第15話 葬送の地へ
はじめて抱いた我が子の身体は、とても小さく、とても暖かいモノだった。
自身の胸元に伝わるほのかな重みと耳に届く産声。それらは、大いなる喜びとほんの僅かな不安に胸が支配されていく中でも、生涯消えること無きモノであるだろう。
「リア。よくやったぞ」
『梨亜子さん。おめでとうございます』
眼前にて笑みを浮かべるゼノスやメルティリア、アルティリア、ラメイアと言った義姉妹達の姿が目に映る。
そしてそれは、かつて。否、幼き日に夢見た異なる世界の姿と重なり続ける。
皇子とキーリアの衣装に身を包んだ彼らは、夢の中では、形式張った礼装? の類に身を包み、眼前の彼らとは異なって、覇気の一つも見せぬ腑抜けの姿でこちらを見つめてくるのだ。
これらは、幼き時より、見続けた夢の姿。そして、その夢がもたらす記憶は、種族の皇女として生を受けた自身を神格化させるには十分な要素であった。
それを嫌い、武者修行と称して種族の元を離れ、旅先にて出会った人々。それは、件の夢の中で出会った者達と重なり合い、その不気味な違和感は、時として激しい破壊の衝動を見に引き起こした。
生まれから、大いなる力を得ていた自身にとって、不快な違和感は破壊対象にしかならなかったのだ。
だが、その夢の中にあってもなお、否定する事の出来なかったモノ。
それは、今と同じように腕に抱いた我が子の姿。母子として過ごした日々は、それでも平穏と呼べる生活であったと思う。
だが、そんな平穏もあっさりと腕の中からこぼれていった。
突如としてもたらされた急報。暗がりの中に寝かされた我が子の姿に、夢とは思えぬほどの悲しみと空虚感に支配されたことは未だに覚えている。
そんな記憶が溢れる中、生まれてきた子は健やかに育ち、皇妃としての立場も含めながら、母親として出来ることはしてきた。
そんなある日、自身の愛馬に騎乗した我が子が、騎乗中に転落する事故に見舞われる。
意志をかわすことの出来る愛馬である。だが、その時は、何が起こったのか、彼女にも分からぬ事であったという。
そんな時、甦ってきた記憶。突如として、この手からこぼれていった我が子の姿が、倒れ伏したその姿に重なり、眼前のすべてが暗がりに包まれていくように思えていた。
何より、その倒れるわが子の姿。
そして……。
「母上……」
今も、涙をこぼしながら自身を見下ろしてくる男の姿が重なり合っていたのである。
そして、気付いた一つの事実。
自身を苦しめた夢は決して夢ではなく、自身が経験した一つの生であり、実際に起こった悲劇の一つであったのだ。
それに気づき、奇跡的に目を覚ました我が子が、どこか大人びた、あの目の前から消えて行ってしまった頃のような雰囲気を持ち始めたことが、自身の思いをさらに強くしていく。
“もう二度と、この子を手放しはしない”
そんな思いを抱きながら、奇しくも濃くなりつつある国難の気配に挑み、やがて起こってしまった破綻。
その際、アルティリアとラメイアは、自分が行くべきは愛する男の元であると言っていた。
ゼノスが最後に側にいたいのは自分であると。
おそらく、彼女達にとっては、最愛のモノは夫ではなく息子達であったのだと思う。そうでなくとも、自身は幼き頃からゼノスには懐いていた。そして、当然の如く愛する夫の側にもいたいことは事実。
だが、自身が目指したのは、夫ではなく息子の元であった。
幸いにして、夫と息子はともにおり、妻として、母として、それ以上に皇妃として、軍の頂点に立つ人間としての過ちを犯すことはなかった。
しかし、国難の場にあって、自分は国家よりもこの子とを優先した。所詮、自分は皇妃ではなく、女でしかなかったのだと思うし、それを恥じるつもりはない。
あの時、守ることを選択した息子は、今目の前にて立派に成長し、こうして自身を救ってくれているのだ。
そう思いつつ、腕を上げ、息子、アイアースの頬を撫でる。
視界は霞み、意識は遠退きはじめている。だが、目に見えずとも彼がどこにいるかなどは分かる。
そして、その手が力強く握られる。大きな、それでいて乗り越えてきた苦労がうかがい知れる強く熱い手。
「ごめんなさいね。アイアース」
「母上? 何を、おっしゃるのですか?」
「ずっと、側にいてあげられなくて……。一人、戦い続けていたのですね」
自身がシヴィラに敗れ、永遠の眠りについたその時以来、アイアースは一人戦いを続けていたのであろうとその手が、そして、彼の身に宿る大いなる力の存在がそれを告げている。
自分を自分の手で守るしかない。それが、幼き彼にとって取るべき唯一の手段であったのだろう。
「いえ。母上は、私とともにあってくれました。ともに無き時も、姉上を守り続けてくださいました」
「ともに?」
「この剣は、母上が残していかれた剣であります。共に戦い、ともに敗れ去り、ともに勝利を歩んできた時も、母上はいつもそばあってくれました」
握られた手に力がこめられ、それからほどなく手に伝わる感触。それは、身の一部と呼んでも過言ではないほど、手に吸い付くような感触であった。
そして、ほどなくその剣がなんであるのかを察する。
かつて、自身の血を与えながら打ち込んだ剣は、自身が去った後もアイアースを守り続けていたのだ。
「そうですか……。なれば」
「母上?」
微笑むことは出来たのであろうか? 言葉を伝えることは出来るのであろうか? そんなことを考えている間に、視界はさらに白く霞んで行き、眼前にあるはずのアイアースの顔を見ることは出来なくなっていく。
「アイアース。私は、ともに行くことは出来ません。ですが……」
「母上っ。あ……」
そう口を開く、アイアースの手を取り、胸に突き立つ剣を握らせる。
「この剣が、この剣がある限り、私は……常に貴方とともにあります。貴方が、人々のために…………」
意識が遠退きはじめている。これ以上、言葉を紡ぎ続ける事は適いそうもなかった。
なれば、最後に一つだけ。今一度、愛するわが子の顔を。そう思うと、白く霞みがかっていた視界が、緩やかに晴れ渡っていく。
そして、自身の目に映るアイアースの顔。それは……。
「和将」
その顔を目にしたその時に、口を付いたのは、ただ一言。――――それは、過去に失われた我が子の名前であった。
◇◆◇◆◇
閉ざされた目が開かれることは二度と無かった。
アイアースは、頬を流れる涙を拭うと、リアネイアの胸に突き立った剣を引き抜く。常にともにある。母はたしかにそう告げていた。
「アイアースっ!!」
剣先から流れ落ちる血が、手に掛かり、未だに残る温もりを感じていたアイアースの耳に届く聞き覚えのある声。
振り返ると、シュネシスを先頭に、ミーノスとサリクス、さらにターニャやアニをはじめとする上位№達が広間内に駆け込んでくる。
「兄上。ご無事でしたか」
「なんとかな……。リアネイア様も」
「はい…………。それで、外は?」
皆が皆、傷を負っていたが、それでも大きな負傷を負っているモノは居らず、そのことをアイアースは安堵する。だが、シュネシスがリアネイアへと視線を向けた時、アイアースは静かに話題を変える。
これ以上、母の話をしたくはなかったのだ。
「生き残りの信徒兵達は降伏した。どんな罰も受けると」
「そうですか。やったことを考えれば……」
「今は、残りの連中だ。お前は……」
「シヴィラとイースレイは私が討ちます」
内城では、キーリア下位№達が降伏した信徒兵達の武装解除を行っており、残るは宮殿内に潜む幹部達の掃討。
それに移るに当たって口を開いたシュネシスに対し、アイアースは有無を言わさぬ口調でそう告げる。
如何に兄弟達であろうと、これだけは譲るつもりはない。
その鋭い視線と、背後に倒れるリアネイアの姿に、顔を見合わせたミーノスとサリクス。そして、二人の視線を受けて静かに頷いたシュネシスが、ゆっくりとアイアースの肩に手を置く。
「分かっている。どのみち、俺達では巫女には敵わん。だが、一人でどうなる?」
「一人ではありません」
「なに?」
そして、アイアースを諭すように口を開いたシュネシスであったが、その言に対してアイアースは静かに言い放つと、両の手の剣を眼前へと差し出す。
「母上とイレーネがともにおります。此度は負ける気はございません」
「…………ならば、行け。ただし、約束しろ。――――必ず帰ってくると。お前が死んだら、何人が悲しむと思うんだ?」
そんなアイアースの言に、ゆっくりと目を閉ざし、視線を移したシュネシス。その視線にならうと、広間内に歩み寄ってくる三人の女性の姿。
待っている人がいる。言外にそう告げようとしているシュネシスの意図は、手に取るように分かったアイアースは、フェルミナとミュウに肩を抱かれたフィリスの元へとゆっくりと歩み寄る。
「殿下……」
「二人とも、ありがとう。――――フィリス」
「…………」
そして、口を開くフェルミナと無言で視線を向けてくるミュウに対して口を開くと、肩を抱かれたフィリスに視線を向ける。
その顔に血の気は無く、すでにフィリスではない別のモノになってしまっているようにも見える。だが、向けられた視線の奥底では、自分がしっかりと見えているようにも思える。
「一時だけ、意識を取り戻したみたいだったんだけど」
「何があった?」
「私が駆けつけた時には、シヴィラとイースレイとともに」
ミュウとフェルミナの言に頷いたアイアースは、ゆっくりとフィリスを抱き上げ、シュネシス等の元へと戻る。
そして、事の顛末を告げたフェルミナ。
彼女が駆けつけた時には、血を流して地に倒れるシヴィラとフィリスの姿があり、フェルミナの姿を目にしたイースレイは、フィリスを託すとシヴィラを連れて上階へと去っていったという。
「その際、イースレイは、“美空とともに待っている”と言っておりました」
そして、フェルミナの口から告げられたイースレイの言葉。“美空”と口にしたイースレイの言に、アイアースはひどく胸をつかれたような気分に襲われるも、一瞬目を閉ざした後、ゆっくりと立ち上がる。
「母上……、いや、母さん……。俺は行くよ」
そして、倒れるリアネイアを一瞥すると、何も言わずに上階へと続く通路へと足を向ける。
「殿下っ!!」
背後からのフェルミナの声。一瞬、足を止めたモノの、今振り返れば決意が鈍る。そう思うと、何も言うことなく、アイアースは床を蹴った。
最後の戦い。次なる戦いを、決着の戦いにするために。
◇◆◇◆◇
駆け去ったアイアースの後を追うことは誰にも出来なかった。
それどころか、先ほどまで眼前にいた男が、アイアースであるのか、シュネシスはそんなおかしな思いに襲われていた。
姿形は変わらずとも、リアネイアとの戦いとフィリスの変容は、アイアースを大きく変えているようにも思える。だが、それは、愛執が故の変化とはどうしても思えなかったのだ。
「兄上。いかがいたします?」
「私達も…………っ」
「いや、我々は、幹部達の掃討に移る」
「陛下っ!!」
「フェルミナ。お前も皇妃となる身である以上、情で動くわけには行かぬことを知るのだ。お前は、この場にてフィリスとミュウの治癒。並びに、リアネイア様の護衛を命ずる」
そして、なおもアイアースの後を追おうと、普段の大人しい姿からは想像も出来ぬほど強気に出てくるフェルミナに対し、シュネシスは静かにそう言い放つ。
思わず居住まいを正し、涙ぐんだ視線を向けてくるフェルミナであったが、それに対して、シュネシスは厳しく言い放つ。
「いいな。反問は許さん。他の者達は、それぞれミーノスとサリクスを指揮官に、城内を探索。発見次第、斬れ。降伏は許すな」
「はっ」
「承知しました」
そして、眼光鋭く二人やキーリア達にそう命ずると、ミーノスはやや驚きがちに、サリクスは何かを言いかけながらも、そう応える。
最後の戦いをアイアースに託すにせよ、為さねばならぬ事は当然ある。
信徒兵と異なり、幹部達は明確な悪意をもってパルティノンを蹂躙してきたのだ。
教団を、今日この時を以て破滅させる。将来の過去運を取り除くためには容赦するわけにはいかなかったのだ。
だが、後々、シュネシスはこの判断を後悔することになる。とはいえ、彼の責に帰すにはあまりに不条理でもある。
一つの決意を決めた人間を、止めることは容易ではなかったのだ。
◇◆◇◆◇
最上部へと続く階段は、かつてフェルミナとの別れの舞台になった場所であった。
ここから先の戦いにあって、自分はシヴィラに敗れ去り、姉フェスティアは孤独な戦いへと身を投じることになったのだ。
だが、今となっては、それも意味のあることであったと思う。
その敗北が、自分をさらに強くし、かけがえのない者達との出会いや再会に繋がった。
そんなことを思いつつ、階段を上るアイアース。
思えば、ここまで来る人生は出会いと別れの連続であった。
……スラエヴォにて散ったアルティリアとラメイア、数多のキーリアと近衛兵達。
……帝都にて露と消えたゼノスとメルティリア。そして、多くの官僚、上流階層達。
……グネヴィアの戦いの果てに北辺に倒れたイレーネ。
……リヴィエトとの戦いの果てに散っていったジル、アリア、セイラ、ハーヴェイ、イルマ、ミシェル、リシェル、サーダといったキーリア達。
……ほんの一時、自分を愛し、暴走した自分を現世に止めさせてくれたファナ。
……過酷な運命に身を投じながら、最後まで雄々しくあったテルノア、イナルテュク。
……最後まで国家のためにつくし、パルティノンの大地を墓標とした、ゼークトをはじめとするパルティノンの将兵達。
……影として、ほんの一時の光を生ききったリリス。
……そして、それらをすべて一身に背負い、国家の勝利を導いたフェスティア。
多くの者達との出会いがあり、別れがあった。そして、それらはすべて、この先にある戦いを発端として生まれたモノであるのだ。
階段を上りきり、閉ざされた扉に手をかけるアイアース。
ここにすべてが終わる。
ゆっくりと開かれた扉の先にて待つ、一人の男の姿。その背後には、やはりこちらを一瞥している女の姿があった。
次話の投稿は、26日の21時を予定しています。25日夜の投稿は控え、完成度を上げるように努めたいと思っています。
完結に向けて、全力で挑みますので、今少し、お付きあいください。




