第5話 辺境行路
斬り込んだ先にイレーネの身体はなかった。
直後、脇腹に鋭い痛みが走り、一瞬呼吸が詰まる。身体を地面に預けて転がると、すぐに身体は楽になっていく。すぐに立ち上がるが、疲労は一気に蓄積されているように感じる。
自身の身体のどこに隙があるのか、イレーネはそれはそれを教えようとしているのだと思う。剣の腹で打たれているために息が詰まるだけで済んでいるが、実践であれば何度斬り捨てられているのか分からないほどである。
だが、それで守りに入れば容赦のない打ち込みが襲ってくる。受け止めたかと思えば、全身に無数の傷が刻まれ、衣服が赤く染まっているのである。それでいて、身体が動かなくなるかと思えばそうではなく、痛みだけを確実に与えて重要な部位にはまともな傷をつけていなかった。
全力で対峙をしながらも攻撃の際には、急所を外せる。手を抜いているわけではなく、それだけの実力差があることの証明でもあった。
あの日から半年。目的の地へは確実に近づきつつあるが、剣の腕自体は追い付くどころか前に進んでいるという実感すらも無かった。
と、そんなことを考えている間に、再びイレーネが踏み込んでくる。
高速で繰り出される剣戟を一撃、二撃といなし、逆にこちらから踏み込んでいく。しかし、イレーネは身体を捻って交わすと背中に重い一撃を受けた。
「がっ!!」
思わず声が漏れ、その場に倒れ込む。
身体が引き裂かれるような痛みが全身を襲い、立ち上がる気力を奪っていた。
「立て。息がある限り、命がある限り、立ち上がれ。お前の父が、母がどのように立っていたのか、忘れたわけではないだろう」
イレーネの声が耳に届く。張り上げているわけではないが、それは何よりも大きくアイアースの耳へと運ばれてきていた。
それを助けに身を起こす。全身が冷たい汗に包まれているが、身体は以前よりも軽かった。
再び剣を構え、イレーネに対して斬り込む。簡単にかわされ、身体を打たれる。しかし、無意識の内に身体が動き、絶息は避けられた。
その様に、一瞬イレーネの表情が綻んだようにも見える。そして、それを合図に剣戟がさらに鋭さを増していく。
身体を打たれて立ち上がるたびに、脇腹が、手首が、背中が、打たれて地に倒れ伏す。
その対峙は一刻以上続いた。
◇◆◇
「うぅ…………」
二人の対峙を遠巻きに見つめていたフェルミナは、思わず両の肩を抱く。
互いに全力で打ちあっていると言うことは、端から見ていてもよく分かる。最初に打ちあっている二人を見た時は止めなければならないとも思ったのだが。そこには、他人が立ち入ってはならない何かがあるように思えて、足がすくんでしまった。
今も、こうして遠巻きに見守るしかない。
「おっ、やってますねえ」
「ハインさん……」
ふと、フェルミナが顔を出している茂みに音もなくハインが現れる。
この面倒見のいいキーリアは、離宮脱出の時からこちらにもよく気を遣ってくれている。今回の場合は、傷ついたアイアースの治療のために来たのであろうが。
「まったく、健気なもんですねぇ」
「でも、かわいそうです」
「……………………」
「殿下は優しい人です。奴隷の私を傷付けることもなく、こうして…………。なのに、ご両親やご兄弟も亡くなって……それなのに」
「同情しても殿下は喜びませんよ。お姫様」
「…………フェルミナでいいです」
「そうですか。でも、残念ながら、殿下のお立場を考えれば、仕方のないこと。でもあるんですよ。一般人が親や兄弟を亡くせば当然かわいそうだと思えるでしょうが……」
「皇族は違うと?」
「むしろ、家族の死を喜ぶのが、上流階級にはつきものですからね。継承戦争のことはご存じでしょう?」
「………………はい」
まだ、幼いフェルミナも国内全土を巻き込んだ戦争の事は知っている。
なにより、自分の父親も一族を率いて参戦したのだ。あの時の、不安な心はいつまでも消えることはない。
ただ、あの時は一族の中にいたし、シャルミシタをはじめとする者達が一緒にいてくれた。
「殿下…………は、皆さんと一緒であることで幸せなのでしょうか?」
「どうですかねえ? 俺達が向けられるのは忠誠心であって、愛情とはまた違いますからねえ。もちろん、殿下のことは大切ですけど」
「…………そうですか。――――ハインさん」
「ん? なんです?」
「私にも戦い方を教えてください」
「えっ?」
「私は殿下のようにはできないと思いますけど……。それでも、何かお役に立ちたいんですっ!! お願いします」
「い、いやちょっとぉ……。教えるのはいいけど、まだまだ早すぎますよ」
「いいんじゃないの~~」
フェルミナの言に困惑するハイン。
ハイン自身、彼女の意図も思いも理解できるが、まだまだ身体もできていない少女に下手なことを教えるわけには行かないという思いもあった。
しかし、そんな二人の間にゆったりとした声が響く。様子を見に来たミュウである。
「殿下も頑張っているわけだし、フェルミナちゃんも飛天魔族だもの。戦いの才能はあると思うわ」
「だからっておまえ……。そりゃ、子どものうちから教育するのは大事かも知れんけど、下手にやって身体をこわしたら」
「でも、殿下はやっているわよ?」
「それはそれで…………。ふう、分かったよ。他の連中にも相談はするけど、あまり負担の無いようなことからですよ?」
「それでいいですっ!! ありがとうございます」
「ふふふ、フェルミナちゃん。法術も私が教えるわ~。教えることで学べることもあるしね」
「はいっ!!」
「じゃあ、さっそく。これを持って殿下のところへ行ってみて~」
「え、は、はい……」
ハインの同意を得て、眩しいほどの笑顔を浮かべるフェルミナにミュウもまた満足げな笑みを向ける。そして、法術の指導を買って出ると、持参していたぬれタオルを手渡す。
血や汗で汚れているであろうアイアースを気遣ってのことである。
はじめはよく分かっていなかった様子のフェルミナであったが、対峙を終えたアイアースが地面に膝をついたことを見て、慌てて翼を開いて飛んでいく。
「普通、あの年であんなに上手く飛べないって言うよなあ」
「生まれが生まれだし、彼女も相応の才能があるのよ」
「……口調が変じゃないか?」
「私にだって真面目なときはあるわ」
「そうかい。まあ、頼まれた以上はやるしかないな」
「将来、肩を並べられて、顔を真っ赤にしないことね」
「大丈夫だよ」
頭を掻きながら、宿へと戻るハインにミュウが苦笑しながらそう告げると、ハインは面倒くさげに手をヒラヒラさせてその言を受け流す。
余談であるが、数十年後の帝国軍にあって、侵攻先を巡って激論を交わす壮年の男女の姿があり、男はキーリアと呼ばれる先頭集団の出身者。女は銀髪に黒い羽を持つ飛天魔族という記録が残っている。
◇◆◇
大地に剣を突き立て、それを支えに倒れ込むのを防ぐ。
「はぁはぁはぁ…………」
動きを止めたことで全身の傷がズキズキと痛み始めるのをアイアースは感じていた。衣服のところどころから血が滲み出している。
(自分で限界を掴めるようになったというのか……?)
そんなアイアースを見下ろすイレーネは、無言のままそんなことを思っていた。
アイアースにとってはすでに半年が過ぎていたのであるが、イレーネのとっては『まだ』半年しか過ぎていない。
成長の速度は速すぎるぐらいであった。
(だが…………)
なおも立ち上がろうとするアイアースに対し、イレーネは素っ気なく剣をしまう。
驚いたように顔を上げるアイアースに対し、イレーネは静かに口を開いた。
「今日はここまでだ。出発まで水浴びでもして、ゆっくり休め」
しかし、アイアースは納得しない様子で、目を見開き、声を上げる。
「いや、まだ、大丈夫だっ!! 頼む、続けてくれっ!!」
息も絶え絶えな懇願であったが、その答えは剣の面による頬への一撃であった。
「がっ!?」
軽く薙いだだけにもかかわらず、アイアースの身体は軽く吹き飛ばされ、大地に倒れ込む。
「あの戦いの時、貴様が受けた傷は思っている以上に深い。動くことの困難な私の腕以上にな」
イレーネは、混じりに涙を浮かべながら必死の形相で立ち上がるアイアースに対して目を向ける。そのことに関しては、アイアースにとっても初耳であり、苦痛の表情が驚きへと変わっている。
「急ぐことはかまわぬ。だが、慌てることはない。急いだ結果が善となることはあっても、慌てた結果が善となることはまず無い」
そうして、イレーネは自身の耳に届いた翼の音に対して一瞥すると、アイアースに対して背を向ける。
「鍛えることと休むことは同等の意味がある。大人しくしていろ。小僧」
そう言って歩き始めたイレーネは、もうアイアースのことを見ることはなかった。
変わってアイアースの元には、黒色の翼を羽ばたかせたフェルミナがふわりと降り立ち、冷たいタオルをおずおずと差し出してくる。
「で、殿下……。お疲れ様でした」
「お、おう。ありがとう」
「身体……傷だらけです」
「――――ふう。痛いだけだから問題ないよ」
心配そうな視線を向けてくるフェルミナに対し、血と汗を拭ったアイアースは、服の埃を払いながら立ち上がる。傷自体はすぐに治療すれば消えてしまうようなモノばかりである。
「さてと……、出発まで時間があるし、一緒に水浴びでもするか?」
「ええっ!? い、いえ、いいですうーーーーっ!!」
何の気なしにそう言ったアイアースに対し、顔を真っ赤にしたフェルミナは慌てて六枚の翼を羽ばたかせて空へと跳び上がってしまった。
「何をやっとるんだあのガキどもは?」
「いや~、さすが飛天魔だけあって成長が早いな」
「殿下が鈍感って言うのが正しい気がするけどね~」
そんな二人の様子を見ていたイレーネとハイン、ミュウの三人であったが、子どもの戯れの興味のないイレーネはともかく、ハインとミュウの二人はある意味盛大な勘違いをしていた。
アイアースにとって、フェルミナは奴隷としてしまった後ろめたい相手であり、身内の女の子のような印象がどうしても先に立つ。そのために、今回は不器用ながらの気遣いをしたのだったが、それは叶うことはなかった。
ついでに言うと、飛天魔族は入浴の習慣はあるが、水浴びの習慣はない。
ハインもミュウも大人びてはいるが、いまだに10代の青年と少女であり、他民族の文化に関してはそれほど深い造形があるわけではなかったのであった。
「う……、痛っ!!」
「そうです、そんな感じで。早めにやっておけば傷は残りづらくなりますよ」
イレーネとの対峙を終え、衣服を整えると再び船上の人となる。この辺りまで来るとセレス湖にはシルヴェリア川の流れが入りこみ、透明に近かった水もやや濁りを帯び始めている。
アイアースは船に身体を預けながら、身体に刻まれた傷を縫合していく。最低限の治癒は魔法によるものが多いが、こうしておけばハインの言の通り、傷も消えやすくなる。
とはいえ、麻酔の類があるわけでもないため身体に異質な何かが入りこむ不快な感覚とむず痒い痛みを感じるのは仕方がなかったが。
「殿下」
「なんだ?」
そんな様子のアイアースに対し、イレーネが慣れない口調で話しかけてくる。
同僚達の前では、さすがに不遜めいた物言いはしないようにしている様子であるが、無理をしているのは丸わかりであり、他の四人のキーリアとミュウが苦笑いを必死に抑えようとしている。
「今回の船旅を終えれば、あとは長き陸路となりまする。ですが、いささかの問題がある様子」
「というと?」
「船の最終到達地はここ、ブハル港であります。ですが、ここはセラス湖西部水運の要衝であり、叛徒ども手も回っているでしょう。そのため、一つ先にて船を下り、タシケントからカガランダへと通じる街道を抜ける予定でした」
「いわゆるオアシスの道ってヤツですね」
地図を広げたイレーネが現在地と目的地を次々に指差し、目的の街道をなぞる。ハインがそれに合わせて、口を挟む。
オアシスの道。即ち、大陸行路中央道の別称である。
東方の大国清華帝国と現パルティノン本国を結ぶ三本の陸路。セラス湖北岸のステップ地帯を通る北路は通称草原の道。セラス湖南岸からナルディア半島へとのびる南路は通称石の道と呼ばれ、パルティノンの膨張と経済を支えてきた道である。
ハインの言うオアシスの道は、セラス湖東岸を走る行路であり、ブハルから東方最前線拠点となっているトルコンを結ぶ横路と北東最前線拠点たるオルクスとナルディア半島への玄関口たるハイデラバードを結ぶ縦路。そして、ふたつの交錯するフェルガリから中東軍管区政庁が置かれるエクバラーナを結ぶ斜路からなる。
乾燥した荒地や砂漠が多く存在し、人々は豊富な地下水や大河川によってもたらされるオアシスを中心に都市を造り、必然的に行路が整備されてきた地方であり、移動可能な場所も限定されている。
それ故に、今回のような逃避行にあっても主要街道を通る必要があったのだ。
そして、それらの街道は宗主国であるパルティノンの直轄下にあり、周辺国が一方的な支配下に置くことは厳しく禁止されていた。
「今となっては、帝国の支配など紙切れ同然。しかし、この半年の間は過去の慣習が生きており、周辺国や地方軍管区が街道の私物化への動きは見られませんでした」
「だけど、動き始めた。ということか?」
「私物化などでは生ぬるいかも知れませぬ」
「なに?」
アイアースを見つめるイレーネの表情は、いつになく真剣なモノであった。
反乱による皇帝及び皇族、要人の死から半年。
いまだに帝都での血の宴は終わりを見ることはない。しかし、帝都から離れた地方においては、衛星国が次は我が身とばかりに動き始めていたのである。
しかし、かつての宗主国を丸ごと乗っ取る形となった共和政権。その底力自体は帝国そのものを受け継いでおり、ただ単に自立を試みるだけでは叩きつぶされることは火を見るよりも明らか。
民衆の力が皇帝を殺めた事実が自身の首を寒くしたとはいえ、大海原に浮かぶ木片のごとき運命に抗う覚悟がある人間は多くはなかった。
だが、それも間もなく終わろうとしていたのである。
◇◆◇
大陸行路の要衝サマルカルド。
オアシス地域ほぼ中央に位置し、ここに勃興した歴代王朝の首都が置かれた歴史アル大都市である。
パルティノン帝国との抗争に敗れ、服属したといえど、その勢力は帝国最大を誇り、かくてはオアシス地域全土を支配した大帝国フォルシム。
敗北により、帝政は廃され王国となった今でも、オアシス国家群の盟主たる地位にあり、街道の整備や灌漑農業などの輸出地として名を馳せる。
さらには、皇后や宰相をはじめとする数多くの要人を送り出す人材の宝庫でもあるこの国家であっても、反乱と皇帝の自決の衝撃は決して小さなモノではなかった。
そして、それだけの強国が、パルティノン無き今、大陸の覇者たる地位を夢見ることは何ら不思議ではなく、今この国の女王たる地位にある女性にとっても、今回の戦いは単なる野心の帰結だけではなかったのである。
夜の帳が降りると周囲の気温は一気に低下し、夜会を楽しむ人々の肌を冷やした。
荒れ地特有の気候であるこの日であったが、ここサマルカルドの一画は、それをモノともせぬ熱気に包まれていた。
帝国の崩壊を信じることのできぬまま無為の日々を過ごした人々にとって、新たな戦いと未来への船出は格別の味となっていたのである。
そして、その熱気の中心に一人の女性が進み出る。
褐色の肌と起伏の富んだ豊満な体つき。獅子のような耳と尾。
そして、女性であっても青年男性を凌駕する長身もあいまって、その姿は剛健たる美丈夫にも見える。
彼女の名は、テルノア・ハトゥン・フェルシムア。幼い息子に代わり、夫の後を引き継ぐフォルシムの女王である。
「諸君。今宵は我が呼びかけに答えていただいたこと、真に感謝致す」
テルノアの声に会場に集まった者達が一斉に口を閉ざし、彼女に視線を向ける。
美丈夫のようであっても、その声は優美さを兼ね備えており、異種族である彼女が一国の王妃の地位を得たことは万人が納得するであろう。それだけの、優美さ、気品を彼女は兼ね備えていた。
「かつて我らがオアシスの民は、パルティノンとの戦い敗れ、その軍門に下った。それは屈辱であるとともに、大陸の制覇という誇りも我らには与えてくれた。彼らは邪悪な侵略者ではなく、尊敬すべき好敵手であったからだ。…………だが、そんな宿敵も、今はない」
テルノアの声に人々は沈痛の表情を浮かべる。
「そして、私は諸君等に謝らねばならぬことがある。…………先の乱によって、反逆者どもの凶刃に倒れた第三皇妃ラメイア・フィラ・ベレロは、私の実の妹である。この事実を今まで黙秘していたことを、まずは謝罪したい」
テルノアの告白に、静まりかえった人々が再びざわめきはじめる。
たしかに、彼女はオアシスの民ではなく、元々は国王のマムークであったと言われている。
「宿敵たる帝国を大義なき戦にて倒し、我が妹をはじめとする多くの人間達を辱めた反逆者どもを私は許すことはできぬ。だが、私怨にて戦に臨む私に賛同できぬモノは、ここから立ち去ってかまわぬ。――――共に歩む者達は、その命を…………私に預けて欲しい」
そう言って、人々を見まわすテルノア。
どよめきに包まれる広場であるが、その場を後にするモノは一人もいない。
一つの都市から燃え上がりはじめた混乱の炎。
その炎は、今、更なる燃え上がりを見せようとしていた。
昨日は更新ができずに大変申し訳ありませんでした。




