第10話 決意の時
耳に届いた男の声が闇に染まった心の奥底に届いていた。
そこから、フィリスの眼前を覆っていた闇が徐々に晴れはじめ、ひどく冷たく、寒いように思える身体の感覚が元へと戻りはじめる。
そして、自身の傍らを歩く女性の姿。
身体は覚醒しはじめていても、脳裏に浮かぶ光景と眼前の光景が変に混ざり合い、何が起こっているのか理解しがたくなっていく。
ただ分かっているのは、上階へと続く広い階段を駆けているということ。先ほどまで大広間にいたように思えたのだが、周囲の様子に気が向き始めている。
そして、自身の傍らを歩く女性と男性。それが、大広間を見据える踊り場まで来た時に立ち止まり、女性の方が我慢できなかったかのように口を開いている。
突然の癇癪に、思わず目を見開いていると、それに対して声を荒げる男性。だが、そんな調子で癇癪を起こしている女性の姿に、どこからか甦ってくるモノが存在していた。
そして……。
胸元から突き出た剣先から、血が滴り落ち、女性、“天の巫女”シヴィラ・ネヴァーニャ。かつての名を、静原美空といった女性の足元を赤く濡らしていく。
フィリスはそれを見据えつつ、眼前を斜めに通過していった光とその刹那に感じ始めた痛みに思わず背後の壁へと寄りかかる。
「うっ!? ぐううううううううううううううううっっっっっっっ!?!?!?」
途端に、右手が焼けるような感覚に襲われ、全身に激痛が走り始める。
痛みに抗いつつも右手に視線を向けると、そこには深い青色の光を眩く輝かせる刻印の姿。その姿に、フィリスはなぜ自分がここにいるのか、これまで何があったのかという疑問への答えが脳裏を駆け巡っていく。
浮遊要塞内部の戦いで捕らえられたこと。牢獄でのユマとの口論。そして、その場に現れた信徒兵達とシヴィラによって加えれた暴行。
実際のところは、刻印が望まぬ相手に強引に縫い付けられたことに怒り、フィリスの身体を痛めつけたことにあったが、それ以来、記憶が抜け落ち、まるで夢を見ているかのような出来事が続いていく。
激痛に耐えつつ刻印を使役するための術。着替えさせられたキーリアの衣装。そして、眼前にて身体を斬り刻まれるシュネシス。
彼が、キーリア達との謀略によって生き長らえていなければ、今この場で自裁してしまいたくなるような光景でもあった。
「はぁはぁはぁはぁ…………」
そして、全身の痛みが落ち着いてくると、今度は激しい鼓動が耳をつき始める。
先ほど、眼前の男性、イースレイに斬られた箇所が異常に熱く感じ、息継ぎも激しさを増している。
と、眼前で水色の光が灯ったことを察し、ゆっくりと視線を向ける。視線の先では、イースレイが手にした球体が光を発し、シヴィラの身体を包み込んでいた。
水色の光は、水の刻印の特徴。つまり、シヴィラは回復可能な状態であるということだった。
そして、シヴィラを包み込んでいた光が消えると、イースレイは視線を向けるフィリスへと顔を向け、ゆっくりを歩み寄ってくる。
一瞬、腕に力をこめるが、手にした剣を握りしめることすらも難しい。
斬り裂かれた胸元の傷が、さらに鼓動を跳ね上げ、身体の自由を奪っているのだ。心臓には達してないものの、とにかく出血がひどい。
「……フィリス殿。目覚めたのか」
そして、フィリスの眼前へをしゃがみ込み、そう口を開くイースレイ。
スヴォロフとの戦いの際に戦死したモノだと思っていたのだが、こうして自分の眼前に立っている。やはり、№1のキーリアが死ぬはずはない。
それは、キーリアというモノを知る人間の誰しもが思い描くことでもある。
そして、そんなことを考えているフィリスに対し、イースレイは先ほどと同様の球体を差し出すと、腕に力をこめてそれを砕く。
すると、そこから一筋の雫がこぼれ落ち、フィリスの身体を包み込みはじめた。
何事かと思い、イースレイへと視線を向けたフィリス。静かな表情を浮かべているイースレイと視線が交錯する。
「まさか、自分を取り戻すとはな……だが、巫女様は無事だ。貴女の優しさが皮肉にも巫女様を救う事になった」
「…………どういう?」
「刻印が貴女に興味を抱いたのであろう。あくまでも他者を守るために力を使役する。無意識下のことであっても、キーリアや信徒兵達。そして、皇子殿下等を守るべく刻印を使役していた」
そこでいったん言葉を切ったイースレイ。
ほどなく、水色の光は消え去り、気怠さは残りつつも出血や息切れは収まりはじめている。もっとも、それはこうして壁に身を預けているが故のことであろうが。
「それまで、刻印を身に宿していた者達が、自分を守るべく力を使役したこととは対照的にな。あなたは、致命傷を負った今になって、はじめてその力を自身に向けた。それは貴女自身が刻印にさせたことだ」
フィリスの右手に視線を向けつつ、そう口を開くイースレイ。
本来であれば、宿主をあらゆる破壊や痛みから守るはずであったが、彼女自身は刻印を身に宿しわけではなく、その力を外に向けて行使するための媒介の様なモノ。
だが、フィリスの身体を蝕むうちに、刻印もまた彼女に興味を抱いたのかも知れない。
意識を奪われていたとしても、自身の肉体を犠牲に他者を守ろうとする宿主を刻印は知らなかったのだ。
そして、そう考えるフィリスの脳裏に一つの事実が思い浮かぶ。
何を隠そう、自身が胸を突き破った相手、シヴィラもまた、自身の無意識下の使役によって助かることになってしまったのだ。
「静原さんを……、私が?」
「っ!? 待て。それは……」
「あっ……。いや、今のは」
「…………そうか。殿下だけではなかったのか」
その衝撃から、思わず過去の記憶を呼び起こしたフィリス。
感情に身を任せ、悲しみと罪の重さに自身を責める一人の女性を、自分は追い詰め、凶行に走らせてしまったことを。
そして、思わず口を付いた言に目を見開くモノの、その事実を耳にしたイースレイは、静かにフィリスから床に横たわるシヴィラへと視線を向ける。
なにかを話さなければ。そう思ったフィリスであったが、彼女はそれ以上の発言の機会を失う。
その刹那。黒き影が両者の眼前に飛び込んで来たのだ。
咄嗟に後方へと飛び退いたイースレイに対し、それまで彼が立っていた場に、銀色の光を纏った槍が突き立つ。
「フィリスさんから離れなさいっ!! イースレイっ!!」
「っ!? フェルミナ王女……」
槍の持ち主は、銀色の髪と漆黒の翼を持つ飛天魔の姫、フェルミナであった。
そんな彼女は、吹き抜けになっている踊り場にて対峙する二人の姿を認め、倒れるフィリスを救うべく駆けつけてきたのだ。
そして、そんなフェルミナの姿に口を開くと、イースレイはゆっくりと目を閉ざしながら立ち上がり、二人に向けてに向けて口を開く。
「フィリス殿。しばらく、身を休めるといい。信徒兵や黒の者達は皇子達に目がむき、ここに敵は来ないだろう。フェルミナ様。フィリス様を……そして、アイアース殿下に、巫女様、いや美空とともに待っていると、そうお伝えください」
「っ? どういう……」
「フェルミナ。いいわ。殿下なら」
「っ!? 分かりました。フィリスさん。傷を……」
そんなイースレイの言に眉を顰めるフェルミナであったが、フィリスの言に頷き、改めて彼女の姿を目にすると慌てて腕に緑色の光を灯して、フィリスの傷痕にあてる。
それを見たイースレイは、倒れたシヴィラを抱きかかえると、静かに上方へと足を向けた。
その姿は、どこか物寂しさと虚しさを抱いているように、それを見つめるフィリスには思えたのだった。
◇◆◇◆◇
目覚めた場所はひどく懐かしい様に思えた。
長き眠りから目覚めたかのようなそんな感覚。そして、光の差し込む場から流れ込む風が頬に当たり、東部より伸びる耳を優しく撫でていく。
ひどく懐かしい。そんな気がしていた。
「…………母上?」
ふと、そんな男の声が耳に届く。
顔を向けると、一人の長身の青年が光を背に佇んでいる。均整のとれた体躯と立ち振る舞い。そして、手にした双剣を濡らす赤き血と白を基調とした軍装を染める赤。
どれをとっても、青年がただ者ではないということは見て取れる。しかし、彼が今発した言葉にとても違和感があった。
「母上? 私のことか?」
ゆっくりと口を開く。
記憶の奥底に眠っているであろう何かを思いもするが、今は何よりも言葉を発することが出来たことへの安堵である。
言葉や感覚は過去の何かを感じさせるモノであったが、他者に対する記憶の類がまったく思い起こせないのである。
「これは、夢か何かなのか??」
再びの青年の声。
自身もまた、どこかで夢を見ているようなそんな感覚に襲われる。だが、問い返した青年もまた、困惑が続いている様子だった。
そして、そんな時。
『ヤツを殺せ……』
「なに?」
静かに、脳裏をかすめる声。
それは、ひどく沈殿しているかのような覇気も感情も感じさせうことのない声である。
だが、次第に大きくなり、脳内部に反芻してくるそれに、不意に身体が支配されていくかのような錯覚に襲われる。
気付いた時には、地を蹴って青年に対して剣を振り下ろしていた。
◇◆◇
眼前より迫ってくる白き猛虎の姿に、アイアースは思わず目を見開き、圧倒されていた。
その全身に纏う覇気は、まさに母リアネイアのそれ。だが、こちらの声かけには応えずに、何やら呟くと、剣を抜いてこちらへと向かってきたのだ。
「……そうだ。母上は、あの時……、見間違えるはずもないっ!!」
燃えさかる炎の中、赤く照らされたリアネイアの胸を貫くシヴィラの剣。一瞬何が起こったのかも分からずに目を見開き、静かに崩れ落ちていく女性の姿を、アイアースは1日たりとも忘れたことはない。
死に際し、全身に傷を負い、身を赤く染めたリアネイアの姿。決して忘れること無きそれが、今まさに眼前へと迫り来ている。
無表情に振り上げられた剣。
高速で振り下ろされるそれに対し、剣を構えて受け止めようとはかる。
刹那。
視界が激しく周り、十字に刻まれたからだから血が吹き上がると、アイアースの視界は突如として変転し続ける。
虚空を舞い、敷かれた絨毯に叩きつけられたアイアース。全身に走る激痛と吹き上がる血が、彼に平静さをもたらしていく。
「やはり……。だが、母上はあの時、あの場所でたしかに亡くなられたのだっ!! 死者の命を冒涜するのならばっ!!」
ゆっくりと口を開くアイアース。
それは、自身に言い聞かせるかのような言であり、母リアネイアの死とその身を襲った悲劇を思いかえすと、カッと目を見開き、歯を思いきり噛みしめながら床を蹴る。
母ではない。
必至で自分を叱咤しながら、跳躍したアイアース。
再び剣を振りかぶったその先では、美しき白き猛虎が、アイアースの接近を柔らかな表情で見据えていた。
◇◆◇◆◇
内城への信徒兵の流入は続いていた。
ミーノスは、槍を並べて突撃してくる信徒兵達の頸を、飛び抜け様に斬り飛ばすと周囲の状況へと目を向ける。
敵の赤きキーリア達は未だに健在であり、アニをはじめとする上位№達と交戦を続けている。
その周囲では、掃討された獣人兵の遺体に足を取られつつも、殺到する信徒兵達を裁いていくキーリア達。
アイアースが巫女との戦いに挑む前後で下した指示を、シュネシスが修正し、互いに背中を預け合って数で圧倒してくる信徒兵達をいなしている。
そこに斬り込むと、キーリア達を囲む信徒兵達を一蹴し、再び地を蹴る。跳躍を繰り返しつつの戦い。
かつて、母アルティリアが得意としていた戦法で、小柄な女性ならではの戦い方であったが、こういう乱戦の最中には効率が良い。
どうしても、兵どうしで足場を奪い合い、戦闘力を漸減しかねないのだ。
そして、再び着地すると、視線の先にはサリクスとシュネシス。
サリクスは彼らしくも、訓練生達を率いるように立ち、そこに襲いかかる信徒兵達を空彼らを守り、後方からの支援法術に徹させている。
兄弟一の巨体でありながら、物静かで心優しいサリクスならではの戦い方であるとミーノスは思う。
そして、シュネシスは、今もっとも難しい戦いに挑んでいる。
彼と対峙するのは、現№2にして、長き時を№1として君臨してきた女グネヴィアである。その正体はようとして知れず、アイアースの剣によって肉体を両断されたにも関わらず、こうして生きながらえている。
悪鬼とでも呼ぶべきか、こんな正真正銘の化け物が、叛意を抱いてパルティノンに背いたのである。
喜々として血を流し、なおも戦いを続けるグネヴィアの姿は、雄々しきモノの前に、どこか薄ら寒さすらも感じさせられる。
だがこの時、ミーノスは背筋に感じた薄ら寒さの正体に気付くことは叶わなかった。
否、彼だけではない。サリクスが、シュネシスが、ミュウが、アニが、その他の全キーリア達が、留まることなく溢れてくる信徒兵等との戦いに没頭し、それらの接近に気付いてはいなかった。
それらが、白き軍装を身に着けたキーリアと同様の格好をしていたことも、大きな要因であったのかも知れない。
全身を襲う激しい衝撃の中、虚空に弾き飛ばされたミーノスは、一瞬何が起こったのかも理解できずに、ただただ地上を見下ろすことしかできなかった。
そして、その地上にて、縦横に駆け回る二つの白き影。
それらが立ち止まった時。それまで、少数ながら奮戦を続けていたキーリア達は、グネヴィアとの対峙を続けるシュネシスのみを残して、全身が大地に縫い付けられていた。
「だらしない。キーリアの真似事をする割には……、背ががら空きだぞっ!!」
地に叩きつけられたミーノスの耳に届く凛とした女性の声。痛みに耐えながら身を起こしたその視線の先に立つ二人の人物。
白皙の肌とツーサイドアップにまとめた銀色の髪が陽の光を受けて、輝き、その鋭い眼光で周囲を睨みながらも、小柄で非常に滑らかな体つきは、どこか大人びた少女のような印象を周囲に与えている。
「まあ、不意打ちをしたのはこっちだけどねえ……。でも、もう少し、手応えがあっても良いんじゃないかい?」
そして、そんな白皙の美女の言に応えたのは、褐色の肌と起伏の富んだ豊満な体つき。獅子のような耳と尾を持ち、鍛えられた肉体を誇る美女。
それは、かつての神聖パルティノン帝国第二皇妃、アルティリア・フィラ・テューロスと第三皇妃、ラメイア・フィラ・ベレロその人であった。
◇◆◇◆◇
再び現世に降り立った、三皇妃達。その出現がもたらす運命を知る者は、誰もいなかった。




