第14話 運命の空へ
蒼穹の空に巨大なそれが見え始めたのは、陽も天高くなり始めた頃のことであった。
セラス湖北岸にあるセルヴァストポリ、オデッサ、ロトローフ等の各都市をはじめ、沿岸の漁港漁村に住む住民達は、ある者は狼狽し、ある者は逃避し、ある者は瞑目してその姿を見つめる。
そして、各地方に住む住民達もまた、一つの歴史の終わりを実感し、皆が皆虚無を以てその成り行きを見守ろうとしていた。
この時、不安と諦観が帝国全土を覆っていたのである。
そんな中、神聖パルティノン帝国帝都パリティーヌポリスは、不気味な静寂を以てそれを迎えようとしていた。
教団の奇襲を受けて守備隊は全滅。尚書をはじめとする官僚達も、多くが抵抗し、処刑されていた。
住民達は、都を掌握した教団とそれに付き従う信徒兵が我が物顔で練り歩く様を、軽蔑と怒りを以て見つめていたが、軽挙に出ようとする人間は一人としていない。
9年前の悪夢が、まさに蘇らんとする中、その悪夢を知る者も知らぬ者も、絶望する者は一人もいないのである。
千年の時をパルティノン帝室とともに生きてきた帝都の民。
それは、悪夢の中にあっても、決して狼狽する事なき空気を自然と産み出し、困難に耐え抜くだけの精神性を持ち得ているのだった。
そして、そんな彼らのとっての希望もまた、再び彼らの眼前へと姿を表そうとしていた。
◇◆◇◆◇
眩い光が止むと、眼前にいた女性はゆっくりと崩れ落ちる。
アイアースは、崩れ落ちた女性、ミュウの身体を支えるように抱きしめると、ミュウは、その白き肌を青ざめさせながら、ゆっくりと微笑む。
「どう? 見直した?」
「ああ。……お前はすごいヤツだよ」
「ふふふ。これからは、お姉様をしっかりと敬いなさいよ」
「はいはい。分かりましたよ、お姉様」
「こら。公衆の面前でいちゃつくな」
不敵な笑みに、苦笑を返したアイアースであったが、軽口を付かねばならないほど疲弊している事は手に取るように分かる。
それでも、虚勢を張れるぶんだけマシであったが、シュネシスからの軽い叱責に、二人は顔を見合わせ、居住まいを正す。
この地はちょうど浮遊要塞と帝都との中間地点にあり、今少し南下すればすぐにセルヴァストポリを望むことが出来る。
そして、この小村と隣接する森林地帯に現れたパルティノン軍はおよそ3万。
クルノスの戦いによって多くの兵力を失い、負傷者をキエラとハリエスクに残し、オアシスからの増援とハリエスク守備隊を加えたパルティノンにとっての、事実上の最終戦力。
かつては数百万という空前の動員を以て、南方へと親征した国家が、それから10年をようやく過ぎようという僅かな時に間に大きく疲弊したことになる。
「さて、後はあの化け物だけだな。アイアース、ミュウ。すべてはお前達に掛かっているわけだが」
「はい。お任せください」
「私も大丈夫ですよ」
「うむ。だが、決して無理はするな。パルティノンの大地もそうであるが、俺はもう、兄弟を失いたくはない」
「兄上……」
そして、はるか彼方に浮かぶ浮遊要塞を睨みつつ、そう口を開くシュネシス。明日正午にはこの地へと辿り着くであろうそれ。
転移によってようやく先んずることが出来たが、決戦を前に浮遊要塞にどれだけダメージを与えられるかが最大の課題である。
正直なところ、一撃であれだけの質量を持つ敵を葬れるかどうかは分からなかったが、少なくとも外部の武装を破壊するだけで、民が被害を受ける可能性は減る。
ターニャの言によれば、要塞は二重構造になっており、外壁部分のみが攻撃能力を有し、内面は一般の都市と変わらないという。
武装さえ破壊すれば、取るべき手段はいくらでもあるのだ。
しかし、危険な賭であることに代わりはなく、アイアース自身もすでに幾度めかという命の危機に挑まねばならぬ。
シュネシスもまた、運命を弟に託さなければならないことを悔やんでいる様子だった。
「殿下、ミュウ様との分析により、大地への傷がもっとも浅い地はこの場になると思われます。私をはじめとする法術部隊がミュウ様を援護いたします故、この地において、刻印の使役を」
そんなシュネシスとアイアースに対し、フォティーナが歩み寄るり、地図の一点を指し示す。
ここから南へと下った原野の中心であり、近くに村落の類はない純粋な草原である。
大いなる力の行使によって、どれだけの被害が出るかも分からぬ状況。母なる大地を傷つけることにも抵抗はあったが、今は人的な被害を出来るだけ減らすしかない。
「そして、出来うる限り上空でな。その場には、俺が連れて行く」
フォティーナの言に頷いたアイアースに対し、ミーノスが肩に手を置きゆっくりと頷く。
敵の新兵器によって傷を負い、飛竜も失った彼であったが、それを駆けることに出来る身として、他人に譲るつもりはないのであろう。
「なんにせよ、すべては明日だ。皆、今日だけはゆっくりと過ごせ」
「兄上」
「ん?」
「こちらを……、長い間、お預かりしてしまい、申し訳ありませんでした」
そう口を開いたシュネシスに対し、アイアースは歩み寄ると首から提げた袋と手に取り、シュネシスへと差し出す。
それは、テルノヴェリの血戦を前に、フェスティアより託された皇帝の印綬である。これがこうして今、彼の手にあると言う事実。
それは、先頃全土に対して声明を出した“第四皇子アイアース”になんの正当性もないことを証明している。
そして、それを持つべき者は、次代の皇帝その人しかいない。
「……ああ。よく、守ってくれた」
差し出された印綬を手に、シュネシスは静かに笑みを浮かべていた。
◇◆◇
野営の準備が終わると、ミュウは力無く寝台へと横たわった。
転移を終えた後は、他の者達を心配させぬよう虚勢を張っていたのだが、身体の自由はすでに効かなくなり始めている。
転移法術は刻印の力をもちいぬ超高位法術。
それ故に、肉体は精神の消耗は激しく、キーリアとなっていなければ、すでに彼女の身体は消滅していたであろうと言うほど、身体は消耗している。
「まったく、殿下じゃないけど無茶をするもんじゃないわよ」
「悪かったわね」
「私達にも何かお手伝いが出来なかったのでしょうか?」
「手伝い? ……そうね」
寝台に横たわり、衣服を脱いで身体を拭うミュウ。同席しているフェルミナとフィリスもそれに倣うと、ミュウに対してフィリスが厳しい口調でそう口を開く。
一人の男を慕う好敵手という関係が三人の間にはあったが、それでも憎しみの類と言うよりは友情の延長という関係である。
思えば、幼き頃の数日の邂逅から長い時間をおいていたが、こうして再び巡り会えたことは、一人の男を中心とする運命に感謝しなければならないのかも知れない。
それ故のフィリスの厳しめの口調であり、フェルミナの問い掛けもまた、ミュウの身を案じるモノでもある。
「うーん、変な話だけど、二人は絶対に生き残って殿下を守ってほしいわ」
「え? ちょ、ちょっと何を言っているの??」
「ああ、もちろん私も死ぬつもりはないわ。でもね、好きな人の為だから、命を賭けるだけの覚悟はあるし、それが成った後は身体が無事でいられるとも思えない。それに、キーリアになった以上、子供を産めるとも思えないのよね。だったら、二人は生きて、殿下を、これ以上、悲しませないで、ほしいのよ」
「ミュウさん……」
ゆっくりとそう口を開くミュウであったが、目尻に浮かんだ涙がこぼれるうちに言葉に詰まっていく。
最も長き時をアイアースとともに過ごし、それを支えることが出来たのは、過酷な人体実験による肉体の強化がある。
だが、元々、自分の身体は虚弱なモノ。人ならざる身になったとはいえ、かつての三皇妃のようにすべての機能を残しているわけではない。
だからこそ、ともに過ごしてきた年下の二人には、アイアースを幸せにしてほしかったのである。
「何を言うかと思えば。……貴方が死んで、殿下が悲しまないとでも思うの? そんなことを口にするべきではないわ」
「ふふ、そうね。どちらにせよ、私は戦いには加われない。その点だけは、少しだけあなた達がうらやましいわ」
「でも、私は、守ることはできないと思います……。ただ、共にいることぐらいは」
「そうね。フェルミナ、殿下も力を行使すれば無事では済まないと思う。そんなとき、貴方が少しでも痛みを和らげてあげればいいと思うわ。フィリスは、武勇も知識もすでにパルティノンにはなくてはならない存在なんだから、常に殿下と一緒いて戦ってくれればいいわ」
「言われなくても、分かっているわ……」
「ふふ、そうね。今は、明日に備えるとしましょう」
フィリスもフェルミナもミュウの覚悟はすでに察している。
そして、自分達が彼女と同じ事をするのは不可能な以上、自身に出来ることを為すしかないことも理解している。
そして、自分達を待ち受ける運命がいかなるモノであるのか、彼女達が知るよしもなかった。
◇◆◇
戦うことの出来る飛空兵は多くなかった。
キエラとハリエスクにて号令を発し、周辺の飛空部隊を集めたとはいえ、リヴィエト飛空部隊を殲滅した精鋭には遠く及ばない。
空の戦いは一瞬のやり取りがすべてを決するのだ。
「殿下もいくつもりですか?」
「アイアースを連れていくだけだ。自分が足手まといと言うことは自覚している」
「それを聞いて安心しましたよ。しかし、飛竜は」
全身に傷を負ったミーノスの姿に、ルーディルが目を丸くしながらそう口を開く。
彼をはじめとする飛空部隊は、クルノスの戦いには参戦していないが、その絶対数はやはり足りていない。
7人の竜騎士達ならば、単独で一部隊を相手取ることが出来ようが、ミーノスが受けた攻撃には全員が抗いきることは困難であろう。
あのような兵器の登場によって、今後の竜騎士の戦い方も変わってくるように思える。
「ここにいたか、皇子」
「ん? どうしたターニャ」
「っ!?」
そんなとき、天幕をまくって一人の青年と共に入室してくるターニャ。だが、彼女は入り口にて凍り付いている。
「なんだ? おい」
「はっ!? い、いやすまん。飛竜の件なんだが……」
「ああ、いくら戦力に困っているとはいえ、お前に戦えとは言わんよ。板挟みになって苦しい面はあろうが」
「そ、そうではない。そのな、私はたしかに戦うわけにはいかんが……」
「うん?」
「殿下、主は、私を伴えと申しておるのですよ」
「エルクっ!!」
どういうわけか固まってしまったターニャに対し、訝しげな視線を向けるミーノス。
その後もターニャはなんとも歯切れの悪い言を続けるが、そんな彼女に対して傍らに立つ青年が静かに口を開く。
そして、ターニャが口にした青年の名に、ミーノスをはじめとする飛空兵達が顔を合わせる。
「エルク? それがお前の人間体か。ずいぶん、いい男だな」
「目を向けるのはそこですか?」
「冗談だ。それで、お前はよいのか?」
「…………貴様の飛竜は」
「俺を守ってくれた。そのことを忘れるつもりはない」
「だからこそだ。私は、彼女から貴様のことを託されている。そして、私が忠告していれば、彼女が死ぬこともなかった」
そう言って目を閉ざすターニャ。
ミーノスも彼女から聞き知っていたことだが、全身を穿たれ、重傷を負ったミーノスを庇うように跳び、ターニャ等に託した後、彼女は死んでいったという。
その思いを汲んでの提案であろうが、真竜と成った飛竜に、主と成る人間以外が乗るには、いろいろと制約があるのだ。
「ふむ……。俺からすれば、またとない提案だが」
「そうであろう? エルクも良いと言っておるしな」
「うーん、お前さんは優秀なんだか馬鹿なんだか分からんな」
「なんだとっ!?」
「いや、だってなあ……」
その制約を知るが故に、言葉に詰まるミーノス。だが、ターニャはそれを知ってか知らずか、口調を荒げるばかりである。
「殿下、主は分かっておいでです」
「は? …………お前、どういうつもりだ?」
だが、そんな状況を破ったのはエルクの言である。そして、その言葉はある事実をミーノスに対して告げていた。
そして、途端にターニャを睨み付けるミーノス。
彼女の出自を考えれば、軽々しくそれを為すわけにはいかないし、為したところで両国には消えること無き火種が持ち込まれることになる。
「っ!? なぜ睨むかっ!! そもそも、お前があの時に強引にっ!!」
「おわっ!? ちょ、ちょっと待て」
しかし、ターニャのそれに対する動機は、純粋にこちらに対するある意味での復讐であったようである。
たしかに、初対面でいきなり口づけに及んだミーノスが悪いことは悪いのであったが、もう少し深謀遠慮がほしかったというのがミーノスの本音である。
「ははーん、それじゃあ、殿下も腹を括らんといかんですなあ」
「そうですね。戦い以前に、男としてのけじめも」
「噂には聞いて言いますけど、いい加減落ち着くのもいいと思いますよ?」
「お前らっ!! 後で覚えておけよっ!!」
そして、そんな光景を目にしていたルーディルをはじめとする飛空兵達が、顔に笑みを浮かべると、口々に二人を冷やかしはじめる。
ルーディルこそターニャの正体を知っていたが、他の飛空兵達は知り得ぬ事実。
だが、元々、それを自由に駆ることが多い飛空兵には命知らずが多く、皇族相手であっても遠慮というモノが少ない。
戦いを前にしても、彼ら空を駆る者達にとっては、日常と変わらぬことなのである。
◇◆◇
天幕にて身を休めるシュネシスの耳に、どこからともなく笑い声が届いてきた。
「なんだ? ずいぶん、元気のいい連中がいるな」
「そうですね。おそらくは、飛空兵達だと思いますが」
「ミーノスも大変だな……」
そう言うと、シュネシスは先ほどアイアースより手渡された印綬を手に取り、目を向ける。
歴代の皇帝達が使用し、帝国のすべてを決定してきたそれ。
千年近い時間を経てきたというのに、微塵も欠損しておらず、朱を吸い続けてきたために、地の如く赤く染まっていることだけが唯一の変化であろう。
時には、血判のために血に染まってこともあるであろうが、それは印綬がまるで生きているかのようにも思えた。
「これで、名実ともに皇帝と成られましたね」
「…………皇帝、か」
「何か、ご不満でも?」
「…………先ほど、アイアースからこれを託されたとき、俺が抱いたのは安堵だった」
「……………」
「弟を思いながら、俺はおそれていたのさ。アイアースの逆心を。この先、戦いに勝利したとて、俺は俺のままいられるんだろうか?」
「…………天に陽は二つ入らぬ。私はそう申し上げております」
「ああ、そうだな」
「気に入りませんか?」
「さあな。いずれにしろ、今は目の前の戦いに集中するしかない」
そう言うと、印綬を入れた袋を首に掛けるシュネシス。それを手にしたときに感じた不気味な感覚の正体を察する気にはとてもなれなかった。
皇帝。
このパルティノンの大地にあって、ただ一人至尊の冠を戴く人間。
そして、その冠を得るべく、数多の血が流れ続けてきたのも、パルティノンの歴史には色濃く刻まれている。
フォティーナの言は、そのことを暗に示しているのだが、今だけは、その事実を忘れてしまいたい。
印綬をしまい、目を閉ざしたシュネシスは、静かにそう思っていた。
◇◆◇◆◇
「行きましょうっ」
すべてが眠りにつく夜が終わり、すべてが目覚めた時、それは決戦の時であった。
アイアースは、ミーノスの操る飛竜へと跨がり、全軍を一瞥する。
ジルをはじめとするキーリア達。リゼリアード、ヒュロムをはじめとするティグと飛天魔達。そして、ハインやエミーナ等のあまたの将兵達。
そんな彼らの元をおとない、戦い向けて決意をかわしあっている。皆の表情に淀みはなく、そのすべてが戦いに向けての鋭気に満ちている。
そんな彼らに対して頷くと、アイアースはミーノスと共に虚空へと身を任せる。
原野が遠ざかり、美しい緑野が広がる大地。それを横目に自身の右手へと視線を向けると、柔らかな赤き光を灯している刻印が目に映る。
これによる力の解放が、戦いを決める。
つまりは、自分の手にすべてが掛かっているのである。だが、それに対するおそれはない。
皇族として生まれ、この国の、民のために戦ってきたという自負はある。そして、自分が彼らを守れる事への自信もある。
だが、こうして上空より原野に居ならぶ将兵を一瞥したとき、言いようのない空虚感に襲われる気がした。
兄弟と再会し、自分を愛してくれる者達とともにあり、共に戦い続けてきてくれた戦友達もこの地に集結している。
しかし、その中に一人。
共に戦うことを願い続けていた人はいない。そして、その人物とは、永遠に出会うこともないのである。
「姉上…………。見ていてください、貴方が守ろうとしたモノは、貴方が愛した国と民は、私が必ず……」
静かに瞑目したアイアースは、脳裏に浮かぶ一人の女性の姿に対してそう口を開く。
そして、一人苦しみ続け、すべてを背負い続けたフェスティアに対して、自分が出来ることは、彼女が残したモノを守り続けるだけである。
(これが最後の戦い。そして、最後の苦しみにしなければならない。俺達が敗れるか、リヴィエトが破滅するか。先にあるのは、それだけだっ)
そして、目を見開き、遙か彼方に浮かぶ浮遊要塞を睨み付けるアイアース。
「行くぞっ」
「はいっ」
そんなアイアースの耳に届く、ミーノスの言。
それに対して、力強く頷き、右手を固く握りしめるアイアース。そして、その握りしめた右手に対して意識を集中しはじめる。
眦を決して、リヴィエトとの最後の戦いに挑むアイアースとパルティノンの将兵達。その敗北は、パルティノンそのもの破滅を意味する。
そして、その行く末は、今空を翔るアイアースの手に委ねられていたのだった。




