第11話 その鏡は何を映す?
草原の草木が目に見えて小ぶりになり始めた頃、緩やかなる丘陵地帯を越えた先にそれは現れた。
そこにあったのは巨大な鏡であった。
流れる雲、澄みきった青。そのすべてを飲み込み、見るものの心を奪い取る。その美しさは、ある意味では魔女めいた美しさであったのかも知れない。
そして、その湖畔に寄り添うように立つ街並み。
ユルトと呼ばれる移動用の天幕式住居が中心であった道中の集落と異なり、そこは、帝国本土の建築様式に似た建物がいくつも見受けられる。移動よりも定住を意識した作りであった。
「あそこか?」
「シヴェルス州都オルクス。現在まで続くシヴェルス開発の拠点でもあります」
「それにしては、小さい都市だな」
たしかに、街の周囲には牧がいくつも点在し、今来た行路も整備されている。隊商の行き来も頻繁にあるようで、ここまでの道中で何度もすれ違ってもいた。
それを考えれば、拠点としての機能も十分とは思う。そもそも、帝国本土に比べれば人口も少ないのは当然であった。
「シヴェルア州は、辺境の中でもとりわけ強力な騎馬民族の聖地でもあります。長期の制圧となれば国軍の主力を長く貼り付ける必要があり、短期決戦ともなればキーリアも含めた全軍による特攻を余儀なくされる。それだけ、広大な地であり、敵も手強いと判断したのです。先日の馬賊の類はそこから外れた慮外者に過ぎませぬ」
言外に、楽に勝ったからと言って調子に乗るな。と言っているようにも思える口ぶりであったが、事実でもあるので特に反論する気にはなれない。
以前の夜襲から並みの人間相手に勝利してはいるが、それは結局はキーリアという巨大な存在が自分を守っているからこそである。
「頭では分かっていても、実際は……な」
「?? 何か言いましたか?」
「いや、こちらのことだ。それで、ここまで逃げてきたけど、どうするんだ?」
思わず呟きが漏れたアイアースは、やんわりと話題を変える。
目的も何も告げられずにここまでついてきたのである。目的地が見えた今、今後のことも気になっていた。
「本土からみれば、異国と同様の辺境の地。加えて、頻発する騎馬民族の侵入によって治安も安定していない。混乱する中央からすれば、気にする余地のない地でもあります」
「しばらくは、身を隠しておけ。ということか?」
「しばらくと言わず、生涯をこの地に捧げることを私はおすすめします」
「それは、断る」
「そうですか」
皇族であることを忘れ、一人の人間として生きればいいというイレーネの提案はすでに聞いていたが、あいにくとそれを受け入れる気にはならない。
先日、セルヴァルトにて“巫女”のことを耳にした際に感じた胸のざわめき。
意識したことはなかったが、敵を討ちたいという思いは、胸の中に存在しているのだと思う。そして、それを忘れることなど出来はしない。
「それに、一生ここで過ごすってのはちょっと厳しいですよ。質のいい軍馬はいても、年がら年中戦続きですし」
「とはいえ、中央の眼から逃れるのに、過ごしやすい地を選ぶのは本末転倒」
「イレーネ殿はともかく、我々は殿下のご意志に従いまする。ですが、今は気持ちを落ちつける時かと」
「ちっ」
そんなアイアースの胸中を知ってか知らずか、ハインに続き、エナや男のキーリアも次々に口を開く。忠誠心が厚いのは素直にありがたかったが、さすがに上位の人間の前で言うことでもないと思う。
実際、イレーネもはっきりと聞こえるように舌打ちをしている。
「さて、おしゃべりはこのぐらいにしよう。イレーネ、案内してくれ」
アイアースは、そう言ってイレーネに先を促すと、彼女は口を噤んだまま頷き、馬を進めた。
領主の館を訪ねると、すぐに客間へと案内された。今は執務中であるとのことであったが、官吏達もすぐに事情を察し、館内はどこか異質な空気に包まれている。
「手の者は入り込んでいますかね?」
「“皇帝の”ならな」
「大半はそうだとは思いますが、陛下が捕らわれた際には相応の者達が揃っていたと聞いておりますが」
「今のヤツラにこの辺境にまで入りこませる余裕は無い。あったとしても、あやつが放って置くはずはない」
「そうかも知れませんね」
間諜の類を警戒するキーリア達の会話をよそに、アイアースは窓辺から街の様子に眼を向ける。
来る途中にも思ったが、遠くで見た時よりも活気があることに驚かされる。
行き交う人々も、帝都とは比べようもないほど少ないが、様々な種族が入り混じっているところはよく似ていた。
「街の様子が気になりますか?」
隣室の扉が開く音とともに、凛とした少女の声が耳に届く。
眼を向けると、腰までの長い黒髪で意志の強そうな眼をした少女が茶器セットを乗せた盆を持って立っている。
アイアースが応えずにいると、少女はテーブルに茶器を乗せるとアイアースの前にやって来て膝を折る。
「皇子殿下、お初にお目に掛かります。私はオルクスが領主ドゥア・テムルが娘、フィリス・スィン・レヴァンスと申します」
「面を上げてくれ。アイアース・ヴァン・ロクリスだ。よろしく」
そう言ってアイアースは、少女を立たせると、おもむろに手を握る。
思いがけない行動に、フィリスは一瞬目を丸くするが、すぐに力強く手を握り替えしてきた。
「キーリアの方々とともにと言うのは父も予想していたようですが、そちらのお二人は?」
手を離すと、フィリスはミュウとフェルミナに視線を向け、口を開く。
その視線に、ミュウは笑顔で応え、フェルミナはぎこちなさげに頭を下げる。
「派手な衣装の方は、ミュウ。飛天魔はフェルミナだ。二人ともスラエヴォの時から一緒でな」
「そうですか……。フェルミナ様は、私どもと年も変わらぬ様子。ご無事で何よりでありました」
「そ、そんな……。私なんて殿下やハインさんに迷惑をかけていただけで……」
「まあまあ、フェルミナちゃん。今はこうして元気なんだから~。フィリス様、私は刻印師なのよ。一宿一飯のお礼ってわけじゃあないけど、刻印のことが知りたかったら教えるわよ~~?」
「はい。その時はよろしくお願い致します…………ところで、つかぬことをお聞き致しますが、ミュウ様のご年齢は?」
「えっ!? 16になったばっかりだけど~?」
「…………っ!? 左様でございますか」
ミュウの言に、フィリスは目を見開き、恐縮しながら口を閉ざす。
ミュウはミュウでアイアースに視線を向けながら、首を傾げるが、アイアースはフィリスの反応がなんとなく理解できる。
刻印学は、膨大な知識と資料研究が必要となる。ミュウはであった当初は、妙齢の女性を演じていたが、今は年相応よりも多少背伸びをした格好である。
常識から外れたほど若く見え、さらに実年齢はもっと若い。面食らうのも当然であった。
「それで、ん??」
再び口を開き書けたアイアースに耳に、慌ただしく走り回る足音が届く。
そして、フィリスが入ってきた扉が慌ただしく開かれると、小さな二つの影が飛び込んできた。
「お姉ちゃ~ん、軽いものだけ持って行っちゃうなんてひどいよ~」
「一言あるべき」
入ってきたのは、カップを乗せた盆を持った少女と茶菓子と思われる包みを持った少女であった。カップを持った少女は、豪奢な金色の髪を左右に長しており、間延びした口調からひどく幼げな印象を与えてくる。
対する茶菓子を持った少女は、フィリスと同じ黒髪を短く切りそろえ、金髪の子とは異なり表情をそれほど変えていない。そのため、一種の人形のような印象を与えてきた。
「私は先に持って行くと言ったわ。聞いていなかったそなた達が悪いのだろう?」
「わざわざ時代がかった話し方をしても似合わない」
「そーだそーだっ!!」
「……随分元気だな。妹か?」
「はい、妹のリコリスとシルウィスです」
「そうか……。二人とも、よろしくな。私は、アイアース・ヴァン・ロクリス。って、いきなり固まらないでくれ」
先に行ってしまった姉に対する文句が口をついた両名であったが、アイアースに声をかけられると途端に表情を強ばらせて口を閉ざしてしまった。
アイアースにとっては慣れっこであったが、あらためて皇族というモノの立場を思い知らされたような気がしていた。
「…………はぁ。とりあえず、一息入れられてはいかがでしょうか? 父も急いでやってくるとは思いますが」
そんな状況を見かねたのか、フィリスがため息とともにそう口を開くと、リコリスとシルウィスは、ようやく我に返ることが出来たようであった。
「そ、そうですよ~~。皇子様、このお茶は」
「おじさん、おばさん達も一緒に」
元気よく口を開き、アイアースに茶葉のことを得意げに話すリコリスとキーリア達に対してそんなことを口にするシルウィス。
ハインやエナは特にそういうことを気にする性格ではないため、にこやかに笑いながらその提案に応じている。
「ふむ……、私はけっこうだ。フィリス様、ヴァルターも執務ですか?」
表情を変えずにフィリス等の提案を断ったイレーネ。ヴァルターという名ははじめて聞くが、どういった人物であるかは後でハイン等に聞いた方が早そうであった。
「はい。ですので、イレーネ様も休まれては?」
「いえ、こういう場は苦手ですので……」
素っ気なくそう言うと、イレーネは部屋から出て行く。
その背中が、ほんの少し寂しげに見えたのは、アイアースだけであったのだろうか?
◇◆◇
フィリス等に迎えられたのち、アイアース等はオルクスの領主であるドゥア・テムル・リカ・レヴァンスに面会し、当面の保護を快諾してもらうことが出来た。
「皇室への忠義のみを生きる糧にしている身、最後の奉公と思わせていただきますわい」
かつては草原からオアシス一帯を領する大貴族であり、皇帝の側近としてあった男もすでに老齢となり、今は3人の養女と日々の執務に勤しむ毎日だという。
覇気もなければ野心もない。自身の責務を粛々と実行数する人物。
皇族を保護し、それを御旗に掲げる心配もない人間をイレーネはあえて選んだのであった。
「ふう……」
宛がわれた居室へと戻ると、イレーネはようやく息をつける気がしていた。
道中、皇子の望むままに剣をとって対峙していたが、その間もいつ現れるかという追っ手の影に本心では怯えていた。
中央にはいつの時代も暗闘が繰り返されており、息のつく間もない。
その点、辺境の地は戦の可能性はあっても、生きることが優先されてつまらぬ抗争とは無縁なのである。
自身に問題があるとはいえ、辺境に張り付かされていることは特段の不満ではない。それゆえに、本来の任地へと逃れることが出来なかったことは歯がゆくもあった。
「お前がそんな表情を見せるのは珍しいな」
と、背後からの男の声。声と気配で誰であるかは分かっているので、視線を向けずに口を開いた。
「…………ノックぐらいしろ」
「今更、そんなことを気にする仲ではあるまい?」
「ちっ……、服を剥かれてびびりまくっていたガキはどこに行ったんだ?」
イレーネの言に、男は肩をすくめると、傍らのイスへと腰を下ろす。
男の名は、ヴァルター・モルヴィル。キーリア№12で、オルクスを中心とするシヴェルス方面を任地としている。
今でこそ、長身の偉丈夫であるが、10代の頃は女性と見まがうような華奢な少年であり、イレーネや他のやんちゃな者達のおもちゃにされていたことがあった。
「だいぶ、疲れているようだな」
「悪いか?」
「いや、よく生きていた。というのが本音だ」
「ふん。まあ、そう思うのも当然だろう。リアネイアやアルティリアですらも死んだことを考えれば」
「誰でもそう思うさ」
「で、貴様はなぜ生きているんだ?」
イレーネは、素直に思ったことを口にする。元々、ヴァルターの生存は期待していないまま、この地まで逃れてきたのである。
「皇帝の縛にある我らは、皇帝とともに死する。はずだったな」
「あの小僧なのか?」
「俺は、誰でもないようだ。皇后や皇妃達と同等の扱いだな」
イレーネの問いに、ヴァルターは『うらやましかろう?』とでも、言いたいような表情を浮かべる。真面目な話をしている中でのそれにイレーネは青筋を浮かべかけたものの、気を落ち着かせてさらに口を開く。
「北辺の要を犬死にさせるわけには行かぬと言うわけか。こちらはガキのお守りだというのにな」
「まあ、そのことには同情してやるよ。それで、実際のところはどうするつもりだ?」
「レヴァンス卿に話したとおりだ……。どちらにしろ、ガキを連れて戦などできん」
「それまでは、自分が守る。ということか」
そう言って、ヴァルターはイレーネに対して背を向ける。
ことを為すにしろ為さぬにしろ、アイアースが子どもであるうちは何をしようがないのである。お世辞にも平穏に過ごせる地ではないが、中央での政治抗争とは無縁でいられる地を選んだ意図はある程度読み取れた。
もっとも、本心としては一人の人間として平穏に生きればいい。とも思う自分がいる。剣を交わし、復讐のための剣を研がせる自分が。であった。
イレーネはなぜこのよう感情を抱くのかは、自分自身にも分かってはいない。
仮に、あの時皇子の口から平穏な人生を望むと言われていれば自分はどうしていたのか? それすらも分かってはいないのだ。
「別に私は」
「私の忠誠は、常に皇室にためにある。万一のことがあっても、心配はするな」
口を開きかけたイレーネの言を制して、ヴァルターはそう告げると部屋から出て行った。
その姿を見送ったのち、イレーネは窓辺に立ち、呟くように口を開く。
「まだ……、死ぬ。と決まったわけではないさ……」
剣を抜き、窓辺へと掲げる。
多くの血を吸ってきたそれは、夕陽を浴びて明るく輝いているように見える。しかし、その先にて夕日を映し出す湖。
その湖面は、心なしか憂いの色を為しているように見えた。
辺境の地に赴き、ようやく平穏を得たアイアース等一行。
しかし、中央の情勢は動き続けてもいる。
この年の晩春、オアシス国家連合による帝国本国への侵攻により、メルテュリア州都エクバラーナが陥落。
それを受けて、各地で衛星国の自立が相次ぎ、多くがそれに呼応するようにパルティーヌポリスへと侵攻を開始する。
共和政権と天の巫女シヴィラ・ネヴァーニャの命運は、まさに風前の灯火となろうとしていた。




