第19話 戦士の流儀
サブタイトルを変更しました。中身は特に変わっていません
朝の目覚めは普段よりもさわやかだった。
アイアースは身支度を調えると牧へと向かい、自分の愛馬に跨がると、そのまま湖の周囲を駆けさせる。旅の途上からの付き合いであったが、今ではアイアースとの意思の疎通も十分にとれている。
双剣を扱う以上、馬との疎通は必須。乱戦で振り落とされては目も当てられないし、本当の勝負では、一瞬がすべてを決める。
そんなことを考えながら、ひとしきり走らせ終えて牧へと戻ると、オルクス守備隊の騎兵達や遊牧民達も牧に出てきており騎射の訓練をはじめているものもいる。
北辺の地にあるオルクス。周囲は果てなく続く草原に囲まれる遊牧民の天地。
そのため、遊牧民族の襲撃に対抗するための騎射の技能は欠かせないもの。アイアースも弓を用意してもらい、時間があるときは騎射を習うようにしていた。
停止しているときはほとんどの矢を的に当てることができるようになったが、馬を駆けさせているときはかすりもしない。
自分よりも年下の少年達が、近距離であるとはいえ、楽々命中させている様をみると少し悔しくも思っていため、時間を見つけては弓をとっている。
剣に弓にすべての時間差いているようなものであったが、あいにくと今はその訓練にかまけているヒマはない。
湖へと流れ込む小川で馬を洗ってやり、汗を流すと、アイアースは郊外にある丘陵地へと足を運んだ。
余裕は持ったつもりであったが、そこにはすでに人影があった。
「来たか。小僧」
「遅くなって申し訳ありません」
ゆっくりと近づくアイアースに顔を向けることなくそう言ったイレーネに対し、アイアースは素直に頭を下げる。
普段は皇子と近衛という立場だが、この場では師弟のような関係である。
そして、佇むイレーネと一定の距離をとると、アイアースはゆっくりと腰に下げた剣を抜き両手でそれを構えた。
イレーネもそれを待って剣を抜き、ゆっくりと長剣を構える。すでに日課となった対峙が、今日もまた同じように続けられるのだった。
風が二人の間を吹き抜け、草花が揺られる。だが、二人は身じろぎすることなくやく一刻ほどが過ぎる。
その間、イレーネは平然としたままアイアースを見つめているが、アイアースは額に汗が浮かびはじめていた。
お互いに剣を構えて対峙し、アイアースに限界が来たところで斬り込み、打ち合いを始める。これが、二人のやり方であった。
剣を構えて静止することは、剣に興味を持ち始めてから、休むことなく続けてことである。これが出来ないうちは、いくら技能を道つけたところで戦い勝つことはできない。
はじめにリアネイアに教えられたことであり、彼女を失った後も継続することで、今では“よほど”のことがない限り、いつまでも続けられると思っている。
そして、今はその“よほど”のことに直面しているからこそ、絶えきれなくもなる。イレーネは剣を構えての向かい合いで手を抜くことはない。相手の技量が上回っているが故に、長い対峙は続けられず、斬り込むか倒れ込むかを選ばざるを得なくなるのだ。
「っ!?」
アイアースは、そんな膠着を打ち破るかのように大地を蹴り、跳躍とともにイレーネに対して斬りかかる。
しかし、今回に限ってはそれまでとは違っていた。
それまで、アイアースの剣をかわして、隙のあるところを打つことを繰り返していたのだが、今回のイレーネはをれをかわすことなく剣で受けたのである。
金属どうしがぶつかり合う音が周囲に響き渡り、火花が散る。そして、軽く腕を振るったイレーネにアイアースは後方へと弾き飛ばされる。
「ぐっ!!」
回転しながら着地し、身を起こしたアイアースは再び距離を詰めると、両の手に持った剣を振り、イレーネへと斬り込んでいく。
私を斬るつもりで来い。とは、はじめの頃から言われていることである。はじめは大げさすぎるとも思っていたのだが、実際にイレーネは自分を斬るつもりで、斬り込んできているのである。
すんでで打つだけに留まっているのは、単純に実力の差であり、本気の中に余裕があるからこそ出来ることのようである。
「……その程度か?」
「えっ!?」
そうしている内に、失望したような声が彼女の口からこぼれでる。それに驚き、目を見開いたアイアースが気付いたときには、彼は腹を打たれ、地面に叩きつけられていた。
「ぐっ!? がっ!? ごぼっ!!」
身体の中で何かが裂けるような、そんな気がしたかと思えば、胃や喉が焼けるように熱くなり、口から血が噴き出す。
たった一撃で、アイアースの内腑を破壊して見せたのだろうか。
「どうした? ゼノスもリアネイアも、限界を超えてなお戦い続けていたのだぞ?」
「ひゅう、ひゅう……」
「貴様を守るため、ゼノスとリアネイアという希代の英傑が散った。貴様が背負うのは、二人が守るはずであったすべてなのだ」
「あ、ぐ…………」
イレーネの言葉は、身体の痛み以上に胸に突き刺さる。父と母は自分を守ろうとした。肉親としての情を捨て、民の利益を守らねばならなかった二人が、自分のために死んだ。
そして、その弱さを抱かせたのは、他ならぬ自分であった。
――――あなた、リアネイアが死んだのは自分のせいだと思っているのね
不意に、メルティリアの言がアイアースの脳裏に蘇る。
それは事実であり、リアネイアもゼノスもアイアースを守るために戦い、無念の最期を遂げた。
生きて帝国を再興させ、民を導く責務を背負った二人が、一人の子どものために死んだのである。
そうやって生き残ったアイアースには、二人が守るはずであったものを守る責務があるのだった。
「う、ぐ、うううっっ!! ぐぼおっっっっっっっっ」
そんなことを考えつつ、必死で身を起こそうとしたアイアースであったが、不意に身体の中で何かが暴れ回った。
再び膝をつくとどす黒いものが口から噴き出してきた。それは、いつまでも続いていく。
誰かが名前を読んでいるのが聞こえてくる。それに応えることも出来ずに、アイアースはどす黒いものを吐き続けた。
「で、殿下っ!?」
「し、しっかりしてください」
誰かと思って視線を受けたアイアースが、ほんの一瞬だけ眼を向けると、フィリスとフェルミナが駆け寄ってくる姿が目に入った。
遠巻きに様子を見ていたのであろうか、必死の形相でアイアースの側へと駆け寄ってくる。
それを合図にしたのか、咳とともにどす黒い何かを吐き出したのち、それは止まった。
咳をしても乾いた感じがするだけである。身体の中は乾いているのに、全身は汗にまみれている。
「殿下……きゃっ!?」
手を差し出してきたフィリスの手を軽く弾くと、再びアイアースは立ち上がる。
「さがれ、二人とも」
「し、しかし……」
「まだ、終わってはいない」
そう言ったアイアースは、口や喉の乾きを感じていたが、身体はどこか軽くなっているような気分にもなっていた。
――これならば、普段以上に動くことができる。
そう思ったアイアースは、双剣を両の手で握りしめ再び構え直す。事態を無言で見守っていたイレーネもまた、同様に剣を構えた。
そんなイレーネの姿は、アイアースにとってはそれまで、決して越えることの出来ない山のような存在だった。しかし、今のアイアースには、不思議と臆するような気持ちが無くなっていた。
イレーネもまた、そんなアイアースの変化に一瞬目を細める。
そして、アイアースが地面を蹴り、再びイレーネへの胸元へと斬り込む。
先ほどと同様に、イレーネは剣を受け、隙あらば斬り込む姿勢を見せつけている。
表情を変えぬまま振り下ろされたイレーネの剣は重く、アイアースはそれを受けるときも歯を食いしばりながら受け止め、はじき返すと隙を狙って攻撃を加える。
アイアースの剣がイレーネの身体に届くことはないが、戦っている当人同士にしか見えない隙をアイアースは本能で嗅ぎ取り、斬りかかっているのである。
表情を変えないイレーネもそれに気付いており、アイアースの傷がやや大きくなり始めていることも自覚していた。
完全な実力差を持って攻撃を制御する余裕が無くなってきているのだった。現に、アイアースの剣がイレーネの身体を肉薄する場面が見るからに増え、無表情なイレーネの額に汗が浮かびはじめる。
そして、そんな対峙は一刻ほど続く。
息を飲みながらそれを見つめるフィリスとフェルミナであったが、終わりなき対峙と思われた戦いに間もなく終止符が打たれようとしていた。
握力を失いはじめている手で強引に剣を握りしめていたアイアースであったが、その剣のブレをイレーネが見逃すはずはない。
右手の剣を振るったアイアースに対し、わずかに身体を反らしてそれを交わしたイレーネは下から振り上げるようにアイアース左手にある剣を跳ね上げれる。右手の剣を横薙ぎにしていたところに、左手への衝撃である。
左手から剣が離れる同時にバランスが崩れ、胸元ががら空きとなった。そして、跳ね上げた剣を手首を返すようにして横薙ぎに斬りかかってくるイレーネの姿がアイアースの目に映った。
アイアースは目でそれを自覚していた。だが、左右に力を分散された肉体がそれをかわす動きをすることを許してはくれなかった。
しかし、意識ではそうでも身体に植え付けられた本能は異なる。
「っ!?」
刹那、剣を振るうイレーネは、剣を握った手に激しい衝撃を感じた。
金属同士がぶつかり合う鋭い音が虚空へと響き渡る。
対峙したまま静止しているアイアースとイレーネはすでに得物を持って居ない。
そんな二人の頭上で、跳ね上がった3本の剣が虚空を舞うように回転しながら両者の間へと落ちてゆき、大地に突き刺さる。
「…………見事だ」
それを待っていたかのように、笑顔を浮かべて口を開いたイレーネに対し、アイアースもまた笑みを浮かべる。そして、アイアースの身体はゆっくりと崩れ落ちていく。
倒れ込むかというアイアースを、イレーネが静かに抱きしめていた。
◇◆◇◆◇◆
帝国本土で起こった反乱から一年余が過ぎていた。
反乱によって皇帝を始めとする皇族や国政の中枢にいた人間達はことごとく殺戮され、旧制度はすべてを否定された形になったが、今度はそれに対する反乱や衛星国の自立なども相次いでいるという。
先頃もオアシス国家群の大規模な反乱が起こり、帝都近郊にて共和政権側がギリギリの勝利を収めたばかりであった。
フィリスは、そんな中央の混乱を心苦しく見つめているしかなかった。個人的に、遙か彼方にある帝国本国を中心とした混乱に特別な感情は抱かなかったものの、それを契機にシヴェルア方面の騎馬民族や隣接する衛星国が不穏な動きを見せていることを考えると歓迎できることではない。
何よりも、事態に対して何ら手を打つことの出来なかったことを悔やむ父親の憔悴振りは、見ていて心苦しくなるほどのものであった。
そんな中、もたらされた第4皇子の生存と保護の願い出に父が歓喜したことは想像に難くない。ただ、フィリスとすれば素直に歓迎できるモノなのか。との思いもあった。
「父上は歓迎しているようだけど、でも、あの人達がいたら……」
この辺境の地も中央のように血が流れることになるのではないか? と言う思いが脳裏に浮かぶ。
養女とはいえ、領主の娘であり、皇室の臣下であることには変わりはない。そのため、皇子達には可能な限りの礼節を尽くしているし、第四皇子個人も素直に礼節を尽くせる相手である。
昨日の夕食の際に見せた顔は、それまでのどこか大人びているものとはことなり、普通の少年のようでもあったのだ。
だからこそ、歓迎した結果起こりうる悲劇がフィリスにとっては怖かった。
「ふう……」
そんなことを考えながら、毎日の日課である遠乗りを終え、草木への水やりをはじめたフィリスは、ふと自身の右手を見つめる。
(手……、ボロボロだったな)
部屋訪なった際に治療のため握りしめた手は、子どもの手とは思えないほど分厚く、肉刺の痕はまだまだ新しかった。
それから、彼の口から出た言葉。
東方の国家の話だと言うが、聞いたことも学んだこともない言葉を、彼女は知っていたのだ。
「なんでこんなことが分かるんだろ?」
そんなことを考えていたフィリスは困惑とともにそう口を開く。
握った手に違和感を感じるのはともかく、子どもだからどうとか、包帯というものがどうとかなど、どうしてそんなことが分かるのか。それは、アイアース達がこの地を訪れてから顕著になってきたように思える。
「きゃっ!?」
「あっ!?」
そんなことを考えながら歩いていたフィリスは、建物の影を回ったところでふわりとした何かにぶつりかり、思わず尻餅をつく。
「あ、フィリス様、ご、ごめんなさい」
何事かと目を丸くするフィリスの目の前には、漆黒の翼を背に生やした少女が立っている。アイアースとともにこの地にやってきた光の飛天魔族の少女。フェルミナであった。
「だ、だいじょうぶ。ちょっと、考え事をしていて……あら?」
身を起こしたフィリスは、少しおどおどしたような様子で頭を下げるフェルミナが手に槍を持っていることに気付く。
飛天魔族であるため成長が早く、フィリスと同年代であるのに身長は頭一つ分高いフェルミナであったが、さすがに成人が持つ槍は不釣り合いに長く見える。
「その槍はどうしたのですか?」
「え、これですか? えっと、以前からキーリアの方に稽古をつけてもらっていて……」
「それを使っているんですか?」
「は、はい……。剣より槍の方が合うそうで」
稽古という言葉にフィリスは目を剥きながらフェルミナを見つめる。
飛天まである以上武勇に優れるのは間違いないであろうが、彼女の姿はどうみても深窓の姫君のそれであった。
少なくとも、ここに来てから武器を持っているところを見たことはなく、アイアースがイレーネとの稽古を終えた後にタオルなどを届けてる姿を目にするぐらいである。
「フェルミナ様は……」
「は、はいっ!?」
「殿下とはどのようなご関係なのですか?」
「えっ!? あ、あの、その…………」
思わず口をついた疑問に、フェルミナは口ごもっている。
その様子に、フィリスはやはり自分の予想通りだろうと思った。
パルティノン皇室にあって、皇后や皇妃、太子妃は外見の美しさだけでなく、教養や気品、そして武勇や法術の類も求められる。
どこかおどおどしたところはあるが、その美しい外見と普段の所作は相応の地位を予想させるものであり、皇族の類であれば幼くして婚約関係にあっても不思議ではない。
現に、フェルミナのアイアースに対する視線は、主従のそれではないと、フィリスは不思議と感じ取っていた。
「いえ、よけいなことをお聞き致しました。殿下ならば、先ほど牧にいらっしゃいましたが」
「そうなんですか? それじゃあ」
「私も御一緒してよろしいでしょうか?」
「は、はい」
二人の関係を邪魔するつもりはなかったが、なぜかフィリスは二人とともにありたいと思っていたのだった。
そして、フェルミナとともに郊外の丘陵地帯へと向かったフィリスの目に映ったのは、血を吐きながら崩れ落ち、どす黒い何かを吐き始めたアイアースの姿。
思わず駆け寄るが、アイアースは二人を制すると、それから憑きものが抜けたかのように戦いを再開したのだった。
その戦いは凄まじく、フィリスはフェルミナとともに、二人の姿を唖然としたまま見つめるしかなかった。
全身に細かい傷を作り続けるアイアースに対し、イレーネは衣服や髪がわずかに斬られているだけ。
端から見れば、大人の女が少年をいたぶっているようにしか見えない状況。それでも、フィリスは二人の間に立ち入ってはならない無いかがあるような気がして、そこから動けなかったのである。
そして、お互いに剣を跳ね上げあった後、崩れ落ちたアイアースを抱きしめたイレーネの姿は、主君と護衛以上の何かを感じさせるものであった。
二人にアイアースを託したイレーネは、その後全身を白地の衣服に身を包むと、町から姿を消していた。
ただ一言、「今はゆっくりと休ませてやってくれ」という言葉を残したイレーネの表情は、身を寄せてきてから一度も見たことの無いような優しい表情であった。
それ故に、フィリスはアイアースとの全力を思わせる対決の意図を聞くことが出来ないでいたのだ。
(フェルミナ様もそうだけど、殿下には人を惹きつける何かがあるのだろうか?)
額に浮かぶ汗を拭いながらフィリスは、先ほどのイレーネの表情や目の前で祈るように手を握りしめるフェルミナの姿を見て、そんなことを考える。
思えば、客人であるとは言え、妹たちや都市の首脳陣もアイアースに対してはどこか普通の客人以上に入れ込んでいるようにも思えた。
彼の地位を考えれば当然かも知れないが、もう帝国はなく、あるのは亡国の皇子という肩書きのみ。
それがこれほど人を動かすものなのかは、フィリスには分からなかった。
「殿下は眠ったままかね?」
「あ、父上……。はい、変わらず」
眠り続けるアイアースに視線を落とすフィリスの耳に、養父ドゥアの声が届く。すでに夜半となっており、執務を終えたついでに立ち寄ったようである。
「ふむ……」
「イレーネ殿は殿下に何をしたのでしょうか? ハイン様達も教えてくれなくて……」
「分からぬよ。ヴァルターに聞いてみたが、説明できるものではないという」
「そうですか……」
ドゥアの言に、フィリスは力なく頷くしかなかった。
イレーネからは、『ゆっくり休ませてやって欲しい』と言われただけである。たしかに、顔色は良く今も気持ちよさそうに寝息を立てている。しかし、あの時の様子を見ていたフィリスからすれば、生きていることの方が不思議であった。
「イレーネ殿はどこへ?」
「戦場じゃ」
「戦??」
「うむ……、彼女らしい行動だ」
「どういう……」
「ヴァルター殿の前にここにいたのは彼女だ。そなたは、まだ幼かったから覚えて居らぬかも知れぬが」
それから、ドゥアはイレーネのことをぽつりぽつりと話し始める。
口や素行は悪く、賊徒や騎馬民族を一人で撃退するが、感謝の言を述べるものを冷たく突き放し、近づく者達を遠ざける。そんな形で孤独を演じていた彼女であったが、結果として犠牲者を少なくすることには貢献していた。
一人ですべてを背負い、それを成すことが出来る自信。なにより、目の前で人が苦しむことに耐えられぬという思い。
それらが、彼女を孤独にしていたのである。
「今回のことも同様であろう。他のキーリア達やヴァルターが行動を共にせんのはそれを理解しているが故」
ドゥア自身、はじめはどう扱えばいいのか分からなかったという。だが、近隣の村々が襲われた際に、身を呈して村人の盾になる彼女の姿を忘れることは出来ないという。
生きるために戦っている。皇帝の縛に縛られているが故に戦っている。そんなことを口にする彼女が、目の前の小さな命に対しても、身を削る。その姿を見れば、普段の言動は偽りであると言うことは容易に想像がついた。
「愛想のない方だとは思っていました……」
「うむ」
「それでも、傷ついた殿下を抱きしめる姿は……」
「うむ。だからこそ、我々は彼女を止めることは出来ないし、彼女の戦いを邪魔するわけにはいかんのだよ」
そう言ったドゥアに対して、フィリスは何と言えばいいのか分からず、静かに頷くしかなかった。
戦いというものがなんなのか。本で読んだ戦争や戦い、ヴァルターや軍人達が行っている教連の見学などをしたことはある。しかし、今のドゥアの言葉の裏には、それらとは異なる様な重い現実があるようにも感じた。
「さて、フィリス。そなたも、もう休みなさい。殿下も良くお休みになられている。フェルミナ様も」
「ですが……」
ドゥアの言に、眼を赤くしたフェルミナがようやく顔を上げる。
よくよく考えれば、朝方からアイアースにつきっきりであったのだ。
彼女がその手に宿す風の刻印による加護も与えていたのだと思う。とはいえ、すでに夜も遅く、今のアイアースの様子を見るに、すぐに目を覚ますとは思えなかったが、昼間の様子を考えると、何かがあるような気もするのだった。
フェルミナも同様なようで、固く握った手を離そうとしていない。
「このご様子ならば、大丈夫だ。代わりの者もつけるとしよう」
「そうですね……。フェルミナ様、私たちも休みましょう」
とはいえ、父の気遣いを無下にするわけにもいかないため、フィリスはゆっくりと頷き、フェルミナに声をかける。
そして、立ち上がろうとしたフィリスは、全身が鉛のように重く感じて思わず膝を折りかける。大人びているとはいえ、彼女はまだまだ幼い少女、怪我人に付き添っているだけでも、気遣いで体力は消耗する。
「うう…………」
「さあ、フェルミナ様」
なおも心配そうにアイアースを見つめるフェルミナの手を取ったフィリスは、ドゥアとともにゆっくりとその場を後にする。
しかし、彼女はこの時の判断を大きく後悔することになる。
翌日、アイアースの側についていたものが、ほんの僅かの間席を外した間に、アイアースが寝かされていたベッドはもぬけとなっていたのだった。




