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第1話 平穏なるひととき

 赤く染まっていない大地を見るのは久々のような気がした。


 窓辺に立ち、蒼く澄んだ湖へと目を向けたアイアースは、いまだに夢を見ているような気分のままそう思う。

 着替えを終えて待っていれば、母リアネイアがやって来る。食堂や学習室に行けば、兄弟やキーリア、近衛兵達が顔を揃え、執務室や書斎、練兵場では父や皇妃達が大臣や官吏、軍吏達とともに職務に就いている。

 皇族という立場上、家族と過ごす時間は同い年の少年達に比べれば少なかったが、それでも、家庭の暖かみというものは十分に存在していた。

 しかし、今は自分を迎えてくれる家族はいない。思えば、自分が一度死んだ時に、母親に与えたのも同様の喪失感なのであろうともアイアースは思った。



「おはようございます。殿下、食事の用意が出来たそうですよ」


「おはよう。今行く」



 ノックとともに控えめな少女の声が耳に届く。


 答えたアイアースが部屋を出ると、腰まで伸ばした銀色の髪を柔らかそうに揺らして頭を下げた光の飛天魔。フェルミナ・ツェン・フォートが柔らかな笑みを浮かべてくる。



「……よく眠れましたか?」


「ああ。…………久しぶりにな」


「そうですか……よかったです」



 控えめな問い掛けに短く答えると、階段へと繋がる廊下を歩く。


 吹き抜けになっている階段からは、蒼く澄んだ空と朝日に照らされた湖に挟まれた街並みが目に入る。

 絶景と呼べる景色であったが、そんな街並みを練り歩く人々は、早朝にもかかわらずどこか慌てふためいているように思えた。

 

 帝国本国の水瓶セレス湖。海洋と比肩する総面積を誇る世界最大の湖であり、内陸部まで続く巨大な水運が栄えている。また、湖の出口に当たるヴォルパロス海峡は帝都パルティーヌポリス後背を支える帝国最重要拠点であり、そこからエルフォス海を抜け、アドリュス、メデュラネス海へと続く航路は、別名「黄金航路」と呼ばれる巨大な水・海運資本が栄え、帝国経済のほぼすべてを握っていると言っても過言ではない。

 また、沿岸全域は温暖な気候であり、北岸のクレリア半島や東岸のソグディアヌ地方などは観光産業でも賑わいを見せる一大商業圏である。

 そして、クレリア半島南端に位置するセルヴァストポリ。オデッサ、ヴェルゴ、ウラルス、アスターニャの長大なる北部絶対防線の後背拠点であり、その司令部が置かれているセルヴァスト離宮が屹立している。


 そんな重要拠点であり、港を意味する『ポリ』の名を背するセレス湖最大の港湾都市であるこの地もまた、帝国諸都市と同様に混乱の極みにあった。

 反乱軍による帝都の攻略と皇帝、皇后の処刑。そして、それを待っていたかのように挙兵する衛星国。続発する賊徒。

 継承争いやその後の飢饉に伴う社会不安は一気に爆発し、この重要都市であっても暴動や賊徒の類が発生しはじめていた。


 それ故に、帝都を脱出した生き残りの皇子が入城したという事実も今のところは広がることなく、アイアース達は短い休息をとることが出来ていた。


 もっとも、アイアースが入城した離宮は離宮といっても、セルヴァスト離宮そのものではなく、繁華街の一角に立つ『皇帝の』離宮である。


 宰相も近衛総司令も居ない今、ここを知るのは一部のキーリアだけ。

 身体を休めるぐらいの時間は稼げそうでもあった。



「……そうか、ヒルルク殿もファティナ様も」


「はっ。共和政府への服属要求を断り、自裁して果てられたとのことです」



 フェルミナとともに食堂へ行くとイレーネをはじめとするキーリアやミュウ達が、派手に着飾った遊女と男娼からの報告を受けていた。


 今、アイアース達が居る食堂は普段は宿屋のそれとして機能しているため、遊女の姿はどこか浮いているようにも見える。しかし、その立ち振る舞いが遊女のそれとはかけ離れているというなんとも不思議な光景であった。



「侍従長以下の皇宮官吏も同様です」


「ふんっ、たくましい忠誠心だ」



 言葉とは裏腹にイレーネの表情には、目に見えた陰りが見て取れる。


 口が悪い無礼な女であるが、他人の死を冒涜するほどの下衆はない。最後の言い方も、悪意のこもったものではなかった。



「それで? 血に飢えている連中はこの先どうするつもりなのだ? イサキオスを帝位につけて帝国を牛耳るのか?」


「はっ。当初は帝政廃止を主張する共和派と帝政の存続を主張する皇道派に割れておりましたが、イサキオスは帝政の廃止支持。自身は共和政府の一員となることを宣言したようです」


「そのため、皇道派は勢いを失い、共和派による独裁が一層強化された向きがあるように思えます。しかし、皇帝の処刑から数日しか経っておらぬ状況。帝都に雪崩れ込んだ民衆の処理などにも手を焼いている様子です」



 アイアースは処刑台を取り囲んで、熱狂に酔った民衆の姿を思い出す。


 普段は血を見ることすらも恐れる一般民衆が、斬首された肉体から吹き出る血の雨に酔いしれる。あの時は感覚が麻痺していたが、今思い返してみてもおぞましい。としか思えない状況であった。



「あの忌々しい小娘はどうしたんだ? 馬鹿どもはヤツを御旗にして立ったのであろう?」


「――――っ!?」



 小娘。という、イレーネの言に、アイアースは知らずに胸がわき上がるような感覚を覚える。身体の芯が燃え滾るような。そんな感覚である。



「はあ……、我々もスラエヴォの状況を知らぬ故に判断は出来かねますが、件の少女やそれに付き従う信徒兵の類は特段の動きを見せてはおらぬようです。宮城に君臨し、派閥間の争いを傍観しているかのようで……」


「…………何を考えていやがるんだ??」



 男娼の言にハインも眉を潜めならが口を開く。


 帝政の廃止に動く以上、巫女を頂点とした政体の出現が予想されたが、優勢なのは民によって代表が選ばれる共和政体。


 ならば、巫女に命を捧げる信徒達はなんのために血を流したのか。



「閣下、殿下とともに立たれるのならば、我々も……っ!!」


「そんな覚悟はいらん。ここが捕捉される方が痛手だ。お前さん達が期待している時には、ここはのど元に打ち込んだ剣になるんだしな」



 遊女達の言をあっさりと否定するイレーネであったが、湖を挟んで帝都が目の前。さらに、周囲は河川が蜘蛛の巣のように取り囲む要害であるこの地。水運を抑え、糧道さえ確保すれば、その地の利は巨大であった。


 当然、政権が安定すれば叛徒達もこの地を制圧しに来ることは十分に考えられる。



「今は、少しでも帝都から離れるべきだろう。手段は問わんから、脱出の手筈を急いでくれ」


「はっ!!」



 そう言って、遊女達は駆けだしていく。言動を見ても、とても遊女や男娼には見えないが、そうでなければ皇帝の離宮を任されたりはしないのであろう。



「……殿下、起きましたか」


「ああ、おはよう」


「おはよう……ございます」


「おはようッスっ!!」



 それまでアイアースをあえて無視していた様子のイレーネであったが、さすがに無視を続けるわけにはいかなくなったのか、ぎこちなさげに声をかけてくる。

 にこやかな笑顔を浮かべて挨拶をしてくるハインとは雲泥の差であり、案の定元気のよい声を上げたハインに苦々しげな視線を向けている。



「食事のご用意は出来ております。……その後のことは、今の者達次第となります故、しばしのご辛抱を」


「ああ」



 そこまで言うと、イレーネは食堂から出て行く。ともに食事を取るつもりはないし、馴れ合うつもりもないようだ。



「なんだか、嫌われてしまったようだな」


「うーん、そうですと言えばそうなんですが……」



 アイアースの言に、ハインが苦笑とも煩悶ともとれる表情を浮かべたままそう応える。それが気になったアイアースであったが、食欲には勝てずに気にすることなく食事にありつくことにした。


 野菜を中心とした献立で、しばらく獄中にあったアイアースにとっては、比較的食べやすい食事である。



「はぁ…………。まともなごはんが食べられるって幸せなことだったのね~」



 ちょうど、対座するミュウが、ほんわかした笑みを浮かべながらそう言うと、アイアースも思い切り頷く。



「ああ。本当にそうだよな……」


「あ、あの、えっと、その~」


「あ、すまんすまん。変な意味じゃあないんだ。こうして、一緒に食べる連中もいることだしな」


「……殿下に連れられて食事をしたとき、本当に救われた気がしました」



 アイアースの言に、戸惑いはじめたミュウであったが、なんとか取り繕おうとしたアイアースの努力もフェルミナの控えめな言葉に打ち砕かれる。



「フェスティア様も……近衛兵の皆様も……」


「そうだね。まあ、嬢ちゃん。みんなの分まで飯を楽しむってのも立派な供養だ。さあさあ、笑った笑った」


 さらに目尻に涙を浮かべるフェルミナに対し、ハインが元気な声で微笑む。


 さすがと言うべきか、場の空気を読むのが上手く。しんみりとした空気を打ち消そうとしてくれている。



「ありがとうな。ハイン」


「いえいえ。飯は楽しく食うもんですよ。せっかくのもんがまずくなるし」


「そうよね~。ところで、殿下」


「なんだ?」


「これのことなんだけど~」



 そう言って、ミュウは胸元から赤く輝く球体を取り出す。



「なんつうところから出してんだよっ!!」


「え~? 収まりがいいんだもん。――――それより、これ、どうします?」


「『業火の刻印』か……。どうすると言われても」



 シュネシスに連れられてオークションへと出向いた日。たまたま、手に入れた業物である。



「あのさ、皇后様が亡くなられたとき……、アレをやったのは殿下よね?」



 口を濁すアイアースに対し、ミュウは普段のなよなよとした口調ではなく、はじめのような妖艶さを交えた口調で問い掛ける。

 アレ。とは、恐らくメルティリアに対する弔砲代わりの法術のことであろう。



「ああ……。ちょっと、気持ちを抑えられなくて」


「そう……。正直ね、片手間であんなことが出来る人間なんて両手の指で十分なくらいしかいないのよ。どこにかは分かるわよね?」


「帝国?」


「世界中よ」



 首を傾げながらそう応えたアイアースに対し、ミュウはピシャリと答える。


 しかし、世界中と言われても正直ピンとこない。


 あの時は、感情の高ぶりが抑えられずに遊び感覚でやってしまったことだったのだ。



「私は怖いわよ。あなたが」



 そう言って、ミュウは言葉を切る。



「でもね、この刻印を宿せれば、それだけの力を制御できるって証。だったら、あの時みたいなことにはならないと思うの」


「でも、アレは遊びだぞ?」


「遊びで一つの都市を消し飛ばされちゃ敵わないわ」


「う…………」


「ただ、皇帝陛下や皇后陛下、皇妃様達の仇を討つというならば、これ以上の才能はないわ。私は別に人道主義者じゃないし、仇討ちは何も産まない。なんてきれいごとを言うつもりはないから協力もする。刻印師として純粋に興味もあるし」



 これまでにないほど真剣な表情のミュウにアイアースは戸惑いながらも、彼女の言に頷く。


 たしかに、ゼノスやリアネイアの仇を討つには、相応の力がいる。


 叛徒兵なら今でも倒せるが、シヴィラやロジェをはじめとした反乱側の中枢には手も足も出ないというのが本音である。


 とはいえ、そんなにうまい話があるとも、素直に信じることはできなかった。



「だが、宿そうとして刻印に飲み込まれるのはごめんだな。今となっては、簡単に死ねるわけじゃないし」


「…………そうね。でも、選択肢の一つとして考えておいてよ。私も乗りかかった船だし、付き合えるところまでは付き合うつもりだから」


「まあ、俺としては最後まで付き合って欲しいけどな」


「えっ?」



 そう言ったアイアースの言に、ミュウが頬を染めながら固まる。



「あ? なんで驚くんだよ。母上に自分から売り込んだんだろ? 俺を一人前にする前にいなくなられちゃ困る」


「そ、そうね。そうよね~」



 よく分からないまま、アイアースは眉をしかめるが、ミュウは慌てて笑みを浮かべるだけであった。



「いつもの調子に戻ったッスね」


「訳分からん」



 そんな様子をハインとその他のキーリア達は、あきれながら見つめるのであった。

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