛星国の王妃、女王の身にあった女としての静かな声。


 シュネシスにとっては、それがひどく懐かしいように思える。



「父か……。俺は、父上によく似ているか?」



 なぜか、目の前にて自身を討とうとする女に対し、問い掛けてみたくなったシュネシス。


 反乱に倒れ、後世では暗君の誹りを受けたまま語り継がれることになる父帝。それに似ているということは、他人から見れば侮辱でしかないのかもしれない。


 しかし、目の前の女、そして自分からすれば、最上級の褒め言葉であるようにも思える。


 と、伸びた爪が伸縮し、虚空での拘束から解放されるシュネシス。しかし、全身に襲う激痛が彼の肉体を蝕んでいる。


 すでに、重力に身を任せて落下することしか彼には出来なかった。



「残念だけど、私の勝ちよ。……その首、もらうとするわ」



 こちらを振り返り、鋭く伸びた爪をかざし、腕を振り上げるテルノア。その、自分を見つめる表情は、どこか苦悶に満ちているように思えた。



「そうか……、思い出したか? 人というのは面白いな」



 皮肉めいた言葉が口を突く。


 そして、眼前のすべてが停滞しはじめる。

 

ゆっくりと振られるテルノアの腕。ふわりと触れる柔らかな頭髪。そして、吹きつける雪。


 吹きつける雪と赤き血に彩られた猛き獅子の姿が、脳裏に浮かぶ花々のようで、妙に美しいものであるようにシュネシスには思えた。


 そして、そんなテルノアの姿を見つめていたシュネシスはふとした違和感に気付く。



(風が……、吹いている?)



 そう思ったシュネシスの眼前を一陣の風が吹き抜けていく。そのまま倒れ込んだシュネシスの目には、虚空へと跳ね上げられたテルノアの姿が映り、何事かと思いつつも風が吹き抜けた方向へと視線を向ける。



 ――――そこに立っていたのは、腰まで伸びた銀白色と漆黒の入り混じった髪と尾を風雪に靡かせ、金色の目を光らせる一頭の獣であった。




「あ、アイアース……?」



 全身から血が滲むのをこらえつつ、身を起こしたシュネシスは、思わずそう口を開く。


 かろうじて人としての形容を残した顔立ちは、見覚えのあるものであり、金色の目と鋭く伸びた犬歯以外は、先ほどまでともに戦っていた実弟、アイアース・ヴァン・ロクリスを思わせる。


 手足に装着していた装甲は外れ、両の手から爪は鋭く伸びているが、両の手に握りしめたそれぞれの剣にも見覚えがあった。


 そして、その獣、アイアースは上空にて体制を整え直したテルノアに向かって、雪原を蹴る。彼が飛び立った場に降り積もった雪が舞い上がり、アイアースの後を追って白い軌跡が夜空に作り出される。


 そして、二体の獣は上空にて激しくぶつかりはじめた。



「大丈夫か?」


「……ハーヴェイか? 無事か?」


「あいにくな。俺は殺すのは好きだが、殺されるのは性に合わん」


「そうか。では、他の者達を風の当たらぬ場所へ……。俺達は、アイアースを救うぞ」




 苦悶の表情浮かべながら身を起こしていたシュネシスは、歩み寄ってきたハーヴェイに肩を借り、周囲に倒れるキーリア達へと視線を向ける。


 互いに敵対関係にあるのは理解しているが、結印を一方的に結ばれた上に、いつ命を散らすか分からぬ戦場において為すべきことはお互いに理解している。

 最初の言には素直に頷いたハーヴェイであったが、その後、上空を睨みながらそう口を開いたシュネシスに対しては、目を見開きながら反論する。



「その身体でかっ!? あいにくと、俺達がどうにか出来る状況ではないぞっ」



 テルノアの爪によって貫かれた肉体はもちろん、それまで獣たちの猛攻を一手に引き受けていたシュネシスの身体は、目に見えぬ範囲でもボロボロのはずであった。


 しかし、痛みをこらえつつシュネシスは口を開く。



「アイアースを止めねばならんっ」


「止める?」


「弟をテルノアのようにするわけにはいかんっ!!」


「どういう、ことだ?」


「………………」



 そう声を上げたシュネシスであったが、ハーヴェイの問いに答えることはなく、ハーヴェイもまた、深く問い詰めることなく歩みを進めはじめる。


 少なくとも、上空で戦う二体の戦いは簡単に決着がつくとは思えず、傷の回復は急務であるのだった。



◇◆◇



 一陣の風が吹きつけた。


 そう思ったときには、すでに身体は上空へと跳ね上げられていた。


 テルノアは、再び吹き荒れはじめた吹雪の中で体勢を立て直すと、緩やかに落下しながら粉雪に覆われた大地を見下ろす。


 さきほどまで対峙していた皇子シュネシスが雪原に倒れ込み、必死に身体を引き起こすべく苦闘している。



「……信じられんな」



 そして、シュネシスの視線を追ったテルノアは、静かにそう口を開く。


 自身がシュネシスを仕留めかけたその時、彼の者ははるか広場の片隅に身を置いていた。


 必死で雪原を駆けてくる姿には、ある種の同情が湧いたテルノアであったが、キーリアがいかに人を超えた身であっても、瞬き一つの間に首が飛ぶはずであった男と自分の間に割って入り、さらには自身を虚空へと跳ね上げることなど出来るはずが無い。


 そんなことを考えているテルノアに対し、雪原に立つ一頭の獣は、雪原を蹴ると一気にこちらへと向かってくる。


 その目は金色に輝き、銀白色と漆黒の頭髪が周囲の炎に照らし出されている。




「『乱起こりし御代にティグの皇女、麒麟児を産みしたまう』。――――おとぎ話ではなかったと言うことか」



 テルノアは、かつてともに戦いし戦友から教えられた伝承を思いかえしつつ、振り下ろされた剣を弾く。


 それは、それまでよりも重く、さらに精妙なもの。


 外見の変化は、彼自身に対しても大いなる変化と力をもたらしている様子であった。



「だが」



 テルノアは、攻撃を受け流しつつ身体を捻る。

 すると、獣は虚を突かれたように目を見開くとテルノアの傍らを抜け、後方の建物へと飛び込んでいく。


 豪快に雪と砂煙を跳ね上げつつ、建物を崩したそれを一瞥しつつ、テルノアは雪原へと降り立った。



「身に過ぎたる力はいつか破綻を呼ぶ。ましてや、うちに貯め込んでいたものを開放するような行為ではな……。キーリアであるならば、分かっているとは思うが」



 そう口を開いたテルノアの視線の先で、なおも金色の目を輝かせる獣が彼女を睨み付けている。




「あなたの母上は、そうなってもなお、自分を見失うことはなかったわよ? アイアース皇子」



 それをにらみ返しながらそう呟いたテルノア。


 そして、怒気を発するかのように全身の毛を逆立たせるアイアースに対して、雪原を蹴った。



◇◆◇◆◇

 

 


 ハーヴェイに連れられ、崩れはじめた建物内へと足を踏み入れるシュネシス。


 そこでは、重傷を負った者達が横たえられ、近衛兵や義勇兵達、回復法術を扱えるキーリア達が必死の治療を行っていた。


 シュネシスの傍らにも、全身を赤く染めたキーリア達が駆け寄ってくる。



「私は良い。他の者達を……」


「強がりはよせ。何より、第四皇子を助けるなどと言っていただろ」



 その者達の配慮をありがたく思っていたシュネシスであったが、いまだ荒い息を吐きながら、倒れ伏しているキーリア達もいるのである。


 しかし、肩を借りているハーヴェイにゆっくりと床に降ろされたシュネシスに対し、二人のキーリアが患部に手の平を添えて水色と白色の光を灯しはじめる。

 それを見つつ、シュネシスが視線を巡らせる。

 ある一画では、セイラをはじめとする戦死した者達が寝かされており、黒き翼を持った少女が、白き翼を持つ女性の胸元に顔を伏せながら泣き震えている。


 その他にも、重傷負った者達の呻き声やうわごとが室内には満ちていた。



(悲しむ余裕があるだけ良い……)



 そんな状況に、シュネシスは思わずそう思った。


 本来であれば、テルノア以外の獣たちは攻撃の手を緩めず、治療に当たっているキーリア達や近衛兵達にも被害は増しているし、何よりもこうして身を休める余裕が出来るはずもない。


 そんな折、轟音とともに大地が揺れ、建物内にも瓦礫が落ち始める。アイアースとテルノア。両者の戦いは激しさを増している様子であった。



「……っ! 殿下っ!!」



 一人、外へと通じる穴へと駆け寄るジルの姿が目に写る。


 先頃に任務において、アイアースに救われ、同時にその正体を知ることになったという尊皇心の熱いキーリアであり、その実力とともに頼りになる男である。


 しかし、今の状況ではアイアースの枷にはなっても、助けになることは無い。



「ジル、やめておけ。今の我々には何も出来ぬ」


「しかし、殿下っ」


「先ほどの言はどうなるんだ? 第四皇子を助けるというのはそういうことではないのか?」



 シュネシスの言に、立ち止まり、視線を向けてくるジル。そんな二人の間を取り持つかのように、ハーヴェイが口を開く。


 それに対して、ゆっくりと首を横に振ったシュネシスは、周囲が注目する中、静かに口を開く。




「助けるというのは、戦いが終わってからのことだ」


「どういう……?」


「今のアイアースの姿は、その血が成せるものだけではない。あれは、キーリアの成れの果て姿だ」


「なに?」


「…………どういうことだ? 兄上っ!?」




 そんな折、サリクスに肩に担がれたミーノスが口を開く。彼もまた、先ほどのテルノアの攻撃を正面から受け、胸元に大きな傷を負っている。


 いかに、自己回復能力が増しているとはいえ、危険な状態には変わりなかった。



「刻印がもたらす大いなる力。だが、それは人としての肉体を蝕んでいく。そして、待ち受けるのは刻印によってすり減らされ、朽ち果てること。そして……」


「それに耐えられる肉体を得る事」




 苦痛に顔をゆがめるシュネシスの言を、女性の声が引き継ぐ。皆が視線を向けると、胸元を赤く染め、生気のない表情を浮かべているアリアがその場に立っていた。


 今も苦しげに息を継ぎ、その度に当てられた布が赤みを増しているが、今にも泣き出しそうな視線を向ける近衛兵を無視し、さらに口を開く。



「時折出没する大型獣は、朽ち果てることへの恐怖を拒んだキーリアが行き着く果て。刻印の力によって真に人たらざる存在となれば、刻印によって滅ぼされることなく生きることが出来る。と言うわけ」


「し、しかし、殿下は……」


「自分の意志なのかどうかは分からぬ。そして、ジル、そなたが教団の実験によって強引に獣化させられた結果はどうなった?」



 シュネシスは、アリアがなぜそのことを知っているのか、疑問に思ったが、動揺しつつ口を開くジルに対して、先日の事柄を思いかえすような視線を向け、口を開く。


 そのことに目を見開くジル。


 たしかに、彼は獣へと墜ちた身から、人の身へと生還しているのだ。


 そして、シュネシス自身、その方法を母親達から聞かされいた。アイアースがそれを為したのは無意識下のことであり、おそらくはリアネイアによる刷り込みの類であろうが。



「方法は? 私がなんとしても殿下をっ!!」


「いや、それは私がやる。ジル、そなたは忠誠は嬉しく思うが、それを可能とするのは、肉親か、身体を合わせた者だけだ」


「だが、兄上。今の、アイアースに……」



 ジルの言に首を振りながら答えるシュネシス。


 アイアースが彼をどうやって戻したのかは分からなかったが、肉親や恋人同士の情愛がそれを為す。

 とはいえ、獣の身になりつつあるアイアースに近づくことが出来るのか? サリクスの言にはシュネシス自身も同意であった。



「殿下にそれをさせるわけにはいかないわ」


「だが、他に誰がやる?」



 そんなシュネシスに対し、アリアがさらに青白い顔を向けながら口を開く。


 シュネシス自身、他人に意見されることはそれほど好きではなく、今回の場合は忠誠心からの言でも僅かに苛立ちが募る。



「彼女に、やってもらう……」



 そして、シュネシスの視線に対し、アリアは傍らに横たわる女性へと視線を向けていた。



◇◆◇



 雪原を蹴って自身へと向かってくる獣に対し、テルノアは再び構えを取る。


 眼前の獣は、全身をこちらへと突撃させつつも、どこか戸惑いを覚えるような表情を浮かべていた。


 身体を支配する戦いへの欲求と戦い欲することへの戸惑い。


 そのまま振るわれた剣を受け止め、こちらからの反撃を加えて後方へと突き飛ばす。そのまま突っ込み、獣へと爪を突き立て、その肌を斬り裂くと再び反撃を受けて後方へと弾き飛ばされる。


 それを繰り返していくうちに、お互い人としての意識をどこか遠くへと追いやり、今では目の前の相手を倒すことのみに意識が注がれている。


 力と力の正面からのぶつかり合い。戦においてもなかなか見られることないことだが、互いに、防御を無視した命の削りあいがそこにはあった。



「ぐおおっっ!!」



 目の前の獣が再び両の手に構えた剣を振るいながらそう叫ぶと、こちらへと怒りのこもった視線を向けてくる。



「……よくも、兄上達をっ。よくもファナを……っ、よくも、シャルを……っ」



 何か入り混じったかのような声を上げ、憤怒をぶつけてくる獣。


 戦に倒れた者達への思いが彼をこのような姿に変えたのであろう。とテルノアは思った。



「私も、思い出せたのは戦いの中で。あなたもその口という分けね」



 眼前の獣の思いに触れたテルノア。


 自身が犯したことへの認識はとうの昔に出来ていたが、戦いへの本能がそれに対する後悔を拒む。


 記憶が蘇ったとしても、戦いをやめるつもりにはなれなかったのだ。


 そして、ぶつかり合った身体が、互いに後方へと弾き飛ばされる。しかし、戦いへの喜びが全身を包みはじめた獣は、強引に身体を捻って再びこちらへと突き進んでくる。


 と、何かが顔に当たる感触。舌で拭ってみると、それは血の味がしていた。


 眼前の獣もまた、全身を一瞥している。白き衣服が赤く染まりはじめ、露出した腕も各所から血が噴き出している。


 しかし、痛みを感じている様子は無い。再びぶつかり合うと、テルノアもまた全身から血を吹き出しはじめた。



「お互い、身体に限界が来たようね?」


「限界? 私はまだ戦えるぞ?」



 拳と剣をぶつけ合いながら、テルノアはそう口を開くと獣もまた、笑み浮かべたままそれに答える。


 その声は、先ほどのものよりもさらに共鳴が深まったかのような声となってこちらへと聞こえてくる。




「…………これが、伝承の。――っ!?」




 そんな獣の様子に、眉をしかめるテルノア。


 戦を愉しみ、次第に身体を滅ぼしはじめる獣。アイアース皇子に対する、僅かな同情と思い越される記憶。


 それは、彼女の心にわずかな隙を産んでいた。


 そして、本能のまま戦い続ける獣へとなりつつあるアイアースがその隙を見逃すはずもなかった。


 僅かに気を逸らしたテルノアに対して双剣を振るい、爪を弾き飛ばすと勢いそのままに身体を回転させた。




「………………」



 意識を刈り取られかけるほどの衝撃を受けた刹那、夜の暗がりがテルノアの目に写る。それは、かつての戦いの記憶を彼女に思い起こさせた。



(黒の姫騎士……。――――そう。私は、時代に選ばれた子達に敗れる運命にあるのね……)



 そんなことを思い浮かべたテルノアはの眼前に飛び込んでくる白き影。


 その目は金色に輝き、白き身体を赤く染めるその姿が彼女の視界に色濃く映し出される。


 正面を向き、それと相対したテルノアは、抵抗することなく、周囲の炎によって照らされた刃の輝きをその身に受け入れた……。


◇◆◇


 ――――なぜ、ここまで怒りが込み上げてくるのか? なぜ、自分は戦っているのか?


 全身から血を吹き出し、大地へと落下していく女の姿を見て取ったアイアースは、全身を支配している感情に目を見開く。


 倒れ伏す女。テルノア・ハトゥン・フェルシムアの姿を見つめつつ、アイアースはその感情が全身を駆け巡っていくような。そんな奇妙な感覚に襲われはじめている。


 自分が自分でなくなっていくかのような。そんな恐怖が全身を支配していた。



「アイアースっっっ!!!」



 血を吹き出し、震え始めた全身を押さえるように両の腕を抱きかかえるアイアースの耳に届く男の声。


 シュネシスをはじめとする兄弟やハーヴェイ、ジルと言ったキーリア達がこちらへと駆け寄ってきている。


 しかし、彼らを見た途端に沸き上がった感情に、アイアースは驚愕と恐怖を覚える。



『殺してしまえ』



 静かに脳裏に反芻する声。



「来るなっっ!!」



 思わずそう叫んだアイアースは、本能赴くままに手に火球を浮かび上がらせるとシュネシス等の足元にそれを放つ。


 足元から浮かび上がった火柱に、思わず跳び退るキーリア達。


 その光景に、アイアースは自分が為した行為と感情の一致を自覚する。そして、自身を抑え、身体を震わせながら口を開く。



「……兄上。弓で私を……。ひと思いに……」


「馬鹿を言うな。ようやく再会できた弟を見殺しにするとでも思っているのかっ!!」


「私のこれはっ……単なる獣化では……」


「分かっている。――本来であれば、とっくの昔に暴れ回っているはずだ」


「脳内に流れ込む声が。私を……」



『そうではない。それは、貴様の心が為そうとしていること。私は、きっかけに過ぎぬ』



 突如として、聞こえはじめる声。


 その声は、脳内に鳴り響くほど大きなものであったが、どこか心の奥底にまで響く強さの入り混じった声であった。



「私が……?」



『いや、あの小娘とともに……か。貴様らの心の奥底にある憎悪。それが、貴様を動かしているのだ。――我が血を受けしものでありながら、なんと無様な』



「ふざけるなっ!! あなたがそうさせているんだろうっ!!」



『だから、無様だと言っているのだ。男児の本懐は、破壊と支配。だが、それに囚われるような愚か者は我らが血族には不要なのだ』



「囚われる……」



 しかし、声がそれに応えることはない。なおも、全身を襲う恐怖と衝動は全身を支配している。


 そして、アイアースの中で何かがはじけると全身から血が噴き出しはじめた。



「いかんっ!! このままでは……っ!!」


「兄上……っ」



 シュネシス達の声がアイアースに耳に届く、何かが込み上げてきたアイアースであったが、その声がアイアースの意識をなんとかこの場に繋ぎ止めていた。


 と、そんなアイアースの頬に、柔らかななにかが添えられる。


 驚きと共に視線を向けると、そこには柔らかな笑みを浮かべたファナの顔があった。



「殿下……」


「ファナ、お前……っ!? や、止めっ!!」



 か細い声で自身を見つめるファナ。しかし、アイアースの身体は意思を無視して彼女へと剣を振るう。

 だが、握りしめた剣は彼女を貫く寸前で停止する。それは、まるで意志を持っているかのように、強引に暴れ狂う身体を押さえつける。


 と、剣にこびりついていた血糊が、ゆっくりを流れはじめる。先端部へと落ちていく血の雫。やがてそれは、剣先から止めなくこぼれはじめる。


 それは、まるで剣が泣いているかのようであった。




「母上……、イレーネ……」



 まるで、二人の魂が乗り移ったかのような光景。自然とアイアースは、剣を離していた。



「ごふっ!!」


「ファナっ!?」



 そして、それを待って居たかのように口から血を吐き出すファナ。見ると、テルノアに貫かれた全身から血が噴き出している。


 だが、ファナはそのままアイアースへと身を寄せてくる。



「殿下。殿下は、多くの、皆様に……、愛されておられます……。なれば、戻ることも、できるはず、です」


「ファナっ!! しかし、これは……」


「お優しい方……。私ような女に対して……泣いてくれるのですか?」



 次第に血の気が引き始めるファナの顔。



「皆様を、お思い下さい。必ず、戻れると。……そして、たった一時であれ、私を愛して下さって……ありがとう、ございました……」

 


 息も絶え絶えに成りながら、静かにそう告げるファナ。その笑みに、アイアースは改めて自身が涙を流していることを自覚する。


 そして、二人は暖かな光に包まれはじめ、その光景にアイアースは全身を覆っている感情が薄れていくことを自覚した。 

雌伏編は次話で終了の予定です。

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