第32話 白き狼と白き虎
ちょっと短いです。
風が止んだ。
目の前の光景に、アイアースは思わず膝をつくと、それまで吹き付けていた風雪が、なりを潜めていることに気付いていた。
そして、耳に届く女性の声。
「ごふっ…………、姫……様……」
「シャ、シャル……なの?」
銀色の髪と黒き翼を持つ少女フェルミナ。そして、彼女を守るように立つ、赤き髪と雪の如き白き翼を持つ女性シャルミシタ。
二人の飛天魔は、今この時を以て、数年来の再会を果たしたことになる。そして今、シャルミシタの持つ白き翼は、彼女の頭髪の如く赤く彩られていく。
「むっ? …………私は?」
女性に腕を突き刺しながら目を見開くテルノア。
その獅子と見まがう耳部や尾、そして鋭い牙や爪。それらを持って尚、美しさを失わぬ彼女も、目の前の状況には困惑気味であった。
「シャル、シャルっ!! ど、どうしてっ!? どうしてっ!!」
「フェルミナっ!!」
困惑しているテルノアをよそに、アイアースはシャルミシタに縋りついてパニックを起こすフェルミナの元へと駆け寄り、彼女を抱きしめると倒れ込んだシャルミシタの身体を抱えて後方へと飛び退く。
下がる途上、シャルミシタの表情を窺うが、元々の白皙が、さらに白みを増している。緩やかに痙攣している肉体の反応も徐々に鈍りはじめている。
「回復が出来る奴は全力であたれっ!! あの女は俺達が何とかするっ!!」
負傷し、後退していたキーリアや近衛兵達が集まる場所へ二人を導いたアイアースは、動ける者達にそう告げると再び雪原を蹴る。
今、こうして生きながらえている者達も、テルノアがいる限りどうなるかも分からないのだ。
「テルノアっ!!」
再びの対峙。
幾度となく跳ね返され、傷一つつけられぬ相手。しかし、座して死を待つことに意味などありはしない。
そう叫びながら、跳躍し、剣を振り下ろすアイアース。
だが、テルノアはこちらを一瞥することなく空いた左腕で、アイアースの双剣を受け止めると、後方へと弾き飛ばす。
後方に宙返りしながら、着地したアイアースは、再び雪原を蹴りつつ、接近するとようやくテルノアはこちらへと視線を向けた。
「…………そう。戦うしかないようね」
わずかに動いた口元。しかし、何を言っているのかが耳に届くことはなく、アイアースは再びテルノアへと斬りかかる。
血の濡れた両腕を振り、アイアースの剣を受け止めるテルノア。
その精度は、先ほどよりも増している様子で、剣を受け止めつつも、隙あらばアイアースの身体を斬り裂いてくる。
それでも、留まることなく剣を振り続けるアイアース。その様子に、テルノア自身も困惑しはじめていた。
「どういうこと? この剣筋は……」
そう呟いたテルノアであったが、その困惑が一瞬の隙を作る。それを見逃さずに剣を振り下ろしたアイアース。
そして、それを待っていたかのように彼女の懐へと入りこむ二つの影。
アイアースの剣を受け止めたテルノアは、入りこんできたシュネシスとミーノスによって、腹部から胸元にかけてを斬り上げられた。
「ぐうっ!?」
目を見開き、アイアースの剣を話したテルノアに対し、アイアースの血を吹き上げる肩口を足場に後方へと跳躍する。
そんなアイアースと入れ替わるように跳躍していたサリクスが、手にしたハルバードを振りかぶり、茫然自失のテルノアへと振り下ろす。
「やったかっ!?」
後方に視線を向け、思わずそう呟いたアイアースであったが、ハルバードを振り下ろしながら落下するサリクスの傍らを駆け抜ける影。
目を見開くと、そこにテルノアの姿はなく、着地したサリクスが全身から血を吹き出して倒れ込む。
そんなアイアースも背中に感じた殺気に振り返ることすら出来ず、背中を斬り裂かれ、再び雪原へと倒れる。
激痛が全身を支配し、呼吸が荒くなっていくことを自覚した。
(な、なぜだ……っ!?)
雪の冷たさを全身に感じつつ、強引に顔を上げるアイアース。刻印による自己回復のおかげか、出血は止まっているが、痛みが取れるわけではない。顔を動かすにも、全身に走る激痛に耐えねばならなかった。
そんなアイアースの視線の先で、シュネシスとミーノスに襲いかかるテルノア。
両者に襲いかかった爪が変幻自在に伸縮し、二人の全身を刻んでいく。と、テルノアが振るった正拳をもろにうけたミーノスが後方へと弾き飛ばされ、轟音とともに建物へと叩きつけられる。
その光景を一瞥したシュネシスが、跳躍してテルノアの後方へと回り込むが、横に薙いだ剣は、跳躍によってかわされる。
再び跳躍するシュネシス。空中にて激突する両者。互いの剣筋は見えず、剣戟のぶつかり合う音のみが静寂に包まれる周囲に響き渡っている。
「ぐっ…………、兄上……」
アイアースは、全身を走る激痛に耐えつつ身を起こす。
現状、互角に見えるが、シュネシスはテルノアの速度に着いていくだけでも相当な消耗を強いられる。剣技は互角でも、体力や速度には明確な差があるのだ。
強引に身体を動かすアイアース。しかし、目の前は暗がりに支配されつつある。
炎による明滅がまるで夢を見ているかのような錯覚を与えてくる。それでも、眼前の戦闘に意識は向く。
それまで、互角にぶつかり合っていたシュネシスだが、徐々に疲労が蓄積し、ついに剣に乱れが生じる。
その隙をテルノアは見逃すことなく、シュネシスの肩口を切り裂く。
吹き飛ぶ肩当てと吹き上がる血飛沫。
それでもなお、地面を蹴ってテルノアの背後へと回ったシュネシスであったが、今度はテルノアは向き直ることはしなかった。
「剣伎も見事、速度も十分、そして、部下に希望を与えられるだけの統率力と忍耐。どれをとっても、頂点に立つ資質を感じるわ。でもね」
恐ろしく静かであり、恐ろしく冷酷な女の声。
それまでのように、戦いを楽しむわけでもなく、高揚からの咆哮でもない声。しかし、それは何よりもはっきりとアイアースの耳に届いている。当然、シュネシスの耳にも。
背後を取り、僅かながら勝利の可能性を見出していたシュネシスは、その賞賛めいた言に、目を見開く。そして、彼が気付いたときには、全身を無数の刃によって貫かれていた。
「なっ!?」
口から血を吐き出し、空中へと縛り付けられることになったシュネシス。テルノアの両の腕から伸びた爪が、彼の全身に突き刺さっていたのだ。
「さっき見たでしょう? 資質は感じるけど、詰めが甘い。その辺は、父親そっくりね」
再び届くテルノアの声。
伸びた爪を伸縮させ、落下するシュネシスに対して向き直るテルノアの姿が、アイアースの目には写っていた。
「残念だけど、私の勝ちよ。……その首、もらうとするわ」
再び届いた言に、すでに焦点の定まらなくなった視界を見開いたアイアースは、全力で雪原を蹴る。
しかし、それは自分でも感じられるほど遅く。一向に身体が動きそうにない。
そして、振り上げられる腕。
指先の爪が鋭く伸び、周囲の炎に当てられたそれは、ひどく冷たい光を放っていた。
思わず口を開いたアイアース。しかし、言葉にはならなかった。
――致命的に遅いのよ。
先ほどまで対峙していた獣の言葉が反芻される。
そう、自分は遅い。
数多の兵士、数多の叛徒、数多の人間。多くの人間を殺めてきたとはいえ、自分より実力的に上回る相手に勝利できたことはただの一度だけだった。
結局、救うべき相手を救うこともできず、力に劣る相手を蹂躙してきただけ。それで、死したる人間達の仇を取る。などと壮語していた。
ただただ、滑稽でしかない。今もこうして、再会できた少女を守ることも、自分に愛情を向けてきてくれた女性を守ることも、ともに帝国のために戦うことを誓った仲間、兄弟達を守ることすらも敵わなかった。
そして、非業の死を遂げ、その死すらも蹂躙されている女性にさらなる罪を重ねさせようとしている。
(なぜ……、なぜ私は遅いのだ??)
脳裏に浮かぶ声。それが、自分のものではないようにアイアースには思える。
しかし、そんな声にも関わらず、アイアースの脳裏に浮かび上がる光景。
崩れゆく城の中で、猛然と敵に挑みかかり力尽きる女性。
満身創痍の中、自身に挑んできた者達に優しく笑いかけ息絶える女性。
周囲を圧倒し、愛するものとの別れを為した後、自刃して果てた男性。
自身に向けられる悪意を受け入れ、彼らに待ち受ける未来をあざ笑いながら、処刑台の露と消える女性。
大地をかけながら、アイアースは浮かび上がった光景に思わず目を見開く。
気付いたときには、すでにシュネシスとテルノアの姿は見えていなかった。
困惑するアイアースであったが、その傍らに二人の妙齢の女性の姿が浮かび上がる。
一人は優しく包み込むような視線をアイアースに向け、もう一人は、強く導くような視線をアイアースに向けている。
そして、両者は目に見えぬ何かとの戦いを始め、全身を血に染め、返り血を浴び、満身創痍になりながらも戦いを続ける。
そんなさなか、アイアースに向けられる二人の眼差し。
それを見て取った瞬間、優しい眼差しを向けてきた女性は胸元に剣を突き立てられ、強い眼差しを向けてきた女性は全身を切り刻まれる。
思わず、叫び声を上げたアイアースであったが、それは声にはならず、静寂と闇が周囲を支配していく。
『泣いているだけか?』
そして、静寂の中から耳に届く声。
それと同時に、闇の中を二つの白い影が疾駆していく。一つは強健な体躯を誇る獣であり、一つは細く鋭さを持った外見を持つ獣。
二つが対峙し、お互いの牙をぶつけ合う。対峙が続き、やがて両端に立った両者は四肢を駆ってお互いの距離を縮めていく。
ああ、以前に見た夢だ。とアイアースは思った。
やがて、二つの獣が激突し、その姿は一つとなっていく。そこに降り立ったのは、猛々しさを誇る男性の白き影。
以前見たそれは、自分とは何の関係のない場にいて、敵を打ち破り、人々を導いていた。
しかし、今回ばかりは、その白き影は、雪原を駆けるアイアースの眼前に立ちふさがっているようにアイアースには見えた。
『答えろ。貴様はそうして泣いているだけか?』
(…………違うっ!!)
『何が違う? 今もそうして、死にゆく者達の思いにすがっているだけであろう? それでも…………』
眼前に立ちふさがる男の言に、アイアースは思わず首を振るう。
しかし、両の目から流れている涙を自覚したアイアースは、その事実に思わず呆然としていた。
なおも何かを言いつのる男。やがて、その姿が変化していく。
『なれば戦え。貴様に流れる血は、そのためのモノだ』
一頭の猛き白虎となった男の声が、アイアースの脳裏に静かに反芻していた。
◇◆◇◆◇
何かが胸をくすぐるような気がして、フェスティアは思わず顔を上げた。
何があったのかは分からない。しかし、それは、今となっても胸の奥底にわだかまりとなって残っている。
ふと、フェスティアは自身の奥底で、何かが蠢いていることを自覚した。
「…………そなたも感じたのか? お父上の身に、何かがあったのだと」
自身の腹部に手を当て、思わずそう呟いたフェスティアは、執務机から立ち上がり、窓辺へと立つ。
窓から見下ろす帝都は、夜半にも関わらず人々の営みがやむ気配は無い。
北辺にて巻き起こった動乱からすでに半月あまり。蹂躙される人々を尻目に、国軍は着々と反撃体勢を整えている。
何かを犠牲にすることによって、得られる勝利。
それが、為政者の選ぶべき選択であり、それを後悔するつもりはない。すでに、数多の民の犠牲のもと、帝国は戦へと体勢を整えることが出来ているのだ。
それでもなお、フェスティアは胸のわだかまりを抑えることが出来なかった。いや、そのわだかまりの正体に彼女は気付かないふりをしているだけなのかも知れない。
それは、彼女の身に宿った一つの命。
禁忌という事実が残るだけの、許されざる命である。しかしそれでも、フェスティアにとっては、すべてを捧げても良いと思える証。
そんなことを思いつつ、フェスティアは身に感じる得体の知れぬ何かを必死に悟るまいとしていた。
再び、手にすることの出来ると思っていた幸せが、どこか遠くへと行ってしまうような、そんな気持ちを抱くことになりかねないから。
帝国史上最大の版図を得、自身の身を襲った悲劇に屈することなく帝国を再興した“聖帝”。
人々の賞賛を一身に受ける彼女であっても、恐れるものはたしかに存在している。
「……私は、負けぬ」
そんなことを思いつつ、フェスティアはそう口を開いた。
何に対してなのか、運命? 敵種? 苦難? その答えは、彼女のみが知っていること。
セラス湖に映りこむ柔らかな月の光は、そんな彼女を祝福するように、今も輝き続けるのであった。




