第5話 思いの果てに
不均等に歪んだ空間の蠢きが光りとともに消えると、そこは広大なる草原の一角であった。
緑化も進み、生命の息吹をはっきりと感じられるその地であったが、アイアースはすぐにそれに似つかわしくない剣戟の響きを耳にし、視線をそちらへと向ける。
「こんなところに? ジル達かっ!?」
眼前の草原に翻るリヴィエト軍の御旗。その視線の先には、神殿へと向かう途上で野営したモラク村があり、そこにはアイアース等の帰還を待つ別働隊が待機しているはずであった。
「陛下が予想していた敵の別働隊では? リヴィエト本隊は壊滅いたしましたが、未だ相当数の別働隊が残っていたはずです」
「なるほど。間にあってよかった」
ミュウの言に、アイアースは両手に剣を構えながら頷く。
そんな彼に対し、リゼリアードが進み出でて、傍らに片膝を着くとゆっくりと口を開く。
「殿下、今回の戦、我らにお任せいただけませぬか?」
「いや、私も一緒に戦います。パルティノン皇族が、そして、ティグの王族が味方に守られていることなど出来ません」
「はっ。……やはり、リア姉様の御子だけのことはございます。私も、全力でおともさせていただきます」
「よろしくお願いします。行きましょうっ!!」
リゼリアードの言に対し、アイアースはやんわりとそう答えると、リゼリアードも満足げに頷く。
アイアースにとっては、フェスティア無き後も、パルティノン帝室が消えたわけではないことを身を以て体現せねば成らず、リゼリアードとしても、敬愛する姉の子が、他人に守られることをよしとするような腰抜けであっては困るのであった。
そうして、馬腹を蹴るアイアースの傍らを、ティグ族の戦士達が駆け、その上方にて飛天魔達が大空を駆る。
そんな亜人種の連合部隊の出現に、彼らの正体を知らぬリヴィエト軍は、浮き足立ち、抵抗の意志を半ば削がれたままその強力な戦闘力の洗礼を受けた。
アイアースに先んじて、リゼリアードが敵陣に突っこむと両の手にもった釵と呼ばれる打撃武器を縦横に振るい、身体の回転に合わせて蹴りを周囲に見舞っていく。
アイアースやリアネイアの戦い方と同様に、それは舞を舞っているかのような跳躍と疾駆の組み合わせであり、たった一人で敵部隊を翻弄、蹂躙していく。
彼に続くティグ族達も同様に、得物と体術を組み合わせた舞踏を戦場にて演じているかのような光景が随所で見られていく。
そして、ティグに呼応するように飛天魔達も上空より滑空し、敵の遠距離攻撃部隊へと槍を投擲し、怯んだ敵との距離を詰めるとそれを縦横に切り結ぶ。
全員が最後尾からフェルミナの風法術による支援を受けており、高速で飛来してリヴィエト兵をなぎ倒していく。
ヒュロムをはじめ、膂力よりも技量を優先した攻勢を繰り出し、敵の弱点を狙って無力化していた。
「あれが、ティグと飛天魔……」
「なんというか、すごい光景ね」
「落ちるなよ?」
アイアースの傍らと背後にて、両種族の戦いを目の当たりにしたフィリスとミュウが嘆息しながら口を開いている。
アイアース自身、フィリスとともに疾駆しながら敵陣を駆け抜け、ミュウの法術を敵にお見舞いした後、乱戦の舞台から離脱してきたのだが、それでもティグ族の戦いの勇猛さ、飛天魔の戦いの優美さには驚嘆させられる。
彼らの戦いぶりは、身体能力や耐久性を強引に向上させたキーリアにはないそれらの要素が加わっているのだ。
「殿下っ!!」
「ジルっ!! 皆も無事か」
そんなアイアース達の元へ、モラク村より出撃してきたジルをはじめとする別働隊の面々が到着する。
はじめこそ、ティグと飛天魔の出現に驚き、自重していた様子だったが、離脱してきたアイアース等の姿を認めたのであろう。
「はっ、お待ちしておりました。しかし、そのお姿は……」
「はは、もう戻れないな。とはいえ、あの時みたいなことには成らないから安心してくれ」
そして、ジルの問いに、苦笑しながら耳を撫でたアイアースは、改めて戦場に視線を向ける。
ちょうど、戦場に火柱が上がりはじめ、雷撃が駆け抜けている。
「敵の魔術師か。あれではティグといえども、無傷では済まないな」
そう口を開いたアイアースは、弓をもって来させると、総員に騎射を命ずる。
アイアースの麾下は全員が騎兵であり、遊牧民族を祖とするパルティノン騎兵にとって、騎射は必修である。
「一気に決着をつける。全員、私の合図で敵陣に斉射。敵が怯んだところを敵指揮官に向けて突っこむ。いいなっ!!」
そして、弓と鏑矢を手にしたアイアースは、再び疾駆を開始する。
徐々に大きくなってくる戦場。乱戦の中央では、リゼリアードやヒュロムがいまだに奮戦続けている。
だが、傷を負ったモノも少なくはない様子で、上空へと離脱した飛天魔が、巧みに矢をかわしつつフェルミナの治療を受けており、ティグ族はティグ族で、傷を負ったモノは、薬草を口にしながらも戦闘を続けている。
このあたりが、同じ尚武の一族であっても、その性格の違いをよく表していた。
「ふっ!!」
そんな光景を目にしたアイアースは、飛天魔のいない上空へと向けて鏑矢を放つ。
空気を引き裂く音が周囲に響き渡り、戦闘中の両軍の視線をそちらへと向けられる。すると、それまで獰猛とも言ってよ戦いを続けていた両種族が一斉に戦場を離脱していく。
リヴィエト側は、その鮮やかな後退に目を奪われていたが、その姿が空を覆い尽くさんとばかりに飛来する矢へと変わると、目を見開き、驚嘆の声が次々に上がりはじめる。
疾駆を続け、敵陣からも打たれてくる矢をかわし、時には叩き落としながらも矢を射続けるアイアース。
スヴォロフとの激突の際には、強引な突撃で敵陣を破ったが、今回は拠点と成った村に膨大な物資が保持されている。
そのため、物量をもってこちらを押し込んでくるリヴィエトに対し、意趣返しも含めた攻撃をアイアースは選んだのだ。
そして、周囲から間断無く射掛けられる矢に傷を負い、一人また一人と倒れていくリヴィエト兵達。
その姿が、やがて一点を中心にまとまっていく様をアイアースは見逃さなかった。
最後の矢を射ると、右手を頭上へと掲げ、その拳を握り込む。
二呼吸ほどの間を置くと、先ほどまでリヴィエト陣営に降り注いでいた矢の雨は収まり、戦場から悲鳴が遠退いていく。
そして、再び馬腹を蹴ったアイアースは、前方にて倒れ込むか盾をかまえて立ち尽くしているリヴィエト兵を馬をもって蹴散らしつつそのまとまりへと向かっていく。
「貴様はっ!?」
そんな声がアイアースの耳に届く。
見ると、集団の中央付近にて剣をとり、眼鏡をかけた鋭い印象を持つ女性がこちらを睨んでいる。
この女が指揮官だ。
直感でそう思ったアイアースは、両の足で馬の腹を強く挟み込むと、女性に向かって疾駆する。
「私は、神聖パルティノン帝国第四皇子、アイアース・ヴァン・ロクリスだっ!! 覚悟せよっ!!」
「やはり、パルティノンの皇子かっ…………。総員、撤退するぞっ!!」
そんなアイアースの言に対し、女性はさらに目つきを鋭く尖らせてアイアースを睨み付けてくる。
それにかまわず疾駆を続けたアイアースであったが、剣があと僅かで届こうというところで、女性指揮官は全力で後退を開始する。
「逃がすかっ!! 追えっ!!」
そんなリヴィエト軍に対し、アイアースも当然の如く追撃を開始し、その先頭に立つ。
だが、乗馬の力量は隔絶している。背中を見せた以上、一撃で仕留めるのは十分に可能だった。
ほどなく、女性の背後へと迫るアイアース。途中、行く手を阻んできたリヴィエト騎兵を蹴散らしながら突き進む。
そして、最後の騎兵を叩き落とし、残すは敵指揮官の背中のみ。だが、それを待って居たかのように指揮官の女性がこちらを振り返る。
「パルティノンの皇子よ。このような場で油を売っていてよいのか?」
「なんだと? 命乞いが?」
後退を停止し、アイアースを一瞥した女性指揮官。
急停止した意図は分からなかったが、生き残りの騎兵達が彼女の周囲に集まってくる。
だが、周囲は回り込んだ騎兵やティグ族によって完全に包囲され、上空からは飛天魔達が弓や投擲槍をかまえている。
すでに後退も不可能であり、玉砕か降伏かの選択が残されるのみ。だが、女性指揮官の態度は依然として変わりなきモノだった。
「なぜ、私が命乞いをする必要がある? 貴様らの命運も長くはないぞ」
「負け惜しみか? 本隊が敗れた今、浮遊要塞だけが貴様らの頼みのはず」
「浮遊要塞? ハハハハ、貴様らがあれに挑めると思っているのか? 先頃、クルノスでパルティノン本隊は壊滅したのだぞ?」
「――――っ!? な、なんだとっ!?」
「知らなかったようだな。我々の誘い出しに乗り、こちらを追ってきたところを待ち伏せされたのさ。少数で大軍に挑む愚を見事に犯したのだよ」
そう言うと、女性指揮官は懐からこぶし大の大きさの石を取り出すと、頭上へと掲げる。
「っ!!」
それが何であるかということに気付いたアイアースが剣を振るうが、それを交わした女性指揮官と周囲のリヴィエト兵達を眩い光が包み始める。
「おっと。それでは、さらばだ。強力な兵科を用意してきたようだが、女帝フェスティアは倒れ、主力部隊も壊滅した……。どちらにしろ、貴公等は終わりだ」
消えゆく光の中で、女性指揮官のそんな声が響き渡っていた。
「兄上…………」
光が消え、草原に静寂が戻っていく中、アイアースは静かにそう呟くことしか出来なかった。
そして、そんなアイアース等の眼には、遙か彼方に浮かび上がる巨大要塞がゆっくりと南下し始める様子が映りこみはじめていた。
◇◆◇
パルティノンの空を悠然と突き進んでいく浮遊要塞。
その圧倒的な存在感は大地から離れることを許されない自分達を嘲笑っているかのように、南方、すなわち帝都パリティーヌポリスへと進撃していく。
そんな様子をフィリスは仲間達とともに歯ぎしりをしながら見つめていた。
ティグと飛天魔両種族の支援を受け、こうして原野へと舞い戻ってきた自分達であったが、肝心のシュネシスをはじめとする本隊が敗れたとあっては、こちらもなすすべはない。
取るべき手段は、地下に潜伏して抵抗を続けるか、一縷の望みをかけて敵浮遊要塞に突撃するかであった。
そして、眼前に立つ愛しき男が、どちらを選択するのか。
多くの者が疑問に思うであろうが、フィリスはすでに察している。彼が、屈辱を前に背中を見せるはずがないと言うことを。
しかし、眼前の男、アイアースの選択はそれをさらに斜め上に行くモノであった。
「えっ!?」
突如、周囲の草木がざわめきはじめ、柔らかな草原の風が突風を含んだそれへと変わっていく。
そして、先ほどまで柔らかい光りを持って大地を照らしていた陽は、突如として現れた黒雲によってその姿を隠されていく。
突然の気象の変化であったのだが、フィリスをはじめとする者達には、その原因が目の前にあったのだ。
「で、殿下っ!! 何をなさるのですかっ!!」
「止めるな百合愛っ!! ヤツ等を帝都になどっ!!」
慌ててアイアースに飛びつくフィリスであったが、これで何度目かという悲報に接したアイアースは、彼の唯一の欠点とも言うべき激情を発露し、聞く耳を持たない。
フィリスに対しても、かつての名を呼んだように、状況の判断も出来ていない様子だった。
「殿下、落ち着いてくださいっ!! 万一、暴走などと言うことになれば、パルティノンの大地はっ」
「そうですよ。こんなところで撃っても大きな意味はございませんっ!! 殿下のお命に関わるだけです」
「命がなんだっ!! 姉上も、兄上ももういないのだっ!! 敵を討てずして何が刻印だっ!!」
そんな二人のやり取りに、ジルをはじめとするキーリア達も止めに入ってくるが、刻印の力を得、さらにキーリアという身からティグの力を解放したアイアースの膂力は、すでに常識外のモノとなっている。
数人掛かりで飛びついても、多くが引きはがされるだけであった。
「ちょ、ちょっとぉっ!! 辞めなさいバカっ!! フィリスの言うことは本当よ。こんなところで法術を使っても意味なんて」
「じゃあ、なんのために試練を受けたんだ俺はっ!!」
「だから、使いどころをっ!! ああ、もう。全員来てっ!!」
そんな様子に、ミュウがアイアースの頬に平手打ちを見舞うが、それもアイアースの無念を増長させるばかり。
一向に落ち着きを取り戻さないアイアースに対し、ミュウもまた苛立ちが募った様子で、背後にて右往左往しているリゼリアード等に対して声をかける。
「うむっ!! 皆、殿下を止めろっ!!」
ミュウの言にようやく自分らの為すべき事を察することが出来たリゼリアード等であっが、彼らもまたアイアースと同様に一本気な性分。
当然、急な事態に周囲が見えているはずもない。
「えっ!? い、いや、ちょ、ちょっとっ!!」
必死にアイアースを宥めていたフィリスは、アイアースを止めるべく向かって来るティグ族一同の突撃をアイアースもろとも受ける格好になってしまったのだった。
とはいえ、さしものアイアースもティグ族の一斉突撃を受けて詠唱を続けられるはずもなく、むしろ全員の体重を一人出させる羽目になって眼を白黒させている。
それを見て取り、安心したフィリスであったが、ほどなく彼女自身も覆い被さっているティグ族達の圧力に眼を回す羽目になるのだった。
「まったくっ!! 何回同じ事をする気なのよあんたはっ!!」
「す、すまん……」
「それだけ大きい力を持ったのよっ!! 一歩間違えればこの草原一帯が火の海。あんたは個人の感情を爆発させて満足かも知れないけど、ここに生きている人や生物たちはどうなるのよっ!! 普段は、帝国のため帝国のため、民のため民のためって言っているのにっ!!」
その後、眼を回したアイアースはミュウによる水法術によって強引に意識を引き戻され、加えてそれまで見たこともないような剣幕での説教を受けることになった。
普段温厚な人間を怒らせることがどれほど恐ろしいことか、今のミュウの姿にフィリスも恐々としていたが、それでもアイアースの気持ちも十分に理解できるが故、さすがに気の毒にもなってくる。
「ミュ、ミュウ……。そのくらいに」
「う、うむ。殿下もそのな」
「そ、それに、ティグとしても後継者が」
「うるさいっ!! あんた達がそうやって甘やかすから暴走するのよっ!!」
フィリスをはじめ、ジルやリゼリアードもミュウを宥めようとするが、こちらはこちらで感情的になっており、聞く耳を持っていない。
彼女も彼女で、急変する事態に困惑しているが故であろう。
話を聞く限りでは、アイアースと最も長く時を過ごしており、フェスティアやシュネシスとの関わりも深いと聞いている。
そして、彼女はヒュプノイアの養女。身内としての関わりも深いのだ。
「ミュウ様も落ち着いてください。ですが殿下、厳しいことを言わせていただきますが、そのような感情の結果、フェスティア様を一人にすることになりました。私達も離ればなれになりました。そのことを悔いていると私に告げられました。しかし、その言は虚言だったのですか?」
「そんなつもりはない。俺の未熟さゆえのことだ」
「はい。ですが、自身を責めることは簡単です。言い訳をすることも同様に……、そして、ファナ様が身を以て殿下をこの世界に止めてくれて恩を、こんな形で終わらせるつもりなんですか?」
そして、興奮しているミュウをやんわりと宥めたフェルミナは、その小さな背に持つ漆黒の翼を揺らしながらアイアースの前に立ち、ゆっくりと口を開く。
自分の嘆願やミュウの激怒にも、アイアースは感情を表に出すことはなかったのだが、フェルミナの静かな叱責には表情を曇らせている。
ミュウが激怒した感情爆発の結果まではフィリスも知らなかったのだが、フェルミナの言はその発端をなんとなく察せられる。
フェスティアやフェルミナのことは言うまでもなく、ファナという名の女性もアイアースを救ったのであろう。
「ふ、まあ、このぐらいにしておこう。幸いにして殿下は落ち着かれた。殿下、この先はいかがいたしますか? 我々は、殿下の如何なる命にも従うつもりでございます。それ故に、我々もともに」
眼前の様子に、そんなことを考えていたフィリスであったが、彼女の心境まで察することは他人には不可能。
そして、そんな状況を黙って見つめていたヒュロムがゆっくりと進み出で、アイアースに対して口を開く。
先ほどまで、感情的な空気が支配していた場であったが、話の空気を切り替えるタイミングとしては絶妙であった。
「ああ…………。兄上、第一皇子、いや皇帝陛下の軍が敗れたとは聞いたが、御身がどうなったかまでは我々も分からない。まずは、情報を収集するとしよう。そして、結果がどうであれ、私はこのまま敗北を認めるつもりはない。最終的には、あの浮遊要塞に戦いを挑む。そのことだけは、忘れないでくれ」
「ははっ……、では、殿下。我が飛天魔族を各地に派遣いたします」
「頼む。決して無理はしないようにな。我々は、負傷者の手当てと物資の確認だ。付近の村々に運び込まれた物資も利用するとしよう」
そうして、冷静さを取り戻したヒュロムの言に頷いたアイアースは、改めて浮遊要塞への戦いを周囲の者達にそう告げる。
それは、先ほどまでフィリス自身が思っていたことと同様の決断であった。しかし、フィリスの心のうちには、アイアースの決断が当たった事への些細な喜びよりも、彼の暴走を止めることすら出来なかった自分自身への不甲斐なさが強かった。
「私は……、何もしていないわね」
物資の確認を終え、水場の確保が必要と判断したフィリスは、周囲の探索を志願し、一人になると思わずそう嘆く。
アイアースを一目見たときから、もう会えることはないと思っていた想い人であることは分かっていた。
だが、彼の周囲には彼を慕う多くの人間がおり、ミュウやフェルミナのように幼き頃から深い絆で結ばれている女性もいる。
そして、フィリス自身が感じていたことだが、アイアースの心のもっとも奥深くにいる一人の女性。
ミュウやフェルミナでも気付くことのないその存在を、フィリスははっきりと感じ取っていた。
「陛下……。何故、あなた様は……。殿下の、和将の幸せのためだったら、私は……」
探し当てた水場に映る自身の表情がひどく曇っていることを見て取ったフィリス。
だが、沸き上がった負の感情を一人で消し去ることは難しかった。
一部下としてしかアイアースの役に立てぬ不甲斐なさ。それも、ジルをはじめとするキーリア達やリゼリアード、ヒュロムをはじめとするティグ、飛天魔達の武勇に及ばず、ミュウやフェルミナのような無くてはならぬ存在でもない。
単に、過去の世界において思い合っていたという過去が二人の間にはあるだけであり、それ以上にアイアースとフィリスの間には、帝国の皇子と一地方領主の娘とう大きな身分差も存在している。
もっとも、踊り子や遊女が皇后の座を射止めたことがあるほど、パルティノン皇后に身分というモノは求められていない。
だが、過去から年齢を重ねているとはいえ、今のフィリスはまだ16という多感な年頃。
経験則をふまえても、元の二十代が精々であるのだ。感情の揺れ動きの翻弄されるのもいたしかたない。
「ん?」
そんなとき、フィリスは自分に対して近づいてくる何かの気配を察する。
水場より顔を上げ、剣を抜いたフィリスは、先ほどまでの負の感情も相まって、普段以上に神経を張り巡らせている。
周囲を睨むフィリスであったが、すぐに周囲に轟いた水の跳ねる音を聞き取ると、ぬかるんだ地面を蹴り、闖入者へと飛び掛かる。
「何者かっ!!」
「きゃっ!?」
と、耳に届いた女性の声。
抑えつけた闖入者がもがくなか、フィリスは視線の先にある思いがけない顔に声を上げた。
「タ、ターニャ殿かっ!? なぜここに?」
「パルティノンの騎士かっ!? ちょうどよい、私はどうなってもかまわぬ。彼を助けてくれっ!!」
思いがけない人物の姿に目を見開くフィリスであったが、そんな彼女に対して、ターニャは懇願ともとれる声を上げたのだった。




