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第4話 双星の寄り添う先

 早朝の澄んだ空気を自身に受け入れると、腰に差した剣に手を伸ばした。


 それを正眼に構え、一点を注視する。森の中の一画である。鳥のさえずりや木々の揺れる音は次第にやみ、周囲は静寂に包まれていく。


 一瞬、目を閉ざす。静謐。目を見開く。

 剣を横に凪ぐと光条が剣の動きを追う。手首を返しながら振り下ろし、再び横に凪ぐ。

 剣戟に倣うように足が動く。剣を振るう空白の中に、光条だけが無数に発生していく。

 木。構わず横に凪ぐ。

 自重に勝てずに倒れ込んでくる木を止まることなく薙ぎ払い続ける。

 光条。静謐。再び目を閉じ、開いた時には、周囲は手頃な大きさの木片に覆われていた。



「食事は済んだのか? 小僧」


「ああ。……あの時以来だけど、すごいものだな」



 背後の気配に、イレーネは振り向くことなく口を開く。


 相手は、小僧などと呼べば即座に首が飛ぶような身分で“あった”少年である。とはいえ、相対する際に敬称などで呼ぶ気にもなれなかった。



「興味深げに見つめているが……何の用だ?」



 いまだ振り返ることなく、イレーネは言葉を続ける。

 はじめは、自分に対して震え上がっていた幼児であったが、今はどこか異質な感じを受ける。

 皇統に属する者が持つ一種のカリスマ性だと言うのは簡単かも知れないが、あいにくとそんな安っぽい言葉に乗っかるほどおめでたくはない。



「強さに対する羨望を抱く。私の立場だったら、不思議じゃないんじゃないか?」


「戦を知らぬ。いや、戦のある世界すらも知らぬ身で何をほざく」



 再び口を開いた少年の声に、やや剣呑さを含ませた言を返す。

 わずかに気配が動いたように感じるが、声色に対する萎縮というものではない。どちらかと言えば、看破による動揺の類であった。



「戦というのは、嫌と言うほど知ったつもりだよ」


「これからは知る必要もなくなる」


「流亡の果ては、平穏な暮らしを?」


「平穏かどうかは約束できん。だが、運良く拾った命。すべてを忘れて、一人の人間として生きてきゃあいいだけの話だ。そのくらいのことなら、我々も手助けできる」



 少年の言は、これから向かう先のことが予想できているのであろう。だが、その地はあいにくと平穏と呼べるものではない。

 だが、宮廷内での暗闘に比べれば遙かにマシなようにイレーネには思えた。生きるための戦いと欲望を求める戦は違う。



「戦うことを求めてどうする? 小娘の首でもとるつもりか? それとも、親の敵を討つのか?」



 あらためて少年の顔へと視線を向ける。表情に変化はない。いや、変化がないように取り繕っている。


 だが、眼はしっかりしている。


 不思議な眼である。あの、地獄のような状況を経験しながら、平穏のなんたるかを知っているかのような眼。皇族という何不自由のないような地位にあったとしても、それは内情を知らぬものが抱く幻想であり、生まれたその時から彼らに平穏などと言うモノは存在しない。

 とはいえ、社会の底辺にまで墜とされた人間が知る絶望の類を知る事のない人間達である。自分とは違う。と言う思いが、イレーネの心の奥底には存在している。

 そして、その平穏を感じさせる眼は、イレーネに忌ま忌ましさを感じさせる原因でもあった。

 生きるため、目の前の難事をこなしていくうちに得た地位。しかし、それは永遠なる隷属の始まりであった。



「やめておけ。天の巫女……シヴィラの力は圧倒的だ。リアネイア、ラメイア、アルティリア。帝国史上でも類を見ない女傑達が束になっても適わなかったのだ。皇帝と皇后の仇討ちにしても同じこと。どれほどの志を持ったところで、愚かな民衆の前には無力だった」



 そこまで言い、一旦言葉を切ったイレーネは、衣服に手をかける。素肌が露わになると、わずかながらに少年が狼狽したようにも見える。



「お前は私の強さに羨望を抱いたと言う。しかし、私はシヴィラの前にはなんの抵抗も出来なかった。全身に刻印片を埋め込み、人たる身で無くなってもだ。この身体に刻まれた傷を見てみろ。これをはじめとするありとあらゆる幸運が私の命を繋ぎ止めた」



 体を切り裂かれ、全身に刻印を埋め込まれた肉体。


 中心にある裂けあとから蜘蛛の巣状に全身を覆い、ところどころから光が漏れている。

 鼓動に合わせ、埋め込まれた刻印のかけらが脈動しているのだ。

 あの戦いのとき、左腕を飛ばされ、全身に刃を突き立てられたイレーネ。その衝撃によって、意識が奪われるのは容易であった。

 イレーネは再び衣服を身につける。ちょうど陽が隠れ、冷たい風が吹き付けはじめたところである。


 一雨来そうであり、それは傷に染みる。



「すべてを忘れて、一人の人間として生きていけばいい。と言ったが、そんなことは出来るわけがない」



 イレーネが仕度を調えるのを待ち、少年が口を開く。



「俺は過去に、自らの過ちで大切な者達との別離を余儀なくされた。だが、母上も、父上も姉上達も、過去に縛られる俺を一人の家族として受け入れてくれた。端から見れば、気味が悪かったはずだ。幼子のクセに大人のような振る舞いを見せ、年相応の態度を見せることはない。俺もそこまで器用じゃなかったからな」



 迷信などがまだまだ信じられる時代でもある。時と場合によっては、殺されるか放逐され存在しなかったことにされていた可能性もある。



「そして、『アイアース・ヴァン・ロクリス』と言う名は消えても、この身に流れる血までは消えようがない」



 過ち。それが何かは分からないし、知る気にもならない。だが、今目の前にいる少年が、少年ではない何か。だと言うことは、イレーネにも予想がつく。

 彼女自身、アイアースに対しては得体の知れぬ何かを感じ取っていたのである。

 そもそも、あの時にリアネイアが自分を送ることで、アイアースを囮にしたこと。継承順位の優位者を救うためとはいえ、あの女もまた、目の前の子どもの内部に潜む何かを感じ取っていたのだろうと今になって思う。



「運命などという言葉を口にする気は無い。だが、私は前に進む以外にない。あの時のことを、失った人達のことを忘れて一人の人間として生きていけるほど私は強くない」


「…………強くはない。か」



 そう言うと、イレーネはアイアースに対して向き直る。

 思いの類やアイアースの正体を知ろうという気にはならない。だが、一つ分かったことがあった。



『強くなりたい』



 その思いだけは、否定できるものでない。



「構えな、小僧。…………私からすべてを盗んで見せろ」



 緩やかに降り始めた雨は、二人の姿をゆっくりと濡らしていく。まるで、今後の人生を暗示するかのように。


 ◇◆◇◆◇



「以上であります。猊下、御裁可を」


「すべて任せます」


 玉座に身を預ける少女は、その感情を排した表情を崩すことなく男達の言に頷く。


 革命から半年。


 実権を握った叛徒達は、巫女を頂点とし、元老と呼ばれる執政官によって国政を動かしはじめていた。

 とはいえ、大陸の過半を治める大帝国の版図はあまりに広大であり、衛星国の不穏な動きを前に議員の類を選ぶ余裕などはない。

 そのため、反乱を主導した中流階層のリーダー達が、元老となって国政を主導しているのであった。



「ロジェ、もう終わり?」


「そのようで」



 元老の退出を見送った巫女は、気だるそうな態度で側近に対して口を開くと、さっさと玉座から降りて私室へと戻っていく。

 彼女に与えられた職務は、元老等の報告に頷くこと。それだけであった。


 主が立ち去った広間から、一人また一人と立ち去っていく。

 差し込んだ夕日に照らされた玉座は、新たな主の不在を前に静かに沈黙していた。

 巫女を見送ったイサキオスは、つい半年ほど前まで自らが追い求めた場所を同じように沈黙したまま見つめていた。



「ここにおりましたか。陛下」


「む、グネヴィアか……」



 イサキオスは玉座を見つめたまま、背後に歩み寄る女の声に応える。


 女の名はグネヴィア・ロサン。


 帝国近衛軍『キーリア』元№8であり、今もなおその証である白を基調とした装束に身を包んでいる。


 昨年の継承戦争の際、反乱勢力の要人を最も多く討ち果たしたことで一桁№を得た女であったが、彼女の場合はその武勇以外にも映える点がある。


 リアネイアをはじめとする女性キーリアは、容姿の美しい者が多い。近衛軍という適性上、容姿も選定の条件に当てはまること為であるのだが、このグネヴィアに関しては美しいという言葉で済ませられるモノではなかった。


 この世のモノとは思えないほど神々しい官能美の持ち主であり、その点は魔女と呼ばれたメルティリアよりも遙かに魔性を身に宿している。

 奴隷上がりも居れば一勢力の姫君や王子もいるキーリアにあって、出自が不明であるのは珍しくもないが、それほどまでの美貌を誇った彼女がそれ以前に何をしていたのかは不明である。


 ただ、彼女を養女にし、キーリアにも推薦した中級貴族のロサン家は、その後一族すべてが病死や事故死によって死に絶えている。さらに言えば、当主は寝所にて事を終えた後に死亡したと見れている事実がある。

 誰が同衾していたのかという証拠はないし、戦場にあっては妖艶さよりも勇猛さが前面に出る彼女は、実力がすべてのキーリアの中では当たり前のように頭角を現していった。


 そして、今回の反乱にあっては、あっさりと叛徒側に寝返った。


 叛徒の拠点となった西部地方は彼女の任地があり、下位№のキーリア達が殺害されていたことが発覚したのはすべてが終わった後であった。

 彼女が、『皇帝の縛』と呼ばれるキーリアと皇帝の契約を如何にして抜けたのかは、定かではない。ただ、彼女を抑えるものは何もないという事実だけが残されている。



「陛下というのは、私に対する嫌味か?」


「ふふふ……、愚か者どもの想いを代弁してあげただけよ。皆、責任の押しつけ先としての皇帝の価値にようやく気付いたと見える」



 帝国の崩壊。同志達が“革命”と叫ぶそれの成功以来まもなく半年。帝都に降りそそぐ血の雨は一向に止む様子がなかった。


 帝国中枢を占めた人間達の殺戮を続ける革命政権。


 世間では、政体の形式から共和政権と呼んでいるようであったが、理想のみを掲げて政権を手にした彼らに、実際の政治はただの重みでしかない。

 血の雨に濡れることのみに専心し、新たな政体が動きを見せる様子はわずか。それも旧来の制度を改変することでしか動きがとれないというのが現状であった。


 加えて、それまでパルティノンに屈服していた衛星国群にも不穏な動きが見え始めている。皇帝という楔とキーリアという喉元に突き立てられた剣を同時に失い、精鋭揃いの国軍も皇帝を失ってから著しく精彩を欠き、鎮圧は期待出来そうもない。


 そんな状況下にあって、共和政権が選んだのは、恐怖による支配であった。


 反対者を次々と処刑台に送り、血の粛清を続ける日々。今となっては、帝政打倒の意義すらも忘却し、革命の炎に熱狂した民衆ですら、帝政の復活を期待する状況になっている。



「お前は楽しそうだな。まあ、血の染まる姿はよく似合っているが……。それで、なんのようだ?」



 イサキオスは、目の前で妖艶に微笑む女の姿に薄気味の悪さと淫靡な色を感じつつも、目的を尋ねる。好物たる血の海に沈んでいるこの魔女とも言える女が自分を訪ねてくることなど滅多にない。



「そろそろ、首を切り落とすのにも飽きましてね。そしたら、あの男達から連絡がありましたの……。『堕ちた』ようですわよ」


「ほう? あの強情な小娘がな……」


「ふふふ、絶望は与え続けるだけはダメなのですよ。それは死に向かってゆくだけ。絶望の中にわずかな希望を与えてやれば、人はそれを糧に生きてゆく」


「アイアースを逃がしたことが、今となっては功を奏したか」


「ええ。あの娘は、失ったと思っていた弟の存在のみを糧に生きている。しかし、それは彼らに付けいる隙を作っただけ……。いずれにしろ、陛下が帝位を辞してまで待ったものが、実現しますわね」


「ああ、心臓に悪い日々であったがな」


「あら? 以前にくらぶれば男前が上がったと思いますわよ?」


「ふん」



 グネヴィアの言に、イサキオスは忌々しげに顔を背ける。


 たしかに、ずんぐりと肥満していた身体は嘘のように引き締まり、数年ほど若返ったかのように体調も良い。



「まあ、閣下のお体の調子がよいのはけっこう。私も、一仕事を前に腹ごしらえをしたいところでしたので」


「ん? まだ何かあるのか?」


「はい……、ですが、それはいつもの場所にて…………」



 そう言いながら長剣から滴る血を指ですくったグネヴィアは、ゆっくりと口元へと運ぶ。政府要人の処刑にあたりその執行人を嬉々として引き受けた彼女は、弾き飛ばした首から吹き上がる血の雨を喜々としながら浴び続けている。

 そして、血をなめおえた彼女から、それまでの不気味な何かは消え失せ、濡れた目元からは妖艶な視線が現れ始める。



「…………今、言え。後になっては、正気で居られなくなりそうだ」


「ふふふ。――――件の獲物が、ようやく網に掛かりましたわ」


「――――っ!? そうか」


「あら? それだけですの?」



 頭を振るってグネヴィアの手管から離れたイサキオスであったが、不敵に笑うグネヴィアの言に、思わず声を上ずらせる。しかし、グネヴィアからすると物足りない反応であるようであった。



「目的のために私を生かしたお前が何を言うのだ? …………アイアース以外は必ず仕留めろ。放っておけばやっかいそうな小僧だが、一人では何もできまい」


「ふふふ、やはり男前が上がりましたわよ」



 そう言ったグネヴィアの表情は、先ほどまでの魔女めいた淫靡なものから、戦を愉しむ狂戦士の類へと代わっていた。



「ところで陛下」


「なんだ? まだ、何かあるのか?」



 私室へと戻り駆けたイサキオスの背中に、グネヴィアは再び声をかける。



「あの噂は本当なのですの?」


「噂?」


「ええ。フェスティア・シィス・パルティヌスは、皇帝の血を継いではいない。という噂ですわ」



 なめるような笑みを浮かべてそう言ったグネヴィアに対し、イサキオスの表情が凍り付く。



「うふふふ…………、答えは、ベッドにてお聞かせ願えますか? 陛下……」



 腕を絡め、鼻筋をゆっくりとなめたグネヴィアは、いまだに硬直したままのイサキオスに対して濡れた視線を向けた。


 

 ◇◆◇



 蝋燭の火がわずかに照らす室内に相対する少女達が居た。


 一人は腰から下まで伸びた白髪に近い銀色の髪。全身を白地に青の装飾を施した衣服、そして、感情を一切排した人形のような表情に生える常緑樹のような明るみを帯びた緑色の瞳を持つ少女。

 もう一人は、黒みがかった銀髪に、機能性を優先した黒地の衣服を纏い、澄んだ海のような深い青色の瞳が印象的である。

 しかし、彼女もまた、人形のように感情が欠落した表情を浮かべている。



「天は言います。天命を与えし者達は、己が劣情に抗うこと叶わず、血に溺れているに過ぎぬと」



 白地の衣装に身を包んだ少女がゆっくりと口を開く。



「天は命じます。天命を与えし者達を罰せよと。そして、新たなる者に天命を与えよと」



 闇に静まりかえった場に、少女の無機質な声だけが響き渡る。


 だが、蝋燭の火の揺らめきは、二人の少女の美しさをより神秘的な何かによって際立たせているようにも見え、その場にいる者達はただただ息を飲んで少女の言に耳を傾けるしかなかった。



「フェスティア・シィス・パルティヌス。旧秩序の体現者にして、唯一その血を受け継ぐ者よ。天命を預かり、旧秩序を抱き、この地に新たなる秩を…………」



 白の少女の言を聞き終えると、黒の少女は段から降りた後、ゆっくりと膝を折る。



「謹んで…………お受け致しまする……」



 闇の中に静かに轟く少女フェスティアの声。


 それを受け、闇の中に埋もれていた者達が一斉に立ち上がり、手にした武器を虚空へと掲げる。

 雲間から差し込んだ光が、それを輝かせていた。



(光…………私に残された光は……一つだけ)



 闇間に蠢く光の粒達に視線を向けたフェスティアは、無意識のうちにそんなことを考えながら空を見上げる。

 満月の夜であり、空の星々はその光の前に姿を隠す。

 しかし、その中にあっても、光と灯す星々の姿があった。

 フェスティアの視線と交錯する先にある6つの星。産まれたときより、自分達の守護星として与えられた星々の中で、自分の傍らにてもっとも強く輝く星。

 それを見つめると、今度は自分の意志で、無音の言葉としてその守護星の主の名を呟いた。


 ――――アイアース


 無音の言葉を受け、その星はさらに激しく輝いたように思えた。

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