第2話 汚れた風の下で
「今度はこの夢か……。都合のいいことを」
全身を汗まみれにしながら身を起こしたアイアースは、いまだに夜の闇に包まれる外の景色に目を向けながらそう毒づいた。
すでに遠い過去のモノとなった記憶。
片思いに終わった女性と目の前で失った女性。そして、本来その場にいるはずのない人間達を交えた夢。
夢であるが故の都合の良い作り物であったが、アイアースは自身の目元に触れるとそれがどれだけ自分の心を安心させていたのかということを教えられた。
ふと、窓辺に立ち、部屋に風を入れる。
朝の澄んだ。とは言い難い、障気を含んだ風であったが、火照った全身を冷やすのに贅沢は言っていられなかった。
「どうした? いやに早いじゃないか」
「っ!? ……何のようだ?」
そんなアイアースの耳に届く声。
目を向けると、全身を臙脂色の衣服で包み、目元のみを露出させた衣服の者が部屋の入り口に立っていた。
「仕事だ。来な」
顔を顰めたアイアースの問い掛けに男とも女とも言えぬ声が声で答えたその者は、一言そう言ってアイアースに背を向ける。
有無を言わさぬその様子に、アイアースは露出していた上半身に肌着のみを身につけて後を追った。
「まったく……、早朝からどういうつもりだ」
「答える理由はないな」
凝土石で固められた通路に響く足音。いまだに日が昇っていないためか、周囲は静まりかえっていた。
それ故に、通路内に張り巡らされた鉄管や凝土石の隙間から滲み出る汚水の匂いが普段以上に鼻につく。ここに来てから5年近くが経とうというのに、未だに慣れることはなかった。
「ところで、お前は新入りか?」
「突然、なんだ?」
「見ない顔だと思ったんでな」
「お前よりは長い」
「ふーん」
「研究畑も飽きた。それだけだ」
「あっそ」
アイアースは気を紛らわせるために前を歩く者に問い掛ける。返事はそれほど期待していなかったが、者の方も短く答えてくれた。声の調子は相変わらずの平坦だったが。
「お前はなぜここに?」
「食うためだよ。それに、キーリアになれば、腹もそんなに減らん」
そして、者の方からも思いがけない問いかけが帰ってきた。
なぜここに来たのか? これまで耳が腐るほど聞かれてきたことである。もちろん、真の理由を言うつもりはないし、言ったところで信じてもらえるとも思えない。だが、粛清につながるような言動を控えるのは当然だった。
もっとも、この場で“キーリア”という言葉を出すのは、不当であったかも知れないが。
「それにしては、5年も生きている」
「腕に自信がなければ売り込んだりしねえよ」
「ほう」
だが、者の方もそれには反応せず、アイアースに鋭い視線を向けてくるだけであった。
「“キーリア”に興味は無しか?」
「一般の認識は変わらん。皇帝の直属であるか、社会のゴミであるかの違いだけだ」
「直属の時もアレなヤツはいたみたいだけどな」
「ふ……、さて、無駄話は終わりだ」
アイアースは、者を試すつもりで問い変えるが、者からの返答はひどく冷めたモノであった。もっとも、変に感情的になられても困るし、そもそも自分を試しているような言動をする相手。
こちらからの仕掛けに反応するはずもないのだが。
「一つだけ言う。自惚れは慎むんだな」
「御意に」
「身体を切り裂かれ、死の淵を見たのだ。これ以上、修羅を行く必要もあるまい」
そう言って、者は目の前の重厚な扉を開いた。
死の淵。
そう。それは、かけがえのないものを失った炎の中の戦いでも、戦う術を知った対峙の中でも、大切な者を守ろうとした戦いで見たモノでもなく。
ただただ異質なモノであった。
◇◆◇
自分がどのようにして生きながらえたのか、それはついぞ知る事はなかった。
ただ、自分は戦いの土俵に上がることすら敵わず敗れ去った。その事実だけが、残ったのである。
ティグの血を引く身であっても、それは人でしかない。
膂力などの点で優れていたところで、人智を越えた力の前には路傍の石にすぎない。そして、そんな自分が一人戦いを続ける者を救うことなど夢のまた夢であった。
――運良く拾った命。すべてを忘れて、一人の人間として生きてきゃあいいだけの話だ。
イレーネの言葉が脳裏に蘇る。
彼女に託されたモノ。それを持ってしても、自分の力は及ばなかった。少年のみであれば当然あるのかも知れない。
だが、相手も同年代の少女。そのまま無為に日々を過ごせば力の差は広がる一方である。
そんな中、風の噂でキーリアが復活したという情報が耳に届いた。
帝国の崩壊の際、多くのキーリアが皇族と運命をともにし、皇帝の縛にあったキーリア達の大半は皇帝の自決とともに死に絶えたのである。
アイアースをはじめとする皇子達に託されていた少数のキーリアだけがその命を繋いでいたが、その当時で帝国に現存するキーリアは、シヴェルス地方を預かるヴァルターと教団に内通していたグネヴィアだけであり、ハインやエナ達がどうなったのか、アイアースはついぞ知る事はなかった。
そんな中、急速に悪化する治安維持のためにキーリアを復活させるというのは、理に適ってもいる。
だが、キーリアの復活はシヴィラに率いられた教団の主導という信じられないおまけが付いていたのだ。
キーリアをはじめとする各種の人体実験や魔導実験を行っていた者達は、帝国の崩壊とともに教団へと身を売り、今もその手の中で研究を続けていたのだ。
しかし、力を求めるアイアースに選択の余地はなかった。
彼を救い出した人物の後ろ盾の下、アイアース・ヴァン・ロクリスではなく、生前の和将という名からとった“カズマ”という、一人少年として教団の下へ赴き、キーリアとしての人体実験へとその身を投じたのだった。
顔かたちはそのままでも、死したる第4皇子のそら似などは散見している。
皇帝による辺境へと追放とそこから復権を求める教団に一人の少年に時間を割いている余裕は無かったのだ。
皮肉にも、アイアースはその自らを産み落とした女性と自らを導いた女性がもっとも望まぬ道へと自ら足を踏み入れた。
今も覚えているのは、両手足と頭部を拘束され、そこから目に映った燭台の明るさだけであった。麻酔薬の類も無し、全身を刻まれ力の根源体を全身に埋め込まれていく。
身体とそれの両方が互いを拒否し、そこに巨大な力が生まれていくのだが、強引に体内へと留まった根源は、その身を再び切り裂き、全身から血を吹き出させる。
通常、肉体に刻印を縫い付ける際にも、彫り師と刻印師の共同作業が求められ、最悪の場合は死人もでる施術。
それを、専門師でもない研究者達が強引に肉体にそれを押し込むのである。
当然、刻印は反発し、宿主その者を滅ぼしにかかる。受け入れるだけの器がなければ、肉体はミンチになって終わり。
苦痛に耐えきれるだけの心の強さが無ければ、肉体が残っても廃人となるだけ。
しかし、その代償は人たる身を超越した力であった。
アイアース自身、どれだけの間痛みに耐え続けたのかは分からない。
自身がもがき苦しむ様を研究者達は冷めた目で見つめていた様子であったが、八つ当たりで殺された者もいるらしいし、相応の目にあった者もいると聞く。
だが、それすらも研究者達にとっては必要な危険であり、彼らは自分達に力を与える代わりに自身の知的好奇心を命がけで満たしているのだった。
◇◆◇
「……指令は以上。依頼金の届き次第、出立しろ」
中央に座る男の言に、アイアースは無言で頷く広間から出る。先ほど案内してきた者とはここで別れるが、出立の際にはあの者も同行してくる。
監視ともうひとつ重要な役目があるのだ。
「また、お前とか」
「文句あるのか?」
「別に」
アイアースは、今回の任務でコンビを組むことになった女に視線を向け、静かにそう毒づく。
しかし、女の耳に届いたのか、不機嫌な声が耳に届いた。
「前衛型の俺と後衛型のお前。たしかに、バランスもいいがな」
「加えて、法術の類に精通し、刻印学も完璧、特殊工作も美貌を用いた錯乱も可能。これ以上なにを望む」
「よくしゃべる」
部屋へと向かいつつそんな会話を繰り返すアイアースと女であったが、アイアースとすればこの自信過剰な女との付き合いの長さにいい加減げんなりする面もあるのだった。
そして、二人はアイアースの部屋へと戻る。
「ふえーーん、殿下ぁ~。怖かったです~~」
「いきなり素に戻るな。バカっ!!」
突如、涙目になって豹変した女を押しのけると、アイアースは慌てて開かれた窓を閉める。
身体に押しつけられたふくよかな胸の感触に若干鼓動が跳ね上がったが、それを気にしていては身が持たなかった。
「あのなあ、ミュウ。ばれたらやばいってのに俺につきまとうな」
「でもお……」
今回コンビを組む女。
その正体は、帝国崩壊の時から行動をともにしてきた刻印師ミュウ・パリザードであった。
パルティーヌポリスにて、アイアースが消息不明になった後、彼を捜すべく全土に散ったハイン等と別れ、彼女はスラエヴォに隠れ住む高祖母の下へと戻ったのである。
それから、様々な経緯でアイアースと再会し、今に至る。
「でも、歩いているだけでいつレイプされるか分かったもんじゃないんだもん」
「そりゃ、そういう連中ばかりだからな」
「この前だって、部屋に押し入られたし」
「…………№20を襲おうってヤツも命知らずだがな」
キーリアと名乗ってはいないが、その序列などはそのまま引き継がれ、現在の№1は当然のようにグネヴィアが君臨している。
もっとも、皇帝の縛もなく新たなる縛りのない彼女がどこで何をしているのか、把握している人間がいるのかは疑問である。
アイアースにとっては不倶戴天の敵であることに変わりはないが。
「当然、消し炭にしてやったわよっ!! 上層部にも文句は言わせなかったわ」
「じゃあ、怖がる必要ねえだろ」
「だって~。私はまだまだ身のきれいな乙女なのよ? こう何度も何度も貞操の危機にあったんじゃいい加減いやになるわよ~」
(女のキーリアは施術の時に……。やめよう、あくまで噂だ)
ミュウの言に、耳にした噂を教えてやろうかと思ったアイアースであったが、よくよく考えてみれば身の毛もよだつ話になるため口を噤む。
帝国の下にあった時にはそんな事例はないと思いたかったが。
「でも、いつまでこんな生活を続けるつもり? 力を得たんだから、逃げ出してもいいじゃない」
「どうやって逃げるんだ? 逃亡した時点で、死ぬのは確定だぞ?」
「私がどうにかするわよ。さっさと逃げて、フェスティア様を救い出すべきじゃないの?」
「簡単に言うな。危うく灰にされかけたんだぞ? それに……」
「それに?」
「今、俺が目の前に現れたからって姉上は救えないと思う」
そう言って、アイアースは再び小窓を開け、南の方角へと視線を向ける。その先には、帝都パルティーヌポリスがあり、今も一人その地で報われぬ戦いを続ける女性がいた。
「救えないって……」
「この6年。姉上は身を削って国のために生きてきた。それこそ、自分を滅ぼしてしまいかねないような勢いでな。ああなってしまった人は、心の空白を埋めきるまでは何もできないよ」
「あなたがいるだけでも埋まるんじゃないの?」
「そんな簡単な話じゃないよ」
そう言って、アイアースは口を閉ざす。
すべては自分自身の軽率な振る舞いの結果であるのだが、あの日から今日のこの日までのフェスティアの姿は、一つの先を目指して生きているようにしか見えなかったのだ。
そして、アイアースががフェスティアの前に赴くのは、その先が見えたその時であろうことは、本能的に察していたのだ。
ヒュウと開かれた窓から風が室内へと吹き込む。
障気のこもった淀んだ風であったが、今のアイアースにとってはそれすらも心地よかった。




